第50話 初対面の美少女に「可愛い」と言ったら、ストーカー認定されました
(あわわわわっ……な、なんなんですか、あれぇ……!?)
洗面台の前で、私はハンカチをぎゅっと握りしめたまま固まっていた。
蛇口から流れ続ける水の音だけが、やけに大きく耳に響く。
鏡に映る自分の顔は、驚きのあまり目をまん丸にしていた。
(しょ、初対面ですよ……!? それなのに、いきなり「可愛い」って……!)
胸の奥がどくどくと騒がしい。
さっきの言葉が、頭の中で何度も何度も再生される。
『すげぇ可愛い』
(えっ……なに……? もしかして――変態……!?)
私は慌てて首をぶんぶんと横に振った。
いやいや、そんなわけ……。
でも、初対面の女の子にいきなりそんなことを言うなんて、普通じゃない気もする。
ごしごしと手を洗いながら、私は必死に考える。
そして――ふと、顔を上げた。
鏡の向こうで、不安そうな顔をした自分と目が合う。
(……待ってください)
胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
(もしかして……新手のいじめ……!?)
その瞬間、頭の中で何かがカチッとはまった。
(よ、よくあるじゃないですか……! 罰ゲームで「クラスで一番ブスに告白してこい」とかいう、あの漫画の一巻みたいなやつ……!)
思わず両手で口を押さえる。
脳裏に浮かぶのは、さっき教室で見た三人の姿だった。
明るくて、仲が良さそうで、みんなの中心にいるような人たち。
安城さん。
如月くん。
そして――神田くん。
(ま、まさか……三人で仕組んだドッキリ……!?)
そう考えた瞬間、全部につじつまが合ってしまった気がした。
初対面なのに、私なんかをいきなり「可愛い」なんて言う理由。
妙に距離が近かったこと。
優しそうな笑顔。
(……うぅ。そう考えると、なんだか全部怪しく見えてきました……)
胸が、きゅっと小さく痛む。
期待なんてしていない。
最初から、そんなことあるわけないってわかっている。
それなのに、ほんの少しだけ嬉しいと思ってしまった自分がいて――それが、なんだか恥ずかしかった。
私は小さく息を吸い込む。
「すー……はー……すー……はー……」
鏡の中の自分を見つめながら、何度も深呼吸を繰り返す。
(大丈夫……落ち着いてください……。冷静に、冷静に……)
胸の前でぎゅっと手を握り、小さく頷く。
そして、私は一つの結論を出した。
(……そうです。きっとそういうことです)
だから――。
(なるべく関わらないようにしましょう……)
期待しなければ、傷つくこともない。
最初から近づかなければ、怖い思いをすることもない。
鏡の奥の私は、静かに感情の波を沈めるように目を伏せた。
そのときだった。
「……ごほっ、ごほっ……!」
突然、喉がむせ返る。
私は慌てて口元を押さえた。
(す、すー……はー……って、やりすぎました……)
深呼吸に全力を注ぎすぎたせいで、少し酸欠気味になってしまったらしい。
じわっと目尻に涙が浮かぶ。
私は小さく咳き込みながら、恥ずかしくなって顔を伏せた。
……誰も見ていないのに。
なぜだか、とても情けない気持ちになってしまう。
震える指先をきゅっと握りしめる。
そして私は、鏡の中の自分へ向かって、そっと言い聞かせるように呟いた。
(……今日はもう、静かに過ごすのです……)
一方その頃――教室では。
――神田ゆういち視点
「……やっちまった……」
俺は力なく呟くと、そのまま机に額をこつんとぶつけた。
ひんやりとした机の感触が、やけに心地いい。
いや、現実逃避してる場合じゃない。
(やらかした……完全にやらかした……)
頭の中で、さっきの光景が何度も何度も再生される。
窓から吹き込んだ風。
ふわりと揺れた紫色の髪。
前髪の隙間から見えた、整った顔立ち。
そして突然の――。
『すげぇ可愛い……』
(なんで口に出したんだよ、俺ぇぇぇっ!!)
心の中で絶叫する。
(初対面だぞ!? 初対面の女子にいきなり「可愛い」ってなんだよ! ナンパか!? 軽薄な男か!?)
俺は再び机に額を打ちつけた。
ゴンッ。
(つか、なんであんな絶妙なタイミングで風が吹くんだよ!! 漫画かよ!! ちくしょう!!)
ゴンッ。
もう一回。
いっそ記憶ごと消えてくれ。
「ゆういち、そんなにぶつけちゃ危ないよ」
呆れたような、それでいて少し心配そうな声が聞こえた。
顔を上げると、聖がこちらを見ていた。
「そうだな……すまねぇ。ありがとうな、聖。心配してくれて」
「机、割れちゃうよ」
「机の心配かよ!」
思わず勢いよくツッコむ。
「お前、ふざけんなよ! こっちは恥ずかしさのあまり繊細な心がズタボロなんだぞ!」
「へへ。ゆういちの心が先に割れちゃったね」
「いや、全然上手くないからな!? あとお前、男だったらぶん殴ってたぞ?」
「いやだから、僕、男だって」
聖は悪びれる様子もなく、自分の頭をぽりぽりと掻いた。
なんだその笑い方。
絶対面白がってるだろ。
……ていうか。
(なんでそんなに可愛いのに男なんだよ……)
女の子みたいな顔立ちに、白い髪で柔らかい笑顔。
これで男なんだから、世の中は理不尽である。
そんなことを考えていると――。
「……すげぇ、可愛い」
「……はっ!?」
背筋がぴんと伸びた。
聞き覚えのありすぎる言葉に、俺は反射的に振り返る。
隣の席。
そこで本を読んでいた安城が、何事もなかったかのようにページをめくっていた。
……今、言ったよな?
絶対言ったよな?
俺の顔から、一気に血の気が引いていく。
唯一の救いは、誰にも聞かれていないことだったのに。
「もう、や、やめてくれぇぇぇ~~~!!」
俺は両手で顔を覆った。
恥ずかしい。
死ぬほど恥ずかしい。
穴があったら入りたい。
いや、今すぐ地面に埋まりたい。
だが、安城はそんな俺を気にも留めず、静かに本をめくる。
(あんたが色んな人を可愛いって言うからバチが当たったのよ)
(……別に、あんたが他の子を可愛いって思うなんて、私には関係ないけど)
「なんで聞こえるんだよ!? 地獄耳かよ!?」
反論しても、安城は知らん顔だ。
ページをめくる音だけが、やけに静かに響く。
俺は力尽きたように、机へうつ伏せになった。
暗くなった視界の中で、ふと、蜂須賀さんの顔が浮かぶ。
(……でも、あの子)
胸の奥が、少しだけざわつく。
(やっぱ、どこか姫花に似てたんだよな……)
顔立ちが似ているわけじゃない。
雰囲気、というのだろうか。
どこか儚くて。
どこか放っておけなくて。
少し目を離したら、ふっと消えてしまいそうな危うさがある。
その感じが、昔から無理をして笑うことがあった妹と、ほんの少しだけ重なった。
(……だから、気になったのか?)
自分でもよくわからない。
ただ、あの瞬間、自然と目が奪われた。
そして、気づいたら言葉が漏れていた。
俺は小さく息を吐く。
(落ち着け……落ち着くんだ、神田ゆういち……)
こういう時は焦っても仕方がない。
(そうだ。一旦、時間を置こう)
時間が経てば、気まずさも薄れる。
向こうだって忘れてくれるかもしれない。
(少し冷静になってから……また、話しかけよう)
そう心に決めた。
そして次の授業。
俺は美術室へと向かった。
今日の課題は、『隣の席の相手とペアになって、お互いの顔のデッサンを描き合うこと』らしい。
ちなみに安城は選択科目で音楽を取っているため、この場にはいない。
(もし隣が安城だったら、推しの顔を一時間見放題だったのになぁ……)
それ、もう授業じゃなくてご褒美だろ。
そんなことを考えながら、自分の席へ向かう。
(よし、切り替えていこう)
椅子を引き、腰を下ろす。
(……そういえば、美術の隣の席って誰だったっけ?)
何度も受けている授業なのに、全然思い出せない。
まぁ、よくあることだ。
昔から、人の顔と名前を覚えるのはあまり得意じゃない。
俺は軽い気持ちで隣を振り向いた。
「デッサンのペア、よろしく――」
その瞬間だった。
「――は……!?」
思わず声が漏れた。
そこに座っていたのは――。
ついさっき、『時間を置こう』と決意したばかりの相手。
蜂須賀澄玲だった。
(う、嘘だろ……!?)
心臓がどくん、と大きく跳ねる。
そして彼女もまた、俺に気づいたらしい。
ぱちり、と目を見開く。
次の瞬間。
「あわわわわ……」
まるで幽霊でも見たかのように、その肩がぴくりと震えた。
その表情が、すべてを物語っている。
(あかん……これ、めちゃくちゃ警戒されてるやつだ)
そんな心の声が聞こえてきそうなくらい、怯えた顔だった。
俺はゆっくりと固まる。
彼女も固まる。
美術室のざわめきだけが、妙に遠く感じた。
しばしの沈黙。
そして俺は、心の底から思った。
(……終わったかもしれん)
どうやら、この美術の授業――。
波乱の予感しかしなかった。




