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隣の席のオッドアイギャルは俺の心の声が聞こえるらしい  作者: 夕凪虚音
第1章 心を読む少女 ― 推し爆誕編
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第44話 崩壊と覚醒

ライブまで、あと数時間。


仲間に裏切られ。

倉庫に閉じ込められ。

それでも私は――まだ、諦めきれずにいた。


薄暗い倉庫の中。

埃っぽい空気が肺に刺さる。


私は荒い呼吸を押し殺しながら、必死に出口を探していた。


「……あ」


その時だった。


視界の端。

壁の高い位置に、小さな窓があるのが見えた。


そこから、細い光が差し込んでいる。


「……あそこからなら、出られるかもしれん」


かすれた声で呟く。


私はすぐに、近くにあった古い机へ駆け寄った。


ガタつく木製の机。

そして、その上にキャスター付きの椅子を乗せる。


見るからに不安定だった。


今にも崩れそうで。

普通なら、絶対にやらない。


でも――。


「迷っとる時間なんか、ないっちゃろ……!」


私は震える足で机に登った。


ぐらっ――。


椅子が揺れる。


全身に、ぞわりと寒気が走った。


(落ちたら終わり)


(でも……)


唇を噛み締める。


脳裏に浮かぶのは、

ステージの景色だった。


スポットライト。

歓声。

名前を呼ぶ声。


あの場所だけが――

私が“私”でいられる場所だった。


「……いっちょ、やるばいっ!!」


私は思い切り、跳んだ。


指先が、窓枠にかすかに触れる。


――届いた。


でも次の瞬間、

つるり、と指が滑った。


「っ……!」


落ちる。


そう思った瞬間。


私は咄嗟に窓枠へ爪を立て、

腕の力だけで身体を引っ掛けた。


細い腕が悲鳴を上げる。


痛い。

苦しい。


それでも。


「……うち、意外と根性あるやん」


自嘲気味に笑いながら、

私は必死に身体を窓の外へ押し出した。


そして――。


外へ、飛び降りる。


ガンッ!!


「いったぁぁぁっ……!!」


右足に、激痛が走った。


着地に失敗した。

足首を、完全にひねった。


視界がぐらりと揺れる。


「っ……ぅ……」


涙が滲む。


でも。


止まれなかった。


私は足を引きずりながら、

ステージへ向かって歩き出した。


スカートは破れ、

トップスには埃と血が滲んでいる。


きっと今の私は、

誰が見てもボロボロだった。


アイドルなんかには、見えない。


それでも――。


「……うちは、“華恋”やけん」


ぽつりと、呟く。


「夢ば掴んだ、“センター”なんやけん」


その瞬間だった。


会場裏から、

誰かの話し声が聞こえてきた。


私は反射的に物陰へ隠れる。


そっと覗いた先にいたのは、

Honey Elarisのメンバーの一人。


そして――。


その向かいに立っていた人物を見た瞬間。


私の呼吸は、止まった。


「……はい、今回のお礼よ」


メンバーが、

封筒を差し出す。


「でも、本当にいいの?

あなた、あの子の大ファンだったんじゃないの?」


その言葉に――。


彼は、笑った。


「あー、もうファンとかじゃないっすよ」


軽い声だった。


私が知っている、

優しい声じゃない。


「売れてない頃は応援してましたけどね〜」


「最近なんか調子乗ってるっていうか?」


――え。


頭が、真っ白になる。


彼は封筒を受け取りながら、

へらへらと笑っていた。


あの笑顔じゃない。


ライブで、

誰より大きな声で名前を呼んでくれた人。


売れてない頃から、

ずっと応援してくれていた人。


私は――。


あの人だけは、

信じていたのに。


(……ふざけんでよ)


胸の奥が、

ぐしゃりと潰れる。


思い返せば、

全部、兆候はあった。


サイン会にも来なくなった。


メッセージも減った。


ライブで目が合う回数も、

声援も。


私が売れていくほど、

少しずつ――離れていっていた。


(……本当は、気づいとった)


震える唇を噛む。


(もう、うちのこと推しとらんって)


(でも……認めたくなかったっちゃ)


認めた瞬間、

全部終わってしまいそうだったから。


だから。


あのメッセージが来た時。


涙が出るくらい、

嬉しかった。


『やっぱり、あの人は変わっとらん』


そう思いたかった。


そう――思い込んでいたかった。


(……うちは、なんばしよっとやろ)


涙が零れそうになる。


でも。


泣く資格なんか、

ない気がした。


彼は最初から、

“華恋”を見ていなかった。


“売れていない女の子を支えている自分”に、

酔っていただけだった。


優しかった彼も。

支えてくれた思い出も。


全部――幻想だった。


その瞬間。


心の奥で、

何かが音を立てて割れた。


ぱきり、と。


世界から、

色が消えていく。


努力も。

夢も。

ステージも。


全部、

意味なんかなかったんじゃないかって。


そう思ってしまいそうになる。


でも――。


「……違う」


私は、自分に言い聞かせた。


違う。


全部、嘘なんかじゃない。


私は、

ここまで歩いてきた。


誰より努力して。

誰より泣いて。

誰より、このステージを夢見てきた。


それだけは、

誰にも奪えない。


私はそっと拳を握る。


足は痛い。

身体もボロボロ。


心なんて、

もうズタズタだった。


それでも――。


「うちは、まだ折れへん」


小さく。


でも、確かに。


私は前を向いた。


「絶対……ステージに立つっちゃけん」


ぐっと、足に力を込める。


瞬間――右足首に、焼けるような痛みが走った。


「っ……!」


声にならない悲鳴が喉の奥で潰れる。


それでも、私は歩き出した。


光の差す方へ。


夢を裏切った全てに――。


そして何より。


まだ夢を信じている、“あの頃の自分”に証明するために。


(うちは……あの時の自分ば、裏切りたくなか)


汗をかきながら。


泣きながら。


何度も転びながら。


それでも歌って、踊って、必死に這い上がってきた。


誰にも見向きされなかった頃の、孤独な自分。


それでもステージの光だけを信じていた、あの頃の自分。


その自分が信じた未来を。


こんな絶望なんかで、終わらせてたまるもんか。


(これは、誰かのためやなか)


私は、震える拳を握りしめる。


(うちが、うち自身の“誇り”のために進むっちゃ)


涙は、もう出なかった。


代わりに。


胸の奥で、静かな炎が燃え始めていた。


激しく燃え盛る炎じゃない。


誰にも見えない。


けれど、絶対に消えない炎。


私は、ゆっくりと壁の陰から一歩踏み出した。


光の中へ。


その一歩は、何よりも重くて。


そして――何よりも強かった。


「……っ!?」


彼と、メンバーが同時に振り返る。


そして。


私の姿を見た瞬間、二人はその場で凍りついた。


破れたスカート。


血の滲んだ足。


埃と汗にまみれた身体。


きっと今の私は、ひどい姿をしている。


ステージに立つアイドルなんかじゃない。


まるで、地獄から這い上がってきた亡霊みたいに見えただろう。


彼の顔が、みるみる青ざめていく。


「か、華恋ちゃん……!? これは……ち、違うんだ! 聞いてくれ! これは、その、偶然っていうか……!」


焦りで声が裏返っていた。


必死な弁解。


取り繕うような笑み。


その全部が、今の私にはひどく空虚に見えた。


隣にいたメンバーも、怯えたように目を見開く。


「あなた……一体どうやって……?」


その言葉は、最後まで続かなかった。


私の姿を見て、気づいたのだろう。


閉じ込められた倉庫から。


高い窓をよじ登って。


足を痛めながら。


それでも、ここまで来たことに。


彼女の唇が震える。


「あなた……狂ってるわ」


その声は、確かに私の耳に届いた。


だけど――。


私は、何も言わなかった。


返事も。


非難も。


叫びも。


もう、何もいらなかった。


私はただ静かに、一歩、また一歩と、二人の横を通り過ぎる。


その瞬間。


私の瞳が、彼と彼女を射抜いた。


感情を殺した、無言の眼差し。


けれどその奥には、確かにあった。


壊れてしまった何か。


そして。


決して消えない、黒い炎。


(……私は、お前らを絶対に許さない)


声には出さなかった。


でも、その想いはきっと届いた。


一度、絶望の底に落ちた人間が。


そこからもう一度立ち上がった時の眼光は、普通の人間を怯ませる。


その“狂気”を、彼らは確かに見たのだ。


彼の肩が震えた。


メンバーの顔から、血の気が引いていく。


「――……」


それでも、私は振り返らなかった。


言葉はもう、必要なかった。


背中に浴びせられる沈黙。


その全てが、今の私にはどうでもよかった。


私はただ、前だけを見て歩く。


壊された自分の欠片を、全部背負って。


それでも、誇りのステージへ向かうために。


(誰かが誰かば応援する理由なんて……そげんもん、その人の自由やろ)


胸の奥で、静かに呟く。


(そればうちが勝手に期待して、勝手に失望して、責めるなんて……おかしかとよね)


自分に言い聞かせるように。


痛みを飲み込むように。


私は、心の中で続けた。


(悪いのは、誰かに寄りかかろうとした弱い私や)


苦しい時。


孤独な時。


誰か一人だけでも、自分を見ていてほしかった。


“ずっと応援してくれる誰か”がいると、信じたかった。


でも。


それはきっと、私が勝手に見ていた幻想だった。


彼に、こうであってほしいと願った。


苦しみの中でも、誰かがそばにいてくれると信じたかった。


けれど――。


大事なのは、誰かに支えてもらうことじゃない。


苦しみの中でも。


裏切られても。


傷ついても。


それでも、自分の足で夢を追い続ける強さなんだ。


そこで。


私の恋は終わった。


叫びもなく。


涙もなく。


ただ静かに。


心の中の水面が、音もなく波紋を消していくように――。


私は足を引きずりながら、楽屋の前まで辿り着いた。


ドアノブに手を伸ばしかけた、その時。


中から声が聞こえた。


「華恋はまだ来ないのか? こんな大事な日に……」


プロデューサーの焦った声。


それに重なるように、誰かが言った。


「怖くて逃げ出したんじゃないですか? センターは私がやります!」


ざわつくメンバーたち。


その中心で、センターの座を狙っていた子が、強い声でそう言い放っていた。


(……ああ、そう)


私は、静かに目を伏せる。


(うちがいない間に、こんなこと話しとったっちゃね)


怒りは、不思議と湧かなかった。


ただ、冷たくなっていく。


心の奥が、静かに凍っていく。


私は無言でドアノブを握った。


そして、そのまま――静かに開ける。


ガチャリ。


音と同時に、一斉に視線がこちらへ向いた。


その瞬間。


楽屋の空気が、凍りついた。


「えっ……華恋……?」


誰かが呟く。


「どうして……ここに……?」


まるで幽霊でも見たかのような声だった。


無理もない。


破れたスカート。


血のついた足。


埃と汗にまみれたトップス。


今の私は、華やかなステージに立つアイドルなんかじゃない。


まるで、戦場から帰ってきた兵士だった。


プロデューサーが慌てて駆け寄ってくる。


「華恋!? どうしたんだ、その格好!? 何があった!?」


メンバーたちは、誰一人動けなかった。


けれど、その表情を見ればわかる。


“あの件”がバレるかもしれない。


その恐怖が、顔に滲み出ていた。


私は、楽屋にいる全員をゆっくりと見渡した。


そして、淡々と答える。


「――いいえ。なにもありません」


静かな声だった。


自分でも驚くほど、冷えた声。


「衣装に着替えてきます」


それだけ言って、私はメイク室へ向かって歩き出す。


(……もう、うちは“何かを訴える”段階じゃなか)


誰かに助けを求めるためじゃない。


誰かに真実を暴いてもらうためでもない。


(立つだけで、証明してみせる)


どれだけ傷つけられても。


どれだけ裏切られても。


私は、ステージに立つ。


(もう誰のためでもない。うち自身の誇りのために)


だが――。


「待て、華恋!」


プロデューサーが、私の腕を掴んだ。


「馬鹿か!? そんなわけないだろ、その格好で……! 何があった!? 教えろ!」


その声には、怒りと焦りが滲んでいた。


本気で心配しているのだと、わかった。


でも。


今の私には、その心配すら受け取る余裕がなかった。


私は、ゆっくりと振り返る。


そして――彼の目を、真っ直ぐに見た。


感情のすべてを削ぎ落とした、冷たい目。


けれどその奥には、確かに狂気じみた光が宿っていた。


沈黙。


プロデューサーの言葉が止まる。


楽屋にいた全員が、息を呑んだ。


私の目が語っていた。


――それでも私は立つ。


――全部知っている。


――それでも、前を向く。


――どんなに邪魔されても、私はそこに行く。


誰も、何も言えなかった。


長い沈黙のあと。


プロデューサーは、わずかに顔を歪めた。


そして、叫ぶ。


「……もういい!」


その声が、楽屋に響いた。


「行け、華恋……! 早く準備しろ!」


私は、微かに目を伏せた。


何も言わなかった。


ただ一度だけ、小さく頷く。


そして、その場を後にした。


ステージまでは、もうすぐ。


たとえその先が、地獄の果てだったとしても。


私は、立ち続ける。


“華恋”として。


衣装に着替え、メイクを直し、震える足で立ち上がる。


鏡の中の私は、ひどい顔をしていた。


でも。


その瞳だけは、死んでいなかった。


私は深く息を吸い、楽屋のドアへ向かう。


そして――。


衣装に着替えて、楽屋を出ようとした瞬間だった

衣装に着替え、楽屋を出ようとした瞬間だった。


「……ねぇ?」


背後から、ヒールの音と共に声が飛んできた。


振り返る。


そこには、Honey Elarisのメンバーたちが揃って立っていた。


顔は笑っている。


けれど、その瞳の奥には――爪を立てるような敵意が宿っていた。


「アンタ、しぶとすぎない?」


「普通、あんな目に遭ったら辞めるでしょ」


「っていうかさ……なんでプロデューサーに言わなかったの?」


一人が、わざとらしく首を傾げる。


「監禁されたこと。私たちに同情でもしてんの?」


――同情。


その言葉を、私は心の中で静かに反芻した。


そして、ゆっくりと口を開く。


「……同情?」


喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。


「私が、あなたたち“なんか”に?」


空気が、一瞬で冷えた。


メンバーたちの顔から笑みが消える。


私は、真っ直ぐ彼女たちを見据えた。


「違うわよ」


静かな声。


けれど、そこには確かな棘があった。


「うちは、うちの“誇り”のために立つっちゃけん」


一歩、前に出る。


ヒールの音が、廊下に硬く響いた。


「他人の努力を邪魔する人間は、これからもずっと――主役の引き立て役でいなさい?」


「……この女、言わせておけば――!」


一人が怒りに任せて拳を振り上げかける。


けれど、別のメンバーがそれを制した。


「やめなさい」


彼女は私を睨みつけながら、唇を歪める。


「……いいわ。今日だけは、センター譲ってあげる」


そして、すれ違いざまに囁いた。


「でも――ライブが終わったら、覚えておきなさい?」


その言葉を残し、彼女たちは去っていった。


私は、振り返らなかった。


もう、言葉はいらなかった。


ステージは、すぐそこにあった。



照明が落ちる。


客席が暗転し、レーザーライトが闇を切り裂く。


次の瞬間。


観客の歓声が、波のように押し寄せた。


鼓膜を震わせる声。


眩い光。


熱気。


そのすべての中心に――私は立っていた。


(……うち、ここに立っとる)


数時間前まで、地面を這っていた。


倉庫の床に転がされ、裏切られ、足を痛め、それでもここまで歩いてきた。


捻挫したはずの足首は、今も痛い。


けれど不思議と、その痛みすら遠かった。


「みんな〜っ!!」


私はマイクを握りしめ、笑顔を作る。


「今日は来てくれてありがとうっちゃ! 最高のライブにするけん、最後まで楽しんでいってね〜!!」


会場が、一斉に湧いた。


ペンライトの海が揺れる。


その光景は、私がずっと夢見てきたものだった。


「それでは――聴いてください!」


私は息を吸う。


「私たちの代表曲、《One Dream for All, All for One》!」


歓声がさらに大きくなる。


イントロが流れた。


煌めくライトがステージを染める。


曲名の意味は――。


すべての人にとっての、一つの夢。


そして。


その夢のために、みんなが一つになる。


何度も歌ってきた。


何度も笑顔で届けてきた。


私たちの代表曲。


そして――最初の一節は、センターである私が歌う。


♪「一つの夢をみんなで、一人の夢に全員が――」


それは、そういう歌詞だった。


私一人の努力じゃない。


仲間がいて。


ファンがいて。


声援があって。


みんなで掴んだ夢。


そう歌う曲だった。


だけど――。


(……違う)


胸の奥で、何かが軋んだ。


今の私は。


その歌詞を、歌えるのか。


“声援”を金で裏切った男。


“仲間”を名乗って、私を倉庫に閉じ込めたメンバー。


私の夢を、本当に支えてくれた誰かなんて。


ここに、いた?


(だめ)


私はマイクを握る手に力を込める。


(それでも歌わなきゃ)


仮面を被れ。


笑え。


歌え。


それがアイドルだ。


それがセンターだ。


誰のためでもない。


私自身の誇りのために。


私は口を開いた。


けれど――。


「……っ」


声が、出なかった。


喉が、拒絶した。


たった一音すら、音にならない。


前奏が終わる。


本来なら、私の声が響くはずだった場所に。


ただ、無音だけが落ちた。


会場が、静まり返る。


レーザーも。


ライトも。


音響も。


すべてが、私の沈黙に気づいた。


「……華恋?」


隣のメンバーが、マイク越しに私の名前を呼ぶ。


その声すら、遠い。


(早く歌え)


(早く歌え)


(早く歌え)


頭の中で、自分の声が何度も叫ぶ。


でも、身体が動かない。


この歌詞は。


今の私を、完全に否定していた。


(……うちは)


唇が震える。


(この歌、歌われへん)


夢を掴んだはずの場所で。


私は、言葉を失った。


センターの私が。


一番歌わなければいけない私が。


ステージの真ん中で、立ち尽くしていた。


(だめ)


(歌わなきゃ)


(ちゃんとやらなきゃ)


(センターなんだから)


焦りが、喉を締めつける。


抑え込んでいた感情が、胸の奥から一気に逆流してくる。


裏切られた痛み。


踏みにじられた誇り。


信じていたものが壊れた絶望。


そして――。


誰にも見せてはいけない、黒い感情。


その瞬間だった。


ガシャッ。


頭の中で、何かが割れた。


私が必死に被っていた“心の仮面”が。


音を立てて、床に落ちた気がした。


――ガン、ガン、ガン、ガン!!


頭の奥で警鐘が鳴り響く。


血が沸騰する。


全身を、怒りと嫌悪と憎しみが駆け巡る。


(……あかん)


何かがおかしい。


私がおかしいのか。


いや。


おかしいのは――。


(この世界の方やろ……?)


ズキンッ!!


左目に、焼けるような痛みが走った。


「っ……!」


まるで、眼球の奥を直接炙られているような熱。


鈍く。


鋭く。


逃げ場のない灼熱。


(なに……これ……!?)


世界が、一瞬だけスローモーションになる。


観客の顔。


揺れるペンライト。


怯えたメンバー。


私を見つめる無数の視線。


そのすべてが、糸で繋がっていくような感覚。


そして――発現する。


“感情の共有化”。


私の心が。


私の意思とは関係なく。


制御不能の強制力を持って――会場全体へリンクしていく。


「……ッ!!」


何が起きているのか、わからなかった。


ただ、私の身に何かが起きている。


それだけは、わかった。


怒り。


憎しみ。


嫌悪。


絶望。


そして――裏切られた恋への復讐心。


私の中に渦巻いていた全ての感情が。


観客の心へ、流れ込んでいく。


次の瞬間。


歓声が――悲鳴に変わった。


「う、うわっ……!?」


「なにこれ……気持ち悪い……!」


「なんだよ、この感じ……!」


客席がざわめく。


ペンライトが一本、ステージに向かって投げ込まれた。


続けて、飲み物のボトルが叩きつけられる。


「詐欺師!」


「裏切り者!!」


「ふざけんな!!」


怒号。


ヤジ。


罵声。


それはもう、アイドルのライブではなかった。


ステージは――地獄に変わっていた。


メンバーたちは呆然と立ち尽くしている。


隣にいた子は、足を震わせ、その場にへたり込んだ。


私は、何もわからなかった。


ただ一つだけ、理解していた。


私の何かが。


このステージを壊した。


幼い頃から憧れていた。


キラキラしたライト。


温かい歓声。


笑顔の花が咲くステージ。


その中心に立つことだけを夢見てきた。


でも今。


そこにあるのは、悲鳴。


怒号。


怯えきった観客の顔。


私は、憧れたあの光景を――。


自分の手で、踏みにじった。


(うちは……)


膝が震える。


(ステージば……ぶち壊したとや)


とんでもないことをしてしまった。


もう、戻れない。


私は。


夢を汚した。


誰よりも大切にしていたものを。


誰よりも誇りに思っていた努力のすべてを。


この手で。


自分自身で、否定してしまった。


崩れたステージ。


怯える観客。


絶望するメンバーたちの顔。


それは、私がずっと夢見ていた“アイドル”という世界の、真逆の光景だった。


……それなのに。


(……なんで?)


胸の奥が、すうっと軽くなった。


壊したはずなのに。


取り返しのつかないことをしたはずなのに。


どこかで――安堵している自分がいた。


ステージが崩れていく光景を。


夢が壊れていく惨状を。


まるで、ずっと待っていたかのように受け入れている自分がいた。


その事実に気づいた瞬間。


私の中で、何かがまた崩れた。


(最低やん……うち……)


胃の奥がえぐられるような吐き気。


心臓が早鐘を打つ。


汗が滲む。


視界が揺れる。


(うちは……なんて……)


あれだけ夢を信じて。


努力して。


傷だらけで這い上がってきたくせに。


本当は。


あの“理想のステージ”を壊したかっただけなんじゃないか。


そんな自分に気づいてしまった。


私は、自分を嫌悪した。


軽蔑した。


何よりも。


信じてきた自分自身を。


その瞬間、心の中で呟く。


(……これでもう、うちは――アイドルやなか)


アイドルと名乗る資格なんて。


うちには、もうなかばい。


私は、ゆっくりと目を閉じた。


その地獄の光景を、心に焼き付けるように。


「うちは壊した」


声にならない声で、呟く。


「自分の努力も、夢も、信じてくれた人たちも――全部、自分の手で」


ライトが眩しかった。


歓声だったはずの音が、今は痛かった。


私は、その地獄のようなステージをゆっくりと歩き出す。


足音だけが、会場に響く。


音楽も。


声援も。


罵声すら。


すべてが遠ざかっていく。


ふと、ステージの端に何かが落ちているのが見えた。


……仮面。


本当は、そこにあるはずがないもの。


けれど、確かに私には見えていた。


“私だけが見えている仮面”。


私は、ゆっくりとしゃがみ込む。


それを拾い上げた。


冷たい。


重い。


けれど、不思議と手に馴染んだ。


私はその仮面を、観客の方へ向ける。


そして、仮面に空いた穴越しに――壊れたステージを見た。


悲鳴。


怒号。


憎悪。


失望。


そこにあったのは、私が信じていた世界の残骸だった。


(本当は、いらんって思っとった)


仮面なんて。


嘘なんて。


作り笑いなんて。


そんなものに頼らなくても、私は夢を掴めると思っていた。


本音で。


努力で。


まっすぐな気持ちで。


いつか全部、報われると思っていた。


でも――違った。


私は仮面を握りしめる。


これは、逃げじゃない。


このくだらない世界で、誰にも感情を悟られずに立ち回るための武器。


裏切られずに生きるための、防具。


もう二度と。


こんな地獄を見ないための、心の鎧。


(……これからは、本音を隠して生きていく)


誰にも期待しない。


誰にも縋らない。


誰にも、本当の私を見せない。


そうすれば、もう壊されない。


そうすれば、もう裏切られない。


私は、仮面を胸に抱えた。


そして、自嘲するように小さく笑う。


(……私って、歪んでるわね)


その言葉だけが、やけに静かに心へ落ちた。


私は振り返らずに歩き出す。


誰にも見えないその仮面を。


しっかりと胸に抱えながら。


――その日。


朝倉華恋というアイドルは、ステージの上で一度死んだ。


そして。


“本音を仮面の奥に隠す女”が、生まれた。

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