第19話 荷物
火打ち石を、二度打った。
一度目は火花だけ。二度目で削りかすに移る。両手で囲って息を吹くと、細い煙が上がって、ぱ、と音がする。
十七日、毎朝これをやっている。
毎朝つければいいだけだった。それが分かるのに、あたしは三年かけた。
炉が明るくなると、鍛冶場に色が戻る。
床が見える。壁の釘に掛けた道具が見える。腕が赤くなる。
壁の額も、赤くなる。灰色になった布の上で、金の糸だけが光る。**炎のバルド**。
位置は変えていない。炉の真上、いちばん燻されるところだ。
朝いちばんに来たのは、桶屋のゲトさんだった。
足が悪いのに、坂を下りてきた。抱えているのは箍だ。二本。両方とも、真ん中で開いている。
「これ、直るかね」
「直る」
「新しいの打たなくていいのかい」
「打ったら高いよ」
あたしは箍を受け取って、開いたところを親指の側面で挟んだ。厚みを見る。焼きは回っていない。まだ生きている鉄だ。
「昼過ぎに取りに来て」
ゲトさんは頭を下げて、坂を上がっていった。
この人は、去年まで割れた箍を捨てていた。
十七日で、仕事が変わった。
前は、新しく打つ仕事だった。蹄鉄。留め金。鍋。鎌。
いまは、**壊れたものが持ち込まれる。**
割れた石臼の当て金。折れた鎌。緩んだ鍋の把手。柄の抜けた斧。
どれも、去年までなら捨てていたものだ。
捨てなくなった理由は、たぶん一つしかない。
あたしの袖に、**継ぎ手**と縫ってあるからだ。
昼前に来た婆さんは、あたしを「炎のリーヤさん」と呼んだ。
十七日たっている。袖はもう継ぎ手だ。婆さんは袖も見た。見たうえで、そう呼んだ。
あたしは訂正しなかった。
間違えているんじゃない。二十年そう呼んできたので、舌のほうが先に出る。
名前は一日で変わる。呼び方は変わらない。
あの小僧は、たぶんそれを知らない。八十四人ぶん直したところで、街の舌は当分そのままだ。
ただ、婆さんは帰るときに一度だけ言い直した。
「継ぎ手さん」
言い直してから、自分で笑っていた。
昼前に、皿を持ってきた人がいた。
二つに割れた、焼き物の皿だった。
「これも、いける?」
「うち、鍛冶屋だよ」
「継ぐんだろ」
「鉄をね」
その人は、割れた皿を両手に持ったまま、しばらく立っていた。
あたしは、しょうがないので言った。
「膠を煮て、粉を混ぜて、貼れば付く。ただ、水には二度と入れられない」
「それ、皿の意味あるかね」
「ないね」
「じゃあ、捨てるか」
「捨てなよ」
その人は、笑って帰っていった。
名前が変わると、こういうことが起きる。
あたしのところに、何でも来るようになった。
あの小僧のところにも、何でも来ているらしい。板に八十四行あるのに、板に書いていない人まで、坂に立ってこっちを見ているんだと。
似たようなものだ。
昼に、洗いのイレナさんが来た。
あたしは五年、この人に洗い物を出している。厚い革の前掛けは洗えないので、出すのは布巾と、下に着るやつだ。焦げと油と汗が染みているので、たいていの洗い屋は嫌がる。
この人は、嫌がらない。
「西の外れって、どのへん」
「畑の、いちばん奥です。目印がなくて」
「行っても分かんない?」
「分かりません。うちの子でも、たまに間違えます」
笑うところだった。あたしは、笑えなかった。
この人は五年、こっちに来ている。あたしは五年、行っていない。
イレナさんは、洗い上がった布を数えていた。
数え終わってから、こう言った。
「あの子が、うちの籠を持つようになったんですよ」
「聞いた」
「五年、うちのだけ、持たなかったんです」
「知ってる」
「ご存じでしたか」
「街だからね」
イレナさんは、それ以上言わなかった。
言わないで、空になった籠を抱え直して、帰っていった。
抱え直し方が、ミアと同じだった。右から左へ移して、少ししてまた右へ戻す。
昼過ぎに、継げないものが来た。
港の男が、折れた鉤を持ってきた。荷を引っかける鉤で、根本から折れている。
断面を光にかざした。
白い。粗い。粒が見える。
「これ、無理」
「え」
「焼きが回ってる。何回も熱くしすぎたんだよ。継いでも、継いだところの横がまた折れる」
「見ただけで分かるの」
「分かる」
男は、断面を自分でも覗き込んだ。覗き込んでから、こっちを見た。
「あんた、それ、あの小僧と同じこと言うね」
あたしは、その言い方が引っかかった。
引っかかったので、言い返した。
「あいつは、人を見るのに三年かけた」
「はあ」
「あたしは、鉄を二十年見てた」
「同じってこと?」
「同じだよ。**見て分かることは、教わって分かることじゃない**」
男は、よく分かっていない顔で帰っていった。
分からなくていい。あたしも、言ってから、少し恥ずかしくなった。
箍が二本、昼過ぎに仕上がった。
あたしは、それを持って坂を上がった。
ゲトさんは足が悪いので、取りに来させるのも悪い。届けるだけなら夕方でよかったのに、昼のうちに出た。
ついで、というやつだ。
マルタさんの店の前に、卓が出ていた。
クルトが座っている。
相手は、市で布を売っている女の人だった。四十くらい。指の腹が滑らかで、爪が短い。布を扱う人の手だ。
クルトは袖を見て、顔を見て、手を見た。
それから「合ってます」と言った。
女の人は、少し不満そうな顔をして帰っていった。この四日、この街ではその顔が流行っている。
あたしが見ていたのは、その顔じゃない。
クルトの目だ。
目の下が落ちているのは、いい。寝ていないだけだ。
問題は、まばたきの数だった。
多い。それから、遠くを見るときに一度細める。
あれは、火を見すぎた人間の目だ。
炉を長く見ていると、暗いところで物が見えなくなる。親父がそうだった。最後の年、鍛冶場の隅の道具を、手で探していた。二十年、火を見た人の目だ。
「あんた、一日休みな」
「え」
「目」
クルトは自分の目のあたりを押さえた。
押さえてから、押さえたことに気づいた顔をした。
「見るのが仕事なんでしょ。道具は休ませなよ」
「あと二十九人だよ」
「一日空けたって、板は逃げないでしょ」
クルトは笑った。
笑って、次の人を呼んだ。
あたしは箍を卓の脇に置いた。ゲトさんは西の坂だから、あとで届ける。
置いてから、坂を下りずに、上がった。
広場を横切って、その先の口へ行った。
神殿と北門へ上がる、短くて急なほうだ。
人が二人、立っている。
生成りの外套。四日前の晩に馬が上がってから、ずっとそこにいる。
あたしは、外套の留め具を見た。
癖だ。人の留め具は、必ず見る。三十個作った人間が、他人のを見ないわけがない。
二人とも、同じ留め具だった。
同じ模様の、同じ大きさの、同じ厚みのやつ。
二つとも、型で打ってある。
手で作ったものは、二つ並べると必ずどこか違う。厚みか、縁の丸みか、留めの深さか。あたしのはどれも違う。違わないように作るほうが難しい。
型は違う。型は、同じものを何十個でも出す。
型を彫るのは、面倒くさい仕事だ。一つ二つ作るために彫る人間はいない。
つまり、あの留め具を必要としている人間が、向こうには何十人もいる。
二人は、あたしを止めなかった。
通れ、とも言わなかった。
あたしは通った。通って、上がった。
北門の金具は、十七日前に付けたやつだ。
扉の上のほう。石の柱に木の扉が二枚。門番のヨナスさんが槍を持って立っていて、こっちを見て、少し頷いた。
風が吹いて、扉が軋んだ。
軋んだのは、木のほうだ。
金具は動かない。留めたんだから、動くわけがない。
あたしは、下から見上げた。
当て金が三枚。留め具の頭が六つ。継ぎ目が三箇所。
付けたときは、そこだけ色が違った。親父の鉄は二十年ぶん黒くて、あたしの当て金には青みが残っていた。どこを継いだか、遠目にも分かった。
十七日で、青みが減っていた。
煙と、雨と、風で、少しずつ黒くなってきている。
このまま置いておいたら、そのうち、どこを継いだか分からなくなる。
あたしは、それでいいと思った。
思ってから、少しだけ、そうでもない気がした。
継ぎ目は隠さない。あの日、そう言った。
でも、隠さなくても、勝手に見えなくなる。
直した跡は、時間が消していく。
消えたころには、直したことも忘れられている。それでも金具は残る。
残ればいい、と思うことにした。
坂を下りた。
途中で、西の坂へ折れて、ゲトさんに箍を渡した。
「二本とも直ったのかい」
「直った」
「新品と、どっちがもつ」
「これ」
ゲトさんは笑って、銅貨を数えはじめた。数えるのが遅い。あたしは待った。
夕方、鍛冶場に、来ない人が来た。
セシルさんだ。
この人が鍛冶場に来たのは、初めてだった。首から下げた銀の板が、炉の光を拾って一度だけ光った。
あたしは金床の前にいた。ゲトさんの箍の二本目を留めているところだ。
顔は上げなかった。
「なに」
「靴を、お願いできますか」
靴を受け取った。
黒い革。手入れはしてある。油は入れてある。
底が、ほとんど減っていない。
この人は神殿と役所と、うちの店しか歩かない。それだけの靴だった。
「鋲、打つの」
「はい。長く歩きますので」
「どこまで」
「都です」
あたしは、そこでも顔を上げなかった。
金床の上の箍を、留め具で一つ留めた。かん、と鳴った。
「いつ帰るの」
「未定です」
「未定」
「本殿に呼ばれました。行けば分かります」
あたしは、二つ目の留め具を打った。同じ音がした。
鋲を並べた。
片方に十二本。両方で二十四本。減り方を見ながら、踵の外側を厚くする。この人は右の踵から先に減る。
「往復で二十日でしょ。両方に打つよ」
「片道で結構です」
あたしは、そこで初めて顔を上げた。
セシルさんは、いつもの顔をしていた。**この人は、いつもの顔をするのがうまい。**
「片道」
「はい」
「向こうで打てばいいってこと?」
「そうですね」
「都に、鍛冶屋があるの」
「あります」
答えになっていた。答えになっているのに、答えていない感じがした。
あたしは、荷物を見た。
入口の脇に置いてある。
肩に掛ける袋が一つ。それだけだ。
十日歩く旅の荷物じゃない。着替えも、履き替えも、雨具も入らない。あの大きさなら、綴じ本が二冊と、あとは何も入らない。
かといって、帰らないつもりの荷物でもない。
帰らないなら、荷は増える。置いていくものと持っていくものを、一つずつ選ぶことになるからだ。あたしは親父が死んだとき、それをやった。**選ぶと、増える。**
あの袋は、選んでいない。
鉄を見るときと、同じだった。
この厚みじゃ無理だとか、この焼きは駄目だとか、そういうのは見れば分かる。理由は後から言葉になる。
あの荷物は、合っていない。
何に合っていないのかが、分からなかった。
あたしは、両方に鋲を打った。
二十四本。ぜんぶ。
打ち終わって、靴を卓に置いた。
セシルさんは、片方を持ち上げて、底を見た。
「両方に、打っていただいたんですね」
「打っといた」
「片道で、と」
「減るもんじゃないでしょ」
彼女は、しばらく靴の底を見ていた。
それから、履いた。紐を結ぶのに、少し時間がかかった。
立ち上がったとき、この人は、棚を見た。
留め金の箱だ。
三十個ある。全部、模様が違う。押すと開いて、離すと閉じる。がたつきはない。暇なときに作ったやつだ。
「これ、いただけますか」
「金取るよ」
「払います」
彼女は箱を覗き込んで、しばらく選んだ。
選んだのは、組んだ縄の模様のやつだった。線が一本も途切れていない。
「なんで留め金」
「……なんとなく」
あたしは、そこでもう一度、顔を上げた。
この人が「なんとなく」と言ったのを、聞いたのは初めてだった。
この人は、いつも理由を言う。聞かれなくても言う。二つ挙げて、指を二本立てるところまでやる。
その人が、なんとなく、と言った。
あたしは、何も聞かなかった。
聞かなかった理由は、自分でも分からない。
セシルさんが出ていったあと、あたしは扉のほうを見ていた。
しばらく見ていた。
言葉にすると、たぶん間違える。
「荷物が少ない」だけなら、旅慣れてる人だ、で終わる。「帰らないつもりだ」なら、それも違う。どっちでもない何かなのに、どっちかで言うしかない。
言い方が分からないものは、言わない。
だから、あたしは誰にも言わなかった。
夜、店に上がった。
卓が四つ埋まっていた。奥から二つ目にドンさんがいて、飯を食っている。夜警に出る前だ。この人は上番の前に必ず食う。
その向かいにミアがいて、喋っていた。
「今日ね、茶を三杯飲んだ」
「三杯」
「三軒つづけて出るんだよ。断れないの」
クルトが笑っていた。
声を出して笑っていた。この小僧が声を出して笑うところを、あたしは三回くらいしか見ていない。
マルタさんが鍋を持ってきて、卓の真ん中にどんと置いた。
「腹に入れな」
「入れるって」
「入れる速さがぬるい」
あたしは椅子を引いた。脚の短いやつだ。座ると鳴る。
鳴ったのが可笑しかったらしくて、ミアが吹き出した。吹き出して、茶の話に戻った。
ドンさんは、黙って食っている。
この人の食い方は速くない。速くないのに、器が減るのが速い。無駄がないからだ。匙を持ち替えない。同じ角度で入れて、同じ角度で戻す。
途中で一度だけ、顔を上げた。
「上がってきた」
「なにが」
「あんたの足音。坂の下から」
「聞こえてたの」
「今日は、上りが遅かった」
箍を二本抱えて上がったからだ。それをこの人は、音だけで言う。
あたしは何も言わずに、椀を持った。
この卓に、あたしの席がある。
まだ慣れない。
三年、鍛冶場と港のあいだしか歩かなかった。飯は炉の前で食っていた。誰かの向かいで食う、というのを、十七日ぶりに思い出しているところだ。
「あんた、明日は何番から」
「五十五番」
クルトが答えた。
「西の坂の、鍋屋のとこ」
「あそこの婆さん、話が長いよ」
「長いの」
「三回同じ話するよ。覚悟しときな」
ミアが「三回、あたしも聞いた」と言った。
クルトは笑って、それから、少し考える顔をした。
「明日、エルサさんもう一回見ようかな」
「順番、終わってるんでしょ」
「終わってる。でも、見るのは何回でもいいから」
あたしは、その言い方が引っかかった。
引っかかったけど、そのときは何も言わなかった。
「あと何人」
あたしが聞くと、クルトが指を折りはじめた。
折るのが遅い。
「二十九人」
「一日六人でしょ。五日じゃん」
「五日か」
「あんた、それくらい数えなよ」
「数えたよ。いま」
ドンさんが、鼻から短く息を出した。
この人の笑い方だ。あたしと同じやつだった。
あと五日で、板が終わる。
終わったら何をするのか、この小僧はたぶん考えていない。
考えていない顔で、ミアの茶の話を聞いて、また笑っていた。
ミアは足を組み替えるたびに靴を見ている。左右で革が違う靴だ。片方は油が入って柔らかくなっている。あれは母親が塗ったんだろう。手つきが分かる。
マルタさんは鍋の底を柄杓で叩いて、それから厨房に戻った。
あたしは、その卓を、一度だけ見回した。
五人いた。
全員、笑っていた。
店を出たのは、遅くなってからだった。
坂を下りる。下りは膝に来る。踵から音が鳴る。
途中で一度、振り返った。
坂の上の、神殿へ上がる口のところに、灯りが二つあった。
昨日も、一昨日も、あそこにあった。
鍛冶場に着いて、中に入った。
炉は落としていない。埋み火が赤く沈んでいる。
明日の朝も、あたしは火打ち石を二度打つ。
寝る前に、もう一度だけ、入口の脇を見た。
もう何も置いていない。
あの袋の大きさを、あたしはまだ覚えていた。




