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20/23

第20話 刑は、授名とする

 卓を出したのは、いつもより早かった。


 マルタさんが夜中に金槌の音をさせていたので、目が覚めて、そのまま起きた。脚の留め具が緩んでいたらしい。五日で緩むような直し方はしない人なので、たぶん、直す口実がほしかっただけだと思う。


 外に出したら、坂がもう明るかった。


 列は、二十人くらい。




 ミアが木札を抱えて上ってきた。


 右の靴に油が入っている。革が柔らかくなったので、音が変わった。左は自分の靴で、そっちはまだ硬い。


 「五十五番から」


 「五十五番って誰」


 「西の坂の、鍋屋の婆さん」


 「ああ」


 「話が長いから、覚悟しときなって、リーヤが」




 ドンさんが来た。


 工房へ行く前に寄って、列を揃えていく。指で「そっち」と示すだけだ。いつもならそれで終わる。


 今日は、示してから、こっちを見た。


 「昨日の夜中」


 「うん」


 「港から、坂を一頭上がった」


 「馬?」


 「馬だ。真夜中に上がるやつはおらん」


 それだけ言って、工房のほうへ坂を下りていった。




 卓の端に、誰もいなかった。


 この五日、セシルさんは毎朝そこに立っていた。木札を書いたのがこの人で、書いた順番を全部覚えているので、ミアが間違えても直せる。一度も直していない。


 今日は、いなかった。


 昨日の夕方に発つとは聞いていた。聞いていたのに、立っていない場所を見ると、抜けた感じがした。


 「セシルさん、もう出た?」


 「日の出前に出たって」


 ミアが言った。


 「北門から。ヨナスさんが見送ったって」




 この五日で、俺は五十四人に会った。


 名前が来たのは、ゼロだ。


 合っていないのは一人いた。三十番の釘打ちのフェルさん。合っていないと言えたのに、合っているほうが来なかった。それだけだ。


 あと二十九人。一日六人なら、五日で終わる。


 終わったら何をするかは、まだ決めていない。




 五十五番が座った。


 鍋屋の婆さんだ。腰が曲がっていて、卓に手をついて座る。座ってから、袖を卓の上に置いた。


 この街では、そうやって座る。


 「あたしはね」


 婆さんは、俺が袖を見る前に喋りはじめた。


 「うちの人が生きてたころ、鍋は二つあったんだよ。大きいのと、小さいの。大きいほうは、あの人が担いで市に持っていくやつでね。あれは重かった。持ち手が二つついてて、片方が曲がってたから、担ぐときは必ず右で」


 「はい」


 「それでね、あの年の秋に」




 婆さんが、上を見た。


 俺も、上を見た。




 坂の上から、三人下りてきていた。




 生成りの外套。


 二人は、四日前から神殿へ上がる口に立っていた人だ。ミアが見て、リーヤが見て、ペレさんが毎日その前を掃いていた。


 三人目は、知らない顔だった。


 この人だけ、袖を出していた。




 三人とも、武器を持っていない。


 槍も、棒も、縄も持っていない。歩き方も速くない。広場から店まで坂を下りるあいだ、二人が前で、一人が後ろだった。


 列にいた人たちが、自分から道をあけた。


 誰も何も言わなかった。




 三人目が、卓の前に立った。


 紙を出した。折り目が二つ。


 「クルト」


 「はい」


 「マルタの店の、クルト。二十歳。授名なし。記録と一致している」


 この言い方を、俺は前にも聞いた。同じ言い方だった。あの人も、そう言った。




 「読み上げます」


 その人は読んだ。


 神殿法の条文が二つ。長い。同じ言い回しが何度も出てくる。「これを」「これに準ずる」「この限りでない」。


 俺には、意味が分からなかった。


 字が読めないからではない。読み上げられているのに、分からない。分かる形で作られていないんだと思う。




 俺は、卓の端を見た。


 いつもなら、そこに立っている人がいる。読める人だ。この街で、神殿の紙をその場で照らせる人間は一人しかいなかった。


 その一人は、今朝、北門を出た。


 誰も、この紙を確かめられない。




 条文じゃない部分が来た。


 「無許可の名付け。一件」




 一件。


 俺は、そこで一度だけ引っかかった。


 三人つけている。ドンさんと、リーヤと、ミアだ。


 言おうとして、やめた。


 やめたのは、数えたからだ。言えば、二件増える。




 「相手方、ミア。十四。授名済み」


 ミアが、木札を抱えたまま顔を上げた。


 「授けた者の欄、空欄」


 「……あたし?」


 その人は、ミアのほうを見なかった。紙を見たまま続けた。


 「証言、二千七十四名。授名の儀の場において、本人が公に認めている」




 「その子は、関係ないです」


 俺が言うと、その人は初めて顔を上げた。


 「関係あります」


 「なんで」


 「授名を受けた者ですので」


 言い方に、怒りも、脅しもなかった。数を読むときと同じ声だった。




 読み上げが終わった。


 終わったのに、紙がもう一枚残っていた。


 「量刑について、申し上げます」


 坂に人が出ている。列の二十人と、そのうしろに、朝の坂を上がってきた荷担ぎが何人か。マルタさんが厨房から出てきていた。


 「本件は、前例がありません」




 前例がない。


 その言葉は、知っていた。


 二十六日前の夜、この店で、セシルさんが同じことを言った。裁いた例が一件もないので、何をされるかを、誰も知りません、と。


 そのあとに、こう続けた。


 決めるのは、そのときです。




 「したがって、量刑は本殿の合議により定めました」


 その人は、紙を持ち直した。




 「無許可の名付けの刑は、授名とする」




 誰も、すぐには声を出さなかった。




 最初に動いたのは、ドンさんだった。


 工房へ下りたはずの人が、坂の途中で止まって、戻ってきていた。音で聞いていたんだと思う。


 椅子に手をかけて、そのまま倒した。


 この人が物を倒すのを、俺は初めて見た。




 次が、マルタさんだった。


 厨房に引き返して、鍋を持って出てきた。




 ペレさんは、箒を持ったまま動かなかった。


 五十年、広場を掃いてきた人が、掃く手を止めていた。




 列の後ろのほうで、若い男が言った。


 「どういう意味だ」


 二十歳くらいの荷担ぎだった。悪気があって言ったんじゃない。本当に分かっていなかったんだと思う。


 この街には、儀で名前をもらって、それが合っていて、そのまま生きている人がいる。十人のうち九人はそうだ。その人たちにとって、授名というのは、祭りの日の話でしかない。




 ドンさんが、答えた。


 「おれだ」


 「え」


 「おれが、二十五年、それだった」




 坂が、静かになった。


 この人は、二十五年、石割りと呼ばれて、石が割れなかった。


 その二十五年を、この街の全員が横で見ている。見ていたのに、誰も気づかなかった。


 いま、本人が言った。




 若い男は、何も言わなかった。


 言わないで、一歩前に出た。出てから、自分でも何をするつもりか分からない顔をした。




 ミアが、自分の袖を押さえた。


 六日前に縫い上がったばかりの袖だ。糸がまだ白い。


 押さえてから、言った。




 「それ、あたしがなったやつじゃん」




 それで、全部伝わった。


 この街の全員が、四日間あの子が走るのを見ている。


 止められなかったことも、見ている。マルタさんが坂に飯を置いて、それを持ったまま通り過ぎるのを見ている。母親が包みを抱えて坂に立っているのも見ている。




 ペレさんが、箒を動かした。


 掃きはじめたのだ。


 坂の、いま人が立っているところを、避けながら掃いている。掃くところは無い。今朝いちばんに掃いた場所だ。


 この人は五十年、そうやって生きてきた。


 何もできないときに、掃く。




 俺は、その人に聞いた。


 「それ、同じことじゃないんですか」


 「いいえ」


 「俺がやったのと、神殿がやるのと、何が違うんですか」


 その人は、少し考えた。


 考えてから、正確に答えた。




 「言葉が、違います」




 名付けと、授名。


 同じことをして、片方は罪で、片方は法だ。


 違うのは、呼び方だけだった。




 俺は、そこで初めて、自分のことを考えた。


 合っていない名前をつけられると、どうなるかは知っている。


 ドンさんの掌を、二年見てきた。二十五年、石を割ろうとして割れなかった手だ。関節が太くて、爪の脇が全部割れている。あれは石のせいじゃない。割れない石を、二十五年殴った手だ。


 ミアの脚も見た。四日で、あそこまでいった。




 そして、直せる人間がいない。


 ドンさんは、俺が直した。リーヤも、ミアも、俺が直した。


 俺には、俺がいない。




 この街に司名はいる。だが、いまはいない。


 五日前の朝、北門を出た。杖を両手で持って、迎えの二人に付き添われて。


 この街で、名前について何かを決められる人間は、今日、一人も残っていない。




 「なお、当該の板は押収いたします」


 二人のうちの一人が、店の前へ回った。


 立てかけてある壁板を、両手で持ち上げた。八十四行ある。字の大きい行と、小さい行がある。書いた日が違うからだ。


 「それ、俺のじゃないです」


 「はい」


 「マルタさんの店の壁です」


 「証拠物件です」




 「記載の者について、追って照合いたします」


 列にいた人が、二人ほど、後ろへ下がった。


 下がってから、下がったことに気づいて、止まった。


 止まったが、前には戻らなかった。




 マルタさんが、前に出た。


 鍋を持っている。持ち方が、いつもと違う。柄の端を握っている。


 「マルタさん」


 「どけ」


 「だめ」


 俺は前に立った。


 この人が鍋を振ったら、この街に居られなくなる。三人とも武器を持っていない。持っていない人間を殴ったら、それは別の罪になる。


 マルタさんは、俺の顔を見なかった。三人のほうを見ていた。




 「三年、飯食わせてもらった」


 「どけって言ってんだよ」


 「それ全部、なかったことにしないでよ」




 鍋が下りた。


 とん、と床が鳴った。


 この人が鍋を置くとき、音がしたのは久しぶりだった。




 マルタさんは、そのまま厨房に戻った。


 しばらく出てこなかった。


 出てきたとき、布の包みを持っていた。角を折って、上で結んである。ミアが結ぶのと同じ結び方だ。教えたのは、たぶんこの人だ。


 三人のほうへ、それを見せた。


 「これ、持たせていいのかい」


 「かまいません」


 包みが、俺の手に渡った。まだ温かかった。今朝焼いたやつだ。




 「あの」


 「なんだい」


 「三年、皿洗わせてもらって、ありがとうございました」


 マルタさんは、俺のほうを向かなかった。


 前掛けで手を拭いていた。拭くほど濡れていない手を、二回拭いた。


 「帰ってきたら、皿を洗いな」


 「……はい」


 「溜めとくから」




 照合官の一人が、倒れた椅子を起こした。


 ドンさんが倒したやつだ。


 起こして、卓の下に戻した。脚の位置まで直した。


 悪意でやったんじゃない。片づいていないものが、そこにあったからだ。


 この人たちは、たぶんそういう人たちだった。




 「同行願います」


 三人目が言った。


 それだけだった。


 縄も出さなかった。腕も掴まなかった。この人たちは、俺が逃げるとは思っていない。




 ドンさんが、俺の横に来た。


 何か言おうとして、言葉を探していた。この人は、急かしても速くならない。


 俺は待った。


 結局、見つからなかったらしい。見つからないまま、こう言った。


 「聞いとく」


 「え」


 「壁でも、床でも、聞こえる」


 それだけ言って、下がった。


 意味は、そのときは分からなかった。




 ミアが、卓の横に来た。


 木札を八十四枚、まだ抱えている。抱えたまま、こう言った。


 「クルトさん」


 「うん」


 「なんか、届けるものある?」




 この子は、それしかできない。


 だから、それを聞いた。


 俺は、少し考えた。考えたけど、無かった。


 「……ない」


 「じゃあ、向こう着いたら、書いて。届けに行く」


 「俺、字書けない」


 「あ、そっか」




 ミアは、木札を抱え直した。


 抱え直して、それから言った。


 「じゃあ、覚えて帰ってきて」




 俺は、坂の下のほうを見た。


 荷担ぎのあいだに、小さい爺さんが立っていた。


 あの背丈で人ごみに立つのは危ないのに、押されても場所を動かなかった。


 五日前、俺はこの人にこう言った。渡します、と。いつになるかは分かりません、と。


 あの人は、頷いた。


 いまも、頷いていた。




 馬は、北門の外に置いてあると言われた。


 都へ行く道は、北門から出る。だから、ここからは上りだ。


 店の前が二段目。そこから折れを一つ越えて広場に出て、広場のさらに上が神殿と北門になる。荷を持って上る人間が、途中で必ず一度止まるところだ。


 俺は歩いて上がった。三人が前と後ろにいる。逃げようと思えば逃げられる並び方だった。逃げなかったのは、逃げたら次に来るのが八十四人だからだ。




 坂に、人が出ていた。


 数えた。癖である。


 店の前に三十二人。下の折れのあたりに十九人。港のほうにも、顔を上げている人影が十一人ぶん見えた。


 六十二人。


 板は八十四行ある。そのうち、俺が会ったのは五十四人だ。


 残りの人も、坂に出ていた。会ったことのない顔が、こっちを見ていた。




 誰も、止めなかった。


 止められない。三人は武器を持っていないし、紙は本殿の紙だ。止めれば、次はその人が呼ばれる。


 止めないことが、いちばん重い。




 上りながら、二度、名前を呼ばれた。




 「名付け屋さん」


 店の前にいた誰かだった。


 もう一人も言った。


 「名付け屋さん」


 三人目は、それを紙に書かなかった。




 書けないからだ。


 二つ名ではない。誰も授けていない。街が勝手にそう呼んでいるだけだ。


 記録に載らないものは、あの人たちにとっては、無いのと同じだった。




 板は、二人のうちの一人が担いでいた。


 八十四行が、横倒しになって、背中に載っている。


 荷運びの担ぎ方じゃなかった。持ち慣れていない人の担ぎ方だ。マティスさんが見たら、何か言ったと思う。




 折れを越えたところで、後ろから音がした。


 ミアが、店の前から上ってきていた。




 速くない。


 六日ぶんの脚では、そうなる。腿の裏が抜けるので、途中で歩幅が落ちる。しかも、上りだ。


 それでも、上ってきていた。




 広場の手前で、あの子は止まった。


 止まって、膝に手をついた。息が上がっている。


 顔は上げていた。




 広場を横切ったところで、東の石段の口から、リーヤが出てきた。


 鍛冶場は港のそばだ。あそこから広場へ上がる道は二本ある。店の前を通る坂と、東の区画の石段だ。


 石段のほうが短い。この人は、それを知っていた。


 前掛けをしたままだった。腕をまくったまま、上ってきたらしい。息が上がっている。


 上がったまま、一つだけ聞いた。




 「セシルは」


 「今朝、出た」


 「北門?」


 「北門」




 リーヤの顔が、そこで変わった。


 変わったのに、何も言わなかった。


 口を開けて、それから閉じた。開けたときに何か言おうとしたのは分かった。分かったけれど、出てこなかった。


 この人は、言い方が分からないものは言わない。


 昨日の夕方、鍛冶場で何を見たのかは、聞けなかった。




 広場から北門までは、短いが急だ。一五〇数えるあいだに、街がぜんぶ下になる。




 北門を出る前に、一度だけ振り返った。




 坂が、三回折れて下りていく。


 その途中に、卓が出たままになっているはずだった。ここからでは小さすぎて見えない。誰も座っていないことも、見えない。


 鍋屋の婆さんが、まだそこに立っていることも、見えない。


 あの人の話は、途中だった。


 あの年の秋に、何があったのかを、俺は聞いていない。




 卓の横に、板がない。




 板は、もともと店の壁板だった。


 二十三日前、マルタさんが剥がした。剥がしたところは、そのままになっている。壁に、板一枚ぶんの穴が開いている。


 二十三日、その穴の前に、板が立てかけてあった。


 いまは、穴だけになった。

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