第16話 十一番目
朝から、旗が鳴っていた。
青と白の布が、坂の両側の軒に交互に吊るされている。下から風が上がってくるので、布はいつも坂の上を向いてふくらむ。二日前に役所の使いが吊ったやつだ。
広場に出た。
白かった。四日ぶりに、この街が明るく見えた。
井戸の東に壇がある。木を組んで、四段の階段をつけて、まわりに青と白の布を巻いてある。三日前に音を聞いた台が、組み上がっていた。
屋台が七つ出ていた。焼いた魚。菓子。南の果物。値段が一日だけ倍になる日で、それを知っている子供が朝から集まっている。
壇の下に、二十一人が横一列に並んでいた。
全員、新しい服を着ていた。
親が用意する。この街では、儀の服だけは新しく仕立てる。生成りが多い。染めた布は高いからだ。並ぶと、白っぽい列になる。
ペレさんが、井戸の東側から西へ掃いていた。
五十年、この日だけは日の出前から掃く。今日もそうしていた。箒の柄の先が、朝の光を黒く返していた。
風のある日は風下から。鳩の降りているところは飛ばして、あとで戻る。掃いた場所を二度掃かない。
合っている人の手つきだ。
マルタさんは、屋台を出していた。
三日、店を閉めていた人が、今日は坂の下から鍋を二つ運び上げていた。豆の煮込みだ。値段は倍にしなかった。
「あんた、飯」
「食えない」
「食え」
「無理」
彼女は椀に注いで、俺の手に押しつけた。持たされたので、持っていた。
三口だけ食った。
「足りないよ」
「うん」
「まあ、いいさ」
彼女は鍋の底を掌で叩いた。とん、と鳴った。四日ぶりの音だった。
広場に人が入りきらなかった。
この街の大人は、二千人を超える。全員は入らない。入れなかった人間が、坂の口と、東の石段の上と、屋台の隙間に立って、伸び上がっていた。
その中に、知った顔がいくつもあった。
昨日まで坂に立っていた二十三人だ。
みんな、掲示板の側に寄っていた。誰も決めていないのに、そうなっていた。
俺は、掲示板の脇に立っていた。
紙は、昨日貼り替えられたままだ。黒い印が、上から二十一。
その紙の下、石畳のところに、鳴らない石が二枚ある。
母親は、壇のいちばん近くにいた。
昨日と同じ生成りの包みを、両腕で抱えている。角が揃っている。何度も畳み直した形だ。
周りの親たちは、自分の子供を見ていた。
この人だけが、坂の口を見ていた。
最初の影が来たのは、儀が始まる前だった。
風が下から来て、鳩がいっせいに飛んだ。
広場が、静かになった。
誰も、坂の口を見なかった。
屋台の主人が魚を裏返す手を止めた。並んでいた二十一人のうち、何人かが下を向いた。親が、その肩を軽く押さえた。
灰色の髪が、広場を斜めに突っ切っていった。
足の音は、もう数えられなかった。一つの長い音が、坂を上っていった。
抜けていって、西の口から消えた。
鳩が、また掲示板の上に戻ってきた。
それから、屋台の主人が魚を裏返した。
誰も、何も言わなかった。
四半刻に一度、それが起きた。
風。鳩。影。静けさ。それから、また動き出す。
この街は、四日かけて、見ない練習をしていた。
見ないというのは、目を逸らすことじゃない。そこに起きていることを、その日の出来事の勘定に入れないことだ。
入れたら、儀ができなくなる。
だから、入れなかった。
昼になった。
オーウェンが来た。
遠くから見ると、まず小さい。俺より頭二つ低い。背が縮んでいるので、壇の下に並んだ十五の子と並ぶと、この人のほうが低い。
白い外套。縁取りは銀が一本きりで、袖のところだけ金が走っている。司名の印だ。
髪は白くて薄い。地肌が透けていて、風が吹くと頭のかたちがそのまま見えた。
壇に上がるとき、脇を二人がかりで支えられていた。四段だ。一段ごとに、両足を揃えてから次へ行く。
上がりきってから、彼は列を見た。
二十一人を、端から端まで、ゆっくり見た。
端まで行って、また戻ってきた。二度見た。
この人は、人を見るとき、長く見る。
俺は、この人を三度見ている。
十五の夏。十六。十七。三度とも、この人は俺を長く見て、それから一拍おいて、何も言わなかった。
あのとき、俺はそれを「見えなかった」んだと思っていた。
いま、壇の下から見上げて、少し違うことを考えた。
この人は、見えなかった人間の見方をしていない。見えたのに言わない人間の見方をしている。
手が震えている。老人の震えだ。だが、震えているのは右手だけだった。
名前を告げるときに上げる手だ。
四十年、三千件。そのうち二百件以上が外れている。
外れたことは、外れた本人が一生かけて知る。この人は、知らない。
知らないまま、また今日、二十一人ぶん告げる。
壇の下、東側にアダンがいた。
銀の縁取りが二本。日の下でも、輪郭が周りに溶けている。
その隣にセシルさんがいた。膝の上に板を置いて、羽根ペンを持っている。四日ぶんの埃が外套から落としてあった。細い目のふちだけが、まだ赤い。
一度だけ、こっちを見た。
それだけだった。
読み上げが始まった。
「一番」
オーウェンが名前を呼ぶ。呼ばれた子が列を出て、四段上がって、司名の前に立つ。
オーウェンは、その子を見る。長く見る。
それから、一拍おいて、告げる。
空気に白い文字が残って、子供の方へ吸い込まれる。輪郭が光の縁を持つ。袖に糸が生えて、縫い上がる。
そして、糸の端が切れて、落ちる。
子供が下りる。親のところへ戻る。
一人目は、桶屋の倅だった。
オーウェンが告げた。桶回しのラス。
その子の父親が、下で両手を口に当てた。桶屋の三代目に、桶の名前が来た。
俺には、それが入るのが見えた。すとん、と入った。ペレさんのときと同じ感じだ。隅から隅まで、その子の形になった。
三人目で、俺は気づいた。
入っていない。
名前は縫われた。糸の端も切れた。手続きとしては、終わっている。
でも、あの子の中に、その名前の入る場所がなかった。
ペレさんのときに感じた、隅から隅まで埋まっているという感じが、まったくしない。上に置かれただけだ。
二人目は、入っていた。四人目も入っていた。五人目は、分からなかった。
六人目は、入っていなかった。
六人目は、痩せた男の子だった。畑守りのトゥイと告げられて、四段下りて、親のところへ戻って、袖を見せた。
親は喜んでいた。
その子も笑っていた。
二十五年後に、この子は石を割れない石工になるかもしれない。それを言えるのは、いま、この広場で俺だけだ。
言えるだけで、何もできない。今日ここで名前をつけていい人間は、壇の上に一人しかいない。
この街の三千件のうち、二百件以上が外れている、とセシルさんは言った。
その割合が、いま、目の前で出ていた。
読み上げの途中で、二度、あの子が広場を横切った。
二度とも、読み上げが止まった。
オーウェンが、告げる前で口を閉じたからだ。名前を出しかけて、そこで止めて、通り過ぎるまで待った。
止まっているあいだ、広場の全員が下を向いていた。屋台の主人も、並んだ二十一人も、その親も。四日かけて練習してきたとおりに、やり過ごしていた。
壇の上の一人だけが、顔を上げていた。
名前を告げる相手は、目の前にいる。壇の上だ。坂の口を見る必要は、どこにもない。
それでも二度とも、この人は坂の口を見ていた。抜けていった先を、最後まで目で追っていた。
今朝この街に着いたばかりの人間が、たった一人、あの子を見ていた。
「十番」
十番目の子が下りた。
俺は、掲示板の紙を見た。
黒い印が、上から二十一。
昨日まで、二十二あった。
「十一番」
オーウェンが呼んだ。
列から、女の子が出た。
別の子だった。
穴は、空いていなかった。
十番の次は十一番で、その次は十二番だ。順番に呼ばれて、順番に上がって、順番に下りていく。
滑らかだった。
誰も、何も、気づかなかった。
抜けたところは、埋められていた。
俺は、立った。
立ってから、声を出すまでに、少しかかった。
「十一番目が、抜けてます」
広場が、止まった。
二千人が一度に黙ると、風の音だけが残る。旗が鳴っていた。それだけだった。
アダンが動いた。半歩、こちらへ出た。
止めたのは、オーウェンだった。
壇の上から、片手を上げた。震えていた。それでも、上げた。
「言ってみなさい」
「昨日の夕方まで、あの紙には、二十二ありました」
俺は掲示板を指した。
「今日は、二十一です。一人、減ってます」
「誰だ」
「ミアです。洗いのイレナさんの娘です。いま、そこを走ってます」
誰も否定しなかった。
できなかったんだと思う。この広場にいる全員が、四半刻に一度、それを見ていた。見ないことにしていただけで、見ていた。
壇の下の東側で、綴じ本が開いた。
「その子は、授名済みです」
アダンだった。
声を張っていないのに、広場の端まで届いた。
「十八日の朝に、私が書きました。掲示は記録どおりに作られています。抜けてはいません」
俺は、息を吸った。
ここから先を言うと、たぶん、戻れない。
「俺が、つけました」
二千人が一度に息を吸う音がした。
風より大きかった。
神殿の外の人間が名前をつけるのは、この街では罪になる。二十日前の夜に、セシルさんがそう言った。ものすごく、と付け足した。
それを、いま、二千人の前で言った。
オーウェンは、動かなかった。
驚いてもいなかった。
「合っていないのか」
「合ってません」
「なぜ分かる」
「あの子が、止まれないからです」
彼は、しばらく黙っていた。
それから、俺の方へ、震える指を一本だけ向けた。
「では、直したあとの名前を言いなさい。いま、ここで」
言えなかった。
四日、見た。一日ついて回って、走るところを見て、待つところを見て、指を折って数えるところを見た。
出なかった。
昨日も出なかった。
今も、出ていない。
俺は、口を開けたまま、そこに立っていた。
二千人が、それを見ていた。
「あの」
声がした。
小さい声だった。壇の近くだったから、届いた。
母親が、一歩、前に出ていた。
包みを両腕で抱えたまま、オーウェンの方を向いていた。
「洗いのイレナと申します」
「五年前の冬に、わたしが、三日、寝込みました」
誰も、止めなかった。
「洗い上がったものが、家に溜まりました。届けないと、お金が入りませんので、あの子が代わりに配りました。九つでした」
彼女は、そこで一度、包みを持ち替えた。右腕から左腕へ。
「雪の日でした」
「一軒だけ、届けられませんでした。坂のいちばん上の、北門のそばです。遠くて、重くて、寒かったんだと思います。戸を叩いても、返事がなかったそうです」
彼女は、坂の口を見た。
「置いて、帰りました。わたしには、渡してきた、と言いました」
「夜のうちに、雪が降りました」
包みを抱える腕に、力が入った。揃っていた角が、そこで潰れた。
「その家は、次の日に人が集まる予定でした。着るものが、駄目になっていました。布代を、弁償しました」
彼女は、そこで少し黙った。
「その冬、うちは、ほとんど食べませんでした。あの子は、一度も、お腹が空いたと言いませんでした。九つの子がですよ」
広場は静かだった。
鳩も飛ばなかった。
誰かが咳をして、すぐやめた。
壇の下の二十一人が、全員、この人を見ていた。名前をもらったばかりの子も、まだの子も。
「わたしは、あの子を叱りませんでした」
彼女は言った。
「叱れませんでした。九つの子に、雪の日に、街じゅうを回らせたのは、わたしですから」
彼女は、包みを見た。
「叱らないかわりに、一つだけ言いました。——もう、うちの洗い物は、触らないで」
「それきりです。その話は、五年、一度もしていません」
彼女は指を折った。ミアと同じ折り方だった。
「あの子は、その日から、よその使いを始めました。九つでした。うちの籠には、五年、指一本触りません」
「毎晩、帰ってくると、言うんです」
彼女は、少しだけ笑った。うまく笑えていなかった。
「『今日、これ届けたよ』って。誰に、何を届けたか、全部言うんです。毎日です。わたし、会ったこともない人の名前ばっかり覚えました。桶屋のゲトさん。糸屋のエルサさん。門番のヨナスさん」
折った指を、そこで開いた。
「速かったとか、何往復したとか、そういうのは、一回も言わないんですよ。一回もです」
「うちは、仲が悪くありません」
彼女は言った。
「朝はパンを一緒に食べますし、夜は喋りっぱなしです。悪くないんです。あの一件だけ、二人とも、触らないんです」
彼女は、オーウェンを見た。
「わたしが、あの日、何も言わなかったから」
声が、そこで初めて震えた。
「あの子は、五年、届け続けてるんです」
見えた。
四日かけて見つからなかったものが、この人が喋った、十数えるあいだで見えた。
俺はずっと、あの子の速さを見ていた。
速さは、あの子が持っているものだ。あの子が使っているものだ。
あの子が、している、ことじゃない。
この子がしているのは、届けることだ。
留守なら待つ。手紙を三回読み終わるまで動かない。渡した相手の顔を見てから走り出す。置いて帰らない。二度と、置いて帰らない。
八十四人ぶんの戸を覚えていたのも、そうだ。あのとき、この子は家のことと戸のことと犬のことを三十七人ぶん喋って、自分がどれだけ速いかは、一度も言わなかった。
俺は、それをただの性格だと思った。
違った。
この子にとって、速いことは、道具でしかない。
俺は、口を開けた。
「オーウェン様」
「うん」
「言えます。あの子の、直したあとの名前を」
「クルトさん、いけません」
声が張った。
セシルさんだった。
この人が声を張るのを、俺は初めて聞いた。板が膝から落ちて、石畳に当たった。
「三千件にも、本殿の写しにも、名を授け直した例は、一件も——」
「いや」
俺は、広場を見た。
井戸のそばに、ドンさんが立っていた。禿げ上がった頭に、四日ぶんの汗の白い筋がついている。
その隣にリーヤがいた。腕をまくったままだ。目の下が黒い。
二人とも、右の袖を出していた。
照合は、三日前で終わっている。それなのに、二人とも、まくったままだった。
聞き手のドン。継ぎ手のリーヤ。
「二人、いる」
セシルさんが、俺の見ている方を見た。
そのまま、動かなくなった。
記録に一件もないのは、当たり前だった。
あの二人の名前は、授け直したものとして書かれていない。誤記を直した、として書かれている。
前例がなかったんじゃない。前例が、そう書かれなかっただけだ。
「……私が、書きました」
小さい声だった。
「二件とも、私が。訂正として」
書いたのは、俺を守ろうとした人だった。
「一人に一度だけ。消せない、書き直せない」
彼女は、自分の言った言葉を、確かめるみたいに繰り返した。
「二十日前の夜、あの店で、ドンさんにもう一度つけていただこうとしました。出ませんでした」
彼女は、そこで顔を上げた。
「それ一度きりです。一度で、私が規則にしました」
彼女は、落ちた板を、そこでようやく拾った。
埃を払って、胸に抱えた。
「クルトさん。私は、記録の側の人間です。ですが、いまは、そちらの側に立ちます」
壇の上で、オーウェンが動いた。
支えられずに、一人で、二段下りた。それから、ドンさんの袖と、リーヤの袖を、順番に、長く見た。
この人は四十年、当たったかどうかを一度も確かめられないまま名前をつけてきた。外れた名前なら、街じゅうにある。
書き直された名前を見るのは、たぶん、生まれて初めてだった。
彼は、何も言わなかった。
かわりに、指をもう一度、俺に向けた。
「続けなさい」
「合ってる名前は、その人の場所を埋めてます」
俺は言った。
「埋まってるところには、上から書けません。ドンさんに二度目をつけようとしたとき、書けなかった」
俺は、掲示板の下の石を見た。二枚、鳴らない石を。
「駆けるミアは、埋まってません。だから、書けます」
風が来た。
下からだ。
鳩が、いっせいに飛んだ。
影が来た。
坂の口から入ってきて、広場を斜めに突っ切ってくる。
髪は灰色だった。色が抜けきっている。汗はもう出ていない。裸足の足が、石を打つ音を立てない。
俺は、掲示板の前へ出た。
あの子が足を緩めるのは、ここしかない。三日、そうだった。
「ミア!」
「はーい!」
返事は、いつもと同じだった。
四日走って、水を飲んでいなくて、それでも返事だけは、店の扉を開けるときと同じ声だった。
「名前、つけ直していい!?」
「――いいよー!」
即答だった。
三日前の夜、この子は一度断っている。ずるいから、と言った。順番があるから、と言った。
今日は、聞き返しもしなかった。
あの夜、渡せるものを全部渡してしまった子が、まだ渡すものを持っていた。
そして、来た。
喉の奥から、勝手に上がってきた。ドンさんのときと同じだ。
俺が決めたんじゃない。
見えたから、来た。
「――届け手のミア」
空気に、白い文字が残った。
薄い、白い線でできた文字が、一拍だけ浮かんだ。
それから、走っている子の方へ吸い込まれた。
輪郭が、光の縁を持った。灰色の髪の先が、そこだけ一段濃くなった。
最初に落ちたのは、古い糸だった。
四日間、切れずに垂れたままだった端が、走っている腕の先で、ぷつりと切れた。
指の長さぶんの白い糸が、広場の石畳に落ちた。
落ちた場所は、鳴らない石の、一枚目の上だった。
それから、刺繍がほどけはじめた。
布を爪で引っかくような、細い音がした。三日前の夜には、しなかった音だ。ほどくものが、今度はあった。
ほどけていく糸は、走っているぶんだけ後ろへ流れて、空中で消えた。
三日前の夜に俺が言った四文字が、順番にほどけて、無くなっていった。
三つのことが起きる。
一つ。糸が縫い上がる。名前が入った、という意味だ。
二つ。糸の端が切れて、落ちる。縫い終わった、という意味だ。
三つ。名の色が差して、そこで止まる。その色でいい、という意味だ。
三日前の夜は、一つ目しか起きなかった。
新しい糸が生えて、縫われていった。
縫い終わった。
そして、端が、切れた。
落ちた。
二本目の白い糸が、石畳に落ちた。
鳴らない石の、二枚目の上だった。
名の色が、差した。
灰色だった髪に、根元から色が上がってきた。
金に見えた。次のまばたきで白に見えた。
それから、止まった。
止まった色を、俺は知っていた。
洗い上がったばかりの布の色だ。あの子の家の戸の脇に、籠に積んであったやつだ。母親がいま抱えている包みと、同じ色だった。
止まった。
もう動かなかった。
足が、止まった。
四日ぶりに、この街から風の音が消えた。
止まったところが、壇の下だった。
彼女は、しばらくそこに立っていた。
自分の足を見た。それから、自分の右の袖を見た。
誰も動かなかった。二千人が、動かなかった。
井戸のそばで、ドンさんが目を開けた。
四日、この人はずっと聞いていた。十六刻立って、また十六刻立って、四半刻ごとに数を一つ増やしていた。
いま、その数が増えなくなった。
彼は、片足の位置を変えた。それから、もう片方も変えた。
石に押しつけて、確かめている。
「……聞こえない」
声が、震えていた。
「聞こえない」
二度言った。
この人が、聞こえないと言うのを、俺は初めて聞いた。
最初に動いたのは、リーヤだった。
人を押しのけて出てきて、水筒を突き出した。
継ぎ目のない金物だ。一晩で作って、二日、渡せなかったやつだ。
ミアは、それを、受け取った。
両手で受け取って、口のところを噛んで、飲んだ。
飲みながら、こぼした。顎から首に垂れて、埃の上に筋を作った。
リーヤは、何も言わなかった。立ったまま、両手を下ろして、それを見ていた。
自分の作ったものが、初めて、渡った。
「クルトさん」
ミアが言った。
声が、かすれていた。四日ぶんの声だった。
「約束、覚えてる?」
「覚えてる」
「二つあったよ」
「儀の日に来ること」
「うん」
「来た」
「見てた?」
「見てた」
彼女は、口の端を上げた。上げるだけで、頬は動かなかった。
「もう一個は?」
俺は、その前に立った。
六日前、この子は俺にこう頼んだ。
名前をつけてくれ、とは言わなかった。この子は最後まで、一度もそれを言っていない。
合ってるかどうか、教えて、と言った。
この街の誰も、そんなことは訊かない。合っているかどうかは、当てられた本人が一生かけて確かめるものだからだ。ドンさんは二十五年かけて確かめた。ペレさんは五十年かけた。
誰も、その日のうちには聞かない。
この子だけが、先に聞いた。
「ミア」
「うん」
俺は、その袖を見た。
縫い上がって、端が切れて落ちて、色が定まった袖を。
「合ってる」
彼女は、頷いた。
頷いてから、袖を見た。しばらく見ていた。
読めないはずのものを、しばらく見ていた。
「ふうん」
それだけ言った。
それから、彼女は壇を見上げた。
誰も呼んでいなかった。読み上げは十一番目で止まったままだ。
彼女は、四段上がった。
一段ごとに、両足を揃えてから次へ行った。今朝、オーウェンが上がったのと同じ上がり方になった。四日走った脚では、そうするしかなかったんだと思う。
誰も止めなかった。
止める役の人間は、壇の下の東側で、綴じ本を閉じたまま見ていた。
上がりきって、彼女はオーウェンの前に立った。
二十一人が、そこに立った場所だ。
オーウェンは、彼女を見た。長く見た。
それから、袖を見た。
それから、壇を下りた。
支えられずに、一人で、四段下りた。
彼は、石畳にしゃがんだ。
落ちている二本の白い糸を、指で拾った。
四十年、三千件つけてきて、この人は、切れた糸が落ちるところを見ていない。壇の上からは、下が見えないからだ。呼ばれた子は上がってきて、袖を光らせて、下りていく。落ちたものは、下にいる誰かが掃く。
五十年、それを掃いてきたのがペレさんだ。
オーウェンは、二本を手のひらに乗せて、しばらく見ていた。
一本は、三日前の夜に切れなかった糸だ。
もう一本は、いま切れた糸だ。
同じ子の袖から出て、同じ石の上に落ちた。
彼は、何も言わなかった。
俺は、その手のひらを見ていた。
二十五年前、この人はドンさんに石割りをつけた。俺が、それを聞き手に変えた。
三日前、俺は駆けるをつけた。今日、それを届け手に変えた。
同じことだ。
俺はずっと、間違いを直す側にいるつもりでいた。神殿は人を見ないで名前を配る。俺は人を見る。そう思っていた。
間違えた側と、直す側は、同じ人間だった。
この人は四十年で二百件以上を外して、その一件も見ていない。
俺は一件外して、その一件を、四日、目の前で見た。
どっちがましなのかは、分からない。
母親が、壇に上がってきた。
包みを抱えたままだ。四段を、途中で一度止まってから上がった。
上がって、包みを開いた。
中は、生成りの服だった。まだ一度も洗っていない布だ。当日まで内緒だと言っていたやつだ。
彼女は、それを娘に着せた。
汗と埃と血の上から着せた。四日ぶんの汚れがついて、右の裾だけ擦り切れた古い服の上に、そのまま着せた。
誰も、脱がせろとは言わなかった。
二千人が、それを下から見ていた。
「お母さん」
「うん」
「あたし、あの日」
五年、言えなかった。
「あの家、届けてない。置いて帰った」
「知ってた」
「……」
「ずっと知ってた」
「なんで、なんも言わなかったの」
母親は、娘の襟を直した。二度直した。
「言ったら、あんたが、もっと背負うと思ったから」
「背負ってたよ」
「うん」
「五年、背負ってた」
「知ってる」
母親は、三度目に襟を直した。
「ごめんね」
「ねえ」
「うん」
「あたし、届け手だって」
「うん」
「地味じゃない?」
「……地味だね」
「でしょ」
彼女は、自分の袖を見た。
しばらく見ていた。
それから、母を見た。
「でも」
「届くよ」
母親は、答えなかった。
答えるかわりに、娘の頭に手を置いて、髪をひとつかみ、後ろへ流した。
洗い上がった布の色をした髪だった。
それを見て、この人は、少しだけ笑った。
今日、初めて、うまく笑えていた。
俺の後ろで、リーヤが座り込んだ。
石畳にそのまま。前掛けが汚れるのも気にしないのは、この人の癖だ。
マルタさんが、その隣に立って、頭に手を置いた。
二人とも、何も言わなかった。
ドンさんは、まだ足の位置を変えていた。
聞こえないことを、何度も確かめていた。
降りてきたミアは、四段目で足を止めた。
止めてから、そこに座り込んだ。
立てなくなったんだと思う。四日ぶんが、いっぺんに来た。
「クルトさん」
「なに」
「あたし、走れない」
「うん」
「立てない」
「うん」
彼女は、自分の脚を見た。細くなっていた。四日で、腿の形が変わっていた。
「駆ける、なくなったからかな」
「……たぶん」
「じゃあ、あたし」
彼女は、少し考えた。
「一番じゃ、なくなっちゃった」
俺は、何も言えなかった。
速さは、この子が持っていた一つだけの、誰にも負けないものだった。それを取ったのは俺だ。二回とも俺だ。
「そうだね」
俺はそう言った。嘘を言えないので、そう言うしかなかった。
彼女は、けろっと頷いた。
「まあ、いいや」
「いいの」
「うん。だって」
彼女は、四段目に座ったまま、坂の口の方を見た。
「歩いても、届くじゃん」
アダンが、綴じ本を閉じた。
閉じる音はしなかった。
「セシル」
「はい」
「これを本殿に出す」
「……はい」
彼は、広場を見回した。屋台の隙間まで、石段の上まで、坂の口まで。
「二千人だ。記録しないという選択は、もうない」
セシルさんは、板を胸に抱えたまま立っていた。
「はい」
彼女は、そう答えた。
声が、いつもの高さに戻っていた。
それから、アダンは俺を見た。
目の色は、今日も決められなかった。
「クルト」
「はい」
「四日前、君は問題ないと言った」
「……はい」
「あれは、取り消す」
彼は綴じ本を開き直して、一行だけ書いた。
書くのに、三秒かかった。
俺には字が読めない。何を書いたかは分からない。
分かるのは、あの人の帳面に、四日間、空けてあった欄が一つあったということだけだ。
誰が授けたか、という欄だ。
あの人は、それを埋めるために、四日待っていた。
夕方になった。
屋台が片づけられていく。青と白の布が外されていく。壇は、明日の朝まで残る。
坂を下りかけたところで、後ろから声がした。
「クルトさん」
振り返ったら、昨日まで坂に立っていた人たちの何人かがいた。ペレさんがいた。桶屋のゲトさんがいた。パン屋の倅もいた。
誰も、順番の話をしなかった。
板のことも言わなかった。
かわりに、一人がこう言い直した。
「あー、違うか」
「え」
「名付け屋さん」
言った本人が、決まりが悪そうに頭を掻いた。
俺は、返事をした。
三年、「あいつ」か「さっきの」で済まされてきた。呼ばれて返事をしたのは、初めてだった。
振り返ったついでに、広場の上の口が見えた。
神殿へ上がる方だ。あそこから先は短いが急で、荷を持って上る人間は、たいてい途中で一度止まる。
二人が、そこを抜けていくところだった。
一人は小さい爺さんだ。歩幅が小さいのに速い。荷運びのマティスさん。
もう一人は、その隣を、ゆっくり歩いていた。
新しい生成りの服の上に、もう埃がついている。裸足のままだ。靴はどこかで無くなった。
抱えているのは、洗い上がった洗濯物の籠だった。
少し前に、壇の下で見たものを思い出していた。
母親が、籠を持ってきて、娘の前に置いた。
五年ぶりだった。
「これ、北門のそばまで」
「……いいの?」
母親は、頷かなかった。
頷いたら、許す側と、許される側ができる。
この人は、そういう形にしたくなかったんだと思う。
かわりに、届け物を頼むときの言い方をした。
「お願いします」
二人は、ゆっくり上っていった。
速くはなかった。マティスさんの歩幅に合っていた。
途中で二度、ミアが止まった。四日ぶんの脚では、そうなる。
二度とも、マティスさんが立ち止まって、待った。
待たれるのは、たぶん、初めてだ。
旗はもう外されていて、坂の上には夕日だけがあった。
籠から、洗い上がった布の端がはみ出して揺れていた。
あの子の髪と、同じ色だった。
俺は、坂を下りた。
風は、下から吹き上げていた。
朝、旗をふくらませたのと同じ風だ。
いまは、上っていく二人の背中を押していた。




