第235話 安城恵梨香――愛は支配すること
ふいに、目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光は、まだ薄暗い。
枕元の時計へ目を向けると、普段起きる時間よりもずっと早かった。
「早く……神田君の心の声を聞かないと」
目覚めて最初に口からこぼれたのは、そんな言葉だった。
神田君の心が、私以外の誰かに移っていないか。
今でも私を、一番大切に想ってくれているのか。
早く確かめたい。
彼の本心さえ確認できれば、私はきっと元に戻れる。
いつもの、強い私に。
愛とは相手を理解することだと、迷わず言い切れた――正しい私に。
「愛は……支配することなんかじゃない」
自分に言い聞かせるように呟き、胸元のシーツを強く握りしめる。
「ぶれちゃ駄目よ……私」
けれど――。
心の奥底から、もう一人の私が問いかけてくる。
「でも……正しい道を進んだ先に、本当に私の望む未来があるのかしら」
私と神田君が、恋人として結ばれる未来。
誰にも邪魔されず、二人だけで愛し合い続ける未来。
そんな未来は、本当に――正しさを貫いた先にあるのだろうか。
◇
学校へ到着した私は、真っ先に教室へ向かった。
一段、また一段と階段を上がっていく。
そして廊下へ出たところで、探し求めていた姿を見つけた。
神田君だ。
彼はいつものように、たくさんの人に囲まれて楽しそうに笑っていた。
黒羽さん。
加賀さん。
氷室さん。
三人と親しげに話している彼を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
(私が……誰よりも神田君の魅力を知っているのに)
黒い感情が、心の底から滲み出してくる。
駄目。
考えてはいけない。
(早く……確かめないと)
彼の心の声を聞けば、すべて分かる。
神田君が今も私を想っていると確認できれば、こんな不安はすぐに消える。
私は彼に向かって歩き出した。
一歩。
また一歩。
少しずつ、彼との距離が縮まっていく。
(あと少し……)
やがて神田君が、私の存在に気づいた。
目が合う。
彼はいつもと変わらない笑顔を浮かべ、明るい声で私の名前を呼んだ。
「おう、安城! おはよう!」
その瞬間――。
何も、聞こえなかった。
「…………え?」
いつもなら、嫌でも流れ込んでくるはずの声。
神田君が胸の奥に隠している、本当の気持ち。
それが――まったく聞こえない。
(どうして……?)
耳を澄ませる。
意識を集中させる。
それでも、何も聞こえてこない。
(なんで……?)
心臓が、早鐘のように鳴り始める。
呼吸が浅くなり、指先から急速に体温が失われていく。
そして、最悪の可能性が脳裏をよぎった。
――もう二度と、神田君の心の声を聞けないのかもしれない。
「いや……」
これまで私は、この力を疎んできた。
他人の心へ勝手に踏み込んでしまう、忌まわしい能力だと思っていた。
それなのに。
今の私は、その力を心の底から渇望していた。
「どうして……」
「えっ?」
掠れた声が、私の唇からこぼれた。
神田君は、何が起きているのか分からない様子で私を見ている。
「どうしてよ……」
「安城?」
足元がふらつく。
それでも私は、一歩ずつ彼へ近づいた。
「なんで……よりによって……」
「……どうした? 安城?」
神田君の声が、ひどく遠く感じる。
視界が滲み、彼の顔がぼやけていく。
「どうして……聞こえないのよ」
一粒の涙が頬を伝い、床へ落ちた。
神田君が目を見開く。
その表情を見た瞬間、私は耐えられなくなった。
踵を返し、教室とは反対の方向へ走り出す。
「安城!?」
背後から神田君の声が聞こえた。
けれど、振り返ることはできなかった。
廊下を駆け抜け、階段を上がる。
その途中で、如月さんとすれ違った。
「えっ? 恵梨香ちゃん? どうしたの!?」
呼び止められても、足を止めない。
今は誰にも顔を見られたくなかった。
何より――神田君のそばにいるのが、怖かった。
◇
ガチャン――!
勢いよく扉を開け、屋上へ飛び出す。
朝の冷たい風が、火照った頬を優しく撫でていった。
雲一つない青空。
穏やかに降り注ぐ朝の光。
まるで、私の心だけが世界から取り残されてしまったようだった。
「はぁ……はぁ……」
私は近くのベンチまで歩き、力なく腰を下ろす。
もう、何が正しいのか分からなかった。
相手を信じること。
相手を理解すること。
そんな綺麗事を貫いて、神田君を誰かに奪われてしまったら――いったい何の意味があるのだろう。
膝の上で、両手を強く握りしめる。
「愛は……相手を理解すること」
昨日まで信じていた言葉を口にする。
けれど、それでは神田君をつなぎ留められない。
彼の心さえ分からない今、私に残されているものは――。
「違う……」
自分の中で、何かが静かに崩れていく。
そのとき、ふと脳裏に一人の少女の顔が浮かんだ。
本郷愛理。
神田君を苦しみへ追い込み、自分だけに依存させようとした女。
彼の心を壊し、そのすべてを自分のものにしようとした女。
あのとき、私は彼女の愛を否定した。
愛とは相手を理解することであって、支配することではない。
相手の心を縛りつけて手に入れたものなど、本当の愛ではないと。
今でも、その考えは間違っていない。
間違っていないはずなのに――。
(でも、正しく愛しているだけでは……)
神田君は、私を選んでくれないかもしれない。
いつか私ではない誰かを愛し、私の前からいなくなってしまうかもしれない。
そんな未来を受け入れることが、本当に正しい愛なの?
彼の幸せを願いながら、ほかの誰かに奪われていく姿を黙って見ていろというの?
「そんなの……」
耐えられない。
神田君を失うくらいなら。
彼の心が分からないのなら。
その心を、私から離れられないようにしてしまえばいい。
私は震える唇を開き、ゆっくりと呟いた。
「愛は――支配すること」
自分が最も否定した考えを、同じ言葉を口にした。
その瞬間――。
屋上の扉が、勢いよく開いた。
「はぁ……はぁ……。やっと見つけた……」
荒い呼吸とともに、綺麗な白髪が朝の風に揺れる。
「恵梨香ちゃん」
扉の前には――如月聖さんが立っていた。




