第47話 拝啓、未来の旦那様へ──“推しの初めて”をいただきました。
俺はなんて幸せ者なんだろう。
なぜなら――。
俺の推し。
安城恵梨香が。
今まさに俺の家へ晩御飯を作りに来てくれているのだから。
玄関のドアを開けた瞬間だった。
そこには、どこか不機嫌そうな顔をした安城恵梨香が立っていた。
腕を組み、少しだけ頬を赤く染めながら、じれったそうにこちらを見上げている。
「え……? ど、どうしたんだよ、安城?」
突然の来訪に思考が止まる。
すると安城は小さくため息を吐いた。
「……姫花ちゃんから連絡が来たの」
「姫花?」
「“今日から林間学校だから、お兄ちゃん絶対カップ麺で済ますと思うんです。安城さん、お世話してあげてください”だそうよ」
「お世話って……俺はペットか何かかよ……」
「ったく妹ときたらよ……」
「最近は自分でも料理してるってのにさ?」
もちろん料理なんてこれっぽっちもしていない。
けど推しに少しでもよく思われたい、そんな浅ましい考えが脳内で炸裂していた。
「じゃあ、さっそくだけど台所借りるわね」
そう言って安城は買い物袋を持ったまま玄関を上がった。
「あっ……ちょっとお洋服着替えていいかしら?」
「えっ?」
思わず聞き返す。
「いいけど……なんで?」
安城は少しだけ視線を逸らした。
「汚れたら嫌じゃない」
「お気に入りの可愛い服なんだから」
安城はそう言うと、なぜか俺と目を合わせようとしなかった。
「お、おう!」
俺は勢いよく頷いた。
推しの私服。
お気に入り。
可愛い服。
情報量が多い。
脳が処理を拒否している。
「じゃあ借りるわね」
そう言って安城は姫花の部屋へ向かっていった。
そして俺は一人取り残される。
(ん?)
ふと疑問が浮かんだ。
(いや待てよ?)
(料理する予定だったなら――)
(最初から汚れてもいい服で来ればよかったんじゃないか?)
(……やっぱり女の子ってよくわからん)
そして、着替え終わった安城は慣れた手つきでエプロンを取り出した。
腰へ結び、長い金髪を軽く整える。
その仕草が妙に様になっている。
そして――。
キッチンへ向かう後ろ姿を見た瞬間。
俺の脳内で何かが爆発した。
(おお)
(なんかラブコメの主人公みたいな展開だな)
(推しに料理を作ってもらうイベント)
(この出来事だけで今後の人生、生きていけそうだ)
心臓がドクドクと音を立てる。
落ち着け。
冷静になれ。
俺は推しを前にするとIQが下がるタイプのオタクだが、まだ人間としての理性は残っているはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はクローゼットから新品のエプロンを取り出した。
(これはあくまで戦力補充だ)
(決して推しと並んで料理したいとか)
(夫婦みたいな雰囲気を味わいたいとか)
(そういう不純な理由では断じてない)
自分に必死で言い訳していると――。
「……ちょっと」
冷たい声が飛んできた。
振り向く。
安城がじっとこちらを見ていた。
「何してるの?」
「え?」
「そのエプロン」
俺は反射的に背筋を伸ばした。
「い、いや! 一応手伝おうかなって!」
我ながら苦しい。
だが、それ以上に本音がひどかった。
(推しと新婚夫婦ごっこがしたい)
最低である。
安城は俺の為に料理をわざわざ作りにきたのに、
俺ときたら。
でも仕方ないんだ。
だって安城は――。
きっといつか誰かと結婚する。
優しくて。
頼りがいがあって。
頭も良くて。
運動もできて。
そんなハイスペックな男と。
そして幸せそうにキッチンに立つのだろう。
(……だったらさ)
(ファンとして、せめて今だけは許されてもよくないか?)
(推しが未来の旦那とやるはずだったイベントを)
(今日だけは俺が体験したって)
(バチは当たらないだろ?)
(アンタさっきから何言ってるの?)
その瞬間だった。
「……そう」
安城は小さく呟いた。
そして。
まな板の横を少し空ける。
「ジャガイモ、剥いて切ってちょうだい」
「え?」
思わず固まった。
自分で言うのもなんだが、普通に断られると思っていた。
邪魔だと言われると思っていた。
それなのに――。
(え、いいの?)
(本当に?)
驚く俺を見て、安城が怪訝そうに眉をひそめる。
「何よ」
「やらないの?」
「いや、やる!!」
即答だった。
俺はジャガイモを掴んだ。
人生でこれほどジャガイモに感謝した日はない。
もう今後ジャガイモ愛好家として生涯をまっとうしようとさえ思う程に。
隣では安城が包丁を動かしている。
小気味よい音。
落ち着いた横顔。
そして当然ながら。
俺の心の声は全部聞かれていた。
(……ほんと馬鹿ね)
安城は包丁を動かしながら思う。
(前の私なら絶対に断ってた)
(手伝わないでって言ってたはずなのに)
そんな自分自身に少し驚く。
けれど――。
嫌ではなかった。
むしろ。
ほんの少しだけ心地よかった。
(……料理って)
(二人でやると案外悪くないのね)
そんなことを考えながら。
安城は小さく微笑んだ。
もちろん俺は気付かない。
ジャガイモとの死闘でそれどころじゃなかったからだ。
(この芋野郎……!)
(ちょこまか動きやがって……!)
(待ってろよ)
(すぐにお前の家族も根絶やしにしてやるからな)
(せいぜい残りの人生楽しむんだな)
超悲報。
俺、野菜にブチギレる。
そんな俺を見かねたのか。
安城がすっと近づいてきた。
「待ちなさい」
「こうやるのよ」
次の瞬間。
俺の手に安城の手が重なった。
柔らかい。
近い。
そして――。
ふわり。
安城の香りが鼻先をくすぐった。
甘すぎない。
けれど忘れられない。
クールな彼女にぴったりな香り。
その匂いを感じた瞬間。
俺の理性は静かに崩壊を始めた。
(やばい)
(いい匂いだ)
(めちゃくちゃいい匂いだ)
(人間ってこんないい匂いするのか?)
気付けば俺はいつもより深く息を吸っていた。
そしてさらに気付く。
(いや、待て)
(今の俺)
(完全に変態では?)
(さすがに推しに気付かれたんじゃないか?俺が変態ということが)
(とうの昔から気づいているわよ)
俺の包丁を持つ手がぷるぷる震える。
かっこいい男子になりたかっただけなのに。
どうしてこうなった。
俺の理性は今、崖の上で片足立ちしている状態だった。
(なに、プルプル震えてるのよ……)
(私にいい所見せるんじゃないの?)
(……でも)
(ふふ)
(なんか、この男ほんと一生懸命ね)
(いつも私のことばっかり考えてるし……)
その瞬間だった。
バクン。
胸が大きく脈打つ。
まるで心臓が一瞬だけ跳ね上がったみたいに。
そして――
「ふふ……神田君って、一生懸命で可愛いわ」
「……え?」
世界が止まった。
今。
安城が。
なんて言った?
聞き間違いかと思った。
だって俺の知っている安城恵梨香は、クールで、冷静で、少し意地悪で。
絶対にそんなことを言う女の子じゃない。
からかわれているのかと思い、恐る恐る顔を上げる。
すると――
「きゃっ……!」
安城本人が固まっていた。
頬を真っ赤に染め。
耳まで真っ赤にして。
自分の口を両手で押さえている。
(……う、うそだろ)
(今のマジで本音か?)
(え?)
(俺って……可愛いのか?)
脳が理解を拒否した。
推しに。
安城恵梨香に。
可愛いと言われた。
その事実だけで俺の処理能力は限界を迎える。
視界がぐらりと揺れる。
そして――
俺は静かにソファへ沈没した。
♢♢♢
「……ん?」
「……あれ?」
目を開ける。
見慣れた天井。
窓の外は夕焼け色。
部屋の中には優しいオレンジ色の光が差し込んでいた。
「俺……ジャガイモ切ってたよな?」
「なんで寝てるんだ?」
ゆっくり身体を起こす。
すると。
ふわり。
どこか懐かしくて温かい香りが鼻をくすぐった。
テーブルの上。
そこには湯気を立てる肉じゃがが並んでいた。
ふっくらと煮込まれたジャガイモ。
艶やかな人参。
透き通るような玉ねぎ。
見ただけでわかる。
絶対に美味いやつだ。
そして、その向かい側。
「やっと起きたの?」
「早く食べましょう。冷めるわよ」
そこにいたのは。
いつも通りの安城恵梨香だった。
何事もなかったみたいな顔で椅子に座っている。
けれど。
(……いや)
(違うだろ)
(夢じゃない)
(絶対に)
(俺のこと可愛いって言ったよな?)
心臓がまた騒ぎ始める。
そして――
安城もまた。
静かに視線を落としていた。
(……なんで)
(なんで声に出しちゃったのよ)
(意味わかんない)
(ほんとに……)
(意味わかんない……)
頬が熱い。
心臓が落ち着かない。
神田君の顔を見るたびに、さっきの失言が頭をよぎる。
だから私は黙って肉じゃがを見つめるしかなかった。
対する俺は。
(これはただの夕飯じゃない)
(俺と安城の)
(はじめての食卓なんだ)
胸の奥が少しだけ熱くなる。
俺はゆっくりスプーンを持ち上げた。
そして肉じゃがをひと口。
優しい甘さが口いっぱいに広がる。
その瞬間。
俺は静かに天を仰いだ。
(拝啓)
(未来の安城の旦那さんへ)
(あなたがまだ知らない初めて)
(俺が先にいただきました)
(推しとの初共同作業)
(推しの手料理)
(そして――)
(新婚夫婦生活をな!!)
心の中で盛大にガッツポーズを決める。
そんな俺を見て。
安城は小さくため息を吐いた。
(……ほんと)
(何考えてるか丸わかりなのよ、この男)
だけど。
その口元は。
ほんの少しだけ。
嬉しそうに緩んでいた。




