第5話 順番
朝の坂は、いつも荷担ぎで埋まる。
港で荷を受けた連中が、麻袋を肩に載せて上がってくる。全員、うちの店の前で一度止まって息をつく。壁のその一角だけ、肩をこすりつけた跡で黒く光っている。
今日は、人で埋まっていた。
俺は扉を細く開けて、そのまま外に出た。把手が朝の冷たさを持っていて、掌に残った。
店の前は石段が二段ある。そこに立つと、坂の下まで見える。坂の街の便利なところだ。不便なところも、たぶん同じところだ。
店の扉から坂の下まで、両側の壁に沿って二列。石畳の上に、五十人以上が黙って立っている。坂は下で一度折れているので、その先は見えない。見えないところまで、続いている。
朝の光は港の方から来る。海からまっすぐ、低い角度で坂を這い上がってきて、通りを斜めに切っていた。光の帯に入っている人と、入っていない人がいる。並んだ脚のあいだを影が長く抜けて、二段か三段下の誰かの膝まで届いていた。
石畳は、まだ夜の湿りが残っていて黒い。日の当たったところだけが、端から灰白に乾きはじめている。
それから、頭の色が、ばらばらだった。
この街の大人は、三人に一人くらいが名の色を持っている。だから人が集まると、上から見たときだけ、そこに色がつく。灰色の石と、灰色の壁と、生成りと茶とくすんだ青の服。その上に、青い頭と、緑の頭と、菫と、紅と、金と、銀が点々と散っている。
坂の下から見上げれば、ただの人の列だと思う。
上から見下ろすと、色の列だった。
そのあいだに、色のない頭がいくつも混じっている。
俺は、それを数えそうになって、やめた。
誰も喋っていない。
咳がひとつ。靴の底が石を擦る音。列の下のほうで赤ん坊が短く鳴いて、すぐ止んだ。坂の途中の家からパン屋の煙が真上に上がっている。まだ風が来ていない。
その静かさが、一番怖かった。
「……何人いると思う?」
「数えました」
セシルさんが言った。
いつからそこにいたのか分からない。この人は歩幅がでかいので、三歩で来る。
朝の光が白金の髪に当たって、そこだけ白く飛んで見えた。外套の銀の縁取りが、一本だけ光を拾っている。腕は、いつもどおり組んでいた。
「八十四人です」
「数えたんだ」
「数えるのが仕事なので」
最初に動いたのは、マルタさんだった。
彼女は扉を蹴り開けて外に出た。鍋を持って。
朝の光の中に、白と赤が半分ずつの頭が出てきた瞬間、列の上のほうが数歩、後ろに下がった。動物の勘だと思う。
「並びな!」
既に並んでいる。
「二列! 真ん中は空ける! 荷車が通れなくなるだろうが!」
列が動いた。全員、素直に従った。
マルタさんは石段を降りて、坂を下りながら怒鳴っていった。赤い頭が下がっていくのに合わせて、列が波みたいに寄っていく。上から見ていると、揃っていく順番がよく分かった。
「朝飯は出す! 銅貨二枚だ!」
列がざわついた。
この街の朝飯の相場は銅貨一枚半だ。八十四人ぶんだと、差額が四十枚くらいになる。
誰も言わなかった。俺も言わなかった。
「食わないやつは列を外れな! 半日立つんだよ! 倒れられたら迷惑だ!」
しばらくして、店の中に人が入ってきた。順番を保ったまま、順番に飯を食って、また列に戻っていった。
割り込む者は、一人もいなかった。
俺は厨房で皿を洗いながら、それを見ていた。桶の水が三回、灰色に濁って、三回、替わった。
マルタさんは卓の端で銅貨を受け取っては、一枚ずつ立てて並べている。十枚並ぶと、袋に落とす。数えるのは速い。合っているかどうかは、俺には分からない。
この人は、たぶんこの街で一番強い。
「じゃあ、始めるかい」
マルタさんが、店の一番奥に椅子を一脚置いた。
卓を二つ壁に寄せて、その向こうに一つだけ置いてある。
わざわざ左から三つ目の椅子を持ってきていた。脚が一本短いやつだ。この店の二十脚のうち、よりによってそれを選んだ。
「ここに座りな。一人ずつ入れるから」
「待って。心の準備が」
「半日立ってる連中の準備はどうすんだい」
もっともだった。
俺は座った。
椅子の脚が一本短くて、座るとかたかた鳴った。
一人目は、四十くらいの女の人だった。
背が低い。肩が前に入っている。編んだ髪を頭に巻きつけていて、その髪は栗色に白が混じっていた。名の色ではない。内陸の血が入っている人の、地の色だ。
手が荒れていた。指の関節が全部太い。掌の側だけ皮が厚くて、甲は薄い。洗い物か、糸を扱う仕事だと思う。
服は何度も洗って色の抜けた生成りで、袖の刺繍のところだけ、布が硬く盛り上がっていた。
袖には紡ぎのエルサと縫ってあった。糸は灰色だ。二十五年ぶん褪せている。
彼女は座らなかった。立ったまま、両手を前で組んで、俺を見ていた。
「あの」
「はい」
「うちの人が、去年死んで」
「……はい」
「わたし、紡ぎなんですけど、糸を紡いでも、売れないんです。ずっと。下手なんです」
彼女は袖を、少し握った。刺繍のところを、上から。
「本当は、別のものが向いてるんじゃないかって、ずっと」
俺は、彼女を見た。
見た。
何も、来なかった。
頭の中が、しんとしている。ドンさんのときみたいに、喉の奥から勝手に何かが上がってくる感じが、まったくない。
空の桶に手を突っ込んでいるみたいだった。
「……もう少し、見ていいですか」
「はい」
俺はもう一度見た。
手を見た。顔を見た。立ち方を見た。
やっぱり、何も来なかった。
二人目も、出なかった。
三人目も。四人目も。
二人目は桶屋で、髪が銀色だった。名の色としては上等な部類だ。三人目は俺と同い年くらいの男で、緊張しているのか、同じ話を三回した。
五人目は男で、六人目は子供で、七人目は年寄りだった。
全部、出なかった。
八人目のあたりで、俺は手が冷たくなってきていることに気づいた。
水に浸けていたわけでもないのに、指の先だけ感覚が遠い。膝の上で握って、開いて、また握った。
九人目、十人目、十一人目。
昨日は、あんなに簡単に出たのに。
ドンさんのときは、考えるより先に口が動いた。止められなかったくらいだ。
なんで、出ないんだ。
十一人目が出ていったあと、俺は窓を見た。
この店の窓は高い。背伸びしないと外が見えない。
背伸びした。
列が、減っていなかった。
いや、正確に言うと——さっき出ていった連中が、列に戻っていた。
三人目の男が、坂の少し下に立っている。同じ話を三回した男だ。四人目の女の人も、七人目の年寄りもいた。列の前のほうではなく、たぶん、自分がさっきまでいた場所に戻っている。
「マルタさん」
「なんだい」
「あの人たち、なんで戻ってんの」
彼女は厨房から出てこなかった。鍋を洗う音だけが返ってきた。
「帰れって言われてないからだろ」
「言ったよ。出ないって」
「『出ない』と『帰れ』は、別だよ」
俺は、厨房のほうを見た。見ても姿はない。声だけがこっちに来る。
「あんた、無理だとは言ってない」
言っていなかった。
言えなかった。
言えなかったから、あの人たちは、まだそこにいる。
――八十四人。
十一人ぶん、減っていない。
一人も、帰っていない。
十二人目は、老人だった。
扉が開いて、光が一度遮られた。それから、杖の先が床を突く音が、ゆっくり近づいてきた。
とん、と間があって、また、とん。
背が縮んでいる。肩が、右だけ落ちていた。六十年、同じ側で荷を担いだ人の肩だ。
顔の皮膚が薄くて、こめかみの血管が透けている。目が濁っていたが、こちらはガレンさんの片目と違って、両方ともうっすら白かった。髪は白いというより、色が抜けきっている。眉だけが黒く残っていた。
頭に、色はなかった。
杖の先が、擦り減って丸くなっている。長く使っている杖だ。木の柄の、握るところだけ色が変わって、鈍く光っていた。
息が浅い。三歩歩くと、一度止まる。椅子まで来て、そこからまた時間がかかった。腰を落とす途中で一度止まって、それから残りを落とした。
椅子が、かたん、と鳴った。
袖には荷運びのマティスと縫ってあった。
糸は、灰色を通り越して、布と同じ色になりかけていた。
「小僧さん」
声が細い。息の上に、かろうじて乗っている感じの声だった。
「わしはな、荷運びを六十年やった」
「はい」
「腰をやって、もう担げん。息も上がる。あと、そんなに長くない」
俺は何か言おうとして、やめた。
言うことがなかったからだ。
「六十年、荷を担いだ。文句はない。荷運びは、いい仕事だ」
彼は杖の柄を、両手で握った。
右手の上に左手を重ねて、そこに少しだけ体重を預けた。指の皮が薄くて、骨の形がそのまま出ていた。
「ただな」
「はい」
「一度でいい」
「はい」
「別の名前で呼ばれてみたかった」
店の中が、静かになった。
厨房の火が、小さく爆ぜた。
斜めに落ちている光の帯の中で、埃が回っている。さっきから、同じ速さで回っている。
外の列の物音だけが、遠くで聞こえていた。
俺は、この人を見た。
六十年ぶんの背中と、擦り減った杖と、薄い皮膚と、浅い息を。
見た。
全部、見えていた。
この人が今日ここまで坂を何段上がってきたかも、想像がついた。半日、あの列で立っていたことも。座らずに立っていたはずだ。座ったら、立てないから。
なのに、何も出てこなかった。
「……すみません」
声が、少し掠れた。
「出ないです」
「そうか」
老人は、あっさり頷いた。
あっさり頷かれたのが、一番きつかった。
「いや、いい。いいんだ」
彼は杖をついて、立ち上がろうとした。
時間がかかった。杖の先が床で一度滑って、俺は手を貸そうとして、貸していいのか分からなくなって、中途半端に手を出したまま止まった。
出した手を、どこにも置けなかった。
老人は、自分で立った。
「小僧さん」
「はい」
「あんた、いま、謝ったな」
「はい」
「謝るってことは、やろうとしてくれたってことだ」
彼は、それだけ言って、扉の方へ歩いていった。
とん、と間があって、また、とん。
扉が開いて、光が入って、閉まった。
俺は、椅子から立てなかった。
「――クルトさん」
セシルさんの声だった。
足音がしなかったわけではない。俺が聞いていなかっただけだ。この人の足音は、間隔が広くて、数が少ない。
「少し、いいですか」
「今、それどころじゃ」
「それどころの話です」
彼女は俺の前に回り込んで、腰をかがめた。
背が高い人が腰をかがめると、妙な迫力がある。細い目が、真正面に来た。薄い灰青の、笑っているのかどうか分からない目だ。
「ドンさんに名前をつけたとき、あなたは何をしましたか」
「何もしてない。見ただけ」
「どのくらい?」
「え?」
「どのくらいの期間、見ていましたか」
俺は、口を開けたまま止まった。
答えは、すぐに出た。
「……二年」
「二年」
「二年、毎日見てた。あの人が店に来て、入口で一回止まって、奥の卓に行って、火が爆ぜる前に肩が動いて、階段を降りてくる人がいると顔を上げるのを」
言いながら、自分で分かってきた。
分かってきて、寒くなった。手の冷たさが、肘のあたりまで上がってきた。
「……そういうことか」
「そういうことだと思います」
セシルさんは、紙を出して書きはじめた。
出す音がしなかった。この人はいつもそうだ。羽根ペンを一度持ち直してから書く。書く前に、必ず一度持ち直す。
「五つ目の縛りですね」
「五つ目」
「一。一度きり。二。同意が要る。三。嘘は通らない。四。自分には無理」
彼女は指を五本目まで立てた。指が長いので、五本立てるとやたら幅がある。
「五。知らない相手には、出ない」
俺は、椅子の背にもたれた。脚が一本短いので、かたんと鳴った。
「……最悪じゃん」
「なぜですか」
「だって、八十四人だよ。全員を二年ずつ見るの? 俺、何年生きればいいの」
「百六十八年ですね」
「計算しないで」
「したくなったので」
彼女は羽根ペンを紙に戻して、その計算を書き足した。書かなくていい。
この人は、たまに本当にいい性格をしている。
俺は、扉の前に立った。
把手に手をかけて、そのまま止まった。朝は冷たかった把手が、もうぬるくなっている。
外に出るのが、正直、嫌だった。
八十四人が、半日立っている。全員、袖をこちらに向けて。
断るというのは、そういう人たちに向かって「帰れ」と言うことだ。
「あんた」
マルタさんが、後ろから言った。
「断れないなら、断らなくていいよ」
「え」
「断らないで済む言い方を考えな。あんた、それは得意だろ」
俺は振り返った。
マルタさんは、鍋を持って、こっちを見ていなかった。竈の火を見ていた。薪を一本、火の奥に押し込んだところだった。押し込む必要のない薪だった。
……ああ、そうか。
この人は、俺が皿の枚数を数えているのを、たぶん知っている。
扉を開けた。
八十四人が、いっせいにこっちを見た。
色のついた頭が、坂の下まで、順番に上を向いていった。
その中に、さっき店の中で会った十二人がいる。
紡ぎのエルサさんも、桶屋も、同じ話を三回した男も、みんな元の場所に戻って、俺を見ていた。
誰も、怒った顔をしていなかった。
それが、一番きつかった。
朝の光が坂を上りきって、もう真上に近い。影が短くなっている。石畳は乾いて、灰白になっていた。
半日立った人間の立ち方というのがある。片足に重心をかけて、時々もう片方に移す。壁にもたれている人がいる。しゃがんでいる人がいる。子供が石畳の目地に小石を並べて遊んでいる。
俺は、大きく息を吸った。思ったより浅かった。
「――すいません」
声が思ったより出た。
「今日は、名前をつけられません」
列がざわついた。
当然だ。半日立っている。
「できないんじゃなくて、まだできないんです」
ざわつきが、少し止まった。
「昨日、俺が名前をつけた人は、二年間、毎日見てた人です。飯を食うのも、酔うのも、殴られるのも、全部見てた」
俺は、列の顔を順番に見た。
顔は、あまり見なかった。手を見た。癖なので。
握っている手。組んでいる手。杖を持つ手。子供の手を引いている手。籠の縁を掴んだまま離さない手。指のあいだに糸くずが挟まったままの手。
「知らない人の名前は、出ないんです。俺が偉そうにしてるんじゃなくて、本当に出ない。今日、十二人試して、十二人とも出ませんでした」
誰かが「じゃあどうすんだ」と言った。
俺は、そこで少し詰まった。
詰まって、それから、言った。
「時間をください」
「時間?」
「一人ずつ、見させてください。何日かかるか分かりません。何ヶ月かかるかも分かりません」
俺は、自分でも無茶を言っている自覚があった。
「でも、順番に、必ず見ます。忘れません。俺、覚えるのだけは得意なので」
列は、しばらく静かだった。
風が下から上がってきた。坂の風は下から来る。潮の匂いがして、誰かの袖が鳴った。
それから、後ろの方から声がした。
「――順番は、どうやって決めるんだ」
いい質問だった。
俺が答える前に、後ろから鍋の底を叩く音がした。
とん。
「あたしが書く」
マルタさんが、店の壁板を一枚引き剥がして出てきた。
引き剥がしたのか。
横に長い板だった。釘の穴が四つ開いていて、裏側は煤で黒い。何十年か壁だったものが、いきなり紙になった。
壁のほうには、板一枚ぶんの隙間が空いたままになっている。中から見ると、そこだけ細い光の筋が一本、厨房の床まで届いていた。
直す気は、たぶんない。
「名前と、住んでるとこと、袖の二つ名。全部書く。上から順にやらせる」
「勝手に決めないでよ」
「決めなきゃ収まらないだろうが」
彼女は板を店の外壁に立てかけた。剥がした跡の、すぐ横に。
「ただし!」
鍋が上がった。
「割り込んだやつは、順番を一番後ろにする! 文句を言ったやつも後ろだ! あたしに文句を言ったやつは、その家族も後ろにする!」
誰も文句を言わなかった。
賢明だと思う。
列は、思ったより静かに崩れた。
名前を書いて、帰っていく。書ける人のほうが少ないので、たいていは口で言って、マルタさんが書いた。字がでかい。最初のほうは一人で板を横に半分使っていて、途中から急に小さくなった。
書きながら「いつ頃になりますかね」と聞いてくる人がいて、俺は「分かりません」としか言えなかった。
みんな、そうですか、と言って帰った。
坂を下りていく背中が、順番に光を横切って、また影に入った。
怒鳴った人は、二人だけだった。二人とも、マルタさんに順番を後ろにされていた。
紡ぎのエルサさんは、三十七番目に書いた。
荷運びのマティスさんは、書かずに帰っていた。
俺はそれに気づいて、板の一番上に、勝手に名前を書いた。
俺は字が読めない。袖の刺繍の形は覚えていたので、それを一つずつ写した。時間はかかった。
マルタさんは何も言わなかった。
板を押さえていた手を、少しずらしただけだった。
書き足したぶん、下が全部ひとつずつ後ろへずれた。三十七番目に書いた紡ぎのエルサさんは、三十八番になった。
文句を言う人はいなかった。もう、誰も坂にいなかったからだ。
昼を過ぎて、列がほとんどなくなった頃。
石畳が温まって、靴の底から伝わってくる。坂の下のどこかで犬が一度吠えて、やめた。
最後の方に、一人だけ、まだ立っている人がいた。
坂の少し下、壁にもたれて、腕を組んでいる。
若い女だった。俺より二つか三つ上に見えた。
背は高くない。肩幅がしっかりしていて、上着の肩のところが張っている。立っているとき、片足に重心をかけていた。もう片方は爪先だけが石に触れている。
髪は赤銅色だった。内陸の血が入っている人の色だ。後ろで雑にまとめてあって、まとめきれなかった後れ毛が顔にかかっている。それを、うるさそうに払っていた。何度も払うので、そのたびに顔が半分だけ見えた。眉が濃い。下がらない眉だ。怒っていなくても怒って見える。
ただ、その赤銅が、くすんでいた。
日はもう高い。光は足りている。それでも、色が乗っていない。褪せかけている、というのが一番近い。俺は自分の目のせいかと思って、二回見た。二回とも、同じだった。
黒い革の前掛けをしている。厚い。焦げた跡が層になって重なっていて、もとの色が分からない。
腕をまくっている。
その腕が——傷だらけだった。
火傷だ。丸いのと、線状のがある。丸いのは飛んだ火の粉、線状のはたぶん熱した鉄だ。肘から手首まで、隙間なく重なっている。古いものは白く盛り上がっていて、新しいものはまだ赤い。白と赤が、腕の上で混ざっていた。
隠していない。まくったままだ。
彼女は、板の前まで来た。
来て、板を見た。
しばらく見ていた。読めているのかどうかは、分からなかった。
それから、書かずに、背を向けた。
「あの」
声が、先に出た。
「書かないんですか」
彼女は振り返らなかった。
振り返らずに、片手を上げた。
追い払うような、あるいは、どうでもいいという感じの、雑な手つきだった。手首から先だけを上げて、そのまま下ろした。
その手が上がったとき、袖が見えた。
金の糸で、大きく縫ってある。刺繍のところだけ、布が引きつるほど糸が入っていた。あとから誰かが上から縫い直したものだ。見栄というやつだ。
――炎のリーヤ。
彼女は坂を下りていった。
下る人の歩き方だった。踵から降りて、勝手に速くなっていく。鍛冶場は、この店から三十歩ほど下だ。
腕の火傷が、日の光で白く光っていた。
髪の赤銅は、坂を下りきるまで、一度も濃くならなかった。




