第45話 女王様が“豚”に堕ちた日
その後、私は教師になった。
教壇に立つたびに思う。私は――“仮面”を被って生きている。
笑顔で生徒に接しながらも、心の奥では何かが燻っていた。本音と建前。その乖離は、日を追うごとに深まっていく。
(……あの頃の夢を、私はまだ捨てきれてないんだ)
かつて追いかけた“ステージの光”。アイドルとして、誰よりも輝いていたあの日々。
今の私は違う。教師として、母親のように寄り添い、導き、正しさを伝える存在であるはずなのに。
それでも――
(教室でも街でも、どこにいても私は一番可愛くいたい。誰よりも注目されたい。そう思ってしまう自分がいる……)
それは、夢を失った喪失感なのか、それとも、叶えられなかった過去への執着なのか。
いずれにせよ、心の奥底にある“承認欲求”だけが、静かに、しかし確実に膨らみ続けていた――。
「…先生?どうしました?」
彼の声に、私は現実へと引き戻される。
……そうだった。
ここは薄暗い体育倉庫。
しかも、よりによって――私の天敵ともいえる生徒と、手を繋いだ状態で閉じ込められている。
しかも、なぜかこの状況下では“本音しか話せない”という――もはやその辺の罰ゲームよりきつい最悪のシチュエーション。
(なんなのよこの空間……っていうか、どうしてよりによってコイツと……!)
そんな中、私はふと“あの瞬間”をフラッシュバックした。
「推しのアイドルのことを考えてました!!」
――そう。
私と彼が初めて出会った、あの英語の授業で。
彼は堂々と、叫んだのだ。
(……けっきょく、あの時の“アイドル”って誰やったっちゃろうね?)
――その瞬間だった。
「結局、あん時のアイドルっち誰やったと?」
……しまった。
完全に忘れていた。
彼と“手を繋いでいる間”は、私の仮面――
つまりこの仮面の“建前”が強制的に剥がされる。
全部、心の声が漏れてしまうのだ。
「え? 推しのアイドル?」
(あっ……英語の授業のやつか。あれ、安城なんだよな……いや、さすがに安城とは言えないな…“本物”の推しのアイドルか……いや、いる。正確には――“いた”か)
「えーと、もう解散しちゃったんですけど……“ Honey Elaris”っていうグループなんですけど」
……心臓が、ドクン、と高鳴った。
その名前を聞いた瞬間。
驚きのあまり、私は彼の方を見た。
その瞬間――
私の仮面に、ピシリと音を立ててヒビが入った気がした。
「……え?今、なんて?」
思わず震える声が漏れた。けれど、目の前の彼は、まっすぐに私の目を見つめながら続ける。
「昔、SNSで……一人でアイドル活動を頑張ってた人がいたんですよ」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「すごい殺風景な公園で、誰もいない中で…一生懸命、孤独に歌って踊ってたんです。
映ってる映像には、通り過ぎる人が……冷たい目で見てるんですよ? "無駄な努力"だって、"どうせ上手くいかない"そんなふうに――でも、その子は……毎日、孤独に努力してたんです」
ゆういちは語るその一言一言に、偽りがなかった。
「仲間がいない、孤独の中で努力し続けるのは――俺は"本物"の強さだと思ってます」
静かな声だった。でも、その言葉には熱がこもっていた。
「大抵の人は、誰かと一緒に頑張ろうとする。もちろん、それが悪いわけじゃない。支え合うことは素晴らしいことだし。でも……それってさ」
彼はふと、目を伏せて微笑んだ。
「もし失敗したとき、自分だけが傷つかなくて済むように。無意識に“保険”をかけてるんじゃないかって思うんです。暗闇の中、一人で苦しむなんて……最悪じゃないですか?」
私はその言葉に息を呑んだ。
まるで――あの頃の私自身を語っているみたいだった。
「でも、彼女は違った。自ら孤独を選択して、仲間がいない場所で、毎日、声が枯れるまで歌って、足が動かなくなるまで踊ってた。雨の日も、風の日も。ずっと、ずっと、ひとりで。」
彼は、まっすぐにこちらを見つめて続けた。
「その姿を見て、俺は変わったんです。ああ、この人は本物だ、って。――そして、彼女の努力はちゃんと見られてた。届いたんですよ、ちゃんと。だから、彼女は認められた。Honey Elarisに加入したんです。孤独の苦しみの先に本物の"栄光"があるんだって」
そして、彼の言葉は、まるで刃のように私の心を切り裂いていく。
「……それを見て、俺――」
言葉を探すように、ゆういちは一呼吸おいてから、ぽつりと続けた。
「当時……好きだった女の子に、告白しようって思えたんです」
その声は、まるで昔の自分を思い出しているように、どこか優しく、どこか照れくさそうで。
「そのアイドルの人からしたら、たったひとりの男の人生が少し変わっただけの、些末なことかもしれません。でも、でも俺にとっては――」
目を伏せ、そして少しだけ笑った。
「その人の姿に、努力に、俺の背中を押されたんです。……誰も見てない場所で、誰にも褒められなくても、それでも諦めずに頑張る姿が、どうしようもなく、かっこよくて……眩しくて……」
――また、仮面にヒビが入る。
私の心が、音を立てて揺れた。
(……もうやめて)
忘れようとした記憶。
あの、孤独な日々。誰にも理解されず、それでも夢を追い続けていた“私”。
そして、その映像を撮っていたのは皮肉にも――
(私を、裏切った“彼”だった)
「……ねぇ…その人の、名前は?」
震える声で、私は問いかけた。
心臓が強く脈打っている。
聞きたくない。でも、聞かずにはいられなかった。
ゆういちは少し考えるように目線を泳がせたあと――ふっと懐かしむような笑顔で口を開く。
「確か……華恋。月下 華恋です!」
その名前を聞いた瞬間――
脳が真っ白になった。
(やっぱり……私だ)
思考がフラッシュバックのように走る。
あの孤独な日々、誰にも見られていないと思っていた練習。
自分でつけた芸名――“月下”。
そして、本当の名前――“華恋”。
その名は――月下華恋。
静かな夜、誰も見ていない闇の中で、ただひとり咲き誇る花がある。
儚く、それでいて凛とした美しさを放つ、"月下美人"という花だ
一夜限りの命を燃やし、誰に知られず、ただ静かに――しかし確かに、咲く。
(誰かに褒められなくてもいい。誰にも知られなくてもいい。
ただ、この暗闇の中で努力している”この瞬間”の自分が、一番"華恋"で美しいと思えるから)
そんな思いを込めて、彼女は名乗った。
月下華恋――暗闇の中で、孤独に、強く、美しく咲く自分自身の象徴。
それは誇りであり、呪いでもあった。
誰にも頼らず、誰にもすがらず、それでも前に進む。
そんな“孤独な強さ”を背負い続ける覚悟の証だった。
胸の奥がギリッと締めつけられた。
「あっ、そういえば先生も華恋って名前なんですね。偶然? でも名字は朝倉ですもんね?
あと、月下華恋って……髪、ショートでしたよね。アイドルの中ではちょっと地味というか、儚げな感じで。
それに比べて先生はロングヘアで華やかだし、全然違いますよね」
まるで悪気なく放たれたその言葉に――
私は一瞬、心臓を釘で打たれたような感覚に陥る。
(……そうよ、全部、違うようにしたんだから)
過去を捨てた。あの日のステージと共に、
あの名も、あの姿も、あの声も。
もう誰にも見つけられないように。
ショートだった髪は伸ばした。
儚さは脱ぎ捨てて、派手な服を纏い、違う自分を演じるようになった。
そうやって、私は――“月下華恋”を、殺した。
(アイドルを辞めたあの日から私は、自分を変えた。
辛かった出来事も、夢を壊した夜も、全部、思い出したくなかった。
だから私は……あの頃の“私”とは、正反対の人間になったの)
けれど――
そんな仮面は、彼の前ではどこまでも脆く、崩れていくのだった。
「……もし、Honey Elarisが――」
私はゆっくりと口を開いた。
けれど、その言葉はまるで鋭利な刃。
自分の喉元を裂くような、そんな痛みすら伴っていた。
「その月下華恋って子のせいで、グループが解散したとしたら……あなたは、どう思う?」
ゆういちの瞳が、わずかに揺れた。
けれど私は、言葉を止めなかった。
まるで、自分に問いかけるように、呪うように、語りかける。
「孤独の中で、誰にも見向きされず、それでも諦めずに努力し続けた先に――
待っていたのが“栄光”じゃなくて、“絶望”だったとしたら。
努力が報われるどころか、すべてを壊す引き金になったのだとしたら……」
目を閉じる。
鮮明に蘇るのは、あの夜のステージ。
光が砕け、歓声が悲鳴へと変わった――地獄の記憶。
「そんな結末を迎えたその子を……あなたは、笑うかしら?」
私は微笑んだ。
まるで冗談のように。けれど、目は笑っていなかった。
その微笑みの奥にあるのは――隠しきれない、哀しみと怒りと……後悔だった。
彼は少しの沈黙の後、静かに口を開いた。
「――いいや、俺は……笑いませんよ」
その瞳は、まっすぐで、どこまでも揺るぎなかった。
まるで“誰か”の姿を重ねているかのように。
「月下華恋さんが夢のために努力したことは、間違いなく――尊いことだと思います。
むしろ……誇るべきことです。誰に何と言われようと、俺はそう思う」
言葉に込められた熱が、ゆっくりと胸に広がっていく。
「だって、ほとんどの人間は、自分の夢に挑戦すらできずに終わるんですよ。
失敗するのが怖いから、傷つくのが嫌だから……みんな最初から諦めてしまう」
彼の声は淡々としていた。けれど、その奥には、確かな情熱があった。
「だけど――月下華恋さんは違った。
その“恐怖”と、真正面から向き合って……それでも前に進んだんです。
その姿は……俺からすれば、“かっこいい”としか言いようがないですよ」
ゆっくりと、言葉を重ねるたびに、彼の目に映るのは――あの、孤独に歌っていたアイドルの姿。
「たとえ……その先に待っていたのが“絶望”や“地獄”だったとしても。
たとえ……世界中の人が彼女を非難し、笑ったとしても――」
彼はそこで言葉を止め、真っ直ぐに私を見た。
「俺は、絶対に笑わない」
その言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。
ずっと誰かに言ってほしかった言葉。
一番聞きたかった、救いの言葉だった
彼の真っ直ぐな言葉に私の仮面がバラバラに落ちていった。
そして彼の顔を見て心臓が高鳴る。顔が赤くなり彼の顔を直視できない。この気持ちをわたしは知っている。だた本音が出る前にすかさず話題を変えた
「……そういえば、どうしてHoney Elarisを知ってるの?」
私はふと、疑問を口にしていた。
あのグループは――公式デビューして、ほんのわずか。
そう、まるで打ち上げられた花火のように、一瞬だけ煌めいて……跡形もなく消えた。
「たしかに、CDは一応出てたけど……すぐに解散して……ニュースにも、ほとんど出なかったはずなのに」
その裏側を、私は誰よりも知っている。
――不祥事。それがすべての始まりだった。
けれど、その真実は封じられた。
いくつもの“大人の事情”という名の圧力が降りかかり、メディアは沈黙し、ネットの書き込みも消されていった。
まるで初めから存在していなかったかのように。
あのステージも、努力も、夢も、記憶から抹消されていく。
「実はさ、Honey Elarisっていうグループは俺の――」
その瞬間だった。
――ガチャリ。
鈍い音とともに、体育倉庫のドアが開かれ、眩しい光が差し込む。
同時に、私たちの手が――離れた。
「……あんた、何してるのよ?」
光の中から現れたのは、金髪の少女――安城恵梨香だった。
凛とした立ち姿、鋭く射抜くような視線。
“心眼の剣姫”と呼ばれたその異名に、まったく違和感のない登場だった。
「俺の帰りが遅いからって……よくここがわかったな?」
ゆういちは目を細めて、どこか気恥ずかしそうに笑う。
「そうね、女の勘よ」
(あんたが、準備前に変な伏線張ってたからよ。)
肩をすくめながら安城が言ったその声に、どこか呆れと安心が混じっていた。
――けれど。
その時、ゆういちはすっと立ち上がると、私の方を振り返った。
まるで舞台のスポットライトを浴びるように、逆光の中で微笑むその姿は――
「先生? 早く……こんな暗いとこから、出ようぜ?」
その声に、心が震えた。
まるで私を――
孤独と後悔に閉ざされた“過去”という名の倉庫から、引きずり出してくれる英雄のように。
光の中へと手を伸ばす彼の姿に、
私は――なぜか、胸の奥がきゅっと締め付けられた。




