表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/23

第16話 十一番目

 朝から、旗が鳴っていた。


 青と白の布が、坂の両側の軒に交互に吊るされている。下から風が上がってくるので、布はいつも坂の上を向いてふくらむ。二日前に役所の使いが吊ったやつだ。


 広場に出た。


 白かった。四日ぶりに、この街が明るく見えた。


 井戸の東に壇がある。木を組んで、四段の階段をつけて、まわりに青と白の布を巻いてある。三日前に音を聞いた台が、組み上がっていた。


 屋台が七つ出ていた。焼いた魚。菓子。南の果物。値段が一日だけ倍になる日で、それを知っている子供が朝から集まっている。


 壇の下に、二十一人が横一列に並んでいた。


 全員、新しい服を着ていた。


 親が用意する。この街では、儀の服だけは新しく仕立てる。生成りが多い。染めた布は高いからだ。並ぶと、白っぽい列になる。


 ペレさんが、井戸の東側から西へ掃いていた。


 五十年、この日だけは日の出前から掃く。今日もそうしていた。箒の柄の先が、朝の光を黒く返していた。


 風のある日は風下から。鳩の降りているところは飛ばして、あとで戻る。掃いた場所を二度掃かない。


 合っている人の手つきだ。




 マルタさんは、屋台を出していた。


 三日、店を閉めていた人が、今日は坂の下から鍋を二つ運び上げていた。豆の煮込みだ。値段は倍にしなかった。


 「あんた、飯」


 「食えない」


 「食え」


 「無理」


 彼女は椀に注いで、俺の手に押しつけた。持たされたので、持っていた。


 三口だけ食った。


 「足りないよ」


 「うん」


 「まあ、いいさ」


 彼女は鍋の底を掌で叩いた。とん、と鳴った。四日ぶりの音だった。




 広場に人が入りきらなかった。


 この街の大人は、二千人を超える。全員は入らない。入れなかった人間が、坂の口と、東の石段の上と、屋台の隙間に立って、伸び上がっていた。


 その中に、知った顔がいくつもあった。


 昨日まで坂に立っていた二十三人だ。


 みんな、掲示板の側に寄っていた。誰も決めていないのに、そうなっていた。




 俺は、掲示板の脇に立っていた。


 紙は、昨日貼り替えられたままだ。黒い印が、上から二十一。


 その紙の下、石畳のところに、鳴らない石が二枚ある。


 母親は、壇のいちばん近くにいた。


 昨日と同じ生成りの包みを、両腕で抱えている。角が揃っている。何度も畳み直した形だ。


 周りの親たちは、自分の子供を見ていた。


 この人だけが、坂の口を見ていた。




 最初の影が来たのは、儀が始まる前だった。


 風が下から来て、鳩がいっせいに飛んだ。


 広場が、静かになった。


 誰も、坂の口を見なかった。


 屋台の主人が魚を裏返す手を止めた。並んでいた二十一人のうち、何人かが下を向いた。親が、その肩を軽く押さえた。


 灰色の髪が、広場を斜めに突っ切っていった。


 足の音は、もう数えられなかった。一つの長い音が、坂を上っていった。


 抜けていって、西の口から消えた。


 鳩が、また掲示板の上に戻ってきた。


 それから、屋台の主人が魚を裏返した。


 誰も、何も言わなかった。




 四半刻に一度、それが起きた。


 風。鳩。影。静けさ。それから、また動き出す。


 この街は、四日かけて、見ない練習をしていた。


 見ないというのは、目を逸らすことじゃない。そこに起きていることを、その日の出来事の勘定に入れないことだ。


 入れたら、儀ができなくなる。


 だから、入れなかった。




 昼になった。


 オーウェンが来た。


 遠くから見ると、まず小さい。俺より頭二つ低い。背が縮んでいるので、壇の下に並んだ十五の子と並ぶと、この人のほうが低い。


 白い外套。縁取りは銀が一本きりで、袖のところだけ金が走っている。司名の印だ。


 髪は白くて薄い。地肌が透けていて、風が吹くと頭のかたちがそのまま見えた。


 壇に上がるとき、脇を二人がかりで支えられていた。四段だ。一段ごとに、両足を揃えてから次へ行く。


 上がりきってから、彼は列を見た。


 二十一人を、端から端まで、ゆっくり見た。


 端まで行って、また戻ってきた。二度見た。


 この人は、人を見るとき、長く見る。




 俺は、この人を三度見ている。


 十五の夏。十六。十七。三度とも、この人は俺を長く見て、それから一拍おいて、何も言わなかった。


 あのとき、俺はそれを「見えなかった」んだと思っていた。


 いま、壇の下から見上げて、少し違うことを考えた。


 この人は、見えなかった人間の見方をしていない。見えたのに言わない人間の見方をしている。


 手が震えている。老人の震えだ。だが、震えているのは右手だけだった。


 名前を告げるときに上げる手だ。


 四十年、三千件。そのうち二百件以上が外れている。


 外れたことは、外れた本人が一生かけて知る。この人は、知らない。


 知らないまま、また今日、二十一人ぶん告げる。




 壇の下、東側にアダンがいた。


 銀の縁取りが二本。日の下でも、輪郭が周りに溶けている。


 その隣にセシルさんがいた。膝の上に板を置いて、羽根ペンを持っている。四日ぶんの埃が外套から落としてあった。細い目のふちだけが、まだ赤い。


 一度だけ、こっちを見た。


 それだけだった。




 読み上げが始まった。


 「一番」


 オーウェンが名前を呼ぶ。呼ばれた子が列を出て、四段上がって、司名の前に立つ。


 オーウェンは、その子を見る。長く見る。


 それから、一拍おいて、告げる。


 空気に白い文字が残って、子供の方へ吸い込まれる。輪郭が光の縁を持つ。袖に糸が生えて、縫い上がる。


 そして、糸の端が切れて、落ちる。


 子供が下りる。親のところへ戻る。




 一人目は、桶屋の倅だった。


 オーウェンが告げた。桶回しのラス。


 その子の父親が、下で両手を口に当てた。桶屋の三代目に、桶の名前が来た。


 俺には、それが入るのが見えた。すとん、と入った。ペレさんのときと同じ感じだ。隅から隅まで、その子の形になった。




 三人目で、俺は気づいた。


 入っていない。


 名前は縫われた。糸の端も切れた。手続きとしては、終わっている。


 でも、あの子の中に、その名前の入る場所がなかった。


 ペレさんのときに感じた、隅から隅まで埋まっているという感じが、まったくしない。上に置かれただけだ。


 二人目は、入っていた。四人目も入っていた。五人目は、分からなかった。


 六人目は、入っていなかった。


 六人目は、痩せた男の子だった。畑守りのトゥイと告げられて、四段下りて、親のところへ戻って、袖を見せた。


 親は喜んでいた。


 その子も笑っていた。


 二十五年後に、この子は石を割れない石工になるかもしれない。それを言えるのは、いま、この広場で俺だけだ。


 言えるだけで、何もできない。今日ここで名前をつけていい人間は、壇の上に一人しかいない。




 この街の三千件のうち、二百件以上が外れている、とセシルさんは言った。


 その割合が、いま、目の前で出ていた。




 読み上げの途中で、二度、あの子が広場を横切った。


 二度とも、読み上げが止まった。


 オーウェンが、告げる前で口を閉じたからだ。名前を出しかけて、そこで止めて、通り過ぎるまで待った。


 止まっているあいだ、広場の全員が下を向いていた。屋台の主人も、並んだ二十一人も、その親も。四日かけて練習してきたとおりに、やり過ごしていた。


 壇の上の一人だけが、顔を上げていた。


 名前を告げる相手は、目の前にいる。壇の上だ。坂の口を見る必要は、どこにもない。


 それでも二度とも、この人は坂の口を見ていた。抜けていった先を、最後まで目で追っていた。


 今朝この街に着いたばかりの人間が、たった一人、あの子を見ていた。




 「十番」


 十番目の子が下りた。


 俺は、掲示板の紙を見た。


 黒い印が、上から二十一。


 昨日まで、二十二あった。


 「十一番」


 オーウェンが呼んだ。


 列から、女の子が出た。


 別の子だった。




 穴は、空いていなかった。


 十番の次は十一番で、その次は十二番だ。順番に呼ばれて、順番に上がって、順番に下りていく。


 滑らかだった。


 誰も、何も、気づかなかった。


 抜けたところは、埋められていた。




 俺は、立った。


 立ってから、声を出すまでに、少しかかった。


 「十一番目が、抜けてます」




 広場が、止まった。


 二千人が一度に黙ると、風の音だけが残る。旗が鳴っていた。それだけだった。


 アダンが動いた。半歩、こちらへ出た。


 止めたのは、オーウェンだった。


 壇の上から、片手を上げた。震えていた。それでも、上げた。


 「言ってみなさい」




 「昨日の夕方まで、あの紙には、二十二ありました」


 俺は掲示板を指した。


 「今日は、二十一です。一人、減ってます」


 「誰だ」


 「ミアです。洗いのイレナさんの娘です。いま、そこを走ってます」




 誰も否定しなかった。


 できなかったんだと思う。この広場にいる全員が、四半刻に一度、それを見ていた。見ないことにしていただけで、見ていた。




 壇の下の東側で、綴じ本が開いた。


 「その子は、授名済みです」


 アダンだった。


 声を張っていないのに、広場の端まで届いた。


 「十八日の朝に、私が書きました。掲示は記録どおりに作られています。抜けてはいません」




 俺は、息を吸った。


 ここから先を言うと、たぶん、戻れない。


 「俺が、つけました」




 二千人が一度に息を吸う音がした。


 風より大きかった。


 神殿の外の人間が名前をつけるのは、この街では罪になる。二十日前の夜に、セシルさんがそう言った。ものすごく、と付け足した。


 それを、いま、二千人の前で言った。




 オーウェンは、動かなかった。


 驚いてもいなかった。


 「合っていないのか」


 「合ってません」


 「なぜ分かる」


 「あの子が、止まれないからです」




 彼は、しばらく黙っていた。


 それから、俺の方へ、震える指を一本だけ向けた。


 「では、直したあとの名前を言いなさい。いま、ここで」




 言えなかった。


 四日、見た。一日ついて回って、走るところを見て、待つところを見て、指を折って数えるところを見た。


 出なかった。


 昨日も出なかった。


 今も、出ていない。


 俺は、口を開けたまま、そこに立っていた。


 二千人が、それを見ていた。




 「あの」


 声がした。


 小さい声だった。壇の近くだったから、届いた。


 母親が、一歩、前に出ていた。


 包みを両腕で抱えたまま、オーウェンの方を向いていた。


 「洗いのイレナと申します」




 「五年前の冬に、わたしが、三日、寝込みました」


 誰も、止めなかった。


 「洗い上がったものが、家に溜まりました。届けないと、お金が入りませんので、あの子が代わりに配りました。九つでした」


 彼女は、そこで一度、包みを持ち替えた。右腕から左腕へ。


 「雪の日でした」




 「一軒だけ、届けられませんでした。坂のいちばん上の、北門のそばです。遠くて、重くて、寒かったんだと思います。戸を叩いても、返事がなかったそうです」


 彼女は、坂の口を見た。


 「置いて、帰りました。わたしには、渡してきた、と言いました」




 「夜のうちに、雪が降りました」


 包みを抱える腕に、力が入った。揃っていた角が、そこで潰れた。


 「その家は、次の日に人が集まる予定でした。着るものが、駄目になっていました。布代を、弁償しました」


 彼女は、そこで少し黙った。


 「その冬、うちは、ほとんど食べませんでした。あの子は、一度も、お腹が空いたと言いませんでした。九つの子がですよ」




 広場は静かだった。


 鳩も飛ばなかった。


 誰かが咳をして、すぐやめた。


 壇の下の二十一人が、全員、この人を見ていた。名前をもらったばかりの子も、まだの子も。




 「わたしは、あの子を叱りませんでした」


 彼女は言った。


 「叱れませんでした。九つの子に、雪の日に、街じゅうを回らせたのは、わたしですから」


 彼女は、包みを見た。


 「叱らないかわりに、一つだけ言いました。——もう、うちの洗い物は、触らないで」




 「それきりです。その話は、五年、一度もしていません」


 彼女は指を折った。ミアと同じ折り方だった。


 「あの子は、その日から、よその使いを始めました。九つでした。うちの籠には、五年、指一本触りません」




 「毎晩、帰ってくると、言うんです」


 彼女は、少しだけ笑った。うまく笑えていなかった。


 「『今日、これ届けたよ』って。誰に、何を届けたか、全部言うんです。毎日です。わたし、会ったこともない人の名前ばっかり覚えました。桶屋のゲトさん。糸屋のエルサさん。門番のヨナスさん」


 折った指を、そこで開いた。


 「速かったとか、何往復したとか、そういうのは、一回も言わないんですよ。一回もです」




 「うちは、仲が悪くありません」


 彼女は言った。


 「朝はパンを一緒に食べますし、夜は喋りっぱなしです。悪くないんです。あの一件だけ、二人とも、触らないんです」


 彼女は、オーウェンを見た。


 「わたしが、あの日、何も言わなかったから」


 声が、そこで初めて震えた。


 「あの子は、五年、届け続けてるんです」




 見えた。




 四日かけて見つからなかったものが、この人が喋った、十数えるあいだで見えた。


 俺はずっと、あの子の速さを見ていた。


 速さは、あの子が持っているものだ。あの子が使っているものだ。


 あの子が、している、ことじゃない。


 この子がしているのは、届けることだ。


 留守なら待つ。手紙を三回読み終わるまで動かない。渡した相手の顔を見てから走り出す。置いて帰らない。二度と、置いて帰らない。


 八十四人ぶんの戸を覚えていたのも、そうだ。あのとき、この子は家のことと戸のことと犬のことを三十七人ぶん喋って、自分がどれだけ速いかは、一度も言わなかった。


 俺は、それをただの性格だと思った。


 違った。


 この子にとって、速いことは、道具でしかない。




 俺は、口を開けた。


 「オーウェン様」


 「うん」


 「言えます。あの子の、直したあとの名前を」




 「クルトさん、いけません」


 声が張った。


 セシルさんだった。


 この人が声を張るのを、俺は初めて聞いた。板が膝から落ちて、石畳に当たった。


 「三千件にも、本殿の写しにも、名を授け直した例は、一件も——」




 「いや」




 俺は、広場を見た。


 井戸のそばに、ドンさんが立っていた。禿げ上がった頭に、四日ぶんの汗の白い筋がついている。


 その隣にリーヤがいた。腕をまくったままだ。目の下が黒い。


 二人とも、右の袖を出していた。


 照合は、三日前で終わっている。それなのに、二人とも、まくったままだった。


 聞き手のドン。継ぎ手のリーヤ。


 「二人、いる」




 セシルさんが、俺の見ている方を見た。


 そのまま、動かなくなった。


 記録に一件もないのは、当たり前だった。


 あの二人の名前は、授け直したものとして書かれていない。誤記を直した、として書かれている。


 前例がなかったんじゃない。前例が、そう書かれなかっただけだ。




 「……私が、書きました」


 小さい声だった。


 「二件とも、私が。訂正として」




 書いたのは、俺を守ろうとした人だった。


 「一人に一度だけ。消せない、書き直せない」


 彼女は、自分の言った言葉を、確かめるみたいに繰り返した。


 「二十日前の夜、あの店で、ドンさんにもう一度つけていただこうとしました。出ませんでした」


 彼女は、そこで顔を上げた。


 「それ一度きりです。一度で、私が規則にしました」




 彼女は、落ちた板を、そこでようやく拾った。


 埃を払って、胸に抱えた。


 「クルトさん。私は、記録の側の人間です。ですが、いまは、そちらの側に立ちます」




 壇の上で、オーウェンが動いた。


 支えられずに、一人で、二段下りた。それから、ドンさんの袖と、リーヤの袖を、順番に、長く見た。


 この人は四十年、当たったかどうかを一度も確かめられないまま名前をつけてきた。外れた名前なら、街じゅうにある。


 書き直された名前を見るのは、たぶん、生まれて初めてだった。


 彼は、何も言わなかった。


 かわりに、指をもう一度、俺に向けた。


 「続けなさい」




 「合ってる名前は、その人の場所を埋めてます」


 俺は言った。


 「埋まってるところには、上から書けません。ドンさんに二度目をつけようとしたとき、書けなかった」


 俺は、掲示板の下の石を見た。二枚、鳴らない石を。


 「駆けるミアは、埋まってません。だから、書けます」




 風が来た。


 下からだ。


 鳩が、いっせいに飛んだ。




 影が来た。


 坂の口から入ってきて、広場を斜めに突っ切ってくる。


 髪は灰色だった。色が抜けきっている。汗はもう出ていない。裸足の足が、石を打つ音を立てない。


 俺は、掲示板の前へ出た。


 あの子が足を緩めるのは、ここしかない。三日、そうだった。




 「ミア!」




 「はーい!」




 返事は、いつもと同じだった。


 四日走って、水を飲んでいなくて、それでも返事だけは、店の扉を開けるときと同じ声だった。


 「名前、つけ直していい!?」




 「――いいよー!」




 即答だった。


 三日前の夜、この子は一度断っている。ずるいから、と言った。順番があるから、と言った。


 今日は、聞き返しもしなかった。


 あの夜、渡せるものを全部渡してしまった子が、まだ渡すものを持っていた。




 そして、来た。


 喉の奥から、勝手に上がってきた。ドンさんのときと同じだ。


 俺が決めたんじゃない。


 見えたから、来た。




 「――届け手のミア」




 空気に、白い文字が残った。




 薄い、白い線でできた文字が、一拍だけ浮かんだ。


 それから、走っている子の方へ吸い込まれた。


 輪郭が、光の縁を持った。灰色の髪の先が、そこだけ一段濃くなった。




 最初に落ちたのは、古い糸だった。


 四日間、切れずに垂れたままだった端が、走っている腕の先で、ぷつりと切れた。


 指の長さぶんの白い糸が、広場の石畳に落ちた。


 落ちた場所は、鳴らない石の、一枚目の上だった。




 それから、刺繍がほどけはじめた。


 布を爪で引っかくような、細い音がした。三日前の夜には、しなかった音だ。ほどくものが、今度はあった。


 ほどけていく糸は、走っているぶんだけ後ろへ流れて、空中で消えた。


 三日前の夜に俺が言った四文字が、順番にほどけて、無くなっていった。




 三つのことが起きる。


 一つ。糸が縫い上がる。名前が入った、という意味だ。


 二つ。糸の端が切れて、落ちる。縫い終わった、という意味だ。


 三つ。名の色が差して、そこで止まる。その色でいい、という意味だ。


 三日前の夜は、一つ目しか起きなかった。




 新しい糸が生えて、縫われていった。


 縫い終わった。


 そして、端が、切れた。


 落ちた。


 二本目の白い糸が、石畳に落ちた。


 鳴らない石の、二枚目の上だった。




 名の色が、差した。


 灰色だった髪に、根元から色が上がってきた。


 金に見えた。次のまばたきで白に見えた。


 それから、止まった。


 止まった色を、俺は知っていた。


 洗い上がったばかりの布の色だ。あの子の家の戸の脇に、籠に積んであったやつだ。母親がいま抱えている包みと、同じ色だった。


 止まった。


 もう動かなかった。




 足が、止まった。


 四日ぶりに、この街から風の音が消えた。


 止まったところが、壇の下だった。




 彼女は、しばらくそこに立っていた。


 自分の足を見た。それから、自分の右の袖を見た。


 誰も動かなかった。二千人が、動かなかった。




 井戸のそばで、ドンさんが目を開けた。


 四日、この人はずっと聞いていた。十六刻立って、また十六刻立って、四半刻ごとに数を一つ増やしていた。


 いま、その数が増えなくなった。


 彼は、片足の位置を変えた。それから、もう片方も変えた。


 石に押しつけて、確かめている。


 「……聞こえない」


 声が、震えていた。


 「聞こえない」


 二度言った。


 この人が、聞こえないと言うのを、俺は初めて聞いた。




 最初に動いたのは、リーヤだった。


 人を押しのけて出てきて、水筒を突き出した。


 継ぎ目のない金物だ。一晩で作って、二日、渡せなかったやつだ。


 ミアは、それを、受け取った。


 両手で受け取って、口のところを噛んで、飲んだ。


 飲みながら、こぼした。顎から首に垂れて、埃の上に筋を作った。


 リーヤは、何も言わなかった。立ったまま、両手を下ろして、それを見ていた。


 自分の作ったものが、初めて、渡った。




 「クルトさん」


 ミアが言った。


 声が、かすれていた。四日ぶんの声だった。


 「約束、覚えてる?」


 「覚えてる」


 「二つあったよ」


 「儀の日に来ること」


 「うん」


 「来た」


 「見てた?」


 「見てた」


 彼女は、口の端を上げた。上げるだけで、頬は動かなかった。


 「もう一個は?」




 俺は、その前に立った。


 六日前、この子は俺にこう頼んだ。


 名前をつけてくれ、とは言わなかった。この子は最後まで、一度もそれを言っていない。


 合ってるかどうか、教えて、と言った。


 この街の誰も、そんなことは訊かない。合っているかどうかは、当てられた本人が一生かけて確かめるものだからだ。ドンさんは二十五年かけて確かめた。ペレさんは五十年かけた。


 誰も、その日のうちには聞かない。


 この子だけが、先に聞いた。


 「ミア」


 「うん」


 俺は、その袖を見た。


 縫い上がって、端が切れて落ちて、色が定まった袖を。


 「合ってる」




 彼女は、頷いた。


 頷いてから、袖を見た。しばらく見ていた。


 読めないはずのものを、しばらく見ていた。


 「ふうん」


 それだけ言った。




 それから、彼女は壇を見上げた。


 誰も呼んでいなかった。読み上げは十一番目で止まったままだ。


 彼女は、四段上がった。


 一段ごとに、両足を揃えてから次へ行った。今朝、オーウェンが上がったのと同じ上がり方になった。四日走った脚では、そうするしかなかったんだと思う。


 誰も止めなかった。


 止める役の人間は、壇の下の東側で、綴じ本を閉じたまま見ていた。




 上がりきって、彼女はオーウェンの前に立った。


 二十一人が、そこに立った場所だ。


 オーウェンは、彼女を見た。長く見た。


 それから、袖を見た。


 それから、壇を下りた。


 支えられずに、一人で、四段下りた。




 彼は、石畳にしゃがんだ。


 落ちている二本の白い糸を、指で拾った。


 四十年、三千件つけてきて、この人は、切れた糸が落ちるところを見ていない。壇の上からは、下が見えないからだ。呼ばれた子は上がってきて、袖を光らせて、下りていく。落ちたものは、下にいる誰かが掃く。


 五十年、それを掃いてきたのがペレさんだ。


 オーウェンは、二本を手のひらに乗せて、しばらく見ていた。


 一本は、三日前の夜に切れなかった糸だ。


 もう一本は、いま切れた糸だ。


 同じ子の袖から出て、同じ石の上に落ちた。


 彼は、何も言わなかった。




 俺は、その手のひらを見ていた。


 二十五年前、この人はドンさんに石割りをつけた。俺が、それを聞き手に変えた。


 三日前、俺は駆けるをつけた。今日、それを届け手に変えた。


 同じことだ。


 俺はずっと、間違いを直す側にいるつもりでいた。神殿は人を見ないで名前を配る。俺は人を見る。そう思っていた。


 間違えた側と、直す側は、同じ人間だった。


 この人は四十年で二百件以上を外して、その一件も見ていない。


 俺は一件外して、その一件を、四日、目の前で見た。


 どっちがましなのかは、分からない。




 母親が、壇に上がってきた。


 包みを抱えたままだ。四段を、途中で一度止まってから上がった。


 上がって、包みを開いた。


 中は、生成りの服だった。まだ一度も洗っていない布だ。当日まで内緒だと言っていたやつだ。


 彼女は、それを娘に着せた。


 汗と埃と血の上から着せた。四日ぶんの汚れがついて、右の裾だけ擦り切れた古い服の上に、そのまま着せた。


 誰も、脱がせろとは言わなかった。


 二千人が、それを下から見ていた。




 「お母さん」


 「うん」


 「あたし、あの日」


 五年、言えなかった。


 「あの家、届けてない。置いて帰った」


 「知ってた」


 「……」


 「ずっと知ってた」


 「なんで、なんも言わなかったの」


 母親は、娘の襟を直した。二度直した。


 「言ったら、あんたが、もっと背負うと思ったから」




 「背負ってたよ」


 「うん」


 「五年、背負ってた」


 「知ってる」


 母親は、三度目に襟を直した。


 「ごめんね」




 「ねえ」


 「うん」


 「あたし、届け手だって」


 「うん」


 「地味じゃない?」


 「……地味だね」


 「でしょ」


 彼女は、自分の袖を見た。


 しばらく見ていた。


 それから、母を見た。


 「でも」




 「届くよ」




 母親は、答えなかった。


 答えるかわりに、娘の頭に手を置いて、髪をひとつかみ、後ろへ流した。


 洗い上がった布の色をした髪だった。


 それを見て、この人は、少しだけ笑った。


 今日、初めて、うまく笑えていた。




 俺の後ろで、リーヤが座り込んだ。


 石畳にそのまま。前掛けが汚れるのも気にしないのは、この人の癖だ。


 マルタさんが、その隣に立って、頭に手を置いた。


 二人とも、何も言わなかった。


 ドンさんは、まだ足の位置を変えていた。


 聞こえないことを、何度も確かめていた。




 降りてきたミアは、四段目で足を止めた。


 止めてから、そこに座り込んだ。


 立てなくなったんだと思う。四日ぶんが、いっぺんに来た。


 「クルトさん」


 「なに」


 「あたし、走れない」


 「うん」


 「立てない」


 「うん」


 彼女は、自分の脚を見た。細くなっていた。四日で、腿の形が変わっていた。


 「駆ける、なくなったからかな」


 「……たぶん」


 「じゃあ、あたし」


 彼女は、少し考えた。


 「一番じゃ、なくなっちゃった」


 俺は、何も言えなかった。


 速さは、この子が持っていた一つだけの、誰にも負けないものだった。それを取ったのは俺だ。二回とも俺だ。


 「そうだね」


 俺はそう言った。嘘を言えないので、そう言うしかなかった。


 彼女は、けろっと頷いた。


 「まあ、いいや」


 「いいの」


 「うん。だって」


 彼女は、四段目に座ったまま、坂の口の方を見た。


 「歩いても、届くじゃん」




 アダンが、綴じ本を閉じた。


 閉じる音はしなかった。


 「セシル」


 「はい」


 「これを本殿に出す」


 「……はい」


 彼は、広場を見回した。屋台の隙間まで、石段の上まで、坂の口まで。


 「二千人だ。記録しないという選択は、もうない」


 セシルさんは、板を胸に抱えたまま立っていた。


 「はい」


 彼女は、そう答えた。


 声が、いつもの高さに戻っていた。




 それから、アダンは俺を見た。


 目の色は、今日も決められなかった。


 「クルト」


 「はい」


 「四日前、君は問題ないと言った」


 「……はい」


 「あれは、取り消す」




 彼は綴じ本を開き直して、一行だけ書いた。


 書くのに、三秒かかった。


 俺には字が読めない。何を書いたかは分からない。


 分かるのは、あの人の帳面に、四日間、空けてあった欄が一つあったということだけだ。


 誰が授けたか、という欄だ。


 あの人は、それを埋めるために、四日待っていた。




 夕方になった。


 屋台が片づけられていく。青と白の布が外されていく。壇は、明日の朝まで残る。


 坂を下りかけたところで、後ろから声がした。


 「クルトさん」


 振り返ったら、昨日まで坂に立っていた人たちの何人かがいた。ペレさんがいた。桶屋のゲトさんがいた。パン屋の倅もいた。


 誰も、順番の話をしなかった。


 板のことも言わなかった。


 かわりに、一人がこう言い直した。


 「あー、違うか」


 「え」


 「名付け屋さん」


 言った本人が、決まりが悪そうに頭を掻いた。


 俺は、返事をした。


 三年、「あいつ」か「さっきの」で済まされてきた。呼ばれて返事をしたのは、初めてだった。




 振り返ったついでに、広場の上の口が見えた。


 神殿へ上がる方だ。あそこから先は短いが急で、荷を持って上る人間は、たいてい途中で一度止まる。


 二人が、そこを抜けていくところだった。


 一人は小さい爺さんだ。歩幅が小さいのに速い。荷運びのマティスさん。


 もう一人は、その隣を、ゆっくり歩いていた。


 新しい生成りの服の上に、もう埃がついている。裸足のままだ。靴はどこかで無くなった。


 抱えているのは、洗い上がった洗濯物の籠だった。




 少し前に、壇の下で見たものを思い出していた。


 母親が、籠を持ってきて、娘の前に置いた。


 五年ぶりだった。


 「これ、北門のそばまで」


 「……いいの?」


 母親は、頷かなかった。


 頷いたら、許す側と、許される側ができる。


 この人は、そういう形にしたくなかったんだと思う。


 かわりに、届け物を頼むときの言い方をした。


 「お願いします」




 二人は、ゆっくり上っていった。


 速くはなかった。マティスさんの歩幅に合っていた。


 途中で二度、ミアが止まった。四日ぶんの脚では、そうなる。


 二度とも、マティスさんが立ち止まって、待った。


 待たれるのは、たぶん、初めてだ。




 旗はもう外されていて、坂の上には夕日だけがあった。


 籠から、洗い上がった布の端がはみ出して揺れていた。


 あの子の髪と、同じ色だった。




 俺は、坂を下りた。


 風は、下から吹き上げていた。


 朝、旗をふくらませたのと同じ風だ。


 いまは、上っていく二人の背中を押していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ