第49話 すみれ色の衝撃と、前髪の向こう側
教室のドアを開けた瞬間、俺は満面の笑みで声を張り上げた。
「おはよう! 安城、昨日の夜はありがとうな!」
――その瞬間だった。
教室中が、ピタリと静まり返る。
さっきまで響いていた笑い声も、机を引く音も止まり、ざわりと空気だけが揺れた。
クラスメイトたちの視線が、一斉に俺と安城へ突き刺さる。
「えっ……昨日の夜って……」
「なにそれ、二人って付き合ってるの?」
「マジ?」
(……はっ!?)
頭の中が真っ白になる。
そして、自分が今どんな爆弾発言をしたのかを理解した。
背中を嫌な汗が一気に流れる。
恐る恐る隣を見ると、安城はゆっくりとこちらへ顔を向けていた。
ジト――っと細められた瞳。
冷え切った視線。
(……ばか。勘違いされるじゃない)
そんな無言の圧力が、俺の胸にグサリと突き刺さる。
安城はそのまま俺を見つめ続ける。
(ちくしょう……せっかく昨日ちょっと上がった好感度が、一瞬で吹き飛んだぜ……)
(安心して。一ミリも上がってないから)
俺の高校生活は、今日も順調に地獄からスタートした。
……よし、こうなったら。
「いや〜! 学級委員の仕事とはいえ、夜まで大変だったな! 本当に助かった! 俺の要領が悪くて付き合わせちまって悪かった!」
教室いっぱいに響くように、わざと大きな声で言う。
すると張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
「あ〜、そういうことか!」
「学級委員だったのね〜。」
教室には笑い声が戻り、みんなそれぞれの席へ戻っていく。
(ふっ……危なかったぜ。)
(さすが俺。圧倒的な機転の良さだ。)
(これで安城も俺の事少しは見直してくれるか?)
(何、自分で解決した気になってるのよ。)
(もともとあなたの失態でしょ)
俺も席へ腰を下ろし、ふぅっと息を吐く。
そのときだった。
教室がいつもの賑やかさを取り戻す中、一人だけ、その輪に溶け込もうとしない生徒が視界に入った。
俯いたまま、自分の席で小さく身体を丸めている少女。
(……そういえば、あの子、いつも一人だよな。)
紫色の髪。
小柄な体。
入学式の日、俺の机から落ちたあのセクシー漫画を拾ってくれた女の子。
(あの時は……俺が余計なこと言って逃げられたんだよな。)
苦笑いが漏れる。
けれど今見えているその背中は、あの日よりもずっと小さく見えた。
誰にも近づこうとせず。
誰かを拒絶しているというよりは――
まるで、何かに怯えるように、自分の殻へ閉じこもっているようだった。
そんなことを考えていると、
「ゆういち、おはよ〜っ♪」
聞き慣れた明るい声が、俺の思考を優しく引き戻した。
振り向けば、いつもの笑顔を浮かべた聖が立っている。
「ねぇねぇ、ゆういち。何見てるの〜?」
相変わらず柔らかい声。
甘えるような笑顔。
今日も天使が元気だった。
危うく視線も心も全部持っていかれそうになる。
「……あの子さ。いつも一人でいるよな?」
俺が視線を向けた先を見て、聖も「ああ」と小さく頷いた。
「あ〜、すみれちゃんね。」
「蜂須賀澄玲ちゃん。」
「なんか、一人でいるのが好きみたいなんだ。」
「僕も何回か話しかけようとしたんだけど……なんていうか、壁があるっていうか。」
そう言って笑う聖だったが、その笑顔にはほんの少しだけ影が差していた。
(……いつも笑ってる聖が、こんな顔するなんて。)
少しだけ胸がざわつく。
「まぁ、聖みたいな天使みたいに可愛い子に話しかけられたら、そりゃ誰でも緊張するだろ。」
「だから僕は男だって。」
いつものくだりに照れたように笑う聖。
そのやり取りに思わず笑いながらも、俺の視線は再び蜂須賀澄玲へ戻っていた。
「……あとで、話しかけてみるか。」
ぽつりと呟く。
すると、その言葉を待っていたかのように、右隣から静かな声が聞こえた。
「――やめておきなさい。」
安城だった。
文庫本を片手に持ったまま、こちらを見ようともせず、淡々と言葉を続ける。
「世の中にはね。」
「一人でいることが幸せな人もいるの。」
「変に気を遣われたり、話しかけられたり……」
「『かわいそうだから相手をしてあげよう』なんて思われるのが、一番嫌な人だっている。」
その声は冷たくも優しくもなく、ただ事実だけを語っているようだった。
「……そういうもんなのか。」
俺は小さく呟き、椅子にもたれかかる。
安城の言葉にも、一理ある。
きっと世の中には、本当に一人が好きな人もいるんだろう。
だけど。
それでも。
胸の奥に引っかかった違和感だけは、どうしても消えなかった。
もう一度、蜂須賀澄玲の小さな背中を見る。
誰とも話さず。
誰とも目を合わせず。
静かに俯き続けるその姿を見ていると――
(……本当に、一人が好きなのか?)
そんな疑問が、心の奥で静かに膨らんでいく。
(本当にそうなのかなんて――)
(話してみなきゃ、わかんねぇよな。)
* * *
休み時間。
教室は弁当の蓋を開ける音や、楽しそうな笑い声で賑わっていた。
そんな中、一番前の窓際だけは、まるで別の空間みたいに静かだった。
机に伏せるように座っている、蜂須賀澄玲。
(……安城の言うことも分かる。)
(でも、俺はやっぱり気になるんだよな。)
小さく息を吸い、俺はゆっくりと蜂須賀さんの席へ歩いていく。
コンコン。
机を指先で軽く叩く。
その音に反応して、蜂須賀さんはゆっくりと顔を上げた。
重たい前髪の隙間から覗く瞳が、驚いたように大きく揺れる。
「あ、あわわわわ……な、な、何ですか……っ?」
肩がびくりと跳ねる。
声は震え、今にも消えてしまいそうなくらい小さい。
紫色の長い髪が顔の半分を隠していて、表情はほとんど見えない。
それでも、ものすごく驚かせてしまったことだけは十分伝わってきた。
(やべ……。)
(完全にビビらせちゃったか。)
「えっと、ごめんごめん! 脅かすつもりじゃなかったんだ!」
俺は慌てて両手を振る。
少しでも安心してもらいたくて、精一杯笑顔を作った。
「蜂須賀さん! はじめまして!」
「俺、神田ゆういちって言います!」
「特に用事があるわけじゃないんだけどさ……なんか気づいたら話しかけたくなっちゃって。」
「あっ、そうだ!」
「この前は漫画拾ってくれてありがとう!」
(ちくしょう……。)
(話題がねぇ!!)
我ながら情けない。
女の子と話すのは昔から得意じゃない。
むしろ本番になると頭が真っ白になるタイプだ。
それでも。
どうしても放っておけなかった。
(……この子、昔の姫花に少し似てるんだ。)
まだ小さかった頃の妹。
人と話すのが苦手で、いつも一人で本を読んでいた。
本当は寂しいはずなのに、「一人が好きだから」と笑っていたあの頃の姿が、蜂須賀さんと重なって見える。
もちろん、本当に一人が好きなら、それでいい。
だけど。
もし違うなら。
もし本当は誰かと話したいのに、一歩踏み出せないだけなんだとしたら――。
「……だから、その。」
「なんとなく気になっただけ。」
「気持ち悪かったら、すぐどくから!」
勢いだけで言い切る。
すると、蜂須賀さんの肩が小さく震えた。
「あ……いや……。」
「気持ち悪くなんか……ないです……。」
その声は小さかった。
だけど、ちゃんと俺に届いた。
(あわわわわ……。)
(男の子に……話しかけられた……。)
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……。)
蜂須賀さんはぎこちなく胸の前で手を握りしめる。
(落ち着くのよ、澄玲……。)
(家で練習した通り……。)
(深呼吸……。)
(すー……。)
(はー……。)
(すー……。)
(は――。)
「けほっ、けほっ!」
突然咳き込んでしまう。
「あ、大丈夫!?」
思わず身を乗り出す。
蜂須賀さんは慌てて首を横に振った。
(あわわわ……。)
(また、やっちゃいました……。)
俯いたまま、小さく肩を落とす。
(せっかく……話しかけてくれたのに……。)
(ごめんなさい……。)
(きっと……引かれちゃったよね……。)
その姿を見ていると、昔の姫花を思い出してしまう。
俺は思わず苦笑した。
「わかる!」
親指を立てて笑う。
「俺なんか放送委員のとき、本番で噛みまくって全校生徒に爆笑されたからな!」
「練習じゃできるのに、本番だけ失敗するんだよ!」
「ほんと勘弁してほしいよな!」
蜂須賀さんが、ゆっくりと顔を上げる。
前髪の向こうから、きょとんとした表情で小さくこちらを見ていた。
(あれ?なんか仲良くなれそうじゃね?……。)
その瞬間だった。
ふわり。
窓から吹いた風が、蜂須賀さんの前髪を優しく揺らした。
「あっ……。」
隠れていた瞳が、一瞬だけ姿を見せる。
その光景に、俺は息を呑んだ。
影を宿しているのに、吸い込まれそうなくらい綺麗な瞳。
まるで曇り空の隙間から、月が顔を覗かせたみたいだった。
気づけば。
「……すげぇ。めっちゃ可愛い。」
言葉が、勝手に口から零れていた。
(……あ。)
また本音が漏れた。
完全に声に出した。
(あぁぁぁぁぁ!!)
(俺、何言ってんだあああ!!)
恐る恐る蜂須賀さんを見る。
そこには。
顔を真っ赤にして固まっている蜂須賀さんの姿があった。
肩だけがプルプルと小刻みに震えている。
「あ……あぇ?」
「す、す、すみませんっ!」
「わ、私、お手洗いに行くのでっ……失礼しますっ!」
ガタンッ!
椅子を勢いよく引き、ノートも鞄もそのままに、蜂須賀さんは顔を隠すように教室を飛び出していった。
「…………。」
取り残された俺は、その場で固まる。
(……やっちまった。)
(完全に嫌われたよな……。)
力が抜けるように椅子へ座り、そのまま机へ突っ伏す。
さっきまで吹いていた風は、もう止んでいた。
静かな教室。
だけど俺の胸の中だけは、心臓がうるさいくらい鳴り続けている。
そのとき、不意に安城の言葉が頭をよぎった。
『世の中には、一人でいることが幸せな人もいるの。』
「……なるほど。」
思わず苦笑する。
どうやら今の俺も、その仲間入りを果たしたらしい。
――でも。
これが本当に”幸せ”ってやつなのかどうかは。
正直、まだよく分からなかった。




