第21話 辞めます
北門の外で、風が鳴っていた。
夜は、音がよく届く。昼は人の声で埋まっているところが、夜になると全部空く。空いたところに、遠くの音が入ってくる。
港で綱が擦れている。犬が二匹。西の外れの畑で、風が麦を撫でている。
おれは門の内側に立って、それを聞いていた。
夜警になって、二十六日になる。
やることは、立っていることだ。
門は日が落ちたら閉める。閉めたあとに叩く者がいたら、名前を聞く。聞いて、覚えのある声なら通す。
二十六日で、叩いた者は三人しかいない。
夜は目が悪い。
だから、目は使わない。
目を閉じると、街が形になる。
いちばん下が港だ。綱と、水と、桟橋の板。板は昼のあいだに乾いて、夜に縮む。縮むとき、こく、と鳴る。
その少し上が鍛冶場。夜は炉を落とさないので、埋み火が沈むときに、ぱ、と小さい音がする。間隔で、火の残りが分かる。
その上が店。皿の音がする。あの音は、二年前から毎日聞いている。
折れを越えると広場だ。広場は石が多いので、音が硬い。
いちばん上が、ここだ。
二十五年、おれはこの街の音を聞いていた。
聞いていることを、誰にも言わなかった。
言っても、しょうがなかったからだ。
二十六日前、それが仕事になった。
今夜は、音が足りなかった。
いつもなら、この刻に、坂の途中で音がする。
卓の脚を畳む音だ。木の留め具を外して、脚を内側へ倒して、板を壁に立てかける。三つの音が続けて鳴る。かちり、こと、とん。
昨日から、鳴っていない。
列の音も、ない。
あれは面白い音だった。
立って待っている人間は、動かないつもりでも動く。踵を踏み替える。石を蹴る。咳をする。八十人ぶんの、そういう小さい音が、朝の坂に薄く広がっていた。
昨日の朝までは、あった。
かわりに、増えた音がある。
戸を閉める音だ。
昼のうちから、街のあちこちで戸が閉まっている。この街の戸は建て付けが悪いので、閉めると必ず鳴る。押しつけて、下がつかえて、もう一度押す。二回鳴る。
昨日の昼から、それが増えた。
追って照合いたします、と、あの人は言った。
板に名前を書いた八十四人が、それを聞いていた。
おれは、二十五年、庇われていた。
知らなかった。
石が割れないのは、おれが下手だからだと思っていた。二十五年、毎日そう思って、毎日工房に行った。
親方は、割らなくていい仕事だけをおれに回していた。運ぶのと、積むのと、削るのを。
それを、あの小僧が一日で言った。
工房の裏に、石が積んである。
割れなかった石だ。角が中途半端に欠けたのや、傷ひとつないのや、途中でやめたのが、大人の背より高く積んである。
積んだのは、おれだ。
毎日、自分で運んで、自分で積んだ。二十五年。
あの山を、親方は一度も片づけろと言わなかった。
片づけろと言わないのは、優しいからだと思っていた。
違った。
片づけるというのは、認めるということだ。
あの人は、二十五年、認めなかった。
夜が、長い。
おれは、考えるのが遅い。
言葉を探すのに時間がかかる。話しているときもそうだし、一人でも同じだ。頭の中でも、言葉は速く出てこない。
だから、夜警は向いている。
夜のあいだじゅう、一つのことだけ考えていられる。
考えていたのは、こういうことだ。
おれは、二十五年、同じところにいた。
工房と、家と、この門。それだけだ。街の外へ出たことがない。港から船に乗ったこともない。
行かない人間のところへは、誰も来ない。
二十五年、誰も来なかった。
一人だけ、来た。
二年、うちの店で皿を洗っていた小僧だ。毎日、見ていた。
その小僧が、ある日、卓の向かいに座った。
そして、あんた石割りじゃないだろ、と言った。
あの日が、一日目だった。
今日で、二十八日目になる。
おれは、行ったことがない。
だから、たぶん、行く番だ。
それが、夜の終わりに出てきた言葉だった。
一晩かかった。
昨日の朝、おれは工房へ下りる途中で止まった。
坂の途中で、音が変わったからだ。
人が動かなくなった音だった。八十人ぶんの小さい音が、一斉に止まった。
止まる音というのは、無い。
無いのに、聞こえた。
戻ったら、あの小僧が卓の前に座っていて、外套の人間が三人立っていた。
そのあとのことは、全部聞いた。
紙を読む声も、量刑の一行も。
おれは、椅子を倒した。
倒してから、なんで倒したのか分からなかった。
誰かが「どういう意味だ」と言った。
おれは答えた。
あのあと、あの小僧は北門から出ていった。
おれは坂の下のほうにいたので、足音だけ聞いた。
馬は北門の外にいた。だから、あそこからは上りだ。上りの足音は遅い。踵から鳴らないので、音が丸い。
四人ぶん、丸い音が、広場のほうへ上がっていった。
それから、聞こえなくなった。
夜が明けはじめた。
北門のあたりは、街でいちばん先に明るくなる。高いからだ。
交代の男が上がってきた。足音で分かる。この人は右足を少し引きずるので、二つに一つが短い。
「異常は」
「ない」
「そりゃよかった」
おれは、そこで言った。
三回、練習してきた。
「辞めます」
交代の男は、槍を持ち替えた。
この人だ。門番のヨナスさん。二十六日前、おれを夜警に推した人だ。
「どこへ行く」
「都です」
「そうか」
ヨナスさんは、槍の石突きを石畳に落とした。こつん、と鳴った。
「一月も、もたんかったな」
「すみません」
「いや」
この人は、そのあと何も聞かなかった。
なんで都へ行くのかも、いつ帰るのかも。
聞かないで、門のほうを向いた。
「あの人が出たとき、わしがここに立っとりました」
「はい」
「司名様のときも、記録係様のときも、あの小僧のときも、全部わしです」
こつん、と、もう一度鳴った。
「三人とも、こっちからは何も言えんかった」
北門から工房までは、街をまるごと下りる。
北門、広場、折れ、店、鍛冶場、港。工房は港の三番倉庫の隣だ。
下りは速い。膝に来る。踵から音が鳴る。
途中で、店の前を通った。
卓は、出したままだった。
昨日から、そのままだ。誰も片づけていない。
その横の壁に、板一枚ぶんの穴が開いている。
もとは壁板だった。マルタさんが剥がして、そこに八十四人の名前を書かせた。それから二十三日、板はその穴の前に立てかけてあった。
いまは、穴だけだ。
おれは、そこで立ち止まった。
立ち止まって、穴の縁を触った。
剥がした跡は、ささくれている。二十三日ぶん、風と雨に当たっている。
塞ぐなら、板を一枚あてて、釘を四本打てばいい。
誰も、塞いでいない。
工房に着いたのは、日が出てすぐだった。
石工は、荷担ぎより先に始める。石は重いので、船から降ろした先が近いほうがいい。だから工房は坂のいちばん下にある。
音が二種類していた。
鑿を叩く、こつ、こつ、という細かい音。それと、槌が石に落ちる鈍い音。二つが重ならないように交互に鳴る。
二十五年、この音の中にいた。
親方は、石の前にしゃがんでいた。
背中が丸い。前掛けが白い。もとの布の色は分からない。革の帯に、鑿が三本差してある。
おれが入ると、音が止まった。
止めたのは若いのだった。親方は止めなかった。
おれは、三回練習してきた。
夜のあいだじゅう考えて、それでも三回だ。
言葉を探すのに時間がかかる。
「親方」
「おう」
「辞めます」
鑿の音が、止まった。
親方は、しゃがんだまま、動かなかった。
それから、立ち上がった。
立ち上がるのに時間がかかる。膝が上がらない人だ。長いこと重いものを持ち上げてきた膝は、そうなる。
こっちを見上げた。
白く濁ったほうの目が先に来て、緑のほうが少し遅れて追いついた。
「どこへ行く」
「都です」
「あの小僧か」
「はい」
親方は、自分の右の掌を、太い親指でこすった。
ざらざらと音がしそうな動きだ。石の面を確かめるときの癖である。
こする速さが、いつもより遅かった。
「歩きか」
「はい」
「十日だぞ」
「はい」
それから、しばらく何も言わなかった。
若いのが、鑿を持ったまま突っ立っている。どうしていいか分からない顔をしている。
海の側が開いているので、光が上から真っ直ぐ落ちてくる。切ったばかりの石の面が、白く光っていた。
親方は、作業台のほうへ行った。
台の下に、木の箱がある。
その箱から、袋を出した。
布の袋だ。持ち上げたとき、中で音がした。銅貨の音だ。数は多くない。二十枚か、三十枚か。
それを、こっちへ突き出した。
「返せとは言わん」
おれは、受け取った。
受け取ってから、頭を下げた。
下げてから、何か言おうとした。
言葉を探した。
二十五年、この人はおれを工房に置いた。割れない石工を、三人しかいない工房に。
それに対して言うべきことが、あるはずだった。
あるはずなのに、出てこなかった。
おれは、頭を下げたまま止まっていた。
どれくらい止まっていたのか、分からない。
鑿の音がしないので、時間が分からなかった。
親方が、先に言った。
「連れて帰れ」
おれは、顔を上げた。
「はい」
「返事が早いんだよ、お前は」
「はい」
連れて帰れ、と言った。
行ってこい、ではなかった。
気をつけろ、でもなかった。
連れて帰れ、だ。
この人は、あの小僧を一度も名前で呼んでいない。
小僧、としか言わない。
それでも、連れて帰れと言った。
親方は、鼻から短く息を出した。
この人の笑い方だ。二十五年、同じ工房にいて、四回か五回しか聞いたことがない。
「裏の石な」
「はい」
「片づける」
おれは、何も言えなかった。
あれは、おれが積んだ山だ。
二十五年、毎日、自分で運んで、自分で積んだ。
誰も片づけろと言わなかった。認めることになるからだ。
「おれが、運びます」
「もういい」
「まだ、昼は」
「もういいって言っとるだろうが」
親方は、裏のほうを見た。
壁に沿って、大人の背より高く積んである。角が欠けたのや、傷ひとつないのや、途中でやめたのが。
「あれはな」
「はい」
「置いといたら、いつか使うと思っとった」
こする親指が、止まった。
「二十五年、石を一個も使っとらん」
親方は、山のほうへ歩いていった。
歩幅が狭い。踵から降ろすので、じゃり、と鳴る。
一番上のやつを、両手で持ち上げた。
持ち上げてから、こっちへ戻ってきた。
その石は、拳ふたつぶんくらいだった。角が一つ、欠けている。
「これ、持ってけ」
「重いです」
「重くない」
受け取った。
たしかに、重くなかった。
石にしては軽い。中に空いたところがあるやつだ。だから割れなかったのかもしれない。おれには分からない。
「それ、勝手に欠けとった」
「え」
「積んどいたら、いつのまにか角が落ちとった。おれは何もしとらん」
おれは、その欠けたところを指で触った。
新しい面だった。ざらついている。
二十五年、割れなかった石が、置いてあるあいだに、勝手に少しだけ欠けていた。
「なんでですか」
「知らん」
「はい」
「置いといたら、そうなった」
おれは、その石を持ったまま、しばらく立っていた。
二十五年、この石は割れなかった。
割ろうとしていたあいだは、割れなかった。
置いておいたら、勝手に欠けた。
それが何なのかは、おれには分からない。
考えたけど、言葉にならなかった。
言葉にならないので、持っていくことにした。
おれは、それを懐に入れた。
工房を出るとき、若いのが小さく頭を下げた。
名前は知っている。二十五年、同じ場所にいた。
だが、この若いのがおれに頭を下げたのは、初めてだった。
港から鍛冶場までは、すぐだ。
リーヤのところに寄った。
炉に火が入っている。毎朝つけている火だ。
「あんた、その顔」
「顔」
「言ってきたんでしょ」
「言ってきた」
リーヤは、金床から目を上げなかった。
上げないで、こう言った。
「あたしも、明日」
「火は」
「消していく」
この人は、三年消えていなかった火を、一度自分で消している。
二度目は、たぶん、一度目より軽い。
鍛冶場から店までは、坂を上る。百数えるくらいだ。
途中で一度、止まった。
荷なんか担いでいないのに。
止まったところで、上を見た。
卓が、まだ出ていた。
その前に、人が並んでいた。
数えた。
十一人。
板は無い。名前を呼ぶ人もいない。会う人間は、昨日いなくなった。
それでも、並んでいた。
自分の番号を、全員が覚えているからだ。
列の横に、ミアがいた。
木札を抱えている。八十四枚あるやつだ。
番号を言っていた。いつもと同じように。
「四十九番」
「はい」
「五十番」
「はい」
そこまでは、いつもと同じだった。
「……いつになるかは、分かんない」
おれは、そこで足を止めた。
この子が謝るのを、聞いたことがない。
二年、店で見てきた。走って、届けて、値段を決めて、待って、帰る。そのあいだ一度も、謝るところを聞いたことがなかった。
謝らない子だ。謝ると、聞いたほうが悪いみたいになるから、と言っていた。
列の人間は、誰も文句を言わなかった。
言わないで、その場に立っていた。
ペレさんが、広場のほうから下りてきた。
箒を担いでいる。柄を肩に乗せて、穂先を後ろに垂らす持ち方だ。
「聞きましたで」
「はい」
「わしも、行きますでな」
「爺さん」
「都の神殿にも、掃除夫はおりますで」
この人は、五十年、広場を掃いている。
その五十年で、街を出たことがあるのかどうか、おれは知らない。
聞かなかった。
おれは、その列の横を通って、店に入った。
マルタさんが、鍋を掻いていた。
「あんた」
「はい」
「言ってきたのかい」
「言ってきました」
マルタさんは、手を止めなかった。
止めないで、こう聞いた。
「あの人は、なんて」
「連れて帰れ、と」
鍋を掻く音が、一度だけ乱れた。
それから、いつもの速さに戻った。
「あたしは、明後日だ」
「店は」
「閉める」
「長く」
「長くだよ」
おれは、卓の一つに座った。
脚が一本短いやつだ。座ると鳴る。
鳴らしてから、懐の石を出して、卓の上に置いた。
角の欠けたところが、上を向いた。
マルタさんが、それを見た。
見て、何も聞かなかった。
外で、戸が閉まる音がした。
押しつけて、下がつかえて、もう一度押す音だ。
二回鳴って、それきりだった。
おれは、そっちを見なかった。
目は使わない。
西の坂の、上から三軒目。
板に名前を書いた人の家だ。




