第234話 安城恵梨香が壊れた日
朝。
俺は妹の姫花と並んで、洗面台で顔を洗っていた。
ふと鏡に映った自分の顔が気になり、いつもより念入りに覗き込んでいると――隣から姫花がじっと俺を見つめてきた。
「にぃに、さっきからずっと鏡見てる」
「そういう姫花は見ないのか?」
「私、鏡嫌いなの。見てると、なんか不安になるっていうか……」
「いや、そんなに可愛いのに、どこに不安になる要素があるんだよ?」
「…………」
姫花が目を丸くする。
次の瞬間、その頬がほんのりと赤く染まった。
「にぃにのバカ!」
吐き捨てるように言うと、姫花は逃げるように洗面所から出ていった。
……反抗期なのだろうか。
それとも、単に朝が弱くて機嫌が悪いだけなのか。
まあ、こういうときは下手に追いかけず、そっとしておくべきだろう。
相手が一人になりたいときは、適度な距離を置いて見守る。
そう。
俺は、妹への理解がある兄なのだ。
そう結論づけた――その瞬間。
「姫花ぁ! お兄ちゃんが悪かったぁぁ!」
いつものように、本音が盛大に飛び出した。
「にぃにのバカ! こういうときは放っておいて!」
廊下の向こうから怒鳴られ、俺は思わず肩をすくめる。
(ちくしょう!! 朝から最悪だ!)
「あっ、危ねぇ。忘れるところだった」
洗面台の端に置いていた、銀色の指輪と赤黄のミサンガを手に取る。
指輪を右手の指にはめ、ミサンガを手首へ結びつけた。
銀色の指輪については、羽衣との一戦でそれなりに役立っている実感がある。
ただ――。
(この心の声を遮断するミサンガ、本当に役に立ってるのか?)
今のところ、その効果を実感できた記憶はない。
とはいえ、これを用意したのは相棒だ。
あいつのことだから、俺には分からない何かしらの意図があるのだろう。
(まあ、考えても仕方ないか)
俺は疑問を頭の隅へ追いやり、学校へ向かった。
◇
「おはよう、神田っち!」
教室へ入ろうとしたところで、黒羽、加賀、氷室の三人と鉢合わせた。
「昨日はありがとうね、神田っち。おかげで助かったよ」
「ああ。俺も勉強になったし、気にするな」
黒羽と挨拶を交わしていると、隣にいた加賀が何かを企むようにニヤリと笑った。
「いや~、神田! 昨日の“夜”の勉強会、楽しかったなぁ?」
「おい! 妙なところを強調するな! 誤解されるだろ!」
「あはははっ! 神田、本当にいいツッコミするよね! やっぱりアンタ、私のツボだわ!」
腹を抱えて笑う加賀。
その隣で、氷室が俺をジト目で見つめながら呟いた。
「……ドスケベ数学魔神」
「数学の部分が絶望的にフィットしてないから!」
「では、ドスケベ魔神」
「数学を取るな! ただの悪口になっただろ!」
「じゃあ、魔神」
「急に格好よくなったけど、高校生であだ名が魔神は逆に恥ずかしい!」
「ふふっ」
黒羽は俺たちのやり取りを眺め、小さく笑う。
「ほら、夏美、麗花。そろそろ教室に入ろう?」
それから俺へ向き直ると、両手を胸元で握った。
「神田っちも、明日の試験頑張ろうね?」
「おう。黒羽もな」
黒羽に促され、俺たちは揃って教室へ入る。
すると、教室の一角に男子たちが集まっているのが目に入った。
その中心にいたのは――蜂須賀すみれだった。
「蜂須賀さん、今日も可愛いね!」
「その髪型、すごく似合ってる!」
「今度、一緒に昼飯食べない?」
イメチェンしてからというもの、蜂須賀の人気はとんでもないことになっている。
(すごいな……。完全にクラスの中心人物じゃないか)
以前までの蜂須賀を知っているだけに、少し感慨深い。
妹のように接してきた相手が、自分の手を離れ、遠い存在になっていく。
少しだけ寂しい気もするが――これが現実だ。
現実主義者の俺は、すぐに受け入れた。
その様子を眺めていると、不意に背中をトントンとつつかれる。
「神田君、お〜はよ!」
「…………」
聞き覚えのある声に、俺の全身が強張った。
恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのは、予想どおりの人物。
俺の天敵――桜間楓だった。
「おい、桜間。今日も俺を辱めるつもりだな?」
「あれあれ?心外だな〜!普通に朝の挨拶をしただけなんだけど?」
「悪いが、お前の手には乗らない。今日は全力で無視させてもらうぜ」
「ふ〜ん?」
「そもそも桜間と会話をしなければ、俺が辱められることもない。つまり、沈黙こそが最強の防御。黙秘権というやつだ」
我ながら完璧な作戦だ。
IQの高い俺は、同じ失敗を何度も繰り返したりしない。
俺は桜間から顔を背け、固く口を閉ざした。
「そうか~。それは残念だな〜!」
「…………」
「あっ、そういえば昨日、ショッピングモールへ行ったんだけどさ。そこで偶然、安城さんに会ってね?」
「…………!!」
桜間が安城とショッピングモールにいたことは、すでに知っている。
それでも――安城という名前に、俺の魂が勝手に反応してしまった。
「いや~、それが本当に可愛くてね〜。まさか、あの安城さんがあんなことをするなんて……」
「…………!?」
「おっと。沈黙している神田君に話しても仕方ないか」
桜間はわざとらしく肩をすくめ、俺に背中を向ける。
「それでは神田君。ごきげんよ〜う」
「待て、桜間! 俺が悪かった!その話詳しく聞かせてくれ!!」
――こうして俺は、今日も桜間に辱められた。
そんなやり取りをしていると、ふと桜間の背後に見慣れた姿を見つけた。
「あれ……? 安城?」
教室の後ろに、安城が立っていた。
しかし、いつもの安城とは明らかに様子が違う。
目の下には、うっすらと隈が浮かんでいる。
「安城、なんか疲れてないか?」
俺の声が聞こえていないのか。
安城は虚ろな瞳で、ただこちらを見つめている。
その顔を見た瞬間、胸の奥が苦しくなった。
脳裏に蘇ったのは、昨日のショッピングモールで聞いてしまった言葉。
『神田君のことなんて、べ、別に好きじゃないわ』
『き、気になる人は別にいるけど!?』
俺の推し――安城恵梨香には、ほかに好きな人がいる。
その事実を思い出すだけで、胸の奥を鋭い刃で抉られるように痛んだ。
(……だから、なんだよ)
安城に好きな人がいたとしても、俺が勝手に失恋しただけだ。
安城は何も悪くない。
(いつもどおりに振る舞え、俺)
苦しくても笑え。
安城に、余計な心配をかけるな。
俺は胸の痛みを押し隠し、いつもの仮面を被った。
「おう、安城! おはよう!」
できる限り明るい声を出す。
しかし――。
「どうして……」
「えっ?」
安城の唇から、掠れた声がこぼれた。
「どうしてよ……」
「安城?」
彼女は覚束ない足取りで、ゆっくりと俺へ近づいてくる。
「なんで……よりによって……」
「……どうした?安城?」
安城は答えない。
俺を見つめながら、ただ唇を震わせていた。
その日――。
俺は初めて目にした。
誰よりも気高く、誰よりも強いと思っていた、俺の推し。
安城恵梨香が――。
音を立てて、壊れていく瞬間を。




