第18話 タプタプ
三杯目で、お腹がタプタプになった。
最初が綱屋のヒルドさんち。次が、その二軒下の網の人。三軒目が桶屋のゲトさんち。
全部の家で、茶が出た。
断ればいいと思うかもしれないけど、断れない。ゲトさんは足が悪いのに、わざわざ立って湯を沸かした。あれを断る方法を、あたしは知らない。
四軒目で、断ってみた。
「あ、あたし、お茶いい」
そしたら、その家のおばさんが手を止めて、あたしの顔を見た。
「あんた、どこか悪いの」
「え」
「顔が白いよ。座んな」
座らされた。
そして茶が出た。
あたしは、順番を配っている。
クルトさんが会う順番だ。板の上から順で、一日に五人か六人。だから何番の人が何日目になるか、先に分かる。
それを、家まで言いに行く。
「三十四番。あさっての、昼くらい」
そう言うと、たいてい二回聞き返される。
「あさって?」
「あさって」
「昼か」
「昼くらい。前の人が長くなったら、夕方」
これを言いに行かないと、みんな朝から坂に立つ。立って半日待つ。ヒルドさんの日は、三十人くらいが朝から並んで、そのうち十九人は無駄に立っていた。
だから、あたしが先に行く。
前にも、家を回ったことがある。
六日前の夜だ。あのときは「明日は来るな」だった。
八十四人を四つに分けて、あたしは西の外れをやった。三十七軒ある。あそこは通りに名前がないので、板の欄には「西の外れ」としか書いていない。だから夜に探すと、誰も教えてくれる人がいない。
夜通し走って、三十七軒ぜんぶ回った。
今度は「来ていい」だ。
同じ家に、逆のことを言いに行っている。
走れない。
脚は、もう痛くない。ただ、走ろうとすると腿の裏が抜ける。抜けるという言い方が合ってるのか分からないけど、力の入るところが見つからない感じ。
だから歩く。
待つのは、前からだ。
届け物の仕事は、待つ時間のほうが長い。婆さんの家に手紙を持っていくと、婆さんは三回読む。三回目が終わるまで、返事が決まらない。だから立って待つ。石段に座って、膝に顎を乗せて待つこともある。
走っている時間より、待っている時間のほうが長い。
それは、ずっとそうだった。
変わったのは、待つ場所だ。
前は、外で待った。戸の前か、石段の上か、井戸の縁。荷を渡したら、それで用が済むからだ。
いまは、中で待つ。
順番は、荷物じゃない。戸口で渡して終わりにならない。「あさっての昼くらい」と言うと、みんな、そこから何か喋りたくなるらしい。
それで、こう言われる。
「上がってけ」
これだ。
これのせいで、お腹がタプタプになる。
五軒目の家で、紙を出された。
「これ、なんて書いてある」
畑をやってる爺さんだった。役所から来た紙らしい。
あたしは、その紙を見た。
黒い線が、たくさん並んでいる。
「読めない」
「読めんか」
「うん」
「そうか」
爺さんは紙を裏返して、卓に置いた。裏には何も書いていない。
「わしも読めん」
こういうとき、あたしは謝らない。
謝ると、聞いた人が悪いみたいになる。だから、かわりに、こうする。
「役所の前で、朝に読み上げるよ」
「いつ」
「掲示が変わった日の、朝いちばん。上から順に、全部読む」
「聞きに行けばええのか」
「聞きに行けばいい。あたし、それで覚えた」
爺さんは、しばらく紙を見ていた。
それから、笑った。
「あんた、そりゃ、頭がええな」
頭はよくない。ただ、読めない人がどうすればいいかは、たぶん街でいちばん知っている。
六軒目で、別のことを聞かれた。
坂の下のほうの、樽を作っている人の家だった。奥さんは台所から出てこなかった。出てこないで、聞いていた。
「あんた、あれ、捕まらんのか」
「え」
「神殿の外で名前をつけるのは、罪なんだろう」
あたしは、板の順番を言いに来ただけだったので、少し考えた。
考えてから、答えた。
「クルトさんは、捕まんないよ」
「なんで」
「司名様が、続けなさいって言ったから」
「二千人の前で、か」
「うん」
樽屋さんは、鉋の刃を布で拭いていた。拭きながら、しばらく黙っていた。
「じゃあ、大丈夫か」
「大丈夫」
あたしは、そう言った。
言ったとき、自分でも、そう思っていた。
家に上がると、分かることがある。
ヒルドさんちの戸は、下がつかえる。持ち上げないと開かない。だから中の人が開けるときと、外の人が開けるときで音が違う。
桶屋のゲトさんちは、上がり口に杖が二本立ててある。一本は新しくて、一本は古い。古いほうは、握るところが黒くなっている。ゲトさんは新しいほうを使わない。
網の人の家は、天井から糸が下がっている。切れた網の糸を、捨てずに束ねてある。「いつか使うんだ」と言っていた。あの糸は、たぶん一生使わない。
あと、犬。
犬がいる家は十一軒ある。そのうち二軒は、あたしのことを覚えた。一軒は、いまだに吠える。
いちばん分かるのは、顔だ。
人は、話してるあいだに顔が三回くらい変わる。
どの話をしているときに、いちばん動くか。
それが、家によって全部ちがう。
一日目の夜、坂の途中でドンさんとすれ違った。
夜警に出るところだった。
「ドンさん」
「おう」
「今日、六人終わったよ」
ドンさんは頷いた。それから、あたしの足元を見た。しばらく見ていた。
「音が」
「え」
「音が、ちがう」
あたしは自分の足を見た。右がペレさんの小屋から出てきたやつで、左が自分のだ。革が違うから、たしかに、片方ずつ音が違う。
「揃わないんだよね」
「うん」
ドンさんは、それだけ言って坂を上がっていった。
この人は、耳で人を数える。あたしの足音も、たぶん数の一つに入っている。
朝ごはんは、うちで食べる。
あたしは、朝だけは絶対に家で食べてから出る。走ってたころも、その前も、ずっとそうだった。
四日だけ、食べなかった。
二日目の朝、母さんがパンを二つ焼いた。あたしのと、母さんのだ。いつもどおりだった。
いつもどおりだったのに、母さんはこう言った。
「四日、二つとも残ってたよ」
「うん」
「捨てなかったよ」
「うん」
母さんは、そこから先を言わなかった。
言わないで、前掛けの紐を結び直した。何回も結び直す人だ。
結び直してから、母さんは、あたしの足元を見た。
「靴、片っぽ、革が硬いね」
「小屋から出てきたやつだから。ずっと置いてあったんだって」
母さんは立って、棚から小さい壺を出してきた。
油だった。布に取って、あたしの右の靴に塗りはじめた。
この人は洗いの仕事をしている。布のことも、革のことも知っている。だからそういう手つきになる。
「これ、履いたまま?」
「履いたまま。歩くんだろ」
塗り終わってから、母さんは言った。
「あんた、いま、なんて呼ばれてるの」
あたしは、パンを持ったまま止まった。
母さんは、あたしの二つ名を、まだ一度も口に出していない。儀の日も、そのあとも。
「届け手」
「そう」
「届け手のミア」
「うん」
母さんは、それだけ言って、自分のパンを食べた。
出るとき、母さんが籠を出した。
洗い上がった布が入っている。届け先は、東の区画の宿屋だ。
これで二回目だった。
一回目は儀の日の夕方で、あれは特別だった。母さんが「これ、北門のそばまで」と言って、あたしが持って、坂を上がった。
二回目は、ただの洗い物だった。
ただの洗い物になったことが、いちばん良かった。
母さんの籠は、五年、持っていなかった。
よその家の籠なら、毎日いくつも持っている。うちの籠だけ、持たなかった。
理由は、あたしと母さんが知っている。
いまは、持つ。
昼に店に寄って、いつもどおり二人ぶん頼んだ。
一つはその場で食べて、もう一つは布に包んで腰の袋に入れる。角を折って、上で結ぶ。崩れない結び方だ。
五年、毎回そうしている。
マルタさんは、五年、一度も聞かなかった。
その日、あたしは言ってみた。
「これ、母さんの」
マルタさんは鍋を掻いていた。手を止めないで返事をした。
「そうかい」
「うん」
「知ってたよ」
「え」
「あたしは、客が何を頼んだかを忘れない」
鍋の底を掌で叩いた。それで、話は終わりになった。
この人は、聞かないだけで、全部覚えている。
二日目は、西の坂を回った。
桶屋の隣が糸屋だ。紡ぎのエルサさん。三十八番。
この人は、板に名前を書くとき、三十七番目に書いた。そのあとでクルトさんが荷運びのマティスさんを一番に足したので、下が全部ひとつずつ後ろにずれて、三十八番になった。
エルサさんは、あたしが順番を言いに行くと、こう言った。
「明日?」
「明日の、朝いちばん」
「じゃあ、糸を出しとかないと」
そう言って、店の奥から糸の束を出してきた。
全部で、二十七束あった。
あたしは、そこで一刻くらい話を聞いた。
どの糸がどの羊のか。どれが冬に刈ったので、どれが夏か。撚りの強いのは網に向いていて、甘いのは肌着に向いている。染めるなら夏のほうがよく入る。
「これ、触ってごらん」
「かたい」
「そう。かたいでしょ。これは去年の冬。冬毛は脂が多いから、洗うと縮むの。だから撚りを強くする」
エルサさんは、喋りながら手を動かさなかった。
糸を持ったまま、ずっと喋っていた。
顔が、動きっぱなしだった。
「これ、買う人いるの」
「いないねえ」
「え」
「二十七束、去年からある」
エルサさんは笑った。笑ってから、糸を棚に戻した。
戻すとき、一束ずつ、撚りの向きを揃えて置いていた。
その帰りだった。
広場を抜けて、神殿へ上がる口を通ろうとしたら、人が二人立っていた。
生成りの外套を着ている。二日前の晩に、馬が二頭上がっていった。それからずっとそこにいるらしい。
あたしは字が読めないので、縁取りの本数を数えた。
セシルさんは一本。前に来た照合官の人は二本。
この二人は、どっちでもなかった。
「そこの子」
「はい」
「名前は」
「ミアです」
片方が、腰から小さい板を出した。板に紙が挟んである。
「二つ名は」
あたしは、ちょっと嬉しかった。
だって、まだ三日前にもらったばかりだ。人に聞かれたのは、これが初めてだった。
「届け手のミアです」
その人は、書いた。
書いてから、顔を上げた。
「誰が授けた」
「クルトさんです」
「どこの」
「坂の途中の、マルタさんの店の」
書いた。
「歳は」
「十四です」
書いた。
もう一人は、何も言わなかった。
ずっと、あたしの袖を見ていた。
三日前に縫い上がったばかりの刺繍だ。糸がまだ白い。粉のベルタさんの袖がこの街でいちばん濃いとしたら、あたしのは、たぶんいちばん白い。
その人は、それを見て、それから、書いているほうの手元を見た。
何も言わなかった。
「もういいですか」
「行っていい」
あたしは頭を下げて、東の石段のほうへ回った。
この口を通れば近いのに、なんとなく、通る気がしなくなった。
石段を下りながら、袖のことを思い出した。
あの二人、袖を出していなかった。
この街で袖を隠すのは無礼だ。
三日目の朝、クルトさんがエルサさんに会った。
あたしは横で見ていた。
クルトさんは、袖を見て、顔を見て、手を見る。いつもの順番だ。エルサさんの手は、親指と人差し指の腹が平らになっていた。糸を撚る人の指らしい。
それから、クルトさんは言った。
「合ってます」
エルサさんは「はい」と言って、頭を下げて、帰っていった。
「合ってないと思う」
あたしが言うと、クルトさんはこっちを見た。
「え」
「エルサさん。合ってないと思う」
「なんで」
「え、顔見たら分かるじゃん」
クルトさんは、しばらく黙っていた。
黙ってから、卓に肘をついた。
「顔って」
「あの人ね、糸を紡いでるときの話、そんなに楽しそうじゃないの。糸のことを教えてるときが、いちばん顔が動く」
あたしは指を三本立てた。
「三回見た。ぜんぶ、そう」
「二十七束は」
「去年から売れてないんだって。売る気ないんだよ。話したいだけ」
クルトさんは、まだ黙っていた。
あたしは、余計なことを言ったのかと思った。
「ごめん。あたし、名前とか分かんないのに」
「ちがう」
「なに」
「俺、それ分かるのに、店で三年かかった」
「なにが」
「顔を見るってこと」
クルトさんは、手のことしか言わない人だと思っていた。
でも、そうじゃないらしい。
三年、店で皿を洗いながら客を見ていて、はじめの二年は手しか見ていなかったんだって。
「あたしは、手のほう分かんないよ」
「うん」
「じゃあ、逆だね」
「逆だな」
「あたしも名前つけられる?」
「無理だと思う」
「即答じゃん」
「来たことある?」
「なにが」
「喉から。勝手に、名前が」
「ない」
「じゃあ、無理」
クルトさんは、そのあとで、こう言った。
「見えるのと、来るのは、別なんだ」
「ふうん」
「合ってないのが見えても、合ってるほうが来なかったら、俺は何もできない」
三日前のフェルさんのことだ、と思った。
四十五番は、市で野菜を並べている人だった。
この人は、座るなりこう言った。
「うちの息子も、見てほしいんですが」
「板に、書いてる?」
「書いてません」
「じゃあ、書きに来てもらわないと」
答えたのはあたしだ。クルトさんが口を開く前に言った。
「わしが書いちゃ、いかんのか」
「書いた人じゃなくて、来た人に会うから。本人が来たほうがいい」
「そんなもんかね」
「そんなもん」
「いつになる」
「まだ三十五人いるから」
あたしは数えた。一日に五人か六人。
「七日か、八日」
「そんなに待つのか」
「みんな待ってるから」
その人は、しばらく考えて、それから頷いた。
「今夜、聞いてみます」
「うん。息子さんの日になったら、あたしが届けに行く」
クルトさんが下を向いて、肩を揺らしていた。
フェルさんの家にも寄った。
三日前、板の三十番で会って、合っていないと言われた人だ。名前は、まだ来ていない。
届けるものは、何もない。
でも、行った。
「クルトさん、まだ何も出てないって」
「そうですか」
「出たら、あたしが持ってくる」
フェルさんは、船の板に釘を立てていた。二回で入った。
三本目を打ってから、金槌を置いた。
「わざわざ、来たんですか」
「うん」
「まだ、無いのに」
「うん」
フェルさんは、板の面を掌で撫でた。釘の頭を確かめる撫で方だった。
「無いのを、わざわざ言いに来た人は、あんたが初めてです」
三日目の昼、東の石段で、子供に呼び止められた。
九つか十くらいの女の子だ。名前は知らない。板には載っていない。子供だから。
「ねえ、走ってよ」
「え」
「一番速いんでしょ。うちの兄ちゃんが見たって」
「もう、一番じゃないよ」
「そうなの」
「いま、八軒しか回れない。前は、十四だった」
女の子は、よく分かっていない顔をした。
あたしも、うまくは言えなかった。
数は、減った。
減ったかわりに、家の中を知った。
どっちがいいのかは、まだ分からない。
ただ、あの子が石段を下りていったあと、あたしはしばらく、そこに立っていた。
三日目の夕方、クルトさんが言った。
「エルサさん、もう一回見る」
「いいの? 一回終わったのに」
「順番は終わってる。でも、見るのは何回でもいい」
「いつ」
「あさってか、そのあと」
あたしは覚えた。板の三十八番。もう一回。
三日、卓の横で見ていて、一度も見られなかったものがある。
名前が来るところだ。
クルトさんの喉から、勝手に上がってくるやつ。ドンさんのときも、リーヤのときも、あたしのときも、そうだったらしい。
あたしのときは、あたしが立っていた。だから、外から見ていない。
十八人、ぜんぶ「合ってます」だった。
合ってない人が一人いたけど、あれは来なかったほうだ。
だから、まだ見ていない。
三日で、十八人が終わった。
一日目が六人。二日目が六人。三日目が六人。
全部で四十九人。まだ三十五人いる。
クルトさんは、夕方になると目のまわりを押さえるようになった。見るのは、たぶん、疲れる。
広場を通ったら、ペレさんが掃いていた。
いつもどおりだ。あの人だけは、神殿へ上がる口の前も掃いていた。
「爺さん、あそこ、通っていいの」
「掃除夫ですので」
「あの人たち、なんか言った?」
「言われませんな」
ペレさんは、箒の穂先を石畳に当てたまま、少し止まった。
「あの人ら、馬を二頭連れとりますで」
「うん、いた」
「二頭で来て、二頭とも置いていく人は、おりませんな」
夕方、坂を下りた。
空が赤くて、旗はもう一本もなかった。
石畳の真ん中の、乾いたところだけを踏んで下りていく。ここが乾くのがいちばん早い。走っていたころ、それだけは覚えていた。
三軒ぶんの茶が、まだお腹の中にある。
二度目の折れのところで、少しだけ、走った。
十歩か、十五歩。
止まった。
腿の裏が抜ける感じは、来なかった。
「あ」
あたしは、そのまま歩いて帰った。
母さんは、朝、パンを二つ焼く。
明日も、二つだ。




