第3話 波乱のスタートダッシュ
「お前らー、一人ずつ自己紹介したいところだが、今から入学式だ。体育館に行くぞ」
(うわ……めんどくせぇ)
俺は入学式とか、偉い人の長話を聞くのが昔から苦手だった。
どうせ校長が夢だ希望だと語って、来賓がありきたりな祝辞を並べて、それで終わり。
必死に誰かの心を震わせようとしているだけの茶番。
(……アホらし)
(そんな簡単に人生なんて変わるかよ)
(努力したからって必ず報われるとはかぎらねぇし)
誰かの言葉や本ひとつで人生が変わってしまうような人間を、俺はあまり好きになれない。
重たい腰を上げながら、ふと隣の席を見る。
ぽつん、と空いたままの机。
(……お隣さん、入学式初日から遅刻か?)
(なかなか肝が据わってるじゃないか)
(正直、嫌いじゃないぞ)
会ったこともない相手に、勝手な想像だけで好感まで抱いている。
我ながら偏見がひどい。
でも、それくらいしか暇つぶしがなかった。
その時だった。
「お〜い! ゆういち〜! はやく! はやく!」
教室の向こうから、よく通る声が飛んでくる。
視線を向けると、聖がこちらへ向かって大きく手を振り、満面の笑みを浮かべていた。
その瞬間。
教室中の男子がざわつく。
「誰だあの子……」
「か、可愛くね?」
ひそひそと漏れる声。
(ちくしょう!)
(なんであんなに可愛いのに男なんだよ!)
俺は心の中だけで神様へ盛大にクレームを入れた。
「あー! わかった! すぐ行くわ!」
返事をして立ち上がろうとした、その瞬間。
――バタン。
誰かとぶつかった。
軽い衝撃に机が揺れ、中へ入れていた漫画が床へ滑り落ちる。
「す、すみません! だ、大丈夫ですか?」
慌てて視線を向ける。
そこには尻餅をついた、小柄な少女がいた。
紫色の髪。
重たい前髪が目元を隠し、表情はほとんど見えない。
肩を小さく震わせる姿は、風が吹いただけで壊れてしまいそうなくらい儚かった。
「あわわわわ……だ、大丈夫です」
「ほ、本当に? 怪我とかしてない?」
「はい、だ、大丈夫だよ?」
おずおずと立ち上がった彼女は、床へ落ちた漫画を拾い上げる。
両手で大切そうに持ちながら、俺へ差し出した。
「こ、これ……落としましたよ?」
「お! ありがとう! ……あっ」
受け取ろうとした瞬間、全身から血の気が引いた。
落ちた漫画は青年向け。
つまり――セクシーなシーン満載の漫画だった。
(は!?)
(や、やばい!!)
(俺たちの青春が!!)
(こんな儚げで純粋そうな女の子に見られてしまうなんて)
(いや落ち着け、神田ゆういち!)
(表紙だけならまだセーフだ!)
(ここはスマートに対応しろ!)
(そう……これはただセクシーな漫画じゃない)
(青春だ)
(男の教科書だ)
(俺達の青春なんだ!)
ごくり、と唾を飲み込む。
そして真顔を作った。
「あ、ありがとな?」
「これは俺の人生を変えてくれた、哲学みたいな本なんだ」
「本当に助かったよ」
よし。
完璧だ。
知的男子アピール成功。
ピンチをあわよくばチャンスへ変える柔軟な発想。
さすが俺。
テンパりすぎてもはや自分でも何を言っているのか分からない。
(よし)
(これなら、いかがわしい本だとは思われないだろ)
(まさかこんな儚げな子が読んでるわけ――)
「あわわわ……こ、この漫画、面白いよね?」
「私も大好きです」
「学ぶこと、多いですし」
「……え?」
はい、詰んだ。
それより。
(えっ!?)
(この子も読んでるの!?)
(ていうか学ぶことって何!?)
(何を学んだんだよ!?)
頭の中で妄想だけが暴走していく。
そして数秒後。
「ま、学ぶって何を?」
本音が、そのまま口から飛び出した。
しまった。
またやった。
俺は慌てて自分の口を塞ぐ。
少女は一瞬だけ目を丸くし、それから耳まで真っ赤に染めた。
「あ、あわわわわわ……ち、違うの!」
「学ぶっていうのは、その……」
言葉が続かない。
視線が泳ぐ。
両手が落ち着きなく揺れる。
そして漫画を押し付けるように俺へ返すと、そのまま小走りで教室を飛び出していった。
逃げるように。
本当に逃げるように。
その小さな背中は、あっという間に廊下の向こうへ消えていく。
俺は見送ることしかできなかった。
その時。
「ゆういち〜! はやく〜!」
再び聖の声が響く。
「もぉ! わかった! 今行くって!」
思わず頭を抱える。
(ちくしょう!)
(なんでこうなるんだよ!)
高嶺の花みたいな金髪ギャルには初対面で「可愛い」と口走り。
今度は儚げな紫髪の少女に、実質セクハラみたいな質問をぶつけてしまった。
高校生活、まだ始まって数分だぞ?
それなのに俺の好感度は、もう地面を掘り進めている気がする。
いや、地面どころかマントルまで到達しているかもしれない。
誰にも聞こえない言い訳を心の中で繰り返しながら、俺は教室を後にした。
♢♢
入学式。
正直どうでもよかった。
校長の長話。
歓迎の言葉。
中身のない祝辞。
全部、右から左へ流れていく。
適当に席へ座り、ぼんやりと天井を眺めていた、その時だった。
「では最後に、新入生代表挨拶。
安城恵梨香!」
(……安城?)
(あれ、どっかで見た名前だな)
その名前だけが、不思議と耳に残った。
半分眠りかけていた意識が、ゆっくりと浮上する。
壇上にスポットライトが当たる。
そして現れたのは――。
さっき廊下で出会った、あの金髪ギャルだった。
出会って早々、思わず「可愛い」と口走ってしまい、気まずさのあまり「もう二度と会わないだろ」と勝手に自分を納得させていた相手。
(げっ……マジかよ)
(こんなすぐ再会するとは)
金髪。
アクセサリー。
派手な雰囲気。
偏見だが、新入生代表なんて肩書きとは一番遠い人種だと思っていた。
けれど。
彼女が壇上へ歩き始めた、その瞬間。
俺の中の先入観は音もなく崩れ去った。
背筋は真っ直ぐ伸びている。
歩幅は乱れず、靴音さえ一定。
視線は微塵も泳がない。
その姿には、不思議なほどの気品と覚悟が宿っていた。
そして何より――。
右は深い瑠璃。
左は透き通る琥珀。
夜と昼を一つの瞳に閉じ込めたような、幻想的なオッドアイ。
体育館中の空気が、静かに彼女へ吸い寄せられていく。
彼女はマイクの前に立ち、ゆっくりと口を開いた。
「“花の高校生活”――正直、くだらないと思っています」
その一言だけで、体育館がざわついた。
「みんなが同じように“花”を咲かせられると、本気で思っていますか?」
静かな声なのに、不思議と胸の奥まで届く。
「高校生活、楽しかった人もいれば、つまらなかった人もいる」
「誰かの青春が咲いた場所で、別の誰かの青春は枯れているかもしれない」
一度だけ目を伏せる。
ほんの数秒。
その短い沈黙が、言葉以上に重かった。
そして再び顔を上げた彼女の瞳には、静かな炎が宿っていた。
「“あの時楽しめばよかった”なんて後悔するくらいなら、最初から期待しない方がいい」
「――期待は、失望を生むだけです」
ざわめきが止む。
誰一人として声を上げない。
その静寂すら、彼女が支配していた。
「でも」
そのたった二文字で、空気がまた変わる。
「未来に希望がないとは言いません」
「もし何かに期待するなら――私は、“自分”に期待したい」
ドクン。
胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。
「今日の努力が、明日の自分を変える」
「今日の選択が、未来の自分をつくる」
「――そう信じて、私はここに立っています」
世界が、一瞬だけ止まった気がした。
「だから私は、“花の高校生活”なんて安っぽい幻想はいらない」
「欲しいのは――自分で土を耕し、自分の手で咲かせにいく日々です」
「……以上です」
静寂。
拍手さえ、ほんの一瞬遅れた。
まるで誰もが、言葉の余韻から戻れなくなっていた。
――皮肉だった。
「花の高校生活なんてくだらない」
そんな風に思っていた俺の前に現れたのは、同じ言葉を口にしながら、まるで正反対の場所を見ている少女だった。
俺は何も期待せず、諦めていた。
彼女は期待する相手を、自分自身に決めていた。
(……すげぇ)
(世の中には、とんでもねぇ女がいるもんだな)
もう会うこともない。
さっきまでは、それでいいと思っていた。
なのに今は、その可能性が少しだけ惜しく思えた。
入学式が終わり、
教室へ戻ってドアを開けた、その瞬間だった。
さっきまで空席だった隣の机。
そこに。
安城恵梨香が、静かに座っていた。
「……マジかよ」
彼女は頬杖をつき、窓の外を眺めている。
まるで最初からそこにいたみたいに、自然に。
……ああ思い出した。
聞いたことある名前だと思ったら、座席表で見た隣人だった。
ギャルみたいな格好をして。
あんなスピーチをして。
意味がわからないくらい綺麗で。
意味がわからないくらい格好よくて。
意味がわからないくらい、目が離せなかった。
その時だった。
開いた窓から、一枚の桜の花びらが風に乗って舞い込む。
ゆっくり、ゆっくりと宙を漂う花びら。
その軌跡を目で追った先で――。
彼女と、目が合った。
瑠璃と琥珀。
その神秘的な瞳に射抜かれた瞬間。
心臓が、本当に止まった気がした。
「……あなたは、さっきの」
透き通る声。
たったそれだけなのに、妙に現実味がない。
夢でも見ているようだった。
――ああ。
たぶん、この瞬間だったんだと思う。
俺の“花の高校生活”が、本当に咲いたのは。
こうして。
俺と安城恵梨香の物語は、静かに幕を開けた。
――この時の俺は、まだ知らない。
彼女が抱える、誰にも明かしていない“能力”も。
そして。
このギャルに救われた俺自身が、いつか誰かを救いたいと願う人間になっていくことも。
まだ。
想像すら、していなかった。




