第42話 朝倉華恋の過去――あの光の先に地獄があった
私は、もう繰り返さない。
――あの、地獄のような惨劇を。
思い出したくない。
だから、記憶の奥底に封じ込めた。
……はずだったのに。
「――っ」
神田くんの手の温もりが、そっと触れた瞬間。
閉ざしていたはずの“蓋”が、音もなく開いていく。
――やめて。
――思い出したくない。
それでも、記憶は容赦なく蘇る。
♢♢♢
「わたしもいつか――ああなりたいっちゃん」
幼い日の私が、ぽつりと呟いた言葉。
家族と一緒に訪れた、はじめてのライブ。
暗い客席から見上げたステージは――
まるで、別世界みたいに輝いていた。
スポットライトの中で、アイドルは歌い、踊り、笑っている。
(すごいっちゃ……!)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
(すごいっちゃ……!すごいっちゃ……!)
そして――
客席もまた、ひとつになっていた。
ペンライトが揺れて、声が重なって、涙がこぼれて。
それは、ただの“観客”じゃなかった。
――一緒に、ステージを作っていた。
(ステージって……こんなに眩しかとね……)
(うちも……)
小さな手を、ぎゅっと握りしめる。
(うちも、いつか――あの場所に立ちたかっちゃん!!)
それが、すべての始まりだった。
私の実家は、博多の小さな旅館。
「いずれ継ぐもの」
――そう決まっていた人生。
でも。
「……うちは、諦めんけん」
誰にも言わず、私は夢を選んだ。
教育大学に進学しながら――
こっそり、アイドル養成所へ通い始めた。
昼は講義、実習、レポート。
夜はダンス、ボイトレ、レッスン。
朝は早朝実習。
……正直、限界だった。
体はボロボロで、意識も何度も飛びかけた。
それでも。
(諦めたくないっちゃん……)
あの光景が、頭から離れなかった。
あの“眩しさ”を、知ってしまったから。
やがて私は――
ほんの少しだけ、人より早くデビューした。
歌声と、少しだけ自信のあった容姿。
それが、運よく評価された。
でも。
それは、ゴールじゃなかった。
――むしろ、始まりだった。
学校、実習、試験。
現場、レッスン、SNS、ファン対応。
昼も夜もなく、時間は溶けていく。
気づけば――
週に一度しか、家に帰れない生活になっていた。
(……うち、なんでこんなに無理しよるっちゃろ……)
ふと、立ち止まる。
(ほんとに……これでよかと?)
胸の奥に、黒いものが広がる。
(もう……諦めた方がよかっちゃないと?)
夢と現実の狭間で、心が軋む。
――そのときだった。
小さなショッピングモールのライブ。
ガラガラの客席。
“ファン”なんて、ほとんどいない。
ただ、通りすがりの人が、少し立ち止まるだけ。
――そんな場所に。
彼は、いた。
いつも、一番前。
「エル!オー!ブイ!イー!華恋ちゃん!」
場違いなくらい、全力の声。
「今日も可愛い華恋ちゃん!ファイトー!!」
(……ふふ)
思わず、笑ってしまう。
(今日も来てくれとる)
周りの視線なんて、気にしてない。
ただ、まっすぐに――私だけを見ている。
(ばかやね……ほんとに)
それでも。
(……どれだけ、救われとるか)
ペンライトの色も、コールも、全部。
――私のためだけ。
「今日も最高だったよ」
「君は絶対、夢を叶えられる」
「無理しないでね」
「僕だけは、君の味方だから」
たった一言。
それだけで、涙が出そうになる。
(……なんでやろ)
気づけば私は――
彼のことを、特別に思うようになっていた。
本当は、越えてはいけない距離。
ファンとアイドル。
それでも。
(……少しくらい、夢見てもよかよね)
ほんの少しだけ。
そんな未来を、願ってしまった。
そして――その日が来る。
私の人生を変える、“転機”。
「――おめでとう」
「君は、合格だ」
差し出された、一枚の紙。
そこに書かれていた名前は――
『Honey Elaris』
国民的アイドル。
テレビでも、雑誌でも、見ない日はない。
――そのグループに、私が入る。
そんな現実、最初は信じられなかった。
「……え?」
知らされた瞬間、思考が止まった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
手が震える。
(……やっと)
喉の奥が詰まる。
(やっと、努力が報われたっちゃ……)
その日の夜。
私は、SNSに投稿した。
――感謝と、決意を込めて。
「Honey Elarisの加入が決まりました!いつも応援してくれてるみんなのおかげです!これからも全力で頑張ります!」
送信ボタンを押した瞬間、世界が変わった。
通知が、止まらない。
フォロワーは一気に増え、
コメント欄は――祝福で埋め尽くされていく。
「すごい!ついに華恋ちゃんが!」
「絶対センターいけるよ!」
「夢叶えたね、おめでとう!」
(……すごい……)
画面が、滲む。
(こんなに……応援してくれる人がおるんや……)
気づけば、私はスマホを握ったまま泣いていた。
これまでの苦しさが、全部――
薔薇色に塗り替えられていくみたいで。
――でも。
「……あれ?」
指が、止まる。
(……まだ、来とらん)
スクロールしても、更新しても。
彼からのメッセージだけが――なかった。
あの人は、必ずくれていた。
どんな小さなライブでも、
どんなに疲れている日でも。
「今日も最高だったよ」って。
(……どげんしたっちゃろ)
胸の奥に、ほんの少しだけ影が落ちる。
(忙しかとかな……?)
そう、自分に言い聞かせる。
――違和感に、蓋をするように。
そして。
私の――
Honey Elarisとしての人生が始まった。
……それは。
地獄の、始まりだった。
舞台裏。スタジオ。楽屋。
カメラの前では、完璧な笑顔。
でも――その裏で流れていた空気は、
どこか異様に冷たかった。
(……なんか、変やね)
違和感は、すぐに“現実”へと変わる。
「ねえ、あの子」
「急に入ってきて人気とか、ちょっとねぇ」
ひそひそと交わされる声。
わざと聞こえるように。
「“声が可愛いだけ”でしょ?」
「事務所のゴリ押しってやつ?」
――ぐさり、と刺さる。
スタジオで立ち位置を確認すれば。
「どきなさいよ。そこ、私の場所なんだけど」
冷たい声。
収録前、勇気を出して話しかけても――
すっ、と視線を逸らされる。
レッスン中、音響が止まる。
楽屋の飲み物が消える。
「え?知らな〜い」
――それで終わり。
(……なんで……?)
胸の奥が、ゆっくりと凍っていく。
彼女たちは、ずっと一緒に夢を追ってきた。
その中に――
“途中から来た私”が入る。
(……そりゃ、そうやね)
理解はできた。
もし逆の立場なら、私だって――
でも。
(それでも……あの人は味方っちゃ)
それでも、痛かった。
それでも私は、笑った。
ステージの上では。
誰よりも声を出して、
誰よりも練習して、
誰よりも――夢を信じて。
(夢って、そういうもんやろ)
魂を削って。
傷だらけになって。
それでも、最後まで走った人間だけが――
掴めるもの。
そう、信じていた。
そして――
その日が来る。
「おめでとう、華恋ちゃん」
プロデューサーの声。
「君が、次のセンターだ」
――世界が、止まる。
(……え?)
音が消える。
(ほんとに……?)
膝が震える。
視界が、揺れる。
でも。
胸の奥だけが、燃えていた。
「……やった」
声が、震える。
「やったぁ……!」
涙が、こぼれる。
「私……ついに……センター……!」
夢の中心。
光を一身に浴びる場所。
――そこに、私は立った。
(見とってよ……)
ふと、思い出す。
(ちゃんと……ここまで来たけん)
あの人の顔が、浮かぶ。
――でも。
その笑顔は、どこか曖昧だった。
そこからの日々は、嵐のようだった。
テレビ。雑誌。MV撮影。
寝る時間もない。
それでも――嬉しかった。
(ここからが、本当のスタート)
夢が、現実になっていく。
あの日、見上げていたあのステージに――
私は、もうすぐ届く。
そう、信じていた。
――あの“事件”が起こるまでは。




