第44話 崩壊と覚醒
「あの窓からなら……出られそうだわ!」
――倉庫の壁、高い位置に開いた小さな窓。そこからかすかに光が差している。
「この机と椅子ば使えば、なんとかなるかもしれんっちゃね……!」
埃をかぶった木製の机。その上に、キャスター付きの椅子をのせる。――不安定で、いつ崩れてもおかしくない。でも、もう迷っている時間はなかった。
「いっちょ、やってみるばいっ……!」
ぐらり――。椅子が揺れた。その瞬間、全身に緊張が走る。
けれど私は、その恐怖を振り切るように、思い切りジャンプした。
「――ふんっ!」
指先が窓枠にかすかにかかる。滑り落ちそうな感覚に背筋が冷たくなる。それでも、力を振り絞って、腕の力だけでよじ登った。
「……うちって、意外と大胆やろ?」
自嘲気味にそう呟きながら、体を窓から外に押し出した。
――そして、飛び降りる。
ガンッ!
「いったぁぁっ……!」
右足に鋭い痛みが走る。着地の衝撃で、足首を思いっきりひねってしまった。
「ほんま、うちって……ほんとドジやん……」
それでも、止まれなかった。
足を引きずりながら、私はステージへと向かって歩き出す。
スカートは破れ、トップスには埃と血のにじみ。……鏡に映ったら、きっと誰も私を“アイドル”だなんて思わないだろう。
それでも、私は“華恋”なんだ。
夢を掴んだ、“センター”なんやけん。
会場の裏手――。
ふと、聞こえてきたのは誰かの話し声。倉庫の陰に隠れ、そっと様子を覗く。
そこにいたのは、Honey Elarisのメンバーの一人。そして……その向かいに立つのは――
「……はい、今回のお礼よ。でも、本当にいいの? あなた、あの子の大ファンだったんじゃ……」
信じられなかった。
いや――信じたくなかった。
メンバーが差し出した封筒。
それを受け取ったのは――あの“彼”だった。
「いや〜もうファンなんかじゃないですよ。売れてない頃は応援してましたけどね〜、最近はなんか調子乗ってるっていうか?」
彼は……笑っていた。
あの優しい笑顔じゃない。
私を応援してくれていた、あの人じゃない。
(……うち、知っとったんよね……)
心臓が、暴れるように跳ねる。
全身が、冷たくなる。
思い返せば、サイン会にも来なくなった。
メッセージの頻度も、目を合わせる回数も、ライブでの声援も、私が成果がでてくるに比例して少しずつ……減っていった。
(気づいとった――本当は、もううちのことば推しとらんってこと。
でも……それば認めたくなかったと。
信じたかったっちゃ。
彼が、ずっと変わらず応援してくれとるって――そう思い込みたかったと)
(だからやろ? メッセージが来たとき……涙が出るほど、嬉しかったっちゃ。
“やっぱり、あの人は変わっとらん”って……心のどこかで、そう信じたかったけん)
期待してしまった。
最後のチャンスかもしれんって思って、今日、あのメッセージに――答えてしまった。
(……うちは、なんばしよっとやろ)
涙がこぼれそうになる。
でも、泣いてる場合やなか。
私は、そっと拳を握った。
足は痛む。身体はボロボロ。心だって、ずたずた。
――でも、それでも。
「うちは……ステージに立つっちゃけん」
ぐっと足に力を込め、声にならない悲鳴を押し殺して歩き出す。
ステージは、すぐそこ。
夢を――うちを、裏切った全てに、証明するために。
「“華恋”は、ここからが本番やけん」
――ボロボロのスカートを翻し、私は光の射す舞台へと歩き出した。
彼は――
最初から、私なんか見ていなかった。
「華恋」という存在じゃなくて、
“売れていない誰か”を応援している自分に、酔っていただけだったんだ。
優しくて、応援してくれる“彼”は、幻想だった。
……その真実に気づいた瞬間、
心の奥で、何かが――ヒビを立てて割れた。
(……ああ)
私の瞳から、光が音もなく消えていく。
何もかもが、無意味だったと思ってしまいそうになる。
努力も、夢も、舞台も、感謝も――全部が、ただの嘘だったみたいに思えてくる。
だけど――
(……違う。違うと、言い聞かせて)
私は、踏みとどまった。
(うちは……あの時の自分ば裏切りたくなか)
汗をかきながら、泣きながら、歌って踊って必死に這い上がってきた。
誰にも見向きされなかった頃の、孤独な自分。
その自分が信じた未来を、こんな絶望で終わらせてたまるもんか。
(これは、ファンのためやなか。……うちが、うち自身の“誇り”のために進むっちゃ)
拳を握る。
涙は、もう出なかった。
代わりに、静かな炎が――私の中で音もなく燃え始めていた。
私はゆっくりと壁から出た。
光の中に踏み出すその一歩は、
何よりも重く、そして――強かった。
彼とメンバーが振り返る。
……そして、私を見て――凍りついた。
私の姿を見て、彼の顔が青ざめる。
「か、華恋ちゃん……!? これは……ち、違うんだ! 聞いてくれ! これは、その、偶然っていうか……!」
必死な弁解。焦りで声が裏返っている。
メンバーも怯えたような表情を浮かべながら、言葉を発する。
「あなた……一体どうやって……?」
その答えを私のボロボロの姿をみて、気付く。
「あなた…狂ってるわ」
彼らの声が、私の耳に届く。
だけど――私は、何も言わなかった。
返事も、非難も、叫びも、何もいらなかった。
静かに、一歩、また一歩と、彼らの横を――通り過ぎる。
その時、私の瞳が――彼と彼女を、射抜いた。
一切の感情を殺した“無言の眼差し”。
でも、その奥に確かにある、壊れてしまった何か――
一度絶望を味わった人間が再び立ち上がった時の眼光は常人を怯ませる
その“狂気”を、彼らは確かに見た。
彼と彼女の肩が、震えた。
「――……」
私は、振り返らなかった。
言葉はもう、いらなかった。
背中に浴びせられる沈黙。
それは、私にとってもはや些末なものとなっていた。
私は、ただ前を見据え――歩いていく。
壊された自分の欠片を、すべて背負って。
それでも、誇りのステージへ――
(誰かが誰かば応援する理由なんて――そげんもん、その人の自由やろ? そればうちが勝手に失望して責めるなんて……おかしかとよね)
心の中で、自分に言い聞かせるように呟いた。
(……私は、ただ期待していただけ。彼に“こうであってほしい”って。苦しみの中でも、誰かがそばにいてくれるって。
でも――それは全部、私が勝手に見てた幻想だったんだ。大事なのは苦しみの中でも夢を追い続ける強さなんだと)
そこで、私の恋は終わった。
ただ静かに。
心の中の水面が音もなく波紋を消していくように――。
私は足を引きずりながら、楽屋の前まで辿り着いた。
手を伸ばしかけたその瞬間、ドアの向こうから声が聞こえる。
「華恋はまだ来ないのか? こんな大事な日に……」
「怖くて逃げ出したんじゃないんですか? センターは私がやります!」
――ざわつくメンバーたちの声。
その中心で、センターの座を狙う子が声を張り上げていた。
(……ああ、そう。うちがいない間に、こんなこと話しとったっちゃね)
私は無言でドアに手をかけ、そのまま、静かに――開けた。
ガチャリ。
一斉に視線がこちらに集まる。
一同、騒然。
「えっ……華恋……どうしてここに!?」
誰かがそう呟いた。
まるで幽霊でも見たかのような、顔色を失った声だった。
破れたスカート。血のついた足。
埃と汗にまみれたトップス。
その姿は、まるで戦場から帰還した兵士のようだった。
プロデューサーが慌てて駆け寄ってくる。
「どうしたんだ、その格好!? 何があった!? 華恋!」
メンバーたちは、まるで息を飲んだように動けない。
“あの件”がバレるかもしれない――その恐怖が、顔に滲み出ていた。
私は、その場に立ち尽くす全員を見渡したあと、淡々と答えた。
「――いいえ、なにもありません。衣装に着替えてきます」
そのまま、踵を返し、メイク室の方へと歩き出す。
(……もう、うちは“何かを訴える”段階じゃなか。立つだけで、証明してみせるけん。私の誇りのために)
だが――。
「待て華恋!」
プロデューサーが私の腕を掴む。
「馬鹿か!? そんなわけないだろ、その格好で……! 何があった!? 教えろ!」
私は、ゆっくりと振り返る。
そして――彼の目を、真っ直ぐに見た。
感情のすべてを削ぎ落とした、冷たい目。
でもその奥には、狂気の光が宿っていた。
沈黙。
誰も、何も言えなくなった。
その目が語っていたのは――
「それでも私は立つ。全部知ってる。それでも、前を向く。どんなに邪魔をされても私はそこに行く」
という、無言の覚悟。
しばらくの沈黙のあと――プロデューサーは、わずかに顔を歪め、叫んだ。
「……もういい! 行け! 華恋……早く、準備しろ!」
私は、微かに目を伏せ、何も言わずにその場を後にした。
ステージまでは、もうすぐ。
それが、地獄の果てであっても――
私は、立ち続ける。
“華恋”として。
衣装に着替えて、楽屋を出ようとした瞬間だった。
「……ねぇ?」
背後から、ヒールの音と共に声が飛ぶ。
振り返ると、そこにはメンバーたちが揃って立ちはだかっていた。
その顔は笑っている。でも――瞳の奥は、爪を立てるような敵意で満ちていた。
「アンタ、しぶとすぎない? 普通、あんな目に遭ったら辞めるでしょ?」
「っていうか……なんでプロデューサーに言わなかったの? 監禁されたんでしょ? 私たちに同情でもしてんの?」
――同情?
私は静かにその言葉を反芻してから、口を開いた。
「……同情? 私が、あなたたち"なんか"に?」
笑い声とともに返す。
「違うわよ。うちは、うちの“誇り”のために立つっちゃけん。
他人の努力を邪魔する人間は、これからもずっと――主役の引き立て役でいなさい?」
「……この女、言わせておけば――!」
一人が怒りに任せて拳を振り上げかけた。
だが、もう一人がそれを制した。
「……いいわ。今日だけは、センター譲ってあげる。
でも――ライブが終わったら、覚えておきなさい?」
そう言い捨て、彼女たちは立ち去っていった。
― 開幕 ―
照明が落ちる。
客席が暗転し、レーザーライトが走る。
観客の歓声が、波のように押し寄せる。
その中央に、私は立っていた。
(……うち、ここに立っとる。ちゃんと立っとる)
数時間前まで地面を這っていた足。
捻挫したはずの足首が――今は、まるで羽根のように軽かった。
「みんな〜っ!! 今日は来てくれてありがとうっちゃ!
最高のライブにするけん、最後まで楽しんでいってね〜!!」
叫ぶように、でも確かに届く声。
会場が一斉に湧いた。
「それでは――聴いてください!
私たちの代表曲、《One Dream for All, All for One》!」
「すべての人にとっての一つの夢。そして、その夢のために皆がひとつになる」
イントロが流れる。
煌めくライトが走り、ステージが染まる。
そして――歌の始まり。
最初の一節。
センターの私が、歌い出さなければいけない。
♪「一つの夢をみんなで、一人の夢に全員が――」
それは、そういう歌詞だった。
“私の努力だけじゃない、みんなの声援があってこその夢”
“仲間と一緒に掴んだ、ステージ”
でも――
(……違う)
今の私は、それを言う資格があるのか?
“声援”を金で裏切った男、“仲間”を名乗って監禁したメンバー。
私の夢を、本当に支えてくれた“誰か”なんて――ここに、いた?
(だめよ、それでも今は歌わなければならない
仮面をかぶってでも歌わなければ、誰のためでもない私のために…)
口を開こうとした。
でも、声が出ない。
喉が拒絶する。
それなのに、何も音にならない。
会場が――静まり返った。
レーザーも、ライトも、音響も、
すべてが私の“無音”に気づいた。
――「……華恋?」
誰かが、マイク越しに名前を呼ぶ。
でも私は、動けなかった。
この歌の一節は、今の私を――
完全に否定する言葉だったから。
私の声が、私の喉が、私の細胞すべてが拒絶する
(……うちは……この歌、歌われへん)
夢を掴んだはずのこの場所で、
私は、言葉を失った。
――声が、出ない。
前奏が終わる。
マイクの前に立ち尽くす、私。
観客たちの視線が、一斉に集まる。
(だめはやく歌わなきゃ……歌わなきゃ……)
焦りだけが、喉を締め付けていく。
それまで抑え込んでいた感情が、一気に逆流する。
(ダメ……私、ちゃんとやらなきゃ……センターなんだから……!)
ガシャッ!
その瞬間だった。
頭の中で、何かが――壊れた。
私が被っていた“心の仮面”が、パタンと落ちる音がした。
――ガンガンガンガン!!
頭の中で警鐘が鳴る。
血が沸騰する。
全身を駆け巡る怒りと嫌悪、そして裏切られた痛み。
(……あかん、何かがおかしい………いやおかしいのは…この世界?)
その瞬間――
ズキン……ッ!
左目が、異様に熱くなる。
まるで目玉を焼かれるような、鈍く鋭い灼熱。
(なに……これ……!?)
言語化できない衝動。
世界が一瞬、スローモーションになる。
そして発現する――“感情の共有化”
私の心が、私の意図せず、制御できない強制力を持って会場全体に――リンクしている。
「……ッ!!」
何が起きてるか全くわからなかった。
ただ私の身に何かが起きている
怒り。
憎しみ。
嫌悪感。
絶望。
そして――裏切られた恋への復讐心。
その全てが、観客の感情と共鳴する。
次の瞬間、歓声が――悲鳴に変わった。
「う、うわっ……!?」「なにこれ……!?」「気持ち悪い……!」
ペンライトがステージに向かって投げ込まれる。
誰かが飲み物のボトルを叩きつけた。
「詐欺師!」
「売女!」
「裏切り者!!」
怒号、ヤジ、罵声。
もはやそれは、アイドルのライブではなかった。
ステージは――地獄に変わった。
呆然とするメンバーたち。
私の隣にいた子は、足が震えてその場にへたり込んだ。
何もわからない。
ただ、わかるのは――
私の何かがステージを壊した、という事実だけ。
憧れてたんだ。
幼い頃に夢見た、キラキラしたライトと、歓声と、笑顔の花が咲くステージ。
でも今――
そこにあったのは、
悲鳴と怒号と、怯えきった観客の顔。
私は、憧れたあの光景を――自分の手で、踏みにじった。
(うちは……ステージば……ぶち壊したとや……とんでもないことをしてしまった)
もう戻れない。
私は――夢を汚した。
誰よりも大切にしていた。
誰よりも誇りに思っていた“努力”の全てを、
この手で――自ら否定してしまった。
崩れたステージ。
怯える観客。
絶望するメンバーたちの顔。
――それは、私がずっと夢見てきた“アイドル”という世界の、真逆の光景だった。
……それなのに。
(……なんで?)
胸の奥が、すうっと軽くなる感覚。
壊したはずの光景に、どこかで**“安堵”している自分**がいた。
ステージを崩し、夢を潰したその惨状を、
まるで“待っていたかのように”受け入れている自分。
その事実に気づいた瞬間――
私の中で、何かがまた崩れた。
(最低やん……うち……)
胃の奥がえぐられるような吐き気。
心臓の鼓動が早まり、汗がにじむ。
視界が揺れる。
(……うちは、なんて……)
あれだけ夢を信じて、努力して、傷だらけで這い上がってきたくせに――
ほんとうは、
あの“理想のステージ”を壊したかっただけなんじゃないかって。
そんな自分に気づいた私は、
激しく、自分を嫌悪した。
軽蔑した。
何よりも、信じてきた自分自身を
その瞬間、私は心の中で呟いた。
(……これでもう、うちは――アイドルやなか。
アイドルっち、名乗る資格なんて……うちには、もうなかばい)
ゆっくりとその光景を心に焼き付けて目を閉じた。
「うちは壊した。
自分の努力も、夢も、信じてくれた人たちも――全部、自分の手で」
ライトが、眩しかった。
歓声が、痛かった。
私は、その“地獄”のようなステージを、ゆっくりと歩き出す。
足音だけが、会場に響く。
音楽も、声援も、すべてが遠ざかっていく。
ふと、ステージの端に何かが落ちていた。
……仮面。
ありもしない――けれど確かにそこにある“私だけが見えている仮面”。
私は、しゃがみ込んでそれを拾い上げた。
そしてその仮面を観客達に向けてその穴からその光景をみた。
(本当は、いらんって思っとった。自分…
でも……違う)
仮面を、握りしめる。
それは、このくだらない世界に誰にも感情を悟られずに立ち回るための“武器”。
裏切られずに生きるための、“心の防具”。
これからは――
本音を隠して、生きていく。もうこんな地獄はみたくない。
(……私って歪んでるわね)
私は、仮面を手に、振り返らずに歩き出す。
誰にも見えないその仮面を、
しっかりと胸に抱えながら。




