表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/17

第4話 親方

 三十人から逃げるのは、意外と簡単だった。


 速く走れたからではない。俺は走るのが遅い。皿洗いというのは、走らない仕事だ。


 人は、追うときに固まる。固まると遅くなる。だから坂の細い路地に入って、二回曲がって、洗濯物の下をくぐれば、それで終わりだ。


 路地は下りだった。広場の手前から港へ向かって、家と家の隙間を階段みたいに落ちていく。膝で止めないと、勝手に速くなる。この幅だと日が入らないので、石畳は一日じゅう乾かない。乾いていれば灰白の石が、濡れて黒くなっている。俺はその黒い上を、滑らないように爪先で降りた。


 冷えた石と、腐りかけた野菜の匂いがする。頭の上には洗濯物が渡してあった。生成りと、灰と、茶。この街で干してあるものは、だいたいこの三色しかない。その下をくぐるとき、濡れた布が耳をかすめた。


 坂を下りきったところで、俺は港側の壁にもたれて、息を整えた。膝が笑っている。ふくらはぎが、遅れて痛みはじめた。


 「……あー、死ぬ」


 「お元気ですね」


 セシルさんは、涼しい顔で立っていた。


 走っていない。歩いてついてきただけだ。歩幅がでかいので、俺の全力疾走と歩きが釣り合ってしまう。息も乱れていない。


 彼女は腕を組んでいた。右袖を隠す組み方だ。逃げているあいだも、たぶん一度もほどいていない。


 「助けてくれてもよくない?」


 「私が出ると、話が大きくなります」


 「もう大きいよ」


 「もっと大きくなります」


 彼女は腕をほどいて、外套の裾を払った。汚れてもいないのに払った。座る前と、話を切り上げる前に、この人は必ずこれをやる。


 「明日には街中が知っていますね」


 「勘弁して」


 「私のせいではないです」


 「あんたのせいでしょ」


 「ええ、まあ」


 認めた。


 坂の上の方では、まだ人の声がしていた。俺の名前は呼ばれていない。呼びようがないからだ。「あいつ」とか「さっきの」とか、そういう呼ばれ方をしていた。


 三年、そう呼ばれてきたので、慣れている。




 店に戻るには、坂を上らないといけない。


 港からマルタさんの店までは、百数えるくらいの距離だ。ただし全部上りで、一度目の折れ曲がりのすぐ先にある。荷担ぎの連中が必ず店の前で一度息をつくのは、坂がいちばんきついのがそこだからだ。


 俺も立ち止まった。荷なんか担いでいないのに。振り返ると、下に港が見えた。海は灰緑だった。晴れていないので、青くならない。


 上りきって、扉を押した。


 満員だった。


 昼前である。この店が昼前に満員になったことは、三年で一度もない。


 卓は六つしかない。それが全部埋まっていて、壁際に立っている連中もいる。左から三つ目の、脚が一本短い椅子にまで人が座っていて、身じろぎするたびに、こつ、こつ、と鳴っていた。


 窓は西向きだから、昼前の光は店の中まで届かない。入口の四角い明るさだけが床に落ちていて、その先は薄暗い。人が多いぶん、いつもより暗く見えた。人いきれと、油と、まだ煮えていない鍋の匂いがする。


 全員が飲んでいるわけではない。ほとんどが、ただ座って、入口の方を見ている。手元に何も置いていない者が、半分以上いた。


 暗い店の中で、頭の上にだけ色があった。青がひとつ、菫がひとつ、金が三つか四つ。大人が集まると、三人に一人はそうなる。灰色の街で色があるのは、人の頭の上だけだ。


 俺が入った瞬間に、全員の首がこっちを向いた。


 「――出たぞ」


 「出たじゃないよ」


 マルタさんが厨房から怒鳴った。竈の火に照らされて、顔も腕も、いつもより赤い。


 「座ってるだけの奴は席代取るからね! 一人銅貨一枚!」


 文句が上がった。上がったけど、誰も出ていかなかった。マルタさんが鍋を持ったまま卓のあいだを回りはじめて、みんな渋々銭を出した。


 受け取った銅貨を、彼女は卓の端に一枚ずつ立てて並べていく。この人は勘定が壊滅的に下手なくせに、数える手つきだけは妙に律儀だ。十四枚まで並んだところで、俺は目で追うのをやめた。


 商売がうまい。


 「クルト、こっち来な」


 厨房に引きずり込まれた。俺の襟をつかんだ手は、掌が硬くて、火傷の跡が無数にあった。古いのは白く、新しいのは赤い。




 厨房は狭い。両手を広げると、片方の指が壁につく。竈がひとつ、まな板がひとつ、樽が三つ。二人入ると、どちらかが横を向かないとすれ違えない。


 天井から干し肉が吊るしてある。塩を吹いて白くなった塊が六つ。俺が通るたびに肩が当たって、そのたびに干し肉が振り子みたいに揺れる。マルタさんには当たらない。背が低いからだ。


 足元には炭の粉が落ちていて、踏むとざらざら鳴る。掃いても次の日には戻っている。


 火の匂いと、油の匂いと、昨日の煮込みの匂いがする。三年、この三つの匂いで寝起きしている。俺にとっての家の匂いというのは、たぶんこれだ。


 竈の口から赤い光が漏れて、床に細長い扇を描いていた。


 「あんた、どうすんだい」


 マルタさんが小声で言った。この人の小声は、普通の人の話し声くらいある。


 「どうって」


 「あの連中、全員、名前を変えてほしいんだよ」


 「……そんなに?」


 「そんなにだよ」


 彼女は火掻き棒を突っ込んで、薪を返した。火の粉が上がって、天井の煤に消えた。


 「あんた、あの人数、全部やる気かい」


 「無理でしょ」


 「無理だろ」


 「無理だよ」


 「じゃあ断りな」


 「断る」


 「断れるかい」


 俺は黙った。


 黙って、積んである皿を数えた。十二枚。昼の分がまだ出ていないから、これから増える。


 マルタさんは、こっちを見なかった。火だけ見て、掻き回していた。半分が白い髪が、火の色を吸って、白いところまで赤く見えた。


 「あんた、断れない子だからね」




 昼を過ぎた頃、ドンさんが来た。


 入口の光が、いったん全部ふさがれた。半身になって、頭を下げて、それから入ってくる。二年、毎日それだ。


 入ってきた瞬間、店がざわついた。ドンさんはそれを全部無視して、まっすぐ厨房の前まで来た。


 でかい。相変わらずでかい。ただ、今日は少し違って見えた。


 背中が、丸まっていなかった。


 それと、色だ。


 側頭部に残っている髪と、薄い眉のあたりに、赤みが差している。昨日まで、そこには白と、白になりかけた茶しかなかった。濃くはない。言われなければ気づかない程度だ。ただ、いま店にいる連中は全員それを見ていた。見て、誰も何も言わなかった。


 それから、袖。色の抜けきった茶の上着で、右袖の刺繍だけが新しい白だった。聞き手のドン。昨日から、この人の全身でいちばん明るいのは、そこだ。


 汗を拭く回数が減った、と俺は思った。前は座る前に必ず二回拭いていた。今日は一回だった。


 「クルト」


 「どうしたの」


 「夜警に、雇われた」


 「え」


 「昨日、門番の人が来て、来てくれって」


 ドンさんは、それを言うのに、たぶん三回くらい練習してきた顔をしていた。言葉のあいだが長い。この人は言葉を探すのに時間をかける。急かしても速くならない。


 「聞こえるから、夜がいいって。おれ、夜、目が悪いんだけど。でも、いいって」


 「よかったじゃん」


 「うん」


 彼は上半身ごと、ゆっくり頷いた。顎だけでは頷かない人だ。


 それから少し黙って、言った。


 「制服が、入らなかった」


 「そうだろうね」


 「一番でかいのでも、入らなかった」


 「うん」


 「肩が」


 「肩でしょ」


 店のどこかで、誰かが噴き出した。噴き出してから、まずいと思ったらしく、慌てて器に口をつけた。


 ドンさんは怒らなかった。怒った顔も、たぶんできない。


 マルタさんが厨房から鍋を突き出して、干し肉の塊をドンさんの手に押しつけた。


 「食いな。祝いだ」


 「金は」


 「取るよ」


 取るのか。




 その男が入ってきたのは、日が傾きはじめた頃だった。


 窓が西向きなので、この時間だけ、橙色の光が店の奥まで刺さる。卓の上に、六つぶんの長い影ができる。セシルさんの白金の髪も、その光の中では白ではなく、薄い蜜の色に見えた。


 入口の光が一瞬遮られて、店の中が暗くなった。それで気づいた。


 小柄な老人だった。俺より背が低い。でも、横幅と厚みがある。樽みたいな体だ。肩から腰までが一本の筒で、そこに短い手足が生えている。


 最初に思ったのは、白い、ということだった。


 頭も、顔も、腕も、服も、全部が同じ灰白色をしている。石の粉だ。白髪を短く刈り込んであるのだが、その白髪と粉の区別がつかない。眉にも、耳の縁にも、首の皺の底にも溜まっている。


 前掛けが、いちばん白かった。もとの布の色が分からない。腰に鑿を三本、革の帯で差している。鉄の部分だけが黒く残っていて、灰白の中で、そこだけ光っていた。


 視線を下げると、手が見えた。指が太くて短い。爪が全部、平らに潰れている。丸みがない。ずっと何かを押さえてきた爪だ。


 それから、顔を見た。


 片目が白く濁っていた。石の破片が入ったんだろうと思う。石工には多い。


 もう片方の目が、濃い緑だった。


 全身が灰白色の中で、そこだけが色だった。苔よりも暗い、深い緑。名の色である。


 つまりこの人は、名前が合っている。


 彼は店の中を見回した。首を動かさない。目玉だけが動く。片方しか見えていない人の見方だ。


 見回して、ドンさんを見つけた。


 見つけて、動かなかった。


 ドンさんが、立ち上がった。椅子が鳴らないように、そっと持ち上げて。


 「……親方」




 店が静かになった。


 順番に静かになったのではない。一斉に止まった。器を口に運びかけた男が、そのままの高さで持っていた。誰も知らせていないのに、みんな何が起きるか分かったらしい。空気というのは、そういうふうにできている。


 油皿の火だけが、動いていた。


 老人は、卓のあいだをゆっくり歩いてきた。歩幅が狭い。膝があまり上がらない。長いこと重いものを持ち上げてきた人の歩き方だ。歩くたびに、前掛けから粉が落ちて、床に白い点が点々と残っていく。


 ドンさんの前で止まって、彼を見上げた。頭ひとつどころか、二つぶん違う。並ぶと、樽と塔だった。


 それから、老人は自分の右手を見た。


 太い親指で、自分の手のひらをこすった。ざらざらと音がしそうな動きだった。石の面を確かめるときの癖だろう。


 「聞いた」


 「はい」


 「やめるんだって?」


 ドンさんは答えなかった。


 答えなかったのが、答えだった。


 老人は頷いた。何度も、小さく。顎が胸につくくらい深く、それを四回。


 それから、俺の方を見た。


 白く濁った方の目が、まっすぐこっちを向いていた。緑の方は、少し遅れて追いついてきた。


 「お前か」




 「岩積みのガレンだ」


 彼は名乗った。名乗ってから、右袖をこちらに向けた。この街の作法だ。粉で白くなった袖に、褪せた糸で岩積みのガレンと縫ってある。糸がもとは何色だったのか、もう分からない。


 俺は名乗り返そうとして、名乗るものがないことを思い出した。


 「クルトです」


 「二つ名は」


 「ないです」


 「ふうん」


 マルタさんと同じ反応だった。この街の年寄りは、みんな同じ音を出す。三年前、港の路地に座っていた俺にも、マルタさんはその音を出した。そのあと布巾を押しつけられた。


 ガレンさんは店を見回した。銅貨一枚払って座っている連中を、順番に。


 「なんだ、この人数は」


 「見物人です」


 「何を見物してるんだ」


 「たぶん、俺を」


 「ふん」


 入口に近い卓の端が、ひとつ空いていた。彼はそこに座った。


 座ると、余計に小さく見えた。足の裏がちゃんと床につく。この店の椅子で足がつく大人を、俺は久しぶりに見た。


 「小僧。おれは、あんたに文句を言いに来たわけじゃない」


 「そうは見えませんけど」


 「見えるだろうな」


 彼は自分の手のひらを、また親指でこすった。


 「実際、半分は文句だ」




 「あいつはな」


 ガレンさんはドンさんの方を見もせずに言った。


 「二十五年、石が割れなかった」


 「聞きました」


 「一日も割れなかった。一枚も。二十五年だ」


 彼は指を三本立てた。太くて短い指が、三本。


 「うちの工房は、三人でやってる。おれと、あいつと、若いの一人。三人で街の石を全部やってる」


 「はい」


 工房は、坂の下にある。


 港の三番倉庫の隣だ。石は重いから、船から降ろした先が近いほうがいい。だから石工は坂の一番下にいて、荷担ぎより先に仕事を始める。


 一度だけ行ったことがある。マルタさんに言われて、貸した鍋を取りに行った。店から坂を下って、百数える間もかからない。下りは勝手に速くなるので、着いたときにまだ息が上がっていなかった。


 屋根のない、四角い場所だった。壁が三方だけあって、海の側が開いている。開いているから明るい。光が上から真っ直ぐ落ちて、切ったばかりの石の面が白く光っていた。


 音が二種類していた。鑿を叩く、こつ、こつ、という細かい音と、槌が石に落ちる、鈍い音。二つが重ならないように交互に鳴っている。誰が誰の音かは、分からなかった。


 匂いは粉の匂いだ。埃とは違う。もっと乾いていて、鼻の奥が痛くなる。息をすると、口の中までざらついた。


 足元は石の欠片で埋まっていた。歩くたびに、じゃり、と鳴って、靴の底が滑る。俺は転びかけて、ドンさんに腕をつかまれた。


 そして、裏に石が積んであった。


 一抱えもある塊が、大人の背より高く、壁に沿ってずっと積んである。角が中途半端に欠けているのもあれば、傷ひとつないのもある。全部、途中でやめた石だ。


 あのときは、材料が余っているんだと思っていた。


 二十五年ぶんだと知ったのは、いまだ。


 「石が割れない石工を、三人しかいない工房で、二十五年置いてたんだ。どういう意味か分かるか」


 俺は、少し考えた。


 考えて、分かった。分かってしまった。


 「……庇ってたんですね」


 「そうだ」


 彼は初めて、ドンさんを見た。緑の目が、下から上へ動いた。


 「こいつは、名前が石割りだ。だから石工をやるしかない。他にやることがない。二つ名で仕事が決まる街だからな」


 「はい」


 「割れないやつを追い出したら、こいつはどこにも行けない。だからおれは、割れなくていい仕事だけ回してきた。運ぶ、積む、削る。割るのは、おれと若いのでやった」


 彼の声は、荒くなっていなかった。低くもない。少し掠れた、乾いた声だ。石の粉を毎日吸っている人の喉から出る声。


 むしろ、淡々としていた。淡々としているぶん、逃げ場がなかった。


 「二十五年だ」


 「はい」


 「それを、お前が一日で取り上げた」




 俺は、何も言えなかった。


 言い返す言葉が、いくつか浮かんだ。全部、正しかった。全部、この人には通じないと思った。


 ドンさんが本当に望んでいたのはこれじゃない。名前が間違っていた。二十五年、この人は自分を出来損ないだと思って生きてきた。


 全部、正しい。


 でも、ガレンさんも間違っていない。


 この人は二十五年、誰にも褒められない仕事をしていた。割れない石工を工房に置き続けるという仕事を。誰にも見えないところで。


 二十五年というのを、俺は自分の年で割ってみた。俺が生まれる五年前から、この人はそれをやっている。俺が三度、儀に落ちるあいだも、ずっとやっていた。裏の石はそのあいだずっと積み上がっていて、誰も片づけなかった。片づけるというのは、認めるということだからだ。


 俺は、店の油皿の火を見た。


 揺れていた。誰かが動くたびに揺れる。


 それから、自分の指先を見た。ふやけて、白く波打っている。親指の爪で、人差し指の腹をこすった。癖だ。考えても答えが出ないときに出る。




 「親方」


 声がした。


 ドンさんだった。


 俺は驚いて顔を上げた。


 この人が、誰かの話に割り込むのを、俺は見たことがなかった。二年間、一度も。人の話は最後まで聞く人だ。遮られても待って、それから短く答える。その人が、いま、遮った。


 ドンさんは、立ったまま、自分の手を見ていた。両手の甲の、古い擦り傷を。白い線が何十本も走っている手を、初めて見るみたいに見ていた。


 「おれ、石が好きでした」


 ガレンさんが、こっちを向いた。


 「割れなかったけど、好きでした」


 ぼそぼそした声だ。語尾が消える。相変わらず聞き取りにくい。


 でも、店中が静かだったので、全部聞こえた。誰も器を置かなかった。置いたら音がするからだ。


 「親方の割った面が、好きでした。あれ、音がいいんです。割れる前に、いい音がする」


 彼は自分の耳のあたりを指した。音の話をするとき、この人は必ずそこを指す。


 ガレンさんは何も言わなかった。手のひらをこする親指だけが、少し速くなった。


 「おれは音しか分からないから、それしか褒められないんですけど」


 彼は少し、口を閉じた。


 それから、続けた。


 「二十五年、無駄だったって、思ってないです」


 ガレンさんが、手のひらをこするのをやめた。




 「夜警は、夜です」


 ドンさんが言った。


 「昼は、空いてます」


 「何が言いたい」


 「運ぶのと、積むのは、できます」


 「お前」


 「割るのは、親方と若いのでやってください。今までどおりで」


 ガレンさんは、しばらく黙っていた。


 濁った方の目は動かない。もう片方の目だけが、何度かまばたきした。緑が、そのたびに一瞬消えて、また出た。


 窓の光が、また少し傾いた。卓の影が伸びて、二人の足元でつながった。


 「……給金は減らすぞ」


 「はい」


 「半分だ」


 「はい」


 「昼だけで半分ももらえると思うな。三分の一だ」


 「はい」


 「返事が早いんだよ、お前は」


 彼は立ち上がった。座ったときと同じで、音がしなかった。小柄なのに、動きに無駄がない。


 立ち上がって、俺の方を見た。


 「小僧」


 「はい」


 「おれは、あんたに礼は言わん」


 「言われても困ります」


 「二十五年、庇ってきた人間の気持ちが、あんたに分かるとは思わん」


 「分かりません」


 彼は少しだけ、片方の眉を上げた。粉が、そこから少しこぼれた。


 「そうか」


 それだけ言って、彼は出ていった。


 店の入口の光が一瞬遮られて、また明るくなった。


 俺は扉のところまで行って、外を見た。


 ガレンさんは坂を下っていた。工房は下だ。石と同じで、あの人も坂の下にいる人なんだと思った。膝をあまり曲げずに、踵から降りていく歩き方だった。下りは勝手に速くなる。小柄な背中は、一度目の折れ曲がりを曲がって、それきり見えなくなった。


 夕方の光で、石畳は橙になっていた。


 その上に、白い点だけが、点々と白かった。




 誰も、拍手はしなかった。


 拍手する場面ではなかった。


 店の連中は、それぞれ自分の卓に向き直って、また飲みはじめた。器の音と、椅子の脚が鳴る音が戻ってきた。ただ、さっきまでの浮ついた空気は、なくなっていた。


 名前を変えてほしいと言って座っていた連中の何人かは、そのまま出ていった。何人かは残った。残った方が、ずっと多かった。


 ドンさんが、椅子に座った。座って、大きく息を吐いた。


 「……疲れた」


 「そりゃそうでしょ」


 「あんなに喋ったの、久しぶりだ」


 「二年でいちばん喋ってた」


 「そうか」


 彼は干し肉を齧った。硬いらしく、前歯で挟んで、少しずつ引きちぎっている。


 その横顔の、側頭部のところに、まだ赤みがあった。




 俺はセシルさんの隣に座った。


 彼女は、ずっと同じ卓にいた。ずっと何か食っていた気もする。器が三つ、重ねてあった。いつのまに三つも頼んだんだろう。


 卓の上には紙束と羽根ペンが出ている。書いていたらしい。何を書いたのかは見えない。見えても読めないけど。


 「……俺、悪いことした?」


 「どちらでしょうね」


 「そこは慰めるとこじゃない?」


 「慰めてほしいですか」


 「別に」


 「では」


 彼女は器を置いた。


 「ひとつだけ言うと、あの方は、あなたに怒っていません」


 「思いっきり怒ってたけど」


 「怒っている相手は、名前が仕事を決めるこの街です」


 彼女は羽根ペンを置いて、腕を組んだ。右袖を隠す組み方だ。長い話をするときの形になった。


 「石割りという名前がなければ、あの方は最初からドンさんに別の仕事をさせていた。庇う必要もなかった。二十五年、誰も損をしなかった」


 「……ああ」


 彼女は一拍おいた。この人はいつも、相手が喋り終わってから一拍おく。今のは、自分の言葉の途中に置いた。


 「あの二十五年を作ったのは、あなたではありません。名前です」


 俺は、干し肉を齧っているドンさんを見た。


 その向こうに、店の入口があった。


 もう誰も、そこには立っていなかった。




 その夜、俺は物置で寝ようとして、寝られなかった。


 物置は、店から階段を四段降りたところにある。四段しかないのに、降りると空気が変わる。冷たくて、少し湿っている。壁は石で、掌を当てると夏でも冷たい。


 中は狭い。樽と、空き箱と、麻袋。その隙間に藁を敷いて布をかけたのが俺の寝床だ。寝返りを打つと箱に膝が当たる。三年経っても当たる。


 窓が高いところに一つあって、そこから月の光が入ってくる。壁に細長い四角が映っている。


 石の壁は昼は灰色だが、月の光が当たると青く見える。その青の中で、四角だけが白い。


 時間が経つと、その四角がゆっくり動く。動いているところは見えない。目を離して、また見ると、位置が変わっている。


 俺はそれを見ながら、ずっと同じことを考えていた。


 三千のうち、二百。


 この街には、あと何人、ガレンさんみたいな人がいるんだろう。


 庇う側の人が。


 庇われている側が、それを知らないまま二十五年過ごしている家が。


 四角が、箱ひとつぶん動いた。


 工房の裏の石を思い出した。あれを積んだのは、たぶんドンさんだ。割れなかった石を、割れなかった本人が、毎日裏へ運んで積んでいた。二十五年、自分の失敗を、自分の手で積み上げていた。


 あの山は、明日から誰が運ぶんだろう。


 ……考えても、分からなかった。


 分からないので、寝ることにした。




 翌朝、マルタさんに叩き起こされた。


 いつもより早かった。まだ外が青い。夜明け前の光には色がない。輪郭だけがある。


 「起きな」


 「まだ暗い」


 「起きなって」


 声が、いつもと違った。小さかった。この人が声を落とすのは、めったにないことだ。


 俺は起き上がって、髪をかき上げて、階段を四段上がって、店に出た。


 マルタさんが、入口の扉を細く開けて、外を見ていた。鍋を持ったまま、隙間に顔を寄せている。


 俺もその隙間から覗いた。


 ――人が、並んでいた。


 店の前から、坂の下まで。


 うちの店は坂の中ほどにある。だから扉から外を見ると、道は下へ落ちていく。並んでいる連中は、その下からずっと続いていて、みんな、こっちを見上げていた。


 両側の壁に沿って、二列。ざっと見て、五十人。いや、もっといる。坂を曲がった先まで続いているので、数えられない。


 夜明け前の坂には、まだ色がない。石畳は青く、人の顔は影だ。ただ、頭の上にだけ色があった。近い方から、赤がひとつ、金がふたつ、青がひとつ。下へ行くほど暗くなって、色も分からなくなる。


 全員、黙って立っていた。


 咳をする者も、足を踏み替える者もいない。五十人以上がそこにいて、聞こえるのは、坂の下から吹き上げてくる風の音だけだった。


 全員、片方の袖を、こちらに向けていた。


 右袖だ。この街で袖を見せるというのは、「お前は何者だ」と聞かれたときの、答え方である。


 誰も聞いていないのに、全員が答えていた。


 マルタさんが、扉を閉めた。


 閉めてから、鍋の底を掌で叩いた。


 とん、と低い音がした。いつもより、ずいぶん短かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ