第40話 女王様が見せた素顔と、豚扱いされた俺
「は? 今なんて……?」
聞き間違いかと思った。
――あの朝倉先生が、俺に“あんなこと”を言うなんて。
♢♢♢
放課後。
保護者会の準備のため、俺たち学級委員は慌ただしく動き回っていた。
その中心にいるのは――
男子から絶大な人気を誇る女王様教師、朝倉華恋。
自然とできあがる人だかり。
その周囲を囲むのは、もはや信者と呼んでも差し支えない男子生徒たち。
そんな光景を横目に、俺はひとり思う。
(……お前らの気持ち、痛いほどわかるぞ)
(推しがいると、灰色だった世界が一瞬でピンクに染まるんだよな)
(推し活ってやつは、人生を――いや、魂すら変える)
(よし……この流れで俺もファンクラブでも立ち上げるか。“安城可愛い委員会”とか)
――その瞬間。
隣にいた安城の肩が、ぴくりと動いた。
(バカじゃないの?)
(なによ“安城可愛い委員会”って)
(ネーミングセンス、終わってるんだけど?)
小さく吐かれるため息。
だが、俺の思考は止まらない。
(……いや待てよ)
(体育倉庫といえば……)
(“誰もいないと思われて閉じ込められる→推しと二人きり”イベント、あるんじゃないか……!?)
(よし、フラグは立てておいたぞ)
(体育倉庫には近づかないほうがいいわね)
――そして。
気づけば、準備は終わっていた。
体育館には夕焼けが差し込み、赤く染まった床が静かに光っている。
「ふぅ……終わったな」
さて帰るか――そう思った、そのとき。
(……あっ)
ポケットに手を突っ込んだまま、俺は固まった。
あるはずの感触が、ない。
(……自転車の鍵、ねぇ!?)
血の気が一気に引く。
思い返す。
――さっき、体育倉庫でハンカチを出したとき。
(あのときだ……!)
(くっそ……よりによって体育倉庫かよ……!)
沈みかけた夕日。
誰もいない廊下。
静まり返る校舎。
汗ばんだ手を握りしめて、俺は駆け出した。
――体育倉庫へ。
その背中を。
静かに見つめる影がひとつ。
♢♢♢
――朝倉華恋視点
体育館裏。
(……あれは?神田ゆういち?)
私は無意識に、視線が追いかける。
次の瞬間。
胸の奥に、唐突に蘇る記憶。
――数日前。
私は階段の踊り場で、足を滑らせたあの瞬間。
彼に抱きとめられた腕の感触。
(――っ!)
一気に、顔が熱を帯びる。
(な、なんで……っ!)
私の何かに、ヒビが入る感覚。
ぎゅっと唇を噛む。
(……違う)
(あれはただの事故)
(ときめいたわけなんかじゃない)
そうだ。
私は――もう二度と。
男なんかに惑わされない。
男なんて信じない。
(……男なんて、全員――豚っちゃん)
私は心の中で吐き捨てる。
けれど。
私の胸の奥に残る“あの感触”だけが、どうしても消えない。
(……いいわ、)
一歩、踏み出す。
(今からあいつに話しかけて、証明してやる)
(あんなの、全然ときめいてなんかないって)
これは実験だ。
検証だ。
感情なんて関係ない。
ただの“勘違い”を――ここで潰すだけ。
(どうせ、なにも感じない)
(あいつなんて……他の男達と同じ、ただの“豚”よ)
そう言い聞かせて。
――私は、体育倉庫へと歩き出した。
♢♢♢
――神田ゆういち視点
俺は、自転車の鍵を探しに体育倉庫へと足を踏み入れた。
「……あれ? どこだ、自転車の鍵……」
薄暗い倉庫の中、
自分の声だけが、やけに大きく響く。
積み上げられたマット。
無造作に転がる器具。
鼻をつく、ほこりっぽい空気。
「たまに自転車使うとこれだもんな……」
思わずため息が漏れる。
「……絶対、明日から歩くわ」
――いや、無くしたのは完全に俺のせいなんだけどな。
額の汗を拭いながら、
俺は手探りで床や隙間を探っていく。
そのとき。
ギィ……と、わずかに扉が軋む音がした。
(ん? 風か……?)
そう思った、次の瞬間。
ガチャ。
「――やべっ」
無情な、施錠音。
(……は?)
一瞬、思考が止まる。
(え、今……閉められた?)
叫ぼうと口を開いた、その瞬間――
「ちょっと待って!!」
別の叫び声が、倉庫の奥から響いた。
(この声……)
すぐにわかる。
「……その声、朝倉先生?」
暗闇に目を凝らすと、
奥の方から人影が動いた。
「……神田君、」
「え、先生!? ちょうどよかった〜!」
思わず声が弾む。
「今さ、鍵閉められちゃって……携帯もカバンに入れっぱなしでさ」
「先生いるなら助かったわ。悪いけど、鍵開けてもらえません?」
少しの沈黙。
「……持ってないわ」
「……え?」
「すみません。もう一度言ってもらえますか?」
「持ってないって聞こえたもんで」
「聞こえてるじゃないのよ」
正直、聞き間違いかと思った。
「だから、私も鍵持ってないの。入った瞬間に閉められた」
「……え、マジですか?」
背筋がぞくっと冷える。
俺はすぐに出口へ向かって走り出した。
――そのとき。
何かに足を取られた。
「うわっ――」
バランスを崩す。
前に倒れる。
「きゃっ!?」
ドンッ――!
そのまま、誰かを巻き込んで倒れ込んだ。
柔らかい感触。
マットの上に、二人で転がる。
「いってて……なんだ今の……」
目を開けた瞬間――
「……せ、先生……?」
至近距離。
腕の中に、朝倉先生。
完全に、覆いかぶさる形。
逃げ場なんて、どこにもない。
(……やばい)
(めっちゃいい匂いするんだけど)
ちょうど窓から差し込んだ月光が、
先生の顔を照らした。
――真っ赤だった。
(あ、これ怒ってるやつだ)
目が逸らせない。
呼吸が近い。
鼓動が、やけにうるさい。
そのとき――
(……ありえない)
(こんなやつなんかに……私がトキめくわけない)
(認めない)
(男なんて……男なんて……!)
――ズキン。
俺の左目の奥が、焼けるように熱くなる。
視界が、一瞬だけ歪んだ。
「……これ、あん時と同じだ……」
既視感。
安城と戦ったとき。
姫花を守ったとき。
――“何かが発動する”あの感覚。
理性より先に。
言葉が、零れる。
「男の子なんて……全員、豚っちゃん!!」
「――え?」
間の抜けた声が、口から漏れた。
「……ぶ、ぶ、豚……?」
静まり返る体育倉庫。
月光だけが、二人を照らしている。
逃げ場のない距離で――
言ってはいけない“本音”だけが、
はっきりと残った。
――その夜。
俺と先生の関係は、ほんの少しだけ壊れた。
そして同時に――
何かが、確実に始まってしまった。




