第20話 刑は、授名とする
卓を出したのは、いつもより早かった。
マルタさんが夜中に金槌の音をさせていたので、目が覚めて、そのまま起きた。脚の留め具が緩んでいたらしい。五日で緩むような直し方はしない人なので、たぶん、直す口実がほしかっただけだと思う。
外に出したら、坂がもう明るかった。
列は、二十人くらい。
ミアが木札を抱えて上ってきた。
右の靴に油が入っている。革が柔らかくなったので、音が変わった。左は自分の靴で、そっちはまだ硬い。
「五十五番から」
「五十五番って誰」
「西の坂の、鍋屋の婆さん」
「ああ」
「話が長いから、覚悟しときなって、リーヤが」
ドンさんが来た。
工房へ行く前に寄って、列を揃えていく。指で「そっち」と示すだけだ。いつもならそれで終わる。
今日は、示してから、こっちを見た。
「昨日の夜中」
「うん」
「港から、坂を一頭上がった」
「馬?」
「馬だ。真夜中に上がるやつはおらん」
それだけ言って、工房のほうへ坂を下りていった。
卓の端に、誰もいなかった。
この五日、セシルさんは毎朝そこに立っていた。木札を書いたのがこの人で、書いた順番を全部覚えているので、ミアが間違えても直せる。一度も直していない。
今日は、いなかった。
昨日の夕方に発つとは聞いていた。聞いていたのに、立っていない場所を見ると、抜けた感じがした。
「セシルさん、もう出た?」
「日の出前に出たって」
ミアが言った。
「北門から。ヨナスさんが見送ったって」
この五日で、俺は五十四人に会った。
名前が来たのは、ゼロだ。
合っていないのは一人いた。三十番の釘打ちのフェルさん。合っていないと言えたのに、合っているほうが来なかった。それだけだ。
あと二十九人。一日六人なら、五日で終わる。
終わったら何をするかは、まだ決めていない。
五十五番が座った。
鍋屋の婆さんだ。腰が曲がっていて、卓に手をついて座る。座ってから、袖を卓の上に置いた。
この街では、そうやって座る。
「あたしはね」
婆さんは、俺が袖を見る前に喋りはじめた。
「うちの人が生きてたころ、鍋は二つあったんだよ。大きいのと、小さいの。大きいほうは、あの人が担いで市に持っていくやつでね。あれは重かった。持ち手が二つついてて、片方が曲がってたから、担ぐときは必ず右で」
「はい」
「それでね、あの年の秋に」
婆さんが、上を見た。
俺も、上を見た。
坂の上から、三人下りてきていた。
生成りの外套。
二人は、四日前から神殿へ上がる口に立っていた人だ。ミアが見て、リーヤが見て、ペレさんが毎日その前を掃いていた。
三人目は、知らない顔だった。
この人だけ、袖を出していた。
三人とも、武器を持っていない。
槍も、棒も、縄も持っていない。歩き方も速くない。広場から店まで坂を下りるあいだ、二人が前で、一人が後ろだった。
列にいた人たちが、自分から道をあけた。
誰も何も言わなかった。
三人目が、卓の前に立った。
紙を出した。折り目が二つ。
「クルト」
「はい」
「マルタの店の、クルト。二十歳。授名なし。記録と一致している」
この言い方を、俺は前にも聞いた。同じ言い方だった。あの人も、そう言った。
「読み上げます」
その人は読んだ。
神殿法の条文が二つ。長い。同じ言い回しが何度も出てくる。「これを」「これに準ずる」「この限りでない」。
俺には、意味が分からなかった。
字が読めないからではない。読み上げられているのに、分からない。分かる形で作られていないんだと思う。
俺は、卓の端を見た。
いつもなら、そこに立っている人がいる。読める人だ。この街で、神殿の紙をその場で照らせる人間は一人しかいなかった。
その一人は、今朝、北門を出た。
誰も、この紙を確かめられない。
条文じゃない部分が来た。
「無許可の名付け。一件」
一件。
俺は、そこで一度だけ引っかかった。
三人つけている。ドンさんと、リーヤと、ミアだ。
言おうとして、やめた。
やめたのは、数えたからだ。言えば、二件増える。
「相手方、ミア。十四。授名済み」
ミアが、木札を抱えたまま顔を上げた。
「授けた者の欄、空欄」
「……あたし?」
その人は、ミアのほうを見なかった。紙を見たまま続けた。
「証言、二千七十四名。授名の儀の場において、本人が公に認めている」
「その子は、関係ないです」
俺が言うと、その人は初めて顔を上げた。
「関係あります」
「なんで」
「授名を受けた者ですので」
言い方に、怒りも、脅しもなかった。数を読むときと同じ声だった。
読み上げが終わった。
終わったのに、紙がもう一枚残っていた。
「量刑について、申し上げます」
坂に人が出ている。列の二十人と、そのうしろに、朝の坂を上がってきた荷担ぎが何人か。マルタさんが厨房から出てきていた。
「本件は、前例がありません」
前例がない。
その言葉は、知っていた。
二十六日前の夜、この店で、セシルさんが同じことを言った。裁いた例が一件もないので、何をされるかを、誰も知りません、と。
そのあとに、こう続けた。
決めるのは、そのときです。
「したがって、量刑は本殿の合議により定めました」
その人は、紙を持ち直した。
「無許可の名付けの刑は、授名とする」
誰も、すぐには声を出さなかった。
最初に動いたのは、ドンさんだった。
工房へ下りたはずの人が、坂の途中で止まって、戻ってきていた。音で聞いていたんだと思う。
椅子に手をかけて、そのまま倒した。
この人が物を倒すのを、俺は初めて見た。
次が、マルタさんだった。
厨房に引き返して、鍋を持って出てきた。
ペレさんは、箒を持ったまま動かなかった。
五十年、広場を掃いてきた人が、掃く手を止めていた。
列の後ろのほうで、若い男が言った。
「どういう意味だ」
二十歳くらいの荷担ぎだった。悪気があって言ったんじゃない。本当に分かっていなかったんだと思う。
この街には、儀で名前をもらって、それが合っていて、そのまま生きている人がいる。十人のうち九人はそうだ。その人たちにとって、授名というのは、祭りの日の話でしかない。
ドンさんが、答えた。
「おれだ」
「え」
「おれが、二十五年、それだった」
坂が、静かになった。
この人は、二十五年、石割りと呼ばれて、石が割れなかった。
その二十五年を、この街の全員が横で見ている。見ていたのに、誰も気づかなかった。
いま、本人が言った。
若い男は、何も言わなかった。
言わないで、一歩前に出た。出てから、自分でも何をするつもりか分からない顔をした。
ミアが、自分の袖を押さえた。
六日前に縫い上がったばかりの袖だ。糸がまだ白い。
押さえてから、言った。
「それ、あたしがなったやつじゃん」
それで、全部伝わった。
この街の全員が、四日間あの子が走るのを見ている。
止められなかったことも、見ている。マルタさんが坂に飯を置いて、それを持ったまま通り過ぎるのを見ている。母親が包みを抱えて坂に立っているのも見ている。
ペレさんが、箒を動かした。
掃きはじめたのだ。
坂の、いま人が立っているところを、避けながら掃いている。掃くところは無い。今朝いちばんに掃いた場所だ。
この人は五十年、そうやって生きてきた。
何もできないときに、掃く。
俺は、その人に聞いた。
「それ、同じことじゃないんですか」
「いいえ」
「俺がやったのと、神殿がやるのと、何が違うんですか」
その人は、少し考えた。
考えてから、正確に答えた。
「言葉が、違います」
名付けと、授名。
同じことをして、片方は罪で、片方は法だ。
違うのは、呼び方だけだった。
俺は、そこで初めて、自分のことを考えた。
合っていない名前をつけられると、どうなるかは知っている。
ドンさんの掌を、二年見てきた。二十五年、石を割ろうとして割れなかった手だ。関節が太くて、爪の脇が全部割れている。あれは石のせいじゃない。割れない石を、二十五年殴った手だ。
ミアの脚も見た。四日で、あそこまでいった。
そして、直せる人間がいない。
ドンさんは、俺が直した。リーヤも、ミアも、俺が直した。
俺には、俺がいない。
この街に司名はいる。だが、いまはいない。
五日前の朝、北門を出た。杖を両手で持って、迎えの二人に付き添われて。
この街で、名前について何かを決められる人間は、今日、一人も残っていない。
「なお、当該の板は押収いたします」
二人のうちの一人が、店の前へ回った。
立てかけてある壁板を、両手で持ち上げた。八十四行ある。字の大きい行と、小さい行がある。書いた日が違うからだ。
「それ、俺のじゃないです」
「はい」
「マルタさんの店の壁です」
「証拠物件です」
「記載の者について、追って照合いたします」
列にいた人が、二人ほど、後ろへ下がった。
下がってから、下がったことに気づいて、止まった。
止まったが、前には戻らなかった。
マルタさんが、前に出た。
鍋を持っている。持ち方が、いつもと違う。柄の端を握っている。
「マルタさん」
「どけ」
「だめ」
俺は前に立った。
この人が鍋を振ったら、この街に居られなくなる。三人とも武器を持っていない。持っていない人間を殴ったら、それは別の罪になる。
マルタさんは、俺の顔を見なかった。三人のほうを見ていた。
「三年、飯食わせてもらった」
「どけって言ってんだよ」
「それ全部、なかったことにしないでよ」
鍋が下りた。
とん、と床が鳴った。
この人が鍋を置くとき、音がしたのは久しぶりだった。
マルタさんは、そのまま厨房に戻った。
しばらく出てこなかった。
出てきたとき、布の包みを持っていた。角を折って、上で結んである。ミアが結ぶのと同じ結び方だ。教えたのは、たぶんこの人だ。
三人のほうへ、それを見せた。
「これ、持たせていいのかい」
「かまいません」
包みが、俺の手に渡った。まだ温かかった。今朝焼いたやつだ。
「あの」
「なんだい」
「三年、皿洗わせてもらって、ありがとうございました」
マルタさんは、俺のほうを向かなかった。
前掛けで手を拭いていた。拭くほど濡れていない手を、二回拭いた。
「帰ってきたら、皿を洗いな」
「……はい」
「溜めとくから」
照合官の一人が、倒れた椅子を起こした。
ドンさんが倒したやつだ。
起こして、卓の下に戻した。脚の位置まで直した。
悪意でやったんじゃない。片づいていないものが、そこにあったからだ。
この人たちは、たぶんそういう人たちだった。
「同行願います」
三人目が言った。
それだけだった。
縄も出さなかった。腕も掴まなかった。この人たちは、俺が逃げるとは思っていない。
ドンさんが、俺の横に来た。
何か言おうとして、言葉を探していた。この人は、急かしても速くならない。
俺は待った。
結局、見つからなかったらしい。見つからないまま、こう言った。
「聞いとく」
「え」
「壁でも、床でも、聞こえる」
それだけ言って、下がった。
意味は、そのときは分からなかった。
ミアが、卓の横に来た。
木札を八十四枚、まだ抱えている。抱えたまま、こう言った。
「クルトさん」
「うん」
「なんか、届けるものある?」
この子は、それしかできない。
だから、それを聞いた。
俺は、少し考えた。考えたけど、無かった。
「……ない」
「じゃあ、向こう着いたら、書いて。届けに行く」
「俺、字書けない」
「あ、そっか」
ミアは、木札を抱え直した。
抱え直して、それから言った。
「じゃあ、覚えて帰ってきて」
俺は、坂の下のほうを見た。
荷担ぎのあいだに、小さい爺さんが立っていた。
あの背丈で人ごみに立つのは危ないのに、押されても場所を動かなかった。
五日前、俺はこの人にこう言った。渡します、と。いつになるかは分かりません、と。
あの人は、頷いた。
いまも、頷いていた。
馬は、北門の外に置いてあると言われた。
都へ行く道は、北門から出る。だから、ここからは上りだ。
店の前が二段目。そこから折れを一つ越えて広場に出て、広場のさらに上が神殿と北門になる。荷を持って上る人間が、途中で必ず一度止まるところだ。
俺は歩いて上がった。三人が前と後ろにいる。逃げようと思えば逃げられる並び方だった。逃げなかったのは、逃げたら次に来るのが八十四人だからだ。
坂に、人が出ていた。
数えた。癖である。
店の前に三十二人。下の折れのあたりに十九人。港のほうにも、顔を上げている人影が十一人ぶん見えた。
六十二人。
板は八十四行ある。そのうち、俺が会ったのは五十四人だ。
残りの人も、坂に出ていた。会ったことのない顔が、こっちを見ていた。
誰も、止めなかった。
止められない。三人は武器を持っていないし、紙は本殿の紙だ。止めれば、次はその人が呼ばれる。
止めないことが、いちばん重い。
上りながら、二度、名前を呼ばれた。
「名付け屋さん」
店の前にいた誰かだった。
もう一人も言った。
「名付け屋さん」
三人目は、それを紙に書かなかった。
書けないからだ。
二つ名ではない。誰も授けていない。街が勝手にそう呼んでいるだけだ。
記録に載らないものは、あの人たちにとっては、無いのと同じだった。
板は、二人のうちの一人が担いでいた。
八十四行が、横倒しになって、背中に載っている。
荷運びの担ぎ方じゃなかった。持ち慣れていない人の担ぎ方だ。マティスさんが見たら、何か言ったと思う。
折れを越えたところで、後ろから音がした。
ミアが、店の前から上ってきていた。
速くない。
六日ぶんの脚では、そうなる。腿の裏が抜けるので、途中で歩幅が落ちる。しかも、上りだ。
それでも、上ってきていた。
広場の手前で、あの子は止まった。
止まって、膝に手をついた。息が上がっている。
顔は上げていた。
広場を横切ったところで、東の石段の口から、リーヤが出てきた。
鍛冶場は港のそばだ。あそこから広場へ上がる道は二本ある。店の前を通る坂と、東の区画の石段だ。
石段のほうが短い。この人は、それを知っていた。
前掛けをしたままだった。腕をまくったまま、上ってきたらしい。息が上がっている。
上がったまま、一つだけ聞いた。
「セシルは」
「今朝、出た」
「北門?」
「北門」
リーヤの顔が、そこで変わった。
変わったのに、何も言わなかった。
口を開けて、それから閉じた。開けたときに何か言おうとしたのは分かった。分かったけれど、出てこなかった。
この人は、言い方が分からないものは言わない。
昨日の夕方、鍛冶場で何を見たのかは、聞けなかった。
広場から北門までは、短いが急だ。一五〇数えるあいだに、街がぜんぶ下になる。
北門を出る前に、一度だけ振り返った。
坂が、三回折れて下りていく。
その途中に、卓が出たままになっているはずだった。ここからでは小さすぎて見えない。誰も座っていないことも、見えない。
鍋屋の婆さんが、まだそこに立っていることも、見えない。
あの人の話は、途中だった。
あの年の秋に、何があったのかを、俺は聞いていない。
卓の横に、板がない。
板は、もともと店の壁板だった。
二十三日前、マルタさんが剥がした。剥がしたところは、そのままになっている。壁に、板一枚ぶんの穴が開いている。
二十三日、その穴の前に、板が立てかけてあった。
いまは、穴だけになった。




