第3話 三行
朝、マルタさんに叩き起こされた。
叩き起こされた、というのは比喩ではない。鍋で床を叩かれた。俺は物置の隅の藁の上で寝ているので、床が鳴ると頭に響く。
高窓から入ってくる光が、まだ青い。夜明け前の色だ。
「起きな! 客だよ!」
「まだ暗いんだけど」
「暗いうちから来てんだよ、あの女!」
俺は起き上がって、髪をかき上げた。前髪が長いので、寝起きは特に前が見えない。
厨房の隅の樽の水で顔を洗って、店に出た。
セシルさんが、昨日と同じ卓に座っていた。同じ姿勢で。同じように腕を組んで。
扉の隙間から差した細い光が、彼女の白金の髪の先だけを白くしている。あとは暗い。
目の前に、湯気の立つ器がある。
「……もう食ってる」
「朝食は大事です」
「まだ開けてないよ、うち」
「開いていたので」
「鍵、あたしが開けたんだよ!」マルタさんが吠えた。「金は取るからね!」
「もちろんです」
マルタさんは腰に手を当てて、その後頭部をしばらく睨んでいた。それから鍋を持ち替えて厨房に戻った。持ち替えるのは、怒っているときだ。
街は坂だ。
港から広場まで、ずっと上りになっている。石畳が古くて、雨のあとは滑る。荷車は坂の下で荷物を降ろして、そこから先は人が担ぐ。
だから朝の坂は、担いだ人間で埋まる。
俺とセシルさんは、その流れを逆に上っていた。
上りは、しばらく行くと脚の前側に来る。膝から上が重くなって、息が浅くなる。風は下から吹き上げてくるので、背中を押される。塩と濡れた縄の匂いが、途中まで一緒に上がってくる。
一度、振り返った。
屋根が下に見えた。くすんだ赤茶の瓦が段々に重なって、その隙間から港が覗いている。桟橋が三本。船が四隻。
上りは、振り返れば必ず港が見える。
「歩くの速いね」
「歩幅が大きいので」
「合わせる気は」
「ありません」
まあいい。
上っていく人の頭を見ていると、色が分かる。青、緑、赤銅、金。三人に一人くらいの割合で、頭の上だけが鮮やかだ。石も壁も服も灰なのに、色があるのは頭の上だけだ。
俺の頭には何もない。ただ黒いだけだ。
前を行くセシルさんの白金も、遠目には名の色に見える。
坂を上りきったところで、視界が開ける。
広場だ。この街で一番平らな場所で、市が立つ日には人で埋まる。今日は市の日じゃないので、鳩と、掃除している爺さんしかいない。
そして、その向こう。
白い石の建物が、坂のさらに上に建っている。
神殿である。
広場から先も、上りだった。
しかも急だ。石畳が段になっていて、段の高さが揃っていない。上りきったところで、俺は一度止まって息を整えた。風が下から押し上げてくる。セシルさんは息ひとつ乱していない。
近くで見ると、思っていたより地味だった。
白い石といっても、長い年月で灰色に近くなっている。壁の下の方には苔が生えていて、雨の跡が黒い筋になって垂れている。
でかいのは間違いない。門だけで家一軒ぶんの高さがある。
門の前に、男が二人立っていた。槍を持っている。
片方は若かった。俺より二つか三つ上だろう。肩幅はあるのに立ち方が斜めで、槍に半分もたれている。日に焼けていて、目は榛色。胸から斜めに革の帯をかけている。
髪が、橙がかった金だった。
朝の光の中だと、そこだけ火が点いているみたいに見える。名の色だ。
その袖に、門番のヨナスと縫ってあった。
「……そのまんまだな」
「そのまんまですね」
「これ、当たりなの? 外れなの?」
「本人は満足しているそうです」
なら当たりでいいのか。よく分からない。
ヨナスさんは俺の袖を見て、それから顔を見て、槍を横にした。この街では顔より先に袖を見る。俺の袖には見るものがないので、この順番はいつも早く終わる。
「無名は通せない」
「記録係の同行者です」
セシルさんが銀の板を出した。ヨナスさんは板を見て、少し考えて、それから槍を戻した。石突きが石畳に落ちて、こつん、と鳴った。
「……通れ」
通れた。
権威というのは便利だな、と思った。
中は、寒かった。
石の建物というのは、夏でも中が冷える。足の裏から冷たさが上がってくる。
天井が高い。俺の背丈の十倍はある。首を曲げきっても、まだ上がある。
上の方に細長い窓が並んでいて、そこから光が斜めに差している。柱と柱のあいだに、白い板を何枚も立てかけたみたいだった。光の筋の中で、埃だけが動いている。
音が響く。俺たちの足音が、四回くらいに増えて返ってくる。歩くのをやめても、最後の一つがまだ帰ってくる。
匂いは、蝋と、古い紙と、それから何か薬草みたいなものだった。
壁に手をついた。冷たい。街のどの石とも手触りが違った。
誰もいない。
「儀のない日は、こんなものです」
セシルさんが言った。その声も、四回返った。
「三千人に名前をつけた建物にしては、静かでしょう」
記録室は、地下だった。
石段を降りると、天井が急に低くなる。頭の上に手が届く。さっきまであの高さの下にいたので、肩が勝手に落ちた。
部屋の四方の壁が、全部、棚だった。
床から天井まで、隙間なく。棚には革表紙の綴じ本が、背を向けて並んでいる。一冊が俺の腕くらいの厚さがある。それが、たぶん何百冊。
中央に卓がひとつ。蝋燭が三本。
三本しかないので、部屋の隅までは届かない。火が揺れると、背表紙の並びが波打って見える。
埃の匂いが濃い。息を吸うと、少しざらつく。ここの埃は、落ちたまま動かない。
「これ、全部……名簿?」
「三百年分です」
セシルさんは慣れた足取りで棚に近づいて、迷いなく一冊を引き抜いた。背表紙を確かめてもいない。
どこに何があるか、全部覚えているらしい。
「座ってください」
俺は座った。椅子が冷たかった。石の部屋に置いたものは、木でも石の温度になるらしい。
彼女は昨日と同じページを開いた。
紙をめくる音が、狭い部屋だとやけに大きい。
昨日は店の油皿の火で見た。今日は蝋燭で見る。同じ字なのに、少し違って見えた。
「もう一度、読みます」
「読まなくていい」
「読みます」
この人は、人の話を聞かない。
「クルト。十五の年。授名なし」
俺は天井を見た。低い。
「クルト。十六の年。授名なし」
石の目地が見える。目地の隙間に、蜘蛛の巣の残りが張ってあった。
「クルト。十七の年。授名なし」
三行。
三年ぶんの初夏が、指三本ぶんの高さに収まっていた。
一度目のことは、よく覚えている。
十五の年の、初夏だった。
二日前から、坂の両側に旗が出ていた。細長い布で、青と白。神殿が配って、家ごとに一本ずつ吊るす。青の染料は南から来るので高い。この街に青が並ぶのは、一年でこの三日だけだ。灰色の坂の上から下まで青と白が垂れて、風が来るたびに全部いっせいに鳴った。
前の日には屋台が出た。港からの魚、坂の下の焼き菓子、南から来た果物。値段が一日だけ倍になるのに、誰も文句を言わない。焼き菓子の甘い煙が、坂の匂いを変える。
母さんが、前の日に俺の服を洗った。持っている中で一番いいやつだ。乾かすのに火を焚いて、朝までかかっていた。朝、袖を通したら、まだ湿っていて、煙の匂いがした。
広場には、その年の十五歳が三十人くらい並んでいた。
井戸の東側に、木の壇が組んである。釘を使わずに縄で締めてあって、誰かが上るたびに、ぎ、と鳴った。
その前に、横一列。みんな、洗ったばかりの服を着ていた。
子供の列には、色がない。
当たり前だ。十五になるまでは、誰も名の色を持っていない。黒と、暗い茶と、栗と、亜麻色と、白金。生まれつきの色だけが並んでいる。
それを、色のある大人が囲んでいる。青い髪、緑の目、赤銅、菫。色のない列を、色のある輪が囲んでいる。あの絵は、いまでも思い出せる。
順番に名を告げられていく。名簿の順で、生まれた月の順だ。
呼ばれた子が壇に上がる。司名がその子の前に立って、しばらく見る。早ければ十数える間。長いと百数える間。
それから、告げる。
名前が定着すると、袖の布が勝手に動く。糸が這って、字になる。誰も縫っていないのに縫われる。縫い終わると、糸の端がぷつりと切れて落ちる。
そのたびに、広場から声が上がる。友達の親が泣いたり、笑ったりする。
それと、その日にしか見られないものがある。
名前をもらった子の何人かに、色が差す。
髪の先からじわりと来る子もいれば、目だけが変わる子もいた。周りが先に騒ぐので、本人が最後に気づく。三十人のうち、十人くらいだったと思う。
俺は、それを三度見ることになる。
三度とも、俺には何も起きなかった。
俺の番が来た。
壇の上に、老人が立っていた。
白い外套。銀の縁取りが一本と、袖に金の線が一本。司名の印だと、あとで知った。
髪は白かった。白いというより、薄い。透けて、後ろの空が混じって見えるくらいだった。背は縮んでいて、たぶん俺より少し高いだけだった。
それなのに、手だけが大きかった。指が長くて、節が太くて、あの体には釣り合わない手だった。
その手が、震えていた。
あのときは、年寄りだから震えているんだと思っていた。
老人が俺を見た。
目が、濁った青灰だった。白いものが混じっていて、こっちを見ているのかどうか、はじめは分からなかった。
分かった。見ていた。
長いこと見ていた。
十数える間は、とっくに過ぎていた。広場が静かになるくらいには長かった。屋台の声も、旗の鳴る音も、そのあいだだけ遠くなった。
老人の喉が、一度動いた。何か言いかけたように見えた。
それから、何も言わなかった。
――何も、言わなかった。
順番が飛んだ。次の子が呼ばれた。次の子の袖に、字が入った。広場から声が上がった。
俺はまだ、そこに立っていた。
誰かが「どけ」と言った。悪気はなかったと思う。ただ、俺がそこにいると、次の子が前に出られなかったからだ。
三段しかない壇なのに、降りるのに時間がかかった。
母さんは、何も言わずに俺の手を引いて帰った。引く手が、速かった。
その夜、母さんは「来年もあるから」と言った。
俺も、そう思っていた。
二度目は、十六の年。
服は、洗わなかった。
いや、母さんは洗おうとした。俺が断った。断ったとき、母さんは何か言いかけて、やめた。あの家は狭いので、やめたのが分かる。
旗はその年も出ていた。うちの窓の下だけ、竿が空だった。
広場に立ったとき、周りの十五歳たちが俺を見ていた。一つ年上の男が混じっているのは、目立つ。
みんな、俺が何者かを知っていた。この街は狭い。
俺は列の端にいて、隣の子が半歩ずつ離れていくのが分かった。
老人はまた、長いこと俺を見た。
濁った青灰の目が、去年より少し低い位置にあった。手は、去年より震えていた。
それから、何も言わなかった。
二度目は、順番が飛ぶまでが早かった。
その日も、何人かに色が差した。
帰り道で、母さんが泣いた。俺は「別にいいよ」と言った。言ったけど、たぶん、声が変だった。
三度目は、十七の年。
誰も期待していなかった。
母さんは、来なかった。
その頃、母さんは体を悪くしていて、坂を上れなかった。俺は「ちょうどいいよ、寝てて」と言った。本当にちょうどよかった。見られたくなかったから。
旗は見なかった。下を向いて上った。
広場に立った。
二つ年上の男が並んでいるのは、もう笑い話になっていた。実際、誰かが笑った。
老人が俺を見た。
その日は、一度目や二度目より、ずっと短かった。
見て、目を伏せて、それで終わりだった。
伏せる前に、あの大きい手が、外套の裾のあたりで一度だけ握られた。
俺は自分から一歩下がった。誰かに言われる前に。
その方が早いと思った。
その日も、街に新しい色が増えた。夕方には、誰の髪が何色になったかが噂になっていた。
その年の冬に、母さんが死んだ。
俺は仕事を探した。
港から順に、上へ歩いた。荷受け、倉庫、鍛冶場、樽屋、桶屋、パン屋。どこも、まず袖を見た。それから「今はいい」と言う。断り方は全部違うのに、袖を見てから口を開くまでの間だけが、全部同じだった。
どこも雇ってくれなかった。無名というのは、そういうことだ。何をするか分からない人間を、誰も自分の店に入れたくない。
三日目に、俺は港の路地に座っていた。もう歩く場所がなかった。
冷えた石と、腐りかけた野菜の匂いがした。石畳が濡れていて、座ると尻から冷たさが来る。
そこにマルタさんが来た。
この人は、荷を担ぐのに港まで降りてくる。俺の前を通って、少し行って、それから戻ってきた。
でかい影が、俺の上に立った。
逆光で、顔は見えなかった。頭の上の赤だけが、光の中でくっきりしていた。
「あんた、名前は」
「クルトです」
「二つ名は」
「ないです」
「ふうん」
そう言って、彼女は俺の手に布巾を押しつけた。乾いた布だった。
「じゃあ、皿洗いだ。来な」
それだけだった。
理由も聞かなかったし、事情も聞かなかった。三年経った今でも、なぜ拾ったのかは教えてくれない。聞くと「うるさい」と言われる。
俺はそれから、ずっと皿を洗っている。
悪くない仕事だ。
皿は、洗った人間が誰かを聞かない。名前も聞かない。ただ、汚れているか、汚れていないか、それだけだ。素焼きの厚いやつで、欠けているのが何枚か混じっている。欠けていても、洗えば同じ一枚だ。
この世界で、俺のことを何も値踏みしない相手は、たぶん皿くらいしかいない。
俺は、洗った枚数を数えている。
誰にも頼まれていない。数えたところで金は増えない。マルタさんも数えていない。
この街では、人数を数えるとき、無名は数え忘れられる。悪気があるわけじゃない。列に並んでいても、目が滑る。名前を呼ばれる場面で呼ばれないから、そこにいたことにならない。
数えられなかった側の人間は、自分で数えるしかない。
数えていると、その日、自分が何かをしたことが分かる。
百三十枚。今日はそれだけやった。
袖には何もないけど、百三十枚は洗った。
……たぶん、そういうことなんだと思う。
「――なるほど」
セシルさんの声で、俺は顔を上げた。
自分が長いこと黙っていたことに、そこで気づいた。
蝋燭が短くなっている。三本とも、来たときより指一本ぶんは低い。埃は、相変わらず動いていた。
気づくと、片膝を椅子に上げて抱えていた。俺は座ると膝を抱える癖がある。
「すみません、なんか」
「いえ」
彼女は名簿を閉じた。閉じたときに、埃が一度、蝋燭の火のほうへ舞い上がった。
俺は身構えた。
こういうとき、人は何か言う。可哀想だとか、大変だったねとか。悪気はないやつだ。悪気がないから、余計に効く。
でもセシルさんは、そのどれも言わなかった。
この人は相手が喋り終わってから一拍おいて答える。今のは、一拍よりずっと長かった。
代わりに、こう言った。
「三回とも、司名は同じことをしていますね」
「……同じこと?」
「長く見て、何も言わない。一度目は長く、二度目は短く、三度目は目を伏せた」
彼女は指で唇を触った。
「普通、名前が出ないなら、すぐ次に行けばいいんです。見る必要がない」
俺は、口を開けたまま止まった。
考えたことがなかった。
あの三回、老人は毎回、俺を長いこと見ていた。
三度とも、あの濁った青灰が、俺のところで止まっていた。止まったということは、そこに何かがあったということだ。
「あの人、何を見てたと思います?」
「……知らない」
「私も知りません」
彼女は立ち上がって、名簿を棚に戻した。差し込む場所を、一切迷わなかった。
「ただ、見えなかったわけではないと思います」
「なんで」
「見えないものは、長く見ても、見えないので」
言い終わってから、彼女は腕を組んだ。右の袖を、左の腕の下に入れるように。
外に出ると、日が高くなっていた。
石の建物から出たとたん、空気が生ぬるい。足の裏の冷たさが、じわじわ抜けていく。目が痛くなるくらい明るくて、しばらく石畳が白く見えた。
神殿の前は年中風があるらしい。下から吹き上げてくるので、セシルさんの外套の裾が神殿のほうへなびいていた。
門番のヨナスさんが、槍を持ったまま俺たちを見送った。
「……無名」
「はい」
「また来るのか」
「たぶん」
彼は少し考えて、それから小さく言った。隣のもう一人には聞こえない声だった。
「おれ、ドンを知ってる」
俺は足を止めた。
「石が割れなくて、みんなに笑われてた。おれ、笑ってた側だ」
ヨナスさんは槍の石突きで、石畳をこつんと突いた。
さっき俺たちを通したときと同じ音だった。この人はたぶん、言いにくいことを言うときにこれをやる。
「昨日、あいつが夜警に来た。音で来るやつが分かるって言ってた。すごい嬉しそうだった」
「そうなんだ」
「うん」
橙がかった金の髪が、風で一度乱れた。彼はそれを直さなかった。
それだけ言って、彼はまた前を向いた。
門番の顔に戻った。
坂を下りながら、俺はそのことを考えていた。
下りは楽だ。楽なぶん、膝に来る。放っておくと勝手に速くなるので、踵から先に着く。潮の匂いが、逆の順番で濃くなっていく。
考えていたら、途中で人だかりに突っ込んだ。
広場の手前だ。二十人か、三十人か。輪になって、真ん中を覗き込んでいる。頭の上に色が散っている。青が二つ、緑が一つ、赤銅がひとつ。
「なんだこれ」
人の隙間から中を見た。
ドンさんがいた。
でかい背中を丸めて、囲まれている。困った顔をしている。眉が薄いので、あんまり困って見えない。
側頭部の髪に、昨日差した赤みがまだ残っていた。
「本当に変わったのか」
「見せてくれよ、袖」
「なあ、誰にやってもらったんだ」
ドンさんは何も言わなかった。
言わないまま、こっちを見た。
目を閉じてもいないのに、まっすぐ、人だかりの外側にいる俺を見た。
足音で、分かったんだろうと思う。
その瞬間、三十人ぶんの顔が、いっせいにこっちを向いた。
「――こいつだ」
誰かが言った。
「こいつが、名前を変えたんだ」
俺はセシルさんの方を見た。
彼女は、指で自分の唇を触っていた。
今日、二度目だった。




