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第6話 炎のリーヤ

 翌朝、名簿の板は八十四人ぶん埋まっていた。


 昨日、坂に並んだのが八十四人。そのうち八十三人が、自分で名乗って書いてもらった。


 残りの一人は、書かずに帰った。


 一番上の、荷運びのマティス。俺が勝手に書いた。字が読めないので、袖の刺繍の形を一つずつ写した。時間はかかった。


 昨日の最後に板の前まで来た鍛冶屋の女は、結局、何も書かずに坂を下りていった。だから、あの人はこの八十四人に入っていない。


 朝の光が坂の下、港の側から低く差してきて、店の床に斜めの帯を作っていた。帯の中で埃が回っている。板を卓に立てかけると、名前の並んだあたりに、ちょうどその帯がかかった。


 「では、上から順に」


 セシルさんが板を写した紙をひらひらさせた。いつの間に写したのか分からない。


 外套は白に近い生成りで、縁の銀の線だけが朝の光を受けて細く光った。靴は焦茶の革で、埃が一粒もついていない。この街で一番きれいな靴だ。


 「行きましょうか。マティスさんの家は、港の三番倉庫の裏です」


 「うん」


 「うん、と言いながら、まだ一歩も動いていませんが」


 「知ってる」


 「では、どちらへ」


 俺は答えなかった。


 答えなくても、たぶんこの人には分かっていた。




 店を出て、坂を下る。


 下りは楽だと思われがちだが、この坂は違う。石畳は磨り減って丸くなっていて、踵から降りると滑る。勝手に速くなるのを、膝で止めながら降りることになる。十歩で腿の前が張って、二十歩で足の指が痛くなった。


 風は下から来る。海の匂いを乗せて、正面から当たってくる。


 途中で一度、立ち止まった。


 屋根が下に見えた。くすんだ赤茶の瓦が、港へ向かって段々に落ちていって、その先に灰緑の海がある。桟橋が三本。船が三隻。荷を積んでいる連中の頭が、さっきより大きくなっている。


 下りるほど、街が近づいてくる。


 そして、下りるほど、鉄の匂いが濃くなった。




 鍛冶場は、港のそばにあった。


 鉄も炭も、船で来る。だから港に近い。それに、火を扱う仕事は街の真ん中に置かない。一度燃えたら、坂の上まで全部持っていかれるからだ。


 間口が狭い。両隣の家に挟まれて、扉の幅は人が二人並べるかどうかしかない。看板はない。というより、看板が要らない。


 屋根が高いからだ。


 左右の家より頭ひとつぶん高くて、その壁の上の方に細長い穴がいくつも開いている。そこから煙が出ている。海風に押されて、上がったそばから坂の上へ流されていく。街の連中は、朝この煙の太さを見て、今日あの店が何を打つのかを当てる。


 近づくと、まず音が来た。


 かん。かん。かん。


 高い音だ。金属を叩く音は、思っているより高い。当たった瞬間だけ鳴って、あとに何も残らない。


 次に、熱が来た。


 入口から三歩ぶん手前で、もう空気が違う。頬にじわっと当たる。夏の日向とは違って、面で押してくる感じの熱だ。


 最後に、匂い。


 炭と、焼けた鉄と、それから何か酸っぱいような匂いが混ざっている。焼けた油だと、あとで分かった。


 入口に足を踏み入れると、じゃり、と鳴った。


 見ると、砂と、鉄屑だった。細かい鉄の粒が砂に混じって、踏むたびに靴の底で軋む。


 俺は入口の枠に手をついて、中を覗いた。


 枠の木は手の脂と煤で黒くなっていて、触ると少しぬめった。




 中は、暗かった。


 外が明るいぶん、最初は何も見えない。奥行きだけが分かる。間口の狭さから想像したより、ずっと深い。梁が二本渡してあって、そこから鎖と、用途の分からない鉤がいくつも下がっている。


 壁は、黒い。塗ったんじゃなくて、煤だ。三年ぶんか、二十年ぶんか、それ以上か。手で触ったら指が黒くなるやつだ。


 暗いのに、一箇所だけ、赤い。


 奥の炉だ。石を積んで作った四角い炉の口から、光が漏れている。橙色というより、もっと濃い。血みたいな色だ。芯の方は白に近くて、外へ行くほど橙になって、口を出たあたりで赤くなる。


 その光が届く範囲だけ、床と壁と道具が見えている。それ以外は真っ暗だ。


 空気の中を、細かいものが舞っていた。火の粉と、灰と、削りかす。赤い光を横切るときだけ見えて、外れると消える。


 金床の前に、人がいた。


 背は高くない。肩幅がしっかりしている。黒い革の前掛けをして、腕をまくっている。前掛けは厚くて、焦げた跡が層になっていた。古い焦げの上に、新しい焦げが乗っている。


 髪を後ろで雑にまとめていて、後れ毛が顔にかかっている。


 その髪が、赤かった。


 赤銅色だ。炉の光を受けて、束のところが金属みたいに光る。剥き出しの腕も同じ色に照らされていて、肩から手首までが赤い。


 ただ、光っているのに、くすんでいた。


 火にこれだけ照らされているのに、髪そのものの色は、どこか褪せかけて見えた。日に晒しすぎた布みたいに。


 彼女は、槌を振り上げて、下ろした。


 かん。


 もう一度。


 かん。


 三度目のとき、手元の鉄が、ぐにゃりと曲がった。


 思っていた方向と違う方向に。


 「――あー、もう!」




 彼女は槌を金床に置いて、曲がった鉄を火挟みで摘まみ上げ、脇の水桶に放り込んだ。


 じゅう、と音がして、湯気が上がった。


 湯気が赤い光を通って、そこだけ薄い橙に染まった。


 湯気が晴れる前に、彼女はこっちを見た。


 見て、目を細めた。


 それから、はっきりと言った。


 「帰れ」


 「まだ何も言ってない」


 「言われる前に帰れ」


 「効率いいね」


 「うるさい」


 彼女は前掛けで手を拭いて、俺の方に歩いてきた。


 歩いてくると、色が変わった。


 炉から離れるにつれて、赤銅が沈んでいく。三歩で暗くなって、五歩で、もうただの暗い茶に見えた。腕の赤みも引いた。


 同じ人間なのに、別の人間が来たみたいだった。


 近くで見ると、目つきが強い。眉が濃くて、下がらない。怒っていなくても怒って見える顔だ。目は濃い茶。


 立ち止まると、片足に重心をかけた。


 そして、腕。


 肘から手首まで、火傷の跡が重なっている。丸いのが多い。飛んだ火の粉が当たった跡だ。線状のは、たぶん熱した鉄に触れた跡。


 古いのは、白い。白くて、周りより少しだけ盛り上がっている。指でなぞったら段差が分かるやつだ。


 新しいのは、赤い。


 白と赤が、腕の上でまだらになっている。数えようとして、やめた。数えきれない。


 新しいのが、二つあった。まだ赤い。片方は縁がめくれかけていた。


 彼女は腕を隠さなかった。まくったままだった。


 「あんた、名前変える人でしょ」


 「まあ、そういうことに」


 「うちは間に合ってる」


 「間に合ってる?」


 「そう」


 喋っているあいだ、左手の指先が何か小さいものをいじっていた。ねじだか、針金だか。話しているのに、その指だけが別のことをしている。


 俺は、彼女の腕を見た。


 見て、口が動いた。


 いつもの悪い癖だった。動揺すると軽口が増える。


 「……その腕で?」




 槌が飛んできた。


 本当に飛んできた。俺の頭のあった場所を通って、後ろの壁に当たって、床に落ちた。ごん、と重い音がした。


 俺はしゃがんだまま、動けなかった。膝が笑っていた。


 「出てけ」


 「すいません」


 「出てけって言ってんだよ」


 「はい」


 俺は外に出た。


 出た瞬間、風が冷たかった。


 出てから、心臓がまだ動いているのを確かめた。動いていた。よかった。




 外の石段に座った。


 鍛冶場の脇に、石段が四段だけある。座ると、石が思ったより温かい。壁の向こうに炉があるからだ。壁に背を預けると、背中がじんわり温まった。


 海が見える。


 坂の下側に座っているので、港がすぐそこにある。船が三隻、繋いである。荷を積んでいる連中の声が、風に乗って途切れ途切れに聞こえてくる。


 背中の壁越しに、槌の音が続いていた。


 かん。かん。かん。


 しばらく聞いていて、俺は気づいた。


 音が、揃っていない。


 三回に一回くらい、音が違う。高い音のあいだに、鈍い音が混じる。ごつ、という感じの、はずれた音だ。


 いや、正確に言うと、リズムが二種類ある。


 一つは、重い方。振り上げて、落として、また振り上げるまでに間があく。かん、と鳴ったあと、余計な音が尾を引く。


 もう一つは、速くて、軽い。たん、たん、たん、と三つ四つ続く。こっちは尾を引かない。


 速い方は、ときどきしか出てこない。


 鉄を叩くとき、当たる場所と角度が合っていないと、鈍い音になる。たぶん。


 俺は鍛冶の素人だ。だから断言はできない。


 できないけど、あの人はさっきから、同じ失敗を繰り返している。


 それは分かった。




 「ドンさんが、いたらな」


 俺は独り言を言った。


 「音で全部分かるんだろうな」


 「呼びましょうか」


 セシルさんが隣に座っていた。


 いつの間に。石段は四段しかない。上ってくれば足音がするはずだった。


 外套の裾を手で払ってから、まっすぐ座っている。


 「あの人、いま寝てるでしょ。夜警だから」


 「起こせば起きます」


 「起こさないであげて」




 昼を回った頃、音が止んだ。


 止むと、街の音が戻ってきた。荷車の車輪、坂の下の話し声。ずっと塞がっていた耳が、急に空いたみたいだった。


 しばらくして、入口から彼女が出てきた。


 手に、水を張った桶を持っている。


 外に出た彼女は、また色が違った。日の下だと、髪は赤銅というより、くすんだ茶に近い。褪せかけている、という言い方が一番近い。


 石段の脇にしゃがんで、腕を桶に突っ込んだ。


 肩まで浸けて、そのまま動かない。


 顔をしかめている。目を閉じて、息を短く吐いている。桶の水面が、腕の震えで細かく波打っていた。


 俺は黙って見ていた。


 しばらくして、彼女が目を開けた。俺と目が合った。


 「……まだいたの」


 「まだいた」


 「暇なの」


 「暇じゃないけど」


 「じゃあ帰れよ」


 「帰るとこがあんまりない」


 彼女は、少し黙った。


 それから、腕を桶から出した。


 水が滴った。滴が乾いた石段に黒い点を作った。新しい火傷が、水で白くふやけていた。




 「リーヤだ」


 彼女は言った。


 「知ってる。形は覚えた」


 金の糸だ。前掛けの下から袖が覗いていて、そこだけやたらに立派だった。布は擦り切れかけているのに、糸だけが新しく光っている。


 「あんたは」


 「クルト」


 「二つ名は」


 「ない」


 「ふうん」


 この街の人間は、全員この音を出す。次に何を言えばいいか分からないときの音だ。


 彼女は桶の水を石段に流した。水が段を伝って落ちていく。乾いた石が濡れて、灰白から黒に変わった。


 「昨日、行ったよ。あんたのとこ」


 「見た」


 「書かずに帰った」


 「見た」


 「なんで理由聞かないの」


 「聞いたら怒るでしょ」


 「怒るね」


 「じゃあ聞かない」


 彼女は、初めて、少しだけ口の端を上げた。


 笑ったというより、呆れた顔だった。鼻から短く息が出た。




 「入れば」


 「え」


 「暑いから、外だと死ぬ。中も暑いけど」


 彼女は先に入っていった。


 俺は立ち上がって、ついていった。




 中は、やっぱり暗かった。


 入った瞬間、また熱が来る。


 目が慣れてくると、いろいろ見えてくる。


 まず、広い。梁までは俺の背丈の三倍くらいあって、声を出したら少し響きそうだった。


 床は土間で、砂と鉄屑。奥へ行くほど鉄屑が増える。


 壁に道具が掛かっている。槌が大小七本。火挟みが四本。鑢が十数本。刻印の道具が、たぶん三十個以上。


 掛け方が雑だった。釘に引っかけてあるだけで、高さも間隔も揃っていない。使う順でもない。


 金床は部屋の真ん中にある。近づいて、指で触った。


 冷たかった。


 これだけ熱い部屋の中で、金床だけが冷たい。炉から二歩しか離れていないのに、掌を置いてもぬるくならない。


 棚には、作りかけのものが並んでいた。


 包丁。鎌。蝶番。釘の束。


 どれも、まあまあ、という感じだった。曲がってはいないが、きれいでもない。刃の線が、途中で一度気の変わったみたいに揺れている。


 俺は棚の端まで来て、そこで足を止めた。


 棚が、変わった。


 そこから先だけ、別の棚だった。


 板が一枚、水平にきちんと張ってあって、その上に小さい道具が並んでいる。細い鏨。先の尖った鑿。針みたいな鑢。


 並び方が、違った。


 全部、同じ向きを向いている。柄の頭が一直線に揃っている。大きい順に、左から右へ。隙間が、どれも同じだけ空いている。


 煤だらけの部屋で、そこだけ拭いてあった。


 その脇に、小さい箱があった。


 中に、細かいものが入っている。


 留め金だ。指の先くらいの大きさで、押すと開いて、離すと閉じる。表に、蔓草みたいな模様が彫ってある。


 俺は一つ手に取った。


 軽い。異様に軽い。それでいて、開け閉めがぴたりと合っている。がたつきがない。爪の先を隙間に入れようとしても、入る隙間がない。


 彫ってある線が、一本も途切れていない。


 角で曲がるときも、線の太さが変わらない。途中で止めて、彫り直した跡もない。


 「これ、あんたが作ったの」


 「暇なときの」


 「暇なとき」


 「炉が冷めるまで、やることないから」


 俺は、箱の中を見た。


 三十個くらい入っている。全部、模様が違う。


 「売ってるの?」


 「売らない」


 「なんで」


 「うちは鍛冶屋だから」




 その言い方が、あんまり平坦だったので、俺は顔を上げた。


 彼女は炉の方を見ていた。


 炉の上の壁に、布が一枚、額に入れて掛けてあった。


 俺は近づいた。近づくと、顔が熱い。炉の真上だから当然だ。


 古い布だ。端がほつれている。上着の袖から切り取ったもので、切り口が丸まっている。もとは白かったんだろうが、煤で灰色になっている。


 その真ん中に、金の糸で縫ってあった。


 金糸だけが、煤を弾いていた。三年ぶんの煙を浴びて、そこだけまだ光っている。


 ――炎のバルド。


 「親父」


 彼女が言った。


 「三年前に死んだ」


 「……そうなんだ」


 「この街で、一番いい鍛冶屋だったよ。剣も打てた。街の門の金具、全部あの人」


 彼女は薪を一本取って、炉に放り込んだ。


 放り方に迷いがなかった。見ないで放って、それでも真ん中に落ちた。何千回もやった人の手つきだ。


 火の粉が上がって、赤い光の中で舞った。


 「あたしが十五で炎の名をもらったとき、街中が喜んだ」


 「跡継ぎができたって?」


 「そう」


 彼女は炉の口を見ていた。


 その顔が、また赤く光っていた。頬も、首も、まつげの先まで。


 「親父も喜んだ。あんなに笑ったの、初めて見た」




 「その四年後に、親父が死んだ」


 彼女は火挟みを取って、炉の中の鉄を回した。


 「で、あたしが継いだ。当たり前だよね。炎の名があるんだから」


 俺は、何も言わなかった。


 言葉の代わりに、彼女の手を見ていた。


 この人の顔は、怒っているようにしか見えない。だから顔は見なかった。


 火挟みを持つ手は、ぎこちなかった。


 握りが深すぎる。柄の根本まで握り込んでいて、指の関節が白くなっている。力を抜けば挟めるものを、力で挟もうとしている。


 肘が上がっていた。肘が上がると、手首の角度が浅くなる。浅い角度で鉄を掴むと、掴んだところが滑る。


 実際、滑った。


 一度目、鉄が半分だけ回って、戻った。二度目、掴み損ねて、火挟みの先が空を掻いた。三度目でようやく回った。


 回したあと、彼女は火挟みを持ち替えて、一度、手首を振った。痺れているみたいに。


 さっき、留め金を摘まんでいた手とは、別人の手みたいだった。


 あのときの指は、迷わなかった。留め金を親指と人差し指の腹で挟んで、爪の先で蓋を起こして、閉じた。三つの動作が、一つに見えるくらい速かった。


 左の親指の側面が、平らに削れていた。何かを、そこで押さえ続けた人の指だ。


 同じ腕の、同じ手だった。




 「あんたさ」


 彼女が言った。


 「昨日、店の前で言ってたよね。知らない人の名前は出ないって」


 「言った」


 「じゃあ、あたしのは出ないでしょ」


 「出ない」


 「今、出た?」


 「出てない」


 俺は正直に答えた。


 嘘は、そもそも口を通らない。喉のところで引っかかって、出てこない。


 彼女は頷いた。


 「うん。だから帰れ」


 「まだ何も」


 「言わなくていい。分かってるから」


 彼女は炉の口を見たまま言った。


 「あたしがこの名前に合ってないことくらい、あたしが一番よく分かってる」


 俺は、口を開けたまま止まった。


 「二十年、火の前にいて、いっぺんも上手くならない。二十年だよ。下手なんじゃなくて、向いてないんだよ。分かってる」


 彼女は火挟みを置いた。


 置いた音が、やけに小さかった。


 さっきまで指先で何か転がしていた左手が、止まっていた。両手が、前掛けの上でだらんと下がっている。


 「でもね」


 「うん」


 「あたしが炎じゃないって認めたら、あの布は何になるの」




 俺は、壁の額を見た。


 煤で灰色になった布。金の糸。炎のバルド。


 「街の連中はさ」


 彼女は続けた。


 「あの人が死んだとき、みんな言ったんだよ。『娘が炎の名でよかった』って。『これで炎の家は続く』って」


 「うん」


 「あたしがやめたら、あの人の名前も、一緒に終わる」


 彼女は、腕をさすった。


 新しい火傷のところを、無意識に。


 さすっている指が、そこで一度止まって、それから離れた。


 「だから、いい。このままで」


 炉の中で、薪が一本、崩れた。


 崩れた拍子に火が明るくなって、彼女の髪がまた赤く光った。


 光っているのに、褪せて見える。


 俺はそれを、うまく説明できなかった。




 外に出たら、日が傾いていた。


 坂の下側にいるので、日が早く陰る。西の空はまだ明るくて、石畳が橙になりかけている。下の方、港の側はもう影に入っていた。


 海の方から風が吹いていて、熱を持った顔に当たると気持ちよかった。


 セシルさんは、石段の一番下に座って、何か食っていた。どこで買ったんだろう。


 「どうでした」


 「出なかった」


 「そうですか」


 俺は隣に座った。座ると、膝を抱えた。


 「あの人さ」


 「はい」


 「手が、二種類あるんだよ」


 「二種類」


 「火挟み持ってるときと、留め金摘まんでるときで、別人の手になる」


 俺は自分の手を見た。


 ふやけた指。皿を洗いすぎた指。三年ぶんだ。


 こっちは、一種類しかない。


 「たぶん、答えはもう見えてるんだ。あの人の中では」


 「では、なぜ出ないのでしょう」


 「知らないから」


 俺は言った。


 「俺、まだあの人のこと、一日ぶんしか知らない」


 セシルさんが、指で唇を触った。


 「では、明日も来ますか」


 「来る」


 「怒られますよ」


 「怒られる」


 「槌が飛んできますよ」


 「……もう少し、離れて立つ」




 その夜、鍛冶場の炉は消えていなかった。


 店の前に出て、坂の下を見た。


 夜の街はほとんど何も見えない。月が出ていて、石畳だけが青く光っている。


 その暗い中に、一点だけ赤い。


 壁の上の細長い穴から、光が出ていた。煙も出ていた。煙は月の光を受けて、白く見えた。


 俺はしばらくそれを見ていた。


 風が下から吹き上げてきて、鉄と炭の匂いが上ってきた。


 あの炉は、たぶん、三年前から一度も消えていない。


 消したら終わりだと思っている人が、毎晩、薪を足しているからだ。

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