第23話 色が多すぎる
朝、目が覚めて、寝返りを打った。
体が、転がらなかった。
しばらく、何が違うのかが分からなかった。
分かってから、起き上がった。
平らだった。
俺は二十年、坂の上で寝ていた。寝床は店の裏の物置で、あそこも傾いている。夜のあいだ、体は勝手に低いほうへ寄っていく。朝、壁際に寄っているのが普通だった。
ここは、どっちにも寄らない。
地面が平らだと、体が置き場所を決められない。
それだけのことで、四日目まで、よく眠れなかった。
道は、まっすぐだった。
街では、どれだけ歩いたかは折れの数で分かる。港から一つ目の折れまで、そこから店まで、店から二つ目、三つ目、それで広場に出る。誰かに道を教えるときも、折れで言う。二つ目の折れを右、と言えば、それで通じる。
外には、折れがない。
俺は歩きながら、数えるものを探した。
癖である。数えていないと、手が止まる。
だが、道には数えるものが無かった。木は数えきれないし、畑は境目が分からないし、丘は同じ形のが並んでいる。
仕方がないので、日を数えた。
三人いた。
前に二人、後ろに一人。十日、順番は一度も変わらなかった。
馬が二頭。人は乗らない。荷と、板が載っている。
板は、麻布に巻いて、縄で縛って、横向きに載せてあった。
八十四行が、あの中にある。
縄は、俺には使わなかった。
腕も掴まなかった。街を出るときからそうで、十日、一度もそうしなかった。
一日目の夜、包みを開けた。
布の角を折って、上で結んである。ミアが籠に布をかけるときと同じ結び方だ。教えたのは、たぶんマルタさんだ。
中は、パンだった。
まだ、少し温かかった。
三日もった。
四日目から、あの人たちの飯を分けてもらった。
断られると思っていた。そういう決まりがあるのかと思っていた。
無かった。
器を出されて、椀に注がれて、それだけだった。
塩気が薄い。都の味だと言われた。
布は、畳んで懐に入れた。
五日目に、馬の足音が変わった。
うちの街に馬が来ることは、年に何度もない。坂が急で、石畳が濡れると滑るからだ。だから俺は、馬のことを何も知らない。
知らないのに、分かった。
四つのうち、一つだけ、地面の当たりが軽い。
リーヤが、蹄鉄を打つのを見たことがある。あいつは打ち終わったあと、必ず馬を三歩だけ歩かせた。歩かせて、音を聞いていた。
「合ってないと、音が軽くなる」
そう言っていた。
「すみません」
「なんです」
「後ろの馬、左の前が緩んでます」
その人は、止まった。
止まって、馬の脚を持ち上げた。しばらく見て、それから、もう一人を呼んだ。
二人で見て、村で直すことにしたらしい。
俺には礼を言わなかった。
言わなくていいと思った。俺が見つけたわけじゃない。あれは、リーヤの耳だ。
十日で、俺が役に立ったのは、それ一度だ。
しかも、俺のものじゃなかった。
二日目、前を歩いていた人が、振り返らずに聞いた。
「あんた、字は」
「読めないです」
「そうか」
それで、終わりだった。
六日目、後ろの人が、同じことを聞いた。
「あんた、字は」
「読めないです」
「そうか」
同じ言い方だった。
前の人が聞いたのを、この人は知らないんだと思う。話していないんだと思う。
意地が悪いんじゃない。
この人たちは、俺について話すことが無いだけだ。
そして、俺のほうにも、無かった。
夜、風の向きが変わって、煙がこっちへ来た日があった。
一人が立って、焚き火の石を二つ、動かした。
煙が、向こうへ行った。
何も言わなかった。俺も言わなかった。礼を言う場面なのかどうかが、分からなかった。
四日目に、村があった。
井戸があって、女の人が水を汲んでいた。桶の縁に手をかける持ち方が、うちの街と違った。ここは平らなので、担がずに提げる。
その人が、馬を見て、それから外套を見た。
「今朝も、通ったよ」
「なにが」
「白いの。おたくらと同じような格好の」
俺は、聞いてしまった。
「男の人ですか」
「女の人だよ。ひとりで」
俺は、前の二人を見た。
二人とも、水を汲んでいた。聞こえていたはずだった。
「追いつきますか」
「追いつきません」
「なんでですか」
「向こうは、止まらんので」
それだけだった。
十日、一度も見なかった。
あの人は、俺が捕まる前に街を出ている。
出たときには、何も起きていなかった。
だから、俺がこの道を歩いていることを、たぶん知らない。
半日先を、知らない人が歩いている。
それが、十日つづいた。
八日目に、俺のほうから聞いた。
十日で、俺が自分から口をきいたのは、これ一度だ。
「あの板は、どうなるんですか」
「証拠です」
「返ってきますか」
「分かりません」
俺は、それ以上聞かなかった。
板は、もともと店の壁板だった。
剥がしたところが、そのままになっている。壁に、板一枚ぶんの穴が開いている。
あの穴は、板が戻らないと塞がらない。
九日目から、道に人が増えた。
荷車が来る。人が来る。すれ違うたびに、こっちが道の端に寄る。
そして、色が混じりはじめた。
最初は、一人だった。
緑の髪の男が、荷車を引いていた。
俺は、その人が見えなくなるまで見ていた。
街で緑を見たのは、二度しかない。
その日のうちに、あと四人、色のある人とすれ違った。
十日目の昼に、都が見えた。
でかい、と思った。
思ってから、その言い方では足りないと思った。
うちの街は、坂の下から上まで見える。港に立てば、北門まで見える。全部で二千人ちょっといて、その全員が、どこかに立っている。
都は、端が見えなかった。
門は、荷車が四台並んで通っていた。
うちの北門は、大人が二人並んで通ると肩が当たる。ヨナスさんが槍を横にすると、それで塞がる。
ここの門には、槍を持った人が六人いて、それでも塞がっていなかった。
門をくぐったところで、馬が止まった。
板が下ろされた。
麻布を巻いたまま、二人で担いで、右の建物のほうへ持っていった。
俺は、左だった。
十日、あの板は俺の三歩前にあった。
布に巻かれて、縄で縛られて、横倒しになっていた。中身は見えない。見えなくても、八十四行あることは知っていた。
それが、右へ行った。
誰も、行き先を教えなかった。
俺も、聞かなかった。八日目に一度聞いて、分かりませんと言われている。二度は聞かない。
中に入って、最初にやったのは、数えることだった。
癖である。
二十まで数えて、やめた。
やめたんじゃない。数えられなくなった。
人が、途切れない。
数えた人が、また前に出てくる。前に出た人が、別の人の後ろに入る。一度数えた顔と、まだ数えていない顔の区別が、つかない。
街では、つかないということが無かった。
八十四人なら、覚えられる。
二千人でも、顔は全部見たことがある。
ここは、全員が初めてだった。
それから、色に気づいた。
多い。
街では、大人の三人に一人だ。それで「色があるのは人の頭の上だけ」という見え方になる。灰色の街を、赤と青が歩いている。だから遠くからでも誰か分かる。
ここは、二人に一人だった。
十人が固まって歩いていて、そのうち四人か五人に色がある。
青。緑。菫。金。銀。
街で一度も見たことのない色が、二つ並んで歩いていた。
色があるのは人の頭の上だけ、というのは、この街では成り立たない。
色で人を見分けることができない。
色が多すぎると、色は目印にならない。
目が痛くなった。
痛いのは、色のせいだけじゃなかった。
俺は、見たくなくても見てしまう。
袖が目に入る。刺繍が目に入る。手と、顔と、立ち方が目に入る。入ったら、勝手に合わせてしまう。
合っている。
合っている。
合っている。
埋まっている、という感じが、次から次へ来る。
合っていない人も、いた。
いたが、少なかった。
これは、街とは逆だった。
うちの街で卓を出したとき、俺は五十四人に会った。
合っていないと言えたのは、一人だ。
だが、あれは「言えた」が一人という話で、目についたのは、そういうことじゃない。
街を歩いていると、上に乗っているだけの人が、ずっと目についた。褪せた刺繍と、その下にある形が、ずれている。
だから俺は、この力は人の外れを見つける力なんだと思っていた。
ここでは、埋まっているほうが先に目に入る。
理由は、分からない。
都には司名が何人もいるのかもしれない。名前を選ぶ人が上手なのかもしれない。合わなかった人間が都に出てこないだけかもしれない。合わない名前の人が、この道を通って、うちの街みたいなところへ流れているのかもしれない。
どれも思いついただけで、確かめようがない。
市の通りで、一人、見つけた。
台に干した魚を並べている男だった。四十くらい。
手が、合っていなかった。
指の付け根に胼胝がある。四本とも同じ場所だ。棒を握って振る人間の手だ。魚を並べるのに、あの胼胝はできない。
袖を見た。
刺繍は新しくない。褪せている。褪せているのに、下に隙間があった。
上に乗っているだけだ。
俺は、足を止めていた。
止めたつもりはなかった。気がついたら、止まっていた。
男が、顔を上げた。
「なんだ、あんた」
目が合った。
合ってから、俺は、この人に何も言えないことに気がついた。
「すみません」
男は、もう一度俺を見て、それから台に目を戻した。
舌打ちもしなかった。この街には、変なやつが多すぎるんだと思う。
後ろの人が言った。
「歩いてください」
それだけだった。
怒っていない。急いでもいない。歩く場面なので、歩いてくださいと言っただけだ。
俺は歩いた。
うちの街では、袖を見ていいことになっていた。
八十四人が、見てくれと言ったからだ。板に名前を書いて、坂に並んで、順番を待った。
ここでは、誰も頼んでいない。
見るのは、俺が勝手にやっていることだ。
マルタさんに拾われた三年前から、ずっとそうだった。皿を洗いながら、卓の袖を見ていた。誰にも頼まれていない。
街でそうじゃなくなったのは、ほんの二十日ちょっとのあいだだけだ。
一つだけ、確かなことがあった。
ミアが、こう言った。
「じゃあ、覚えて帰ってきて」
俺は字が書けない。だから、覚えるしかない。
あの子と同じやり方だ。あの子は八十四枚を、書いた順に覚えている。
門を入って半分も歩かないうちに、俺は覚えるのをあきらめていた。
多すぎる。
牢は、石だった。
夏なのに、中に入ると寒かった。鍛冶場の朝と同じだ。石が冷えていると、外の気温は関係ない。
卓があって、書記が座っていた。
三十くらいの男で、指の側面にインクの染みがある。
同じところが黒い人を、俺は前にも見た。あの人のほうが、染みが薄かった。
「名は」
「クルトです」
「二つ名は」
「ないです」
羽根ペンが、止まった。
「……ない?」
書記が、顔を上げた。
上から下まで、俺を見た。
髪を見て、目を見て、それから右の袖を見た。
「歳は」
「二十です」
「授名は」
「三度、受けました」
「三度」
「三度とも、入りませんでした」
書記は、それを書かなかった。
書く欄が無いんだと思う。
紙は、線で細かく区切ってあった。区切りの数だけ、書くことが決まっている。決まっていないものは、入らない。
「髪と目は」
「黒と、灰色です」
「地の色か」
「はい」
それは書いた。
書記は、しばらく紙を見ていた。
見てから、立って、奥へ行った。
戻ってくるまで、俺は立っていた。
戻ってきて、腰を下ろして、それから言った。
「線を引いとけ、と」
羽根ペンが、横に一本、動いた。
字は読めない。
線は、分かった。
「書かないんですか」
「書くことが無いので」
書記は、俺のほうを見ないで言った。
責めていない。困ってもいない。無いものは書けない、という、それだけの顔だった。
三年、俺は「あいつ」か「さっきの」で済まされてきた。
誰も、それを紙に書かなかった。書く必要が無かったからだ。
今日、初めて、それが紙になった。
紙になったのに、字にはならなかった。
次に、持ち物を出せと言われた。
俺は、懐から布を出した。
それしか無かった。
書記は、布を広げて、裏返して、また畳んだ。畳み方が、マルタさんとは違った。
それから、書いた。
書きながら、口に出した。読み上げる決まりらしい。
「布、一枚」
俺は、その音を聞いていた。
俺の名前の隣には、線が引かれている。
布は、書かれた。
廊下は長かった。
両側に房がある。数えた。片側に八つ。
鉄の柵で、下のほうだけ木が張ってある。中は暗い。人がいるのは、匂いで分かった。
入れられたのは、手前から三つ目だった。
思っていたより広かった。
石の床に藁が敷いてあって、壁に沿って人が座っている。奥の壁にも、両側の壁にも座っている。
数えようとして、やめた。
柵が閉まる音がして、そっちを見てしまって、目を戻したら、どこまで数えたか分からなくなった。
今日は、ずっとこれだ。
誰も、こっちを見なかった。
しばらくして、飯が来た。
木の器を載せた台を、二人で押してくる。車の片方が鳴っていた。軸に油が足りていない。リーヤなら、音だけで直すところが分かると思う。
柵の下の隙間から、器が入ってくる。
俺は、それを受け取った。
受け取ってから、廊下の奥を見た。
いちばん奥の房に、人がいた。
遠い。顔は見えない。
柵の下から入った器の前に、その人は座っていた。
座って、指を動かしていた。
台の上の器を、指でなぞっている。
右から左へ。一つずつ。
数えていた。
全部が配り終わるまで、その人は食わなかった。
配り終わって、台が向こうへ行って、それから食いはじめた。
俺は、あ、と思った。
三年、俺は皿を数えてきた。
誰にも頼まれていない。数えていないと手が止まるから、数えていた。
この都に入ってから、俺は一度も数えきれていない。
数えている人間を見たのは、これが初めてだった。
俺は、その人を見ていた。
何も言わなかった。
言うことが、一つも思いつかなかった。




