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第2話 犯罪ですよ、ものすごく

 店の空気が、完全に止まっていた。


 誰も動かない。誰も喋らない。梁から吊るした油皿の火だけが揺れていて、そのたびに床の影が伸び縮みする。この店で動いているものは、それだけだった。


 オルグは床に伸びたままだった。緑の髪が、油の染みた床板の上に広がっている。たぶん、みんな忘れている。


 俺は、糸の切れ端をつまんだままの女を見ていた。




 背が高い。俺より頭ひとつ半。細くて、首が長い。姿勢が異様によくて、背骨に棒でも通してあるみたいだ。


 髪は白金だった。短く刈ってあって、耳が出ている。この街でこの色は、まず見ない。


 肌が白い。焼けていない。この街で肌の白い人間は、外に出ない仕事をしている人間だけだ。つまり、俺と同じ側ということになる。


 目は細い。薄い灰青で、桶に張った水の底みたいな色だ。笑っているのかどうか分からない。笑っていないときも細いからだ。


 外套は白に近い生成りで、襟から裾まで銀の縁取りが一本。首から下げた銀の板が、油皿の火を跳ね返して、顔の下半分を白く照らしている。


 それから、靴を見た。黒に近い焦茶の革で、爪先まで手入れがしてある。泥も、石畳の白い粉もついていない。この街で一番きれいな靴だと思った。


 この人は、坂を上ってきていない。


 坂を上ってきた人間は、必ず店の前で一度、息をつく。上りは脚の前側に来る。


 この人は、息ひとつ乱していなかった。上から下りてきたということだ。この坂の上には、神殿しかない。


 そして、腕を組んでいた。


 ――袖が、見えない。


 この街で、袖を隠して人前に立つのは無礼だ。相当に。袖を隠すというのは、名乗る気がないという意味になる。


 なのにこの人は、それを平気でやっている。誰も文句を言わない。


 言えないんだろうな、と思った。




 「あの、お客さん」


 マルタさんが厨房から出てきた。この人が歩くと、床板が一枚ずつ順番に鳴る。


 右手には、当然のように鍋があった。


 「うちの店で、何する気だい」


 「食事を」


 「食事?」


 「お腹が空いていて」


 マルタさんが止まった。鍋を持ち上げかけた腕が、中途半端な高さで止まっている。


 それから鍋を左手に持ち替えて、前掛けの端で腹をこすりはじめた。磨く必要はない。さっき磨いていた。この人は困ると、磨かなくていいものを磨く。


 「食事」


 「はい。何が美味しいですか」


 女はすたすたと歩いて、一番手前の卓に座った。座る前に、外套の裾を手で払う。所作がいちいち滑らかで、油と麦と汗のにおいがするこの店に、まるで似合っていない。


 「あと、そこの床で寝ている方は、どかしたほうがいいと思います。踏みます」


 「クルト、どかしな」


 「なんで俺」


 「皿洗い係だからだよ」


 関係ない。


 オルグは重かった。両脇の下に手を入れて引きずったら、踵が二本、床に線を引いた。




 結論から言うと、この人は三皿食った。


 煮込みと、麦を焼いたやつと、塩漬けの魚。俺が運ぶそばから消えていった。器を置くたびに湯気が立って、油皿の火の光を横切って消えた。


 しかも、異様に美味そうに食う。


 目を細めて、噛んで、いったん止まって、それからゆっくり飲み込む。一口ごとに、必ずそれをやる。見ているこっちの腹が減った。


 店の連中が、恐る恐る自分の席に戻りはじめた。脚の短い椅子が鳴って、笑いが起きて、空気がだんだん普通に戻っていった。


 俺は桶の前に戻って、皿を数えなおした。百三十一枚目から。




 「……なあ」


 ドンさんが小さく言った。俺は、その隣に立っていた。


 「あの人、神殿の人だよな」


 「銀の板下げてるしね」


 「おれ、まずいことしたか」


 「いや、まずいことしたのは俺」


 ドンさんは黙った。黙ってから、自分の袖を見た。


 聞き手のドン。


 縫い直された糸は、まだ新しくて白い。彼はさっきから何度もそれを見ている。見て、目を逸らして、しばらくしてまた見る。指ではなぞらない。なぞったら消えるとでも思っているみたいだった。


 油皿の火が揺れて、光がドンさんの側頭部に当たった。


 白と、白になりかけた茶しか残っていなかったところに、赤みがある。


 薄い眉にも。


 火の色かと思って、火から遠い角度で見直した。やっぱり赤かった。


 「ドン」


 斜め後ろの卓から、常連の爺さんが声をかけた。


 「あんた、若返ったんじゃないか」


 「……そうかね」


 「顔が違う。十は若い。何食った」


 ドンさんは、自分の側頭部にまた手をやった。


 そこで、俺は気づいた。


 この人は、いま、下がらなかった。


 二年間、この人は誰かに話しかけられると、必ず先に一歩下がっていた。返事より先に足が動く。壁があるときは、背中がつくまで下がる。


 さっき俺が隣に立ったときも、下がらなかった。爺さんに呼ばれたときも、下がらなかった。


 名前ひとつで、足の位置まで変わるらしい。




 「さて」


 三皿目の器を置いて、女が言った。


 口元を布で拭いて、それから、指で自分の唇を触った。


 「ごちそうさまでした。とても美味しかった」


 「そりゃどうも」


 マルタさんは厨房の入口に立ったままだ。鍋はまだ持っている。


 「それで、あんた、誰だい」


 「セシルといいます。神殿の記録係です」


 「記録係」


 「名簿を読んだり、書き足したり、数えたりします。地味です」


 彼女は俺の方を見た。細い目が、さらに細くなった。


 「そこの彼が、いま名前をつけました」


 「見てたのかい」


 「最初から」


 最初から、というのがどこからなのか、俺には分からなかった。


 この店には扉が一つしかない。誰かが入ってくれば蝶番が鳴る。


 鳴った覚えがなかった。それが少し怖かった。


 「無許可の名付けは、神殿法で重罪です」


 彼女は指を一本立てた。爪が短く、きれいに整えてある。


 「どのくらい重いか、言いましょうか」


 「言わなくていい」


 「言いますね。前例が、ありません」


 「……それ、軽いってこと?」


 「重いということです。裁いた例が一件もないので、何をされるかを、誰も知りません。決めるのは、そのときです」


 店が、またしんとした。


 俺は自分の口に手をやった。やってから、無意味だと気づいてやめた。




 鍋が、風を切った。


 マルタさんが動いていた。俺とセシルさんのあいだに割り込んで、鍋を胸の高さに構えている。厨房から卓まで六歩ぶんの距離を、たぶん三歩で来た。


 この人が本気で怒ると、赤ら顔から赤みが引く。


 「――待ちな」


 「あら」


 「こいつはうちの子だ」


 俺は、少し驚いた。


 マルタさんが俺を「うちの子」と呼んだのは、三年でこれが二度目だった。一度目は、拾われた日だ。


 「うちの子は、渡さないよ」


 「怖いですね」


 セシルさんは座ったまま、少しも動いていない。鍋の縁は、彼女の顔から拳二つぶんのところにあった。


 彼女は俺を見て、それからマルタさんを見て、それからまた俺を見た。


 「安心してください。今日は捕まえに来ていません」


 「じゃあ何しに来た」


 「食事に」


 「食事は済んだだろうが!」


 「そうですね」


 彼女は空になった器を横にずらした。


 「では、本題を」




 セシルさんが最初に言ったのは、こうだった。


 「あなたの力を、少し見せてください」


 「見せる?」


 「何ができて、何ができないのか。あなた自身も分かっていないでしょう」


 図星だった。


 俺は今日まで、この力を一度も使ったことがない。正確に言うと、三年前に一度だけ自分に試して、何も起きなかった。それきりだ。


 今日のが、二度目だった。


 「では、試しましょうか」


 彼女は店の中を見回して、一番手近な標的を選んだ。


 「そちらの女将さんに、別の名前を」


 「あ?」


 マルタさんが鍋を下ろした。


 「いやいや」


 俺は両手を振った。


 「無理でしょ。もう名前あるし、書き換えたら明日から誰も店に来ないよ」


 「試さないと分かりません。どうぞ」


 どうぞと言われても。


 俺はマルタさんを見た。マルタさんも俺を見た。


 腕が俺の太腿より太い人が、鍋を持ってこっちを見ている。頭の上の赤い髪が、火に照らされて、いつもより濃く見えた。


 「……大鍋の」


 「あたしの名前に、何か文句あんのかい」


 鍋の底が、掌で叩かれた。とん。


 いい音がした。ものすごく、いい音がした。


 「ないです。何も。世界一の名前です」


 「だろ」


 セシルさんが、指で唇を触った。


 「なるほど。嫌がる相手には出ない」


 「そりゃ出ないよ。命が惜しいもん」


 「いえ、そういう意味ではなく」


 彼女は真顔だった。


 「あなた、いま名前が浮かびましたか」


 俺は口を開けて、閉じた。


 浮かんでいなかった。


 ドンさんのときは、勝手に出てきた。喉の奥から、下から上へ、勝手に上がってきた。考えるより先に口が動いて、俺はそれを自分で聞いていただけだ。


 いま、マルタさんを見ても、何も来ない。頭の中がしんとしている。手を伸ばしても、何にも当たらない。


 「……浮かんでない」


 「同意がない相手には、出ないんですね」


 彼女は手元の紙に何か書いた。いつの間に出したのか分からない紙だった。書く前に、羽根ペンを一度持ち直す。




 「次。そちらの、聞き手さん」


 ドンさんの肩が、びくりと動いた。


 動いたが、椅子は鳴らなかった。下がらなかった、ということだ。


 「もう一度、名前をつけられますか」


 「え」


 「試してください。もっといい名前が出るかもしれません」


 俺はドンさんの前に立った。


 ドンさんは少し困った顔をして、それから頷いた。頷くとき、顎ではなく上半身ごと動く人だ。


 「いいけど」


 俺は、見た。


 二年ぶん見てきた顔だ。禿げ上がった頭。汗。薄い眉。赤黒い首。両手の甲に散った、白い古傷。膝の上の指。


 全部、見えている。


 なのに、来ない。


 「……出ない」


 「出ませんか」


 「出ない。なんていうか」


 俺は自分の喉のあたりを指した。うまく言えない。


 「もう埋まってる感じ。この人の場所に、もう字が入ってるから、上から書けない」


 「消してみては」


 「消し方が分からない」


 セシルさんは、また紙に何か書いた。


 「一人につき一度きり。消せない。書き直せない」


 彼女がそれを読み上げたとき、ドンさんが小さく息を吐いた。


 汗を拭く手が、そこで止まった。それきり、拭かなかった。


 「これで、いい」


 ぼそぼそと、そう言った。


 「これで、いいんだ」


 俺は何も言わなかった。


 言わなかったけど、たぶん、俺の顔にも同じことが書いてあったと思う。




 「では、次が本命です」


 セシルさんが、両手を卓の上で組んだ。


 「嘘の名前をつけてください」


 「嘘?」


 「明らかに違う名前を。そうですね。女将さんを、『無口なマルタ』と」


 店の何人かが噴き出した。


 マルタさんが鍋を持ち上げかけた。


 「あたしゃ静かだよ」


 「一番うるさいよ」


 「なんだって?」


 「なんでもないです」


 俺は咳払いをして、息を吸って、言おうとした。


 「無――」


 止まった。


 声が出なかった。


 息は出ている。唇は「む」の形に動いた。舌も動く。顎も動く。空気も通っている。


 なのに、その先が出ない。


 喉の奥に、何かが立っていた。栓でも蓋でもない。もっと固くて、もっと平らなものだ。扉に鍵がかかっているんじゃない。扉を開けたら、その向こうが壁だった。


 俺はもう一度やった。同じだった。


 三度目は、無理に押し出した。


 喉の奥が内側から擦れて、熱くなった。咳が出た。二回出て、三回目で目に水が滲んだ。前掛けの端で拭いても、喉の奥はまだ焼けていた。


 舌が動かないんじゃない。言葉の方が、俺の口を通ろうとしない。


 卓に、水の入った器が置かれた。滑らせて寄越したので、俺の手の前で止まった。


 マルタさんは何も言わずに厨房へ戻っていった。床板が、また一枚ずつ鳴った。


 俺は飲んだ。冷たかった。飲み込むと、喉の奥がひりついた。


 「……出ない」


 「出ませんか」


 「喉で止まる。押し返されてる」


 セシルさんの目が、初めて、はっきり開いた。


 細い目が開くと、意外なほど大きかった。薄い灰青が、火の光をそのまま返していた。


 「――嘘は通らない」


 彼女は指で唇を触った。今日、三度目だ。


 この人は、面白いものを見るとこれをやるらしい。




 「最後に、ご自分に」


 「三年前にやった」


 「結果は」


 「何も起きなかった」


 「もう一度」


 俺はため息をついて、自分の袖を見た。


 何も縫われていない、擦り切れた麻の袖。


 この街の上着は、右袖に継ぎ布の余りをつけて仕立てる。名前が変わることなんて起きないのに、みんなそうする。俺の袖には、それがない。


 目を閉じた。


 自分のことを考えた。


 他人を見ているときは、勝手に言葉が湧いてくる。ドンさんのときも、下から上がってきた。


 自分のときは、湧いてくる場所がなかった。


 暗いんじゃない。暗いなら、暗いという手応えがある。壁もない。床もない。手を伸ばして、伸ばしきったところで、何にも当たらない。当たらないまま、腕だけが余る。


 目を開けた。


 「無理」


 「そうですか」


 セシルさんは、あっさり頷いた。


 紙にさらさらと書きつけて、それから、その紙を俺の方に向けた。


 俺は字が読めない。そこにあるのが字だということしか分からなかった。


 「まとめます」


 彼女は指を四本立てた。


 「一。一人に一度だけ。消せない、書き直せない」


 「二。本人が嫌がっていると出ない」


 「三。嘘は口を通らない」


 「四。自分にはつけられない」


 俺は、その四つを聞きながら、なんとなく寒くなった。


 できることの説明より、できないことの説明の方が長い。


 しかも全部、今日はじめて知った。




 「さて」


 セシルさんが紙をしまった。


 「取引をしましょう」


 「取引」


 「私はあなたを捕まえません。報告もしません」


 「代わりに?」


 「私の調べものに、付き合ってください」


 俺は少し考えた。考えたけど、考える意味がないことに気づいた。断ったら二度と口がきけなくなるらしい。


 「何を調べてるの」


 彼女は、少しのあいだ黙った。


 この人は間が長い。相手が喋り終わってから一拍おいて答える。今のは三拍だった。


 それから、油皿の火を見ながら言った。


 「神殿の授名は、外れることがあります」


 店の空気が、また少し変わった。


 これも、この街で言ってはいけないことの上の方だ。


 「今日、見ましたよね。二十五年間、石を割れなかった男を」


 「……見た」


 「あれは事故ではありません。記録に残っているだけで、二百件以上あります」


 「二百」


 「三千件のうち、二百です」


 俺は桶に手を入れたまま止まった。指が、水の中で勝手に皿の縁をなぞっていた。


 三千のうち、二百。


 十五人に一人くらいの割合で、この街の連中は、合っていない名前を背負って生きているということになる。


 この店に、いま二十人くらいいる。


 つまり、この中にも一人か二人いる。


 顔を上げたら、そういう目で見てしまいそうだったので、上げなかった。


 「なんで外れるの」


 「それを調べています」


 「神殿の人が? 神殿を?」


 「ええ」


 「怒られない?」


 「怒られますね。ものすごく」


 彼女は、そこで初めて笑った。


 目が細くなって、ほとんど線になった。さっきまでとどこが違うのか説明できないのに、笑ったのだけは分かった。




 「じゃあ、俺は何をすればいいの」


 「見てください」


 「見る?」


 「街を歩いて、人を見て、名前と本人がズレている人を教えてください」


 言ってから、言わなきゃよかったと思った。


 「それ、めちゃくちゃ楽じゃない?」


 「楽ですか」


 「だって、見るだけでしょ。俺、それ二十年やってるよ。皿洗いながらずっと。誰が物を持ち上げるとき手首を返すとか、誰が水を汲むとき二回に分けるとか、そういうの全部覚えてる」


 言ってから、しまった、と思った。


 セシルさんが、じっとこっちを見ていたからだ。


 細い目で。まばたきもせずに。羽根ペンは紙の上で止まっていた。


 この人は頷かない。相槌も打たない。だから喋っている側が不安になって、余計に喋る。


 「……二十年」


 「いや、なんとなくだよ。癖」


 俺は首の後ろを触った。触ってから、この癖も見られていることに気づいた。


 「あなた、人の顔を見ませんよね」


 「え」


 「さっきから一度も、私の目を見ていません。手元ばかり見ている」


 俺は自分の視線に気づいて、慌てて顔を上げた。


 上げたところで、彼女の目とぶつかった。


 「顔は嘘をつきますけど、手はあまり嘘をつかないので」


 言ってから、また、しまったと思った。


 余計なことを喋りすぎている。緊張すると口が止まらなくなるのは、俺の一番悪い癖だ。


 セシルさんは、しばらく俺を見ていた。


 それから、指で唇を触った。


 今日、四度目。




 「ひとつ、お見せしたいものがあります」


 彼女は外套の内側から、分厚い綴じ本を出した。


 卓に置くと、どすん、と重い音がした。革の表紙は擦り切れて、角が全部丸くなっている。


 「名簿です」


 「名簿」


 「この街で授名の儀を受けた人間の、全記録」


 彼女は表紙を開いた。指を舐めずにページをめくる。速い。紙が擦れる音が、やけに大きく聞こえた。


 そのとき、匂いがした。


 蝋と、古い紙と、冷たい石の匂い。


 俺はその匂いを、三回、吸ったことがある。




 授名の儀の朝、十五になった者は、まず神殿に集められる。


 広場から神殿までは短い。短いが、急だ。息が上がって、腿の前に来る。途中で振り返ると、坂の下に港が見えて、船のマストが四本、朝の光の中で揺れている。


 神殿は、この街で唯一の白い建物だ。石を切って、面を揃えて積んである。


 中に入ると、まず高さに驚く。


 天井が、首が痛くなるほど高い。二十人入っても、頭の上の空きの方がずっと大きい。


 光は、高いところの窓から斜めに落ちてくる。何本も、同じ角度で。その帯の中だけ、埃が見える。ゆっくり回っている。あの建物の中で動いているものは、その埃だけだった。


 足元は、切りそろえた石だ。この街で唯一、平らな床。だから靴の底がよく鳴る。


 鳴った音は、四重になって返ってくる。二十人で入ると、八十人ぶんの足音がする。全員が黙って立ち止まっても、まだどこかで誰かが歩いている音がしている。


 壁に手をついた。初夏の入口なのに、石は冷たかった。掌の方が先に負けて、こっちが冷たくなる。


 匂いは、蝋と、古い紙と、石だった。


 奥に、老人が立っていた。


 司名のオーウェン。この街で四十年、名前を配ってきた人だ。


 背が縮んでいる。白い外套に銀の縁取りが一本、袖に金の線が一本。髪は白くて薄い。目は濁った青灰で、手の甲には染みが多い。手だけが、体に比べて大きかった。


 その人が、名簿と俺たちを一人ずつ照らしていく。名を呼んで、顔を見て、印をつける。


 最後に、署名をした。


 ペン先が、紙の上で少し震えた。線の終わりが、ほんの少し波打った。


 俺は、年寄りの手だと思った。それ以上は思わなかった。


 それから全員で、坂を下って広場へ行った。


 下りは膝に来る。放っておくと足が勝手に速くなって、前のめりになる。降りるにつれて潮の匂いが濃くなって、人の声が近づいてくる。坂の両側に、青と白の細長い旗が下がって、風で鳴っていた。年に一度だけ、この街に色がつく日だ。


 広場は、人でいっぱいだった。


 三回とも、いっぱいだった。


 壇の上で、あの人は俺を長く見た。長かった。長ければ長いほど、何か大きいものが出てくるんだと思っていた。


 三回とも、何も出てこなかった。


 三回目のとき、母さんは来なかった。




 「――ありました」


 セシルさんの声で、店に戻った。


 彼女は本を回して、俺の方へ向けた。


 俺は覗き込んだ。読めない。名前らしいものと日付らしいものが、細い列になって並んでいるだけだ。


 彼女が、細い指で三か所を順に指した。


 上から、順に。


 「クルト。十五の年。授名なし」


 「クルト。十六の年。授名なし」


 「クルト。十七の年。授名なし」


 俺は、その三行を見ていた。


 三回とも、同じ人の字だった。同じ筆跡、同じ書式、同じ短さ。行と行のあいだに、一年ずつある。


 その一年ずつを、俺は全部覚えている。


 その三回が、ここでは、三行だった。


 「あなた、ここに載ってますよ」


 セシルさんが言った。


 「三回」


 俺は何か言おうとして、やめた。


 油皿の火が、揺れた。


 「ひとつ、聞いてもいいですか」


 彼女の声が、さっきより少しだけ低かった。


 「三回とも、同じ司名が担当しています。この街には司名が一人しかいないので、当然ではあるのですが」


 彼女は、その行の端の方を指した。


 小さく、丸っこい字で、署名が入っていた。


 「この人に、会ってみたいと思いませんか」


 俺は、その字を見た。


 読めない。読めないのに、それだけは分かった。


 震えていた。


 三回とも、少しずつ、震え方が大きくなっていた。

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