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22/23

第22話 火を消して出る

 灰をかき出した。


 朝いちばんにやるのは、いつもなら火を入れることだ。火打ち石を二度打って、削りかすに移して、両手で囲って息を吹く。


 今日は、その前の手順で止めた。


 灰かきを突っ込んで、底に沈んだ埋み火を掘り起こす。掘り起こしたら、それは死ぬ。




 桶に半分たまった。


 白い灰と、まだ黒いのが混ざっている。素手で均した。触れる温度だった。




 三年、あたしはこの火を絶やさなかった。


 一度だけ、消えたことがある。二十日前だ。


 あれは、消したというより、消えた。四日のあいだ誰も薪を足さなかった。あたしも足さなかった。次の朝、あたしがつけ直した。


 今日は、あたしが手を入れて消す。




 一度目は、事故だった。


 二度目は、決めた。




 「毎朝つければいいだけだって、あんたが教えたんだよ」


 声に出して言った。


 誰に言ったのかは、自分でも決めなかった。




 壁の額を見上げた。


 炉の真上にある。この鍛冶場でいちばん燻されるところだ。灰色になった布の上で、金の糸だけが光る。炎のバルド。


 外さない。持っていかない。


 あの人は炎だった。あたしが違うだけだ。




 ただ、火を落とすと、煙が当たらなくなる。


 十日でも、二十日でも、あそこに煙が行かない。


 帰ってきたら、少し白くなっているかもしれない。




 それは、それでいい。




 棚は、空にしてある。


 昨日の夜のうちに、預かっていたものを三つとも仕上げた。ゲトさんの鎌。綱屋の鉤。名前を聞かずに受け取った鍋が一つ。


 仕上げてから、それぞれの家の戸口に置いてきた。


 書き置きはしなかった。置いてあれば分かる。この街で、戸口に鉄が置いてあるのは、あたしの仕事以外にない。




 道具を掛け直した。槌を釘に。火挟みを釘に。鑢を釘に。


 順番は決まっている。手が届く順だ。




 最後に、留め金の箱を開けた。


 押すと開いて、離すと閉じる。がたつきはない。暇なときに作ったやつだ。


 三日前まで、三十個あった。


 いまは、二十九。




 一つ、選んだ。


 魚の鱗の模様のやつだ。線が細くて、いちばん時間がかかった。売り物にはしていない。


 前掛けの内側に入れた。




 なぜ持っていくのかは、聞かれても答えられない。


 あの人も「なんとなく」と言っていた。




 鍛冶場を出るとき、扉を閉めた。


 いつもは開けたままにする。中が暑いからだ。


 今日は閉めた。閉めると、この扉も鳴る。この街の扉は全部鳴る。




 鍛冶場から、マルタさんの店まで坂を上る。百数えるくらいだ。




 途中で、音が聞こえた。


 金槌だ。




 あたしは、その音を三つ聞いた。


 一つ目で、あたしの槌じゃないと分かった。柄が短い。二つ目で、打っているのが鉄ではないと分かった。板だ。三つ目で、打っている人間が二人いると分かった。片方は速くて浅い。片方は遅くて深い。




 二十年、火の前に立っていると、そういうことだけは分かるようになる。


 誰が打っているかまでは、分からない。




 坂を上りきったところに、店があった。


 窓に、板が渡してある。




 外から二枚ずつ、斜めに打ちつけていく。長く閉める店の閉め方だ。


 打っているのは、マルタさんではなかった。




 男が三人いた。


 一人は屋根のオトーさん。六十近い、背中の丸い人だ。爪が全部平らになっている。屋根板を掌で押さえて釘を打つと、そうなる。


 もう一人は釘打ちのフェルさん。板の三十番。合っていないと言われた人だ。


 三人目は知らない顔だった。




 「あんた、明後日って言ってなかった?」


 あたしが聞くと、マルタさんは鍋を持ったまま出てきた。


 「一日で終わった」


 「なんで」


 「勝手に来たんだよ、この連中が」




 オトーさんが、釘を口にくわえたまま言った。


 「暇でしたんで」


 「嘘つけ。屋根屋が夏に暇なわけないでしょ」


 「……暇でした」




 フェルさんは、何も言わなかった。


 言わないで、釘を三本まとめて打った。三本とも二回で入った。




 打ち終わってから、フェルさんが、はじめて口をきいた。


 「鍛冶場は」


 「閉める」


 「はあ」


 「十日で戻る。戻らないかもしれない」




 フェルさんは、金槌を持ち替えた。


 「釘なら、うちにあります」


 「え」


 「小さいのが要る人は、うちに来ればええです」




 この人は、名前が合っていない。


 合っていないと言われて、まだ何ももらっていない。


 それでも、来ている。それでも、あたしの客を引き受けると言っている。




 「客が困るよ」


 あたしが言うと、マルタさんは鍋の底を掌で叩いた。


 「困らせとけ」




 卓は、片づけてあった。


 脚を畳んで、壁に立てかけてある。


 その隣に、板一枚ぶんの穴が開いている。




 穴は、まだ塞いでいなかった。


 打ちつける板は余っている。窓に使った残りが、四枚ある。


 「そこ、塞がないの」


 「塞がない」


 「なんで」


 「板が帰ってくるからだよ」




 あたしは、それ以上聞かなかった。




 ペレさんが、広場のほうから店まで下りてきた。


 箒を担いでいる。柄を肩に乗せて、穂先を後ろに垂らす持ち方だ。


 「揃いましたかな」


 「爺さんも来るの」


 「わし、行きますで」




 「五十年の仕事は」


 「明日も、広場は汚れますで」


 「だから、誰がやるの」


 「頼んでありますで」


 「誰に」


 「井戸の水を汲みに来る子です」




 この人は、そういう顔で言った。


 当たり前のことを言う顔だ。




 マティスさんは、坂の下のほうから店まで上ってきた。


 小さい爺さんだ。歩幅が小さいのに速い。


 板を一枚、抱えている。


 押収されたやつではない。あれは持っていかれた。この板は新しい。削ってあって、まだ白い。




 「わしは、行けませんで」


 「足でしょ」


 「足です」




 この人は六十年、荷を担いでこの街の道を歩いた。


 その足が、いま十日は歩けない。




 「かわりに、一つやります」


 「なにを」




 マティスさんは、抱えた板を、こっちへ向けた。


 白い面が上を向いた。まだ何も書いていない。




 「名前を、集めます」




 あたしは、その板を見た。


 それから、この人の顔を見た。




 「集めてどうすんの」


 「都へ持っていきます」


 「歩けないんでしょ」


 「わしは歩けません。歩ける人が、八十四人おります」




 交代で歩くのだという。


 六十年、荷を運んだ人の考え方だった。重いものは、一人で持たない。持てる人が、持てるところまで持つ。




 マルタさんが、鍋を地面に置いた。


 置いてから、板を受け取って、坂の石に膝をついた。




 この人が書く。


 二十六日前、坂に列ができた日も、この人が書いた。書ける人のほうが少ないので、口で言うのを聞いて、代わりに書いた。


 字がでかい。




 「なんて書くんだ」


 「短いのがええです」


 「なんで」


 「長いと、読み上げるときに間違えますで」




 この街は、半分以上が字を読めない。


 だから、書いたものは必ず誰かが声に出す。声に出すとき、長い文は崩れる。


 六十年、荷を持ってこの街の戸を叩いて回った人は、それを知っている。




 マルタさんが、板を横に測った。


 「あたしの字だと、十字も入らないよ」


 「それで足ります」




 マティスさんは、一度、口の中で転がした。


 それから言った。




 「頼んだのは、わたしたちです」




 あたしは、何も言えなかった。




 マルタさんは、炭で書いた。


 書き終わって、板を立てて、少し離れて見た。


 「掠れてる」


 「読めますで」




 書けない人は、拇印を押すらしい。


 朱肉は、役所で借りるという。借りられるかどうかは分からないが、借りに行くと言っていた。




 マティスさんは、港のほうから回りはじめた。


 荷を配るときと同じ順番だと言っていた。


 あたしは、坂を下りて、港の側だけ一緒に歩いた。




 一軒目は綱屋だった。




 綱のヒルドさんが出てきて、板を見た。


 見て、しばらく黙っていた。




 「なんて書いてある」


 「頼んだのは、わたしたちです」


 「そうか」




 この人は、板の二十番だ。七日前に名前をもらっている。


 もらったばかりの袖で、拇印を押した。


 押してから、指を前掛けで拭いて、こう言った。




 「わし、綱は編めるが、字は書けん」


 「拇印で足りますで」


 「足りるのか」


 「足ります」




 二軒目も押した。三軒目も押した。




 四軒目で、断られた。


 戸は開いた。開いて、板を見て、それから閉まった。


 閉まる前に、一言だけ言った。


 「うち、役所に舟を借りとるんで」




 マティスさんは、板を抱え直した。


 「はい」


 それだけだった。




 あたしは、腹が立った。


 立ったのを、顔に出したと思う。




 「なんで怒らないの」


 「あの人は、明日も舟を出しますで」




 この人は、六十年、この街の荷を運んだ。


 運ぶ人間は、断られることを知っている。断られた家にも、明日また行く。




 港の区画が終わったところで、あたしは離れた。


 広場の市まで上がる。十日ぶんの食い物を買わないといけない。歩きながら食えるものだ。


 マティスさんは、そのまま港の裏を回っていった。




 昼を過ぎた。




 市を出て、広場から坂を下りていくと、西の坂の途中にマティスさんが立っていた。




 上から三軒目の戸の前だ。


 戸が閉まっている。中に人がいるのは分かる。煙が出ているからだ。


 マティスさんは、二度叩いた。それから、待った。




 開かなかった。




 「行こうよ」


 「はい」


 「戻ってこないよ、あれ」


 「分かりませんで」




 マティスさんは、板を抱え直した。


 抱え直してから、こう言った。




 「また来ますで」




 店の前に戻ると、卓の跡が石に残っていた。


 脚の四つの窪みだ。何年も同じところに置いていると、そうなる。




 その前に、人が立っていた。




 数えた。四人だ。


 昨日は十一人だった。




 卓は畳んである。呼ぶ人もいない。会う相手もいない。


 それでも、立っている。




 明日は、もっと減ると思う。




 減っても、たぶん、ゼロにはならない。


 番号は、来なくなっても消えないからだ。消えないうちは、また来る。




 広場では、子供が箒を持っていた。


 井戸の水を汲みに来る子だ。十くらいの男の子で、箒が体に合っていない。


 掃き方が下手くそだった。


 同じところを三回掃いて、隣を掃き忘れている。




 ペレさんは、それを直さなかった。


 直さないで、横を通り過ぎた。




 「教えないの」


 「五十年かかりましたで」




 北門を出るのは、日が傾いてからになった。




 広場から北門までは、短いが急だ。一五〇数えるあいだに、街がぜんぶ下になる。


 二日前、クルトはここを上がっていった。


 あたしは、あのとき東の石段から広場に出て、そこまでしか行けなかった。


 今日は、自分の足で上がる。




 途中に神殿がある。


 扉が閉まっていた。


 今日は儀の日でもないし、誰かが死んだ日でもない。だから閉まっているのが正しい。


 正しいのに、腹が立った。




 あたしが都で何をするのかは、決めていない。


 言えることは一つしかない。




 あたしは継ぎ手だ。


 折れたものを見て、継げるか継げないかを言う。継げないものは継げないと言う。二十年、それしかやっていない。


 あいつが折れているかどうかを、まだ見ていない。


 見ていないものは、判じられない。




 だから、見に行く。


 理由としては、それで足りると思った。




 五人いた。


 ドン、マルタさん、ミア、ペレさん、あたし。




 ドンさんは、荷を二つ担いでいた。自分のと、マルタさんのだ。


 マルタさんは鍋だけ持っていた。


 「それ、持ってくの」


 「持ってくよ」


 「十日だよ」


 「十日だろうが二十日だろうが、飯は毎日だろ」




 鍋の中で、何かが鳴った。


 軽い音じゃない。




 「なに入ってんの」


 「石」


 「石?」


 「知らないよ。誰かが卓に置いてったんだ」




 マルタさんは、それだけ言って、鍋を持ち直した。


 ドンさんは、何も言わなかった。


 あたしにも、分からなかった。分からないまま、聞くのをやめた。




 ミアは、籠を提げていた。


 編み目の詰まった、古い籠だ。




 中に木札が入っている。八十四枚ある。セシルさんが書いたやつだ。


 「それも持ってくの」


 「持ってく」


 「なんで」


 「番号、分かんなくなるでしょ」




 この子は、全部覚えている。


 覚えているのに、持っていく。




 「その籠、あんたの?」


 「母さんの」




 ミアは、それ以上言わなかった。


 母親は、門に来ていなかった。




 ドンさんが、門の手前で足を止めた。


 顔は前を向いたままだ。耳だけ、後ろに置いている。




 「なに聞いてんの」


 「戸だ」


 「戸?」


 「この時分は、閉まる音がいちばん多い」




 しばらく、そうしていた。


 それから、荷を担ぎ直した。




 「もう覚えた」




 北門の前で、ヨナスさんが槍を横にした。


 「通ります」


 「通れ」




 この人は、この八日で四度目だ。


 司名が出て、記録係が出て、クルトが出て、今日、五人が出る。




 「十一年、わしはここに立っとりますが」


 ヨナスさんは、槍の石突きを石畳に落とした。


 「こんな八日は、初めてです」




 門を出た。




 外は、道だった。


 両側が畑で、その先が丘で、丘の向こうは見えない。


 都はそっちだ。十日ある。




 ミアが、一度だけ振り返った。


 一度だけだ。それから、前を向いた。




 あたしは、振り返らなかった。




 見なくても、どうなっているかは分かる。


 港のところの一点が、暗い。




 三年、あの火だけは、夜でも赤かった。




 いまは、あたしが消した。

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