第17話 八十四人
夜が明けきる前に、坂を下りた。
綱屋に行くつもりだった。板の二十番だ。五日前に行ったときは戸が閉まっていて、隙間から覗いたら奥に人がいて、目が合って、逸らされた。だから今日は、まだ暗いうちに下りた。
戸は、開いていた。
中に人はいない。撚りかけの綱が床に置いたままになっている。
俺は坂を上がった。
マルタさんの店の前に、卓が一つ出ていた。
昨日まで屋台を出していた台だ。板を外して、脚を短くして、卓に戻してある。夜のうちにマルタさんが直した。金槌の音で三回起こされたが、何を作っているのかは聞かなかった。
その卓の前に、列ができていた。
坂は上へ細くなっていくので、列も上へ細くなっている。二度目の折れのところで見えなくなって、その先はどこまで続いているか分からない。
三年、俺は人のところへ下りていった。
今日は、人が上ってきていた。
いちばん前に立っているのが、綱屋だった。
両手が太い。指の腹が全部硬くなっている。掌の縁に、綱の撚りの跡が斜めに入っていた。
右袖には綱のヒルドと縫ってある。
「五日前、戸を閉めてましたよね」
俺が言うと、ヒルドさんは頭を下げた。下げてから、上げるのに時間がかかった。
「その」
「いいですよ」
「あんときは、袖を見られるのが嫌でしてな」
「はい」
「今日は、見てもらいに来ました」
昨日、二千人が広場にいた。
俺が名前をつけるところを、その全員が見た。だから今日は、隠すものが何もない。
板は店の前に立てかけたままだ。八十四行ある。上から順に会って、十九番まで終わっている。ほかに一人、順番を飛ばして呼んだ爺さんがいる。合わせて二十人。
ヒルドさんが、二十番だ。
俺は、袖を見た。
それから顔を見た。この街は袖が先で、顔があとだ。俺のほうは出すものを持っていないので、見られる側だったころは、そこが一呼吸で済んだ。今日は見る側なので、順に見た。
綱をなうというのは、細いものを何本も撚って、太い一本にする仕事だ。
この人の手は、そのために出来ていた。指が短くて、太くて、掌が広い。撚るとき、右の親指だけが外に開く。開いたところに跡がついている。
名前は、来なかった。
来ない、というのは、何もない、という意味ではない。
「合ってます」
「……は」
「綱のヒルドで、合ってます。隅から隅まで」
ヒルドさんは、しばらく黙っていた。
それから、太い指で自分の袖をつまんで、しばらく見ていた。
「そうですか」
「はい」
「いや」
彼はもう一度、袖を見た。
「合ってましたか」
列の三番目あたりから、声が飛んだ。
「ヒルドさん、合ってたって!」
「合ってたのかよ!」
「そりゃそうだろ、あんた綱しかなってねえもん」
笑い声が坂を下りていって、港のほうで消えた。
ヒルドさんは怒らなかった。怒らずに、坂を下りていった。途中で一度、振り返った。それから、綱屋の戸を閉めた。
閉めてから、また開けた。
開けたまま、中に入った。
二十一番は、粉挽きだった。
粉のベルタ。五十くらいの人で、髪にも眉にも粉が入っている。手を洗ってきたのが分かった。爪のふちだけ白い。
この人は、卓の前に座るなり言った。
「合ってないと思うんですよ」
「まだ見てません」
「見なくても分かります。あたし、粉なんか好きじゃないもの」
俺は見た。
三十年、同じ石臼を回してきた人の腕をしていた。左の肩だけが下がっている。指の関節が太い。そして袖の刺繍が、この街でいちばん濃く残っていた。粉を毎日かぶるから、布が擦れないのだ。
「合ってます」
「え」
「粉のベルタで、合ってます」
ベルタさんは卓を叩いた。
「好きじゃないって言ってるでしょう」
「好きかどうかは、見てません」
「じゃあ何を見たの」
「その人が、何をしている人かを見ました」
彼女は口を開けて、閉じた。それから、粉のついた眉を寄せた。
「……そういうことなの」
「そういうことです」
「じゃあ、あたしは、粉が好きじゃない粉の人ってこと?」
「はい」
「面倒くさい話ね」
ベルタさんは椀を持って立ち上がった。二歩下がって、振り返って、もう一度言った。
「でも、粉は好きじゃないからね」
「はい」
「そこは、覚えといてちょうだい」
二十二番と二十三番は、兄弟だった。
二人とも荷担ぎで、二人とも袖に荷積みのと縫ってある。名前だけが違う。
弟のほうが先に座った。
「兄貴のほうが合ってないと思うんですよ」
「本人が来てるんで、あとで言います」
「いや、俺のこと見る前に、そっち見てもらったほうが」
「順番なので」
見た。二人とも合っていた。
肩の落ち方が同じで、掌のできている場所が同じだった。同じ場所で同じ荷を担いだ人間の手だ。兄弟だからではなく、同じ坂を同じ回数上がったからそうなっている。
「二人とも合ってます」
弟が兄を見た。兄は何も言わずに、弟の椀を持ってやった。
列の整理は、ドンさんがやっていた。
昼は工房で、運ぶのと積むのをやっている。今朝はそれを抜けてきた。親方には言ってあるらしい。
この人は喋らない。
指で「そっち」と示す。それだけで列がぴたりと揃う。四十過ぎの男が二人、詰めろと言われる前に詰めていた。
「聞き手のドンさんに睨まれた」
列の途中で、そう言って震えている中年がいた。
睨んでいない。ドンさんは、こっちを見ていただけだ。
目つきの話ではない。二十五年、この人は誰にも呼ばれずに立っていたので、立ち方が静かになった。静かなものが動くと、人は勝手に意味を読む。
卓の横に、湯気が立っている。
マルタさんが、鍋を三つ並べていた。
「多くない?」
「余ったら明日出す」
「腐るよ」
「腐らないよ、うちの湯は」
根拠は聞かないことにした。
列に並んでいる人が、順番に椀を渡されている。受け取った人は、まずマルタさんに頭を下げて、それから列に戻る。
三年、俺はこの人の鍋を洗ってきた。人が鍋の前で頭を下げるところを、毎日見てきた。
今日は、俺が卓の前に座っている。
昼前に、リーヤが坂を上ってきた。
前掛けをしたままだ。腕をまくっている。白と赤の火傷の跡が、肘の下まで出ている。
列に並んでいる連中が、道を空けた。空けたというより、避けた。
「なんで下がるの。噛まないよ」
誰も返事をしなかった。
リーヤは卓まで来て、俺の前に何かを置いた。
革紐のついた水筒だった。継ぎ目がない。
「飲んでる?」
「なにを」
「水。朝から座りっぱなしでしょ」
言われて、朝から一度も飲んでいないことに気づいた。
「これ、ミアのやつじゃ」
「あれは、あの子の。これは二つ目」
彼女は袖で額を拭いた。炉の前から来たので、まだ熱を持っている。
「打つのに一晩かかったんだから、ちゃんと使いなよ」
「ありがとう」
「あと、あんた、顔がひどい」
リーヤは列のほうを見た。目が合った三人が、順に下を向いた。
「これ、まだ五十人以上残ってるの?」
「五十三人」
「今日中に終わると思ってるなら、馬鹿だよ」
彼女は帰っていった。坂を下りるのが速い。鍛冶場は港のそばで、火を落として来たわけではないから、急いでいる。
番号の札は、昨日の夜にセシルさんが書いた。
小さい木札に、一から八十四まで。字はきれいで、全部同じ大きさだった。
それを配っていたのがミアだ。
まだ走れない。四日ぶんの疲れが抜けていない。だから歩いている。歩き方も、いつもより浅い。
新しい生成りの服を着ている。裾はまだ擦り切れていない。
靴も履いていた。ただし、揃っていない。右はちょうどいいが、左が大きい。歩くたびに、左の踵だけが浮く。どこで手に入れたのかは、聞かなかった。
配りはじめて、四半刻くらいだった。
「クルトさん」
「ん」
「これ、いらないと思う」
「なんで」
「あたし、覚えてるもん」
この子は、八十四人を全部覚えている。
五日前の夜、油皿を三つ点けた卓の上で、この子はセシルさんの読み上げを一度も聞き返さなかった。上から順に、八十四行ぜんぶ。どこに住んでいて、どの戸が固くて、どの家に犬がいるか。そこまで入っている。
だから札を配る必要がない。
ミアは札を全部持ったまま、列の横を歩くようになった。
「次、二十四番。屋根のオトーさん」
呼ばれた人が前に出る。
「その次、二十五番。桶屋のゲトさん。ゲトさんは足が悪いから、先に座っといて」
ゲトさんが座る。
「二十六番の人、まだ来てない。港で網が破けたって。昼過ぎに回します」
列が、勝手に整っていった。
ドンさんが指を下ろした。指す必要がなくなったからだ。
屋根のオトーさんは、若くなかった。
六十近い。背中が丸い。屋根に上る人の丸まり方で、肩から先が前に出ている。
この人は、座ってから何も言わなかった。
俺が袖を見て、顔を見て、手を見た。爪が全部平たい。屋根板を掌で押さえて釘を打つと、そうなる。
「合ってます」
オトーさんは、顔を上げなかった。
「そうですか」
「はい」
「わし、ずっと」
彼はそこで一度、息を吸った。
「ずっと、間違っとると思って上っとりました」
俺は何も言わなかった。
「屋根なんぞ、誰でも上れる。若いころからずっと、そう思って上っとりました」
「合ってます」
「……そうか」
オトーさんは立ち上がって、椀を返して、坂を下りていった。
下りていく背中は、丸いままだった。
丸いまま、少し速かった。
ペレさんが、広場から下りてきた。
箒を担いでいる。柄のほうを肩に乗せて、穂先を後ろに垂らす持ち方だ。五十年やっていると、そうなるらしい。
「壇、崩しとりますで」
「もう?」
「板は来年も使いますでな。番号を書いて、役所の裏に積みます」
この人は、儀の日の朝に日の出前から掃く。そして儀の翌日に、壇を片づける。五十年、両方ともこの人がやっている。
ペレさんは、前掛けのあいだから何かを出した。
靴だった。片方だけ。左の。
「井戸の東の隅に落ちとりました。四日ぶん掃いとりますで、落ちたもんは、たいてい隅に寄りますな」
ミアが来た。走ってはいない。
「それ、あたしの」
「そうですかな」
「そう。走ってるとき、無くしたほう」
ミアはその場にしゃがんだ。
いま履いている大きいほうの左を脱いで、ペレさんが出したのを履いた。それから立って、二、三歩あるいて、踵を上げてみた。
「合う」
俺は、そこで初めて朝の靴の出どころを知った。
昨日の夜、この子は裸足だった。それで、ペレさんが役所の裏の小屋を開けたのだという。箒を置いてある小屋だ。
「あそこに、拾ったもんを積んでありますで」
「どれくらい」
「五十年ぶんですな」
右に合うのは一つ見つかった。左に合うのは、無かった。だから大きいのを履いていた。
ミアは、両足を見比べた。
右が小屋から出てきたもので、左が自分のだ。革の色が違う。縫い方も違う。
「揃わないね」
「そうですかな」
「揃わないけど、両方ちょうどいい」
脱いだ大きいほうを、ペレさんが受け取って、前掛けにしまった。
「捨てないの?」
「戻しときますで」
「五十年前のやつも、まだ置いてあるの?」
「置いてあります」
ペレさんは箒を担ぎ直した。
「たまに、探しに来る人がおりますでな」
昼を過ぎた。
坂の上から、槍の石突きの音が下りてきた。
こつん、こつん、と、一段ごとに石畳を突く。門番のヨナスさんだ。橙がかった金の髪をしている。
この人は列に並ばなかった。列の横に立って、槍を横にして、それから言った。
「今朝、司名様が北門を出ました」
卓のまわりが、静かになった。
「日の出前です。本殿からの使いが二人、迎えに来とりました」
「オーウェンさんが」
「はい」
ヨナスさんは、槍を持ち替えた。
「杖を、両手で持っておられました。片手で足りる杖です」
俺は、昨日のことを思い出していた。
あの人は壇を下りて、石畳から白い糸を二本拾った。切れなかった糸と、切れた糸だ。それを掌に載せて、俺に見せた。そして「続けなさい」と言った。
二千人が聞いていた。
「わし、あの門に十一年立っとりますが」
ヨナスさんは、槍の石突きで石畳を突いた。こつん、と鳴った。
「あの人が門を出るのを、見たのは初めてです」
セシルさんは、卓の端に立っていた。
朝からずっとそこにいる。木札を書いたのはこの人で、書いた順番も覚えているので、ミアが間違えても直せる。一度も直していない。
銀の板を、首から下げている。指が、その板の縁を撫でていた。
「セシルさん」
「はい」
「昨日、あの照合官の人が、最後に一行書いてましたよね」
「はい」
彼女の指が、板の縁で止まった。
「なんて書いたか、分かりますか」
「あれは、神殿の名簿ではありません」
「え」
「あの方が外套の内側から出したのは、ご自分の綴じ本です。黒い表紙の。神殿の記録とは、別のものです」
「じゃあ、誰が読めるんですか」
「あの方だけです」
俺は、卓の木目を見ていた。
名簿というのは、街のみんなが見られるものだと思っていた。読めない俺でも、掲示になれば誰かが読み上げる。
だが、あの一行はそうではない。
「名簿のほうは」
「今朝、見てきました」
「え」
「日の出前に、神殿へ上がりました」
セシルさんは、指を板から離した。
「ミアさんの行の、誰が授けたかの欄は、今朝も空のままです」
「空でいいんですか」
「よくありません。四年やっていますが、空の行を見たのは、あれが初めてです」
「呼ばれたんですか」
「はい」
「なんで」
「昨日、二千人の前で、司名が『続けなさい』と言いましたので」
彼女は指を止めた。
「あれを、本殿は放っておけません」
「セシルさんは」
「私は」
少し、間があった。
「私は、まだいます」
俺はその「まだ」を聞いた。聞いたけれど、そのときは何も思わなかった。
昼を回って、二十六番が上ってきた。港で網を繕っている人だった。指の股が、糸で切れて硬くなっている。
そのあとに三人。石を積む人、糸を巻く人、市で野菜を並べる人。
四人とも、合っていた。
三十番が、最後だった。
三十くらいの男で、袖には釘打ちのフェルと縫ってある。屋根も、桶も、船の板も、釘を打つところなら全部やる。
俺は袖を見て、顔を見て、手を見た。
右の手首が太い。金槌を振る人の手首だ。指の爪も、まっすぐ切ってある。
合っていない。
ペレさんのときに感じた、隅から隅まで埋まっているという感じが、どこにもない。上に乗っているだけだ。乗っているものと、下にある形が、ずれている。
名前が来るのを待った。
一つ数えた。二つ数えた。
来なかった。
「フェルさん」
「はい」
「合ってません」
卓のまわりが、静かになった。
朝からずっと、笑い声のしていた列だった。ヒルドさんのときも、ベルタさんのときも笑っていた連中が、黙った。
フェルさんは、自分の袖を見た。それから、俺を見た。
「じゃあ、なんですか」
「分かりません」
「見えないってことですか」
「合ってないのは見えます。合ってるほうが、まだ見えません」
彼は、しばらく黙っていた。指で、金槌の柄を握るときの形を作って、また開いた。
「いつ、見えますか」
「分かりません」
「明日ですか」
「分かりません」
言いながら、俺は自分の言い方が嫌になっていた。
この人は十五から、釘を打ってきた。打ちながら、どこかで合っていないと思っていたはずだ。今日それを人に言われて、そのうえで、いつ直るかは分からないと言われている。
フェルさんは立ち上がった。
「そら、そうですな」
「すみません」
「いや」
彼は椀をマルタさんに返して、それから、卓のほうへ戻ってきた。
「合っとらんと、分かっただけで」
彼はそこで、少し笑った。
「今日は、それでええです」
フェルさんが坂を下りたあと、ミアが俺の横に来た。
「あたし、覚えとく」
「なにを」
「フェルさん。三十番。合ってないけど、まだ出てない」
「うん」
「出たら、あたしが行く」
この子は、字が書けない。書けないので、覚えるしかない。
覚えるしかない人間は、忘れない。
「今日、三十一人でしょ」
ミアが、木札を八十四枚抱えたまま言った。
「うん」
「外れたの、一人だけだよ」
「この街で外れてる人は、二百人くらいだ。大人が二千百人いて、二百人。十人に一人もいない」
「じゃあ、並ぶ意味ある?」
「ある」
「なんで。ほとんど合ってるんでしょ」
「合ってるかどうかは、外から見ても分からないから」
ミアは、しばらく考えていた。
「あー」
「なに」
「あたしも、そうだった」
板の一番は、荷運びのマティスさんだ。
この爺さんは、今日ずっと坂の下のほうにいた。並ばずに、列の外に立って、上ってくる人に道を空けさせていた。
背が低いので、押されると危ない。それでも、動かなかった。
日が傾いたころ、俺は下まで見に行った。
「マティスさん。順番、まだですよね」
「わしは、済んどりますで」
「済んでません」
「見てもらいましたでな。それで、済んどります」
この人には、まだ何も渡していない。
二日前も、そう思った。今日も同じことを思っている。
「渡します」
「はい」
「いつになるかは、分かりません」
マティスさんは、頷いた。それから、坂の下のほうを向いた。
「わし、待つのは得意でしてな」
日が傾いて、列が短くなった。
最後の一人が坂を下りていくとき、その人が振り返って、言った。
「名付け屋さん」
「はい」
返事をしていた。
考える前に、出ていた。
三年、俺は「あいつ」か「さっきの」で済まされてきた。
昨日、初めて呼ばれて、返事をした。
今日は、朝から数えきれないほど呼ばれた。数えようとして、途中でやめた。
板は、八十四行のままだった。
三十一人に会って、一行も減っていない。
減らないかわりに、俺のほうが、一日じゅう呼ばれていた。
卓を片づけた。
ミアが木札を八十四枚、順番どおりに重ねている。上から一、二、三。字が読めないので、書いた順に覚えて、その順に重ねている。
ドンさんが卓の脚を畳んだ。夜警に出るまで、あと一刻ある。
マルタさんが、鍋の底を柄杓で叩いた。
「飯」
俺が動くより先に、ミアが椀を並べはじめた。
「あたし、届け手だから」
「それ関係ある?」
「あるよ。運ぶもん」
そのとき、坂の下から音がした。
蹄だった。
この街で、馬が坂を上ってくることは、年に何度もない。坂が急で、石畳が濡れると滑るので、荷は人が担ぐことになっている。だから蹄の音は、上ってくる方向では、めったに鳴らない。
鳴っていた。
一度目の折れを回って、馬が出てきた。
黒い。首が高い。都の馬だ。
鞍の脇に布が下がっていて、そこに紋が縫ってある。
銀でも、金でもない。俺の知らない色をしていた。
乗っている男は、外套を着ていた。
縁取りが見えた。俺は数えた。一本でも、二本でもなかった。
馬は店の前で止まらなかった。卓の横を通って、そのまま坂を上がっていった。上には広場があって、その上に神殿がある。
誰も、口をきかなかった。
ミアが、椀を持ったまま立っていた。
マルタさんが、柄杓を鍋に戻した。音がしなかった。この人が音を立てずに柄杓を置くのを、三年で初めて見た。
ドンさんは、卓の脚を持ったまま止まっていた。
この人は、耳がいい。
「聞こえるよ」
「なにが」
「後ろに、もう一頭おる」
俺は坂の下を見た。
一度目の折れの向こうは、暗くて見えない。
蹄の音も、聞こえなかった。




