第22話 火を消して出る
灰をかき出した。
朝いちばんにやるのは、いつもなら火を入れることだ。火打ち石を二度打って、削りかすに移して、両手で囲って息を吹く。
今日は、その前の手順で止めた。
灰かきを突っ込んで、底に沈んだ埋み火を掘り起こす。掘り起こしたら、それは死ぬ。
桶に半分たまった。
白い灰と、まだ黒いのが混ざっている。素手で均した。触れる温度だった。
三年、あたしはこの火を絶やさなかった。
一度だけ、消えたことがある。二十日前だ。
あれは、消したというより、消えた。四日のあいだ誰も薪を足さなかった。あたしも足さなかった。次の朝、あたしがつけ直した。
今日は、あたしが手を入れて消す。
一度目は、事故だった。
二度目は、決めた。
「毎朝つければいいだけだって、あんたが教えたんだよ」
声に出して言った。
誰に言ったのかは、自分でも決めなかった。
壁の額を見上げた。
炉の真上にある。この鍛冶場でいちばん燻されるところだ。灰色になった布の上で、金の糸だけが光る。炎のバルド。
外さない。持っていかない。
あの人は炎だった。あたしが違うだけだ。
ただ、火を落とすと、煙が当たらなくなる。
十日でも、二十日でも、あそこに煙が行かない。
帰ってきたら、少し白くなっているかもしれない。
それは、それでいい。
棚は、空にしてある。
昨日の夜のうちに、預かっていたものを三つとも仕上げた。ゲトさんの鎌。綱屋の鉤。名前を聞かずに受け取った鍋が一つ。
仕上げてから、それぞれの家の戸口に置いてきた。
書き置きはしなかった。置いてあれば分かる。この街で、戸口に鉄が置いてあるのは、あたしの仕事以外にない。
道具を掛け直した。槌を釘に。火挟みを釘に。鑢を釘に。
順番は決まっている。手が届く順だ。
最後に、留め金の箱を開けた。
押すと開いて、離すと閉じる。がたつきはない。暇なときに作ったやつだ。
三日前まで、三十個あった。
いまは、二十九。
一つ、選んだ。
魚の鱗の模様のやつだ。線が細くて、いちばん時間がかかった。売り物にはしていない。
前掛けの内側に入れた。
なぜ持っていくのかは、聞かれても答えられない。
あの人も「なんとなく」と言っていた。
鍛冶場を出るとき、扉を閉めた。
いつもは開けたままにする。中が暑いからだ。
今日は閉めた。閉めると、この扉も鳴る。この街の扉は全部鳴る。
鍛冶場から、マルタさんの店まで坂を上る。百数えるくらいだ。
途中で、音が聞こえた。
金槌だ。
あたしは、その音を三つ聞いた。
一つ目で、あたしの槌じゃないと分かった。柄が短い。二つ目で、打っているのが鉄ではないと分かった。板だ。三つ目で、打っている人間が二人いると分かった。片方は速くて浅い。片方は遅くて深い。
二十年、火の前に立っていると、そういうことだけは分かるようになる。
誰が打っているかまでは、分からない。
坂を上りきったところに、店があった。
窓に、板が渡してある。
外から二枚ずつ、斜めに打ちつけていく。長く閉める店の閉め方だ。
打っているのは、マルタさんではなかった。
男が三人いた。
一人は屋根のオトーさん。六十近い、背中の丸い人だ。爪が全部平らになっている。屋根板を掌で押さえて釘を打つと、そうなる。
もう一人は釘打ちのフェルさん。板の三十番。合っていないと言われた人だ。
三人目は知らない顔だった。
「あんた、明後日って言ってなかった?」
あたしが聞くと、マルタさんは鍋を持ったまま出てきた。
「一日で終わった」
「なんで」
「勝手に来たんだよ、この連中が」
オトーさんが、釘を口にくわえたまま言った。
「暇でしたんで」
「嘘つけ。屋根屋が夏に暇なわけないでしょ」
「……暇でした」
フェルさんは、何も言わなかった。
言わないで、釘を三本まとめて打った。三本とも二回で入った。
打ち終わってから、フェルさんが、はじめて口をきいた。
「鍛冶場は」
「閉める」
「はあ」
「十日で戻る。戻らないかもしれない」
フェルさんは、金槌を持ち替えた。
「釘なら、うちにあります」
「え」
「小さいのが要る人は、うちに来ればええです」
この人は、名前が合っていない。
合っていないと言われて、まだ何ももらっていない。
それでも、来ている。それでも、あたしの客を引き受けると言っている。
「客が困るよ」
あたしが言うと、マルタさんは鍋の底を掌で叩いた。
「困らせとけ」
卓は、片づけてあった。
脚を畳んで、壁に立てかけてある。
その隣に、板一枚ぶんの穴が開いている。
穴は、まだ塞いでいなかった。
打ちつける板は余っている。窓に使った残りが、四枚ある。
「そこ、塞がないの」
「塞がない」
「なんで」
「板が帰ってくるからだよ」
あたしは、それ以上聞かなかった。
ペレさんが、広場のほうから店まで下りてきた。
箒を担いでいる。柄を肩に乗せて、穂先を後ろに垂らす持ち方だ。
「揃いましたかな」
「爺さんも来るの」
「わし、行きますで」
「五十年の仕事は」
「明日も、広場は汚れますで」
「だから、誰がやるの」
「頼んでありますで」
「誰に」
「井戸の水を汲みに来る子です」
この人は、そういう顔で言った。
当たり前のことを言う顔だ。
マティスさんは、坂の下のほうから店まで上ってきた。
小さい爺さんだ。歩幅が小さいのに速い。
板を一枚、抱えている。
押収されたやつではない。あれは持っていかれた。この板は新しい。削ってあって、まだ白い。
「わしは、行けませんで」
「足でしょ」
「足です」
この人は六十年、荷を担いでこの街の道を歩いた。
その足が、いま十日は歩けない。
「かわりに、一つやります」
「なにを」
マティスさんは、抱えた板を、こっちへ向けた。
白い面が上を向いた。まだ何も書いていない。
「名前を、集めます」
あたしは、その板を見た。
それから、この人の顔を見た。
「集めてどうすんの」
「都へ持っていきます」
「歩けないんでしょ」
「わしは歩けません。歩ける人が、八十四人おります」
交代で歩くのだという。
六十年、荷を運んだ人の考え方だった。重いものは、一人で持たない。持てる人が、持てるところまで持つ。
マルタさんが、鍋を地面に置いた。
置いてから、板を受け取って、坂の石に膝をついた。
この人が書く。
二十六日前、坂に列ができた日も、この人が書いた。書ける人のほうが少ないので、口で言うのを聞いて、代わりに書いた。
字がでかい。
「なんて書くんだ」
「短いのがええです」
「なんで」
「長いと、読み上げるときに間違えますで」
この街は、半分以上が字を読めない。
だから、書いたものは必ず誰かが声に出す。声に出すとき、長い文は崩れる。
六十年、荷を持ってこの街の戸を叩いて回った人は、それを知っている。
マルタさんが、板を横に測った。
「あたしの字だと、十字も入らないよ」
「それで足ります」
マティスさんは、一度、口の中で転がした。
それから言った。
「頼んだのは、わたしたちです」
あたしは、何も言えなかった。
マルタさんは、炭で書いた。
書き終わって、板を立てて、少し離れて見た。
「掠れてる」
「読めますで」
書けない人は、拇印を押すらしい。
朱肉は、役所で借りるという。借りられるかどうかは分からないが、借りに行くと言っていた。
マティスさんは、港のほうから回りはじめた。
荷を配るときと同じ順番だと言っていた。
あたしは、坂を下りて、港の側だけ一緒に歩いた。
一軒目は綱屋だった。
綱のヒルドさんが出てきて、板を見た。
見て、しばらく黙っていた。
「なんて書いてある」
「頼んだのは、わたしたちです」
「そうか」
この人は、板の二十番だ。七日前に名前をもらっている。
もらったばかりの袖で、拇印を押した。
押してから、指を前掛けで拭いて、こう言った。
「わし、綱は編めるが、字は書けん」
「拇印で足りますで」
「足りるのか」
「足ります」
二軒目も押した。三軒目も押した。
四軒目で、断られた。
戸は開いた。開いて、板を見て、それから閉まった。
閉まる前に、一言だけ言った。
「うち、役所に舟を借りとるんで」
マティスさんは、板を抱え直した。
「はい」
それだけだった。
あたしは、腹が立った。
立ったのを、顔に出したと思う。
「なんで怒らないの」
「あの人は、明日も舟を出しますで」
この人は、六十年、この街の荷を運んだ。
運ぶ人間は、断られることを知っている。断られた家にも、明日また行く。
港の区画が終わったところで、あたしは離れた。
広場の市まで上がる。十日ぶんの食い物を買わないといけない。歩きながら食えるものだ。
マティスさんは、そのまま港の裏を回っていった。
昼を過ぎた。
市を出て、広場から坂を下りていくと、西の坂の途中にマティスさんが立っていた。
上から三軒目の戸の前だ。
戸が閉まっている。中に人がいるのは分かる。煙が出ているからだ。
マティスさんは、二度叩いた。それから、待った。
開かなかった。
「行こうよ」
「はい」
「戻ってこないよ、あれ」
「分かりませんで」
マティスさんは、板を抱え直した。
抱え直してから、こう言った。
「また来ますで」
店の前に戻ると、卓の跡が石に残っていた。
脚の四つの窪みだ。何年も同じところに置いていると、そうなる。
その前に、人が立っていた。
数えた。四人だ。
昨日は十一人だった。
卓は畳んである。呼ぶ人もいない。会う相手もいない。
それでも、立っている。
明日は、もっと減ると思う。
減っても、たぶん、ゼロにはならない。
番号は、来なくなっても消えないからだ。消えないうちは、また来る。
広場では、子供が箒を持っていた。
井戸の水を汲みに来る子だ。十くらいの男の子で、箒が体に合っていない。
掃き方が下手くそだった。
同じところを三回掃いて、隣を掃き忘れている。
ペレさんは、それを直さなかった。
直さないで、横を通り過ぎた。
「教えないの」
「五十年かかりましたで」
北門を出るのは、日が傾いてからになった。
広場から北門までは、短いが急だ。一五〇数えるあいだに、街がぜんぶ下になる。
二日前、クルトはここを上がっていった。
あたしは、あのとき東の石段から広場に出て、そこまでしか行けなかった。
今日は、自分の足で上がる。
途中に神殿がある。
扉が閉まっていた。
今日は儀の日でもないし、誰かが死んだ日でもない。だから閉まっているのが正しい。
正しいのに、腹が立った。
あたしが都で何をするのかは、決めていない。
言えることは一つしかない。
あたしは継ぎ手だ。
折れたものを見て、継げるか継げないかを言う。継げないものは継げないと言う。二十年、それしかやっていない。
あいつが折れているかどうかを、まだ見ていない。
見ていないものは、判じられない。
だから、見に行く。
理由としては、それで足りると思った。
五人いた。
ドン、マルタさん、ミア、ペレさん、あたし。
ドンさんは、荷を二つ担いでいた。自分のと、マルタさんのだ。
マルタさんは鍋だけ持っていた。
「それ、持ってくの」
「持ってくよ」
「十日だよ」
「十日だろうが二十日だろうが、飯は毎日だろ」
鍋の中で、何かが鳴った。
軽い音じゃない。
「なに入ってんの」
「石」
「石?」
「知らないよ。誰かが卓に置いてったんだ」
マルタさんは、それだけ言って、鍋を持ち直した。
ドンさんは、何も言わなかった。
あたしにも、分からなかった。分からないまま、聞くのをやめた。
ミアは、籠を提げていた。
編み目の詰まった、古い籠だ。
中に木札が入っている。八十四枚ある。セシルさんが書いたやつだ。
「それも持ってくの」
「持ってく」
「なんで」
「番号、分かんなくなるでしょ」
この子は、全部覚えている。
覚えているのに、持っていく。
「その籠、あんたの?」
「母さんの」
ミアは、それ以上言わなかった。
母親は、門に来ていなかった。
ドンさんが、門の手前で足を止めた。
顔は前を向いたままだ。耳だけ、後ろに置いている。
「なに聞いてんの」
「戸だ」
「戸?」
「この時分は、閉まる音がいちばん多い」
しばらく、そうしていた。
それから、荷を担ぎ直した。
「もう覚えた」
北門の前で、ヨナスさんが槍を横にした。
「通ります」
「通れ」
この人は、この八日で四度目だ。
司名が出て、記録係が出て、クルトが出て、今日、五人が出る。
「十一年、わしはここに立っとりますが」
ヨナスさんは、槍の石突きを石畳に落とした。
「こんな八日は、初めてです」
門を出た。
外は、道だった。
両側が畑で、その先が丘で、丘の向こうは見えない。
都はそっちだ。十日ある。
ミアが、一度だけ振り返った。
一度だけだ。それから、前を向いた。
あたしは、振り返らなかった。
見なくても、どうなっているかは分かる。
港のところの一点が、暗い。
三年、あの火だけは、夜でも赤かった。
いまは、あたしが消した。




