第1話 あんた、石割りじゃないだろ
皿は、今日で百三十枚目だった。
数えているのは俺だけだ。誰も頼んでいない。ただ、数えていないと手が止まるので数えている。
桶の水は昼から替えていないので、もうぬるい。指を入れると、脂が薄い膜になって指の背に貼りつく。俺の指は、ここ三年、ふやけていない日がない。指紋のところが白く波打っていて、力を入れると皺の底がひりつく。
夕方の酒場は、油と麦と汗のにおいがする。
天井が低い。背の高い客は、入ってくるとき必ず一度、首を縮める。梁からぶら下がった油皿の火が、人が通るたびに揺れて、そのたびに床の影が伸びたり縮んだりする。
卓は六つ。四人がけが四つ、二人がけが二つ。木は油が染みて黒くなっていて、角が丸い。左から三つ目の椅子は脚が一本短くて、座ると鳴る。誰も直さない。直さないことが、この店の決まりみたいになっている。
窓は西向きだ。この時間だけ、店の奥まで橙色の光が刺さる。
この街は坂の街だから、窓の外は坂しか見えない。上を見れば石畳が続いていて、下を見ればその先に港がある。荷担ぎの連中が坂を上がってくるとき、必ず店の前で一度立ち止まって息をつく。その息の音が、扉越しに聞こえる。
「クルト! 皿!」
厨房の奥から声が飛んできた。というより、殴りかかってきた。
「洗ってるって」
「洗ってねえだろ! 溜まってんだろ!」
マルタさんが顔を出す。
横に広い人だ。立つと床が鳴る。腕が俺の太腿より太くて、その腕を組むと胸のところで布がぱんと張る。
顔は赤い。もともと赤いのか、火の前に立ちすぎて赤いのか、たぶん両方だ。前歯が一本欠けていて、笑うとそこから息が漏れる。目は榛色で、大きくないのによく動く。
髪は頭のてっぺんでぐるぐる巻いて布で留めてある。半分は白い。残りの半分は、五十を過ぎた人間の髪とは思えないくらい鮮やかな赤だった。
この街では、それが何を意味するか、子供でも知っている。
そして、片手に鍋を持っている。
いつも持っている。厨房を出るときも、金を数えるときも、外に怒鳴りに行くときも。寝るときも持っているんじゃないかと思う。黒い鉄の鍋で、底だけが火で灰色になっている。
「百三十枚洗ったよ」
「百三十一枚目があるだろうが」
彼女は鍋の底を掌で叩いた。とん、と低い音がする。話の途中でよくやる。拍子を取っているらしい。
その拍子に合わせて、袖の金糸がぎらついた。
――大鍋のマルタ。
この街では、そういうことになっている。
説明しておく。長くはならない。
この世界の人間は、十五になると神殿で二つ名をもらう。
もらった名前が、そのまま力になる。「疾風のリク」は速い。「不屈のヴィム」は倒れない。「大鍋のマルタ」の鍋は、鉄板より硬い。実際に振る。人を殴る。
もらった名前は袖に刺繍する。右の袖、肘と手首のあいだ。だから、袖を見れば相手が何者か分かる。
酒場では全員が袖を見せて座る。見せない座り方をするのは無礼だ。
「袖を見せろ」というのは、この街では「お前は何者だ」という意味になる。
それともうひとつ。
名前をもらった瞬間、髪か目に色が差すことがある。名の色という。三人に一人くらいだ。もらった名前が本人にぴたりと合っているほど、濃く出るらしい。
だからこの街の通りは、妙に色がある。
建物は灰色だ。石は灰色で、屋根はくすんだ赤茶で、みんなの服は生成りか灰か茶か、くすんだ青。染めた布は高いから、鮮やかな服なんて誰も着ていない。
なのに、頭の上だけ色がある。
港の荷受けの男は髪が青い。北門に立つ門番のヨナスは橙がかった金だ。市場のばあさんの目は菫色で、あれは怒ると本当に光って見える。
坂の下からでも、誰が上がってくるのか、色で分かる。
――俺の袖には、何も縫われていない。
髪は黒い。濡れた鴉の羽みたいな黒で、光が当たると青く見える。父方の血がどうとか言われたことがあるけど、その父を俺は知らない。
目は、灰色だ。薄い。街の連中の茶色い目と並ぶと、色が抜けているのが自分でも分かる。
名の色は、当然ない。
三度、儀に出た。三度、何も起きなかった。三度とも、街の連中が広場から見ていた。
そういう人間を、無名と呼ぶ。
まともな仕事には就けない。皿を洗うくらいだ。
だから俺は皿を洗っている。以上、説明終わり。
「聞いたかよ、こいつ」
入口近くの卓で、若い男が笑っていた。
まだ二十歳そこそこだろう。肩幅だけは立派だが、首がまだ細い。革の胴着が新しすぎて、まだ折り目がついたままだ。膝の上に手を置いていて、その手には傷ひとつない。仕事で使った手じゃない。
髪が緑だった。深い、苔みたいな緑。名の色にしては派手なほうだ。
袖には大成のオルグと縫ってあった。
大成。
いい名前をもらったやつは、大抵その名前を椅子みたいに使う。座って、ふんぞり返る。
「なあドン、あんた石割りだろ。石割り。だったらこれ、割れるよな」
オルグが卓の上に石をひとつ置いた。拳くらいの、川原にでも落ちてそうな丸い石だ。置いたときに、こつん、と音がした。
卓の向こうに座っている大男が、少しだけ背中を丸めた。
ドンさん。四十代。
熊だ。座っていても頭ひとつ大きい。肩幅がこの店の扉より広いので、入ってくるときは半身になる。それをもう二年、毎日やっている。
頭は禿げ上がっていて、この季節でも汗をかいている。残っているのは側頭部だけで、その髪は白と、白になりかけた茶が混じっている。眉が薄い。色も薄い。灰がかった茶で、遠目には眉がないように見える。だから困った顔をしても困っているように見えない。
肌は赤黒い。二十五年、石粉と日に焼かれた色だ。
ただ、手の甲だけが白い。
白いのは肌の色じゃない。傷跡だ。古い擦り傷が、何本も、何十本も走っている。全部、石を叩いて外した跡だ。
袖の刺繍は、色が褪せていた。二十五年前は白かったはずの糸が、いまは灰色になっている。
石割りのドン。
「……いや、おれは、いい」
「いいって何が? 割れよ。石割りだろ」
ドンさんは石を見た。それから、手を膝の上に戻した。
「今日は、いい」
「今日は? 昨日もそう言ってたよなあ」
周りの卓から笑いが起きた。悪意のある笑いじゃない。もっと悪い。慣れた笑いだ。
この街の連中はみんな知っている。石割りのドンは、石が割れない。
二十五年、割れていない。
俺は皿を洗いながら、ドンさんの手を見ていた。
人と話すとき、俺は顔を見ない。手元を見る癖がある。顔は嘘をつくが、手はあまり嘘をつかない。
ドンさんの手は、いま、膝の上で止まっている。
でも指が動いていた。人差し指が、膝を三回叩いて、止まって、また三回叩く。
俺はその指を、たぶん二年くらい見ている。
この人はいつも、店に入ってくると入口で一度立ち止まる。それから一番奥の卓に行く。椅子を引くとき、床が鳴らないようにそっと持ち上げる。自分がでかいことを、この人はずっと詫びている。
厨房の火が爆ぜると、爆ぜる前にわずかに肩が動く。
誰かが二階の階段を降りてくると、階段を見る前に顔を上げる。
二年見ていて、俺はひとつだけ確信していることがある。
この人は、石を割るのが下手だ。
でも、耳がいい。
異様に。
「じゃあさ」
オルグが立ち上がった。椅子が後ろに倒れた。石を手のひらで転がしている。
「割れねえなら、名前返せよ」
店が静かになった。
油皿の火が揺れる音だけが残った。誰かの椅子が鳴って、その音が大きく聞こえた。
この街で一番言ってはいけないことを、こいつは平気で言った。名前を返せというのは、お前は生きている意味がないと言うのと、ほぼ同じだ。
ドンさんは、何も言わなかった。ただ、少しだけ、また背中を丸めた。
その丸め方が、俺は嫌いだった。
二年間、ずっと嫌いだった。
「おい坊主」
オルグが厨房の方を見た。俺を見ている。
「お前も無名だろ。仲間だな。並んで名前返してこいよ」
「返すも何も、もらってないんだけど」
言ってから、まずいなと思った。
俺は緊張すると口が止まらなくなる。悪い癖だ。
「返却する物がないんだよね。手ぶらで神殿行っても門前払いだと思うんだよな。あと、あんたの名前、大成でしょ。大成って何を成すのか具体的に書いてなくない? ざっくりしすぎじゃない? 俺だったら苦情言うけど」
店の隅で、誰かが噴き出した。
オルグの顔が、赤くなった。緑の髪の下で赤くなると、なかなか目立つ。
殴られるな、と思った。
思ったところまでは合っていた。ただ、殴られたのは俺ではなかった。
俺とオルグのあいだに、ドンさんが立っていたからだ。
いつ立ったのか、分からなかった。あれだけでかい男が椅子から立ち上がったのに、床が鳴らなかった。
拳が、ドンさんの頬に入った。いい音がした。骨と骨が当たる、乾いた音だ。
ドンさんは半歩下がって、それだけだった。
「……こいつは、いいだろ」
ぼそぼそした声だった。語尾が消える。この人はいつもそうだ。
「うるせえ」
二発目。三発目。
ドンさんは避けなかった。避けようとしなかった。両手は下げたままだ。
頬が赤くなって、そこだけ肌の色が変わった。汗が一筋、こめかみから顎へ落ちた。
俺は皿を置いた。
置いた皿が、水の中で音を立てた。ぬるい水が、桶の縁から少し零れた。
「ドンさん」
俺は厨房を出た。
床が油で少し滑る。三歩目で滑りかけて、卓の角を掴んだ。
「ちょっといい?」
「……あぶないから」
「あぶないのはあんたの顔だよ。腫れてる」
俺はドンさんの正面に立った。
近くで見ると、本当にでかい。首を上に曲げないと目が合わない。目は小さくて、濃い茶色で、まばたきが少ない。
汗が、こめかみをもう一本流れていった。
「ひとつ聞いていい?」
「なに」
「厨房の火、いま爆ぜる」
ドンさんの肩が、わずかに動いた。
一拍おいて、厨房の奥で火が爆ぜた。ぱん、と小さく。
「ほら」
俺は言った。
「二階、誰か降りてくる。あと三段」
ドンさんが、階段の方を見た。
三段ぶんの間があって、客がひとり降りてきた。降りてきた男は、店の全員が自分を見ていることに気づいて、途中で足を止めた。
店の連中が、それを見ていた。マルタさんも、鍋を持ったまま止まっていた。
「あんたさ」
俺は言った。
「石割りじゃないだろ」
ドンさんの目が、初めて、まっすぐこっちを向いた。
「二十五年、割れなかったんだよね」
「ああ」
「そりゃそうだよ。あんた石割りじゃないもん。名前が間違ってんだよ」
店の空気が変わったのが分かった。
名前が間違っている。この街で、それは言ってはいけないことの二番目くらいに位置する。神殿が配ったものにケチをつけるということだ。
「坊主、それは」
誰かが言いかけた。
俺は無視した。無視したというより、聞こえていたけど、どうでもよかった。
ドンさんの手を見ていた。
膝の上で止まっていた指が、いま、だらんと下がっている。二十五年ぶんの何かが、そこにぶら下がっている気がした。
「あんたが石を割れないのは、下手だからじゃない。聞こえすぎるからだ」
「え」
「石を叩いたとき、中の音まで聞こえてるでしょ。割れる場所も、割れない場所も、全部。だから迷う。迷って、力が入らない。……違う?」
ドンさんは、長いこと黙っていた。
黙っているあいだ、彼は自分の手を見ていた。白い傷跡の走った、大きすぎる手を。
それから、小さく言った。
「……水の、音がする」
「石の中の?」
「石の中に、水が。いつも」
俺は笑った。笑うつもりはなかったけど、出た。
「じゃあ完全に耳の人じゃん」
口が、勝手に動いた。
いつもそうだ。分かったときだけ、名前が先に出る。考えて出すんじゃない。見えたから出る。
「――聞き手のドン」
言った瞬間、口から出た言葉が、空気の中に文字のまま残った。
薄い、白い線でできた文字だった。冬の朝に吐く息の、あの白さに近い。俺には読めない。読めないのに、それが今の言葉だと分かる。
一拍だけ浮かんで、それからドンさんの方へ吸い込まれた。
ドンさんの輪郭が、一瞬だけ光の縁取りを持った。光ったというより、肩の線と、禿げた頭の丸みが、そこだけ一段濃くなった。
そして、袖が動いた。
褪せた石割りのドンの刺繍が、糸を解きはじめた。布を引っかく、かすかな音がする。糸が生き物みたいに這って、ほどけて、組み直されていく。
誰も何も言わなかった。
油皿の火が揺れて、床の影が伸びた。
縫い終わると、糸の端がぷつりと切れて、床に落ちた。
――聞き手のドン。
新しい糸は、白かった。
それから、もうひとつ起きた。
最初、俺は火の加減かと思った。
ドンさんの側頭部。白と、白になりかけた茶しか残っていなかったところに、赤みが差した。
薄い眉にも。
濃くはない。派手でもない。ただ、さっきまでそこにあった「色のなさ」が、なくなった。
店の誰かが、息を吸う音がした。
二十五年、この人には名の色がなかった。
この街の連中はみんな知っていた。石割りのドンには色がない。名前が合っていないからだ、と誰も口には出さずに思っていた。
いま、色が差した。
ドンさん本人だけが、まだ気づいていなかった。
「なんだ、それ」
オルグの声が、少し裏返っていた。
「なんだそれ! ふざけてんのか、地味すぎんだろ! 聞き手ってなんだよ!」
彼が踏み込んで、拳を振った。
ドンさんは、目を閉じていた。
閉じたまま、半歩、横にずれた。
拳が空を切った。
二発目。ドンさんは首を傾けただけだった。三発目。しゃがんだ。四発目は、来る前に一歩下がっていた。
オルグの息が上がりはじめた。緑の髪が汗で額に貼りついている。ドンさんは目を閉じたままだ。
「なんで当たんねえんだよ!」
「……足の音が、変わるから」
ドンさんが言った。
「踏み込む前に、床が、鳴る」
オルグが五発目を出した。
ドンさんは、その手首を掴んだ。
目を、閉じたまま。
「……悪いね」
次の瞬間、オルグの体が卓の上を滑って、反対側の床に落ちた。皿が三枚割れた。
口が先に動いた。
「あー、それ百三十一枚目」
店が、しばらく静かだった。
それから、誰かが手を叩いた。二人目が続いた。三人目からは、もう歓声だった。
マルタさんが鍋の底を掌で叩いて、大声で笑っていた。とん、とん、と拍子を取りながら笑うので、笑い声が妙に規則正しい。
ドンさんは、まだ目を開けていなかった。開けたときには、なんというか、変な顔をしていた。二十五年ぶんの何かを一気に降ろした人の顔だ。
「……クルト」
「うん」
「聞こえるのは、悪いことじゃ、なかったのか」
「悪いわけないでしょ」
俺は肩をすくめた。
「みんな石割ってろって言ってただけ。あんたに合ってない仕事を、名前で押しつけられてたんだよ」
ドンさんが、自分の袖を見た。
それから、太い指で、縫い直された文字をなぞった。
なぞって、少し、鼻をすすった。
俺は見ないふりをして、床の皿の破片を拾った。
「ドン」
マルタさんが言った。
「あんた、髪」
「髪?」
「赤くなってる」
ドンさんは、自分の側頭部に手をやった。
やって、しばらく、そこで止まった。
当たり前だが、手で触っても色は分からない。それでも、彼はしばらく触っていた。
誰も、何も言わなかった。
言うことがなかったんだと思う。
「――へえ」
入口から声がした。
背の高い女が立っていた。
姿勢が異様にいい。背骨が一本、まっすぐ通っている。歩幅が大きくて、三歩で店の真ん中まで来た。
髪が白金だった。短く切ってあって、耳が出ている。この街ではまず見ない色だ。北の海の方から来た血筋にああいうのがいると聞いたことはあるが、実物は初めて見た。
肌が白い。焼けていない。この街で肌が白い人間は、外に出ない仕事をしている人間だけだ。
目は細くて、薄い灰青。笑っているのかどうか分からない。
銀の縁取りが一本入った外套。首から下げた銀の板が、油皿の火を跳ね返している。
そして彼女は、腕を組んでいた。袖の刺繍が、見えないように。
この街で袖を隠すのは、無礼だ。
彼女は床に落ちた糸の切れ端をつまみ上げて、しばらく眺めた。それから、卓の上に置いた。
つまみ上げたその手を、俺は見ていた。指が長い。爪が短く整えてある。右手の中指の第一関節に、硬いこぶがあった。物を書く人間の指だ。
卓に置かれた糸は、そのまま忘れられた。俺があとで拾って、上着の内側に入れた。理由は、自分でもよく分からない。
それから、指で自分の唇を触った。
「あなた、いま、名前をつけましたね」
俺は口を開けて、閉じた。
「……ええと」
「神殿の許可、ありました?」
なかった。
あるわけがなかった。
彼女はにこりともせずに、細い目をさらに細めた。
「へえ。……それ、犯罪ですよ。ものすごく」
油皿の火が、また揺れた。
俺は、この日はじめて、皿の枚数を数えるのを忘れた。




