第232話 灰色の世界で輝く金色
俺は勉強会に勤しんでいた。
時刻は午後八時三十分。
場所は、黒羽の部屋。
少女漫画を読みながらベッドに寝転がっている加賀夏美。
スマホゲームに熱中している氷室麗花。
まるで部屋の査定でもしているかのように、隅々まで舐め回すように観察している甲斐谷。
そして――真面目に勉強している俺。
はっきり言おう。
お前ら全員、勉強しろ。
民主主義国家であるこの日本において、まさか真面目に勉強している少数派の俺が、変なやつみたいになるとは思わなかった。
特に加賀!
ベッドに寝転がって少女漫画を読むな!
その体勢だと、スカートの隙間から色々とチラ見えしそうだろうが!
(いかん! まずは数学に集中だ!)
俺は邪念を振り払い、ノートに視線を落とす。
えっと、Xに3を代入して……Yイコール、加賀のスカートの中は何色―
(ちくしょう! まったく集中できねぇ!)
そもそも、赤色と紫色はどこから出てきたんだ。
そんな俺の煩悩を察したのか、加賀が少女漫画から顔を上げる。
そして、ケラケラと笑いながら告げた。
「神田。一チラ見、千円ね」
ふん。馬鹿馬鹿しい。
いくらなんでも高すぎるだろ。
俺は鞄から財布を取り出し、中に入っていた新札の一万円札へと手を伸ばす。
「そうだな。一万円払うわ。あっ、お釣りはいらないぞ? ……って、十回見るからお釣り出ねぇか!」
「はっ!」
気づいたときには、俺の手には一万円札が握られていた。
本音が漏れた。
しかも今回は、本音が行動まで引きずり出しやがった。
「いや、神田! さすがに勉強しようぜ!」
黒羽の部屋を物色していた甲斐谷が、呆れたように俺を見る。
「そもそもチラ見なんて、堂々と見られない情けないやつがすることだぜ?」
「お前もさっきから黒羽の部屋をチラチラ見てるだろ!」
「特にクローゼットの三段目!」
「具体的な場所まで白状してんじゃねぇよ!」
そんな俺たちのやり取りを横目に、氷室がスマホの画面を操作しながらポツリと呟く。
「……情けないコンビ」
「おい、氷室! 俺と甲斐谷をひと括りにするな!」
「ははははっ!」
加賀の楽しそうな笑い声が、黒羽の部屋に響く。
――そのときだった。
部屋の扉が静かに開き、黒羽が戻ってきた。
俺たちの笑い声が、不自然なほどぴたりと止まる。
「…………」
黒羽はいつもどおりの顔をしているつもりなのだろう。
けれど、その目元には――涙を拭った跡が、くっきりと残っていた。
それを目にした瞬間、誰からともなく視線を逸らす。
加賀は少女漫画を閉じ、氷室はスマホを机に置く。
甲斐谷も、クローゼットの三段目から慌てて離れた。
そして俺たちは、何も見なかったふりをして一斉に参考書を開く。
誰一人として勉強していなかったはずなのに、さっきまでの光景が嘘のようだ。
「……ごめん。ちょっと風に当たってくるね」
黒羽は俺たちに小さく笑いかけると、そのままベランダへ向かっていった。
窓が閉まる。
黒羽の背中がベランダの向こうへ消えた瞬間――。
俺たちは顔を寄せ合い、緊急会議を始めた。
最初に口を開いたのは加賀だった。
「えっ、何かあったの?」
さっきまでの笑顔は消え、不安そうにベランダへ目を向けている。
「俺の冬花たんを泣かせたやつは絶対に許さないぞ! 俺が話を聞いてくる!」
甲斐谷が勢いよく立ち上がる。
しかし、その瞬間。
「甲斐谷じゃ役不足……」
氷室が、いつもの淡々とした口調で呟いた。
「ここは神田が適任」
「は? なんで俺なんだよ?」
「いや、それは神田が怪我だらけだからじゃない?」
加賀が、妙に真剣な表情で俺の全身を見回す。
「っていうか、昨日より怪我が増えてない? 大丈夫?」
「どんな理屈だよ!? 怪我してたら相談相手に適任なのか!? あと、心配するならもっと早いタイミングがあっただろ!」
「ほら、自分より可哀想なやつの方が話しやすいかなって。冬花に配慮してさ?なんたって私配慮の塊みたいな人間だからさ」
「その配慮が俺には向いてないぞ?」
「まあまあ。頼むよ、神田」
加賀が両手を合わせ、俺に頭を下げる。
「冬花、神田になら話せそうじゃん。膝枕までしてもらったんでしょ?」
「……なんでそれを知ってる?」
そう問いながらも、答えはすぐに分かった。
俺はゆっくりと甲斐谷へ視線を向ける。
「…………」
甲斐谷は露骨に目を逸らし、口笛を吹き始めた。
こいつか。
どうせ、どこかから見ていたのだろう。
俺は小さく息を吐き、ベランダの向こうにいる黒羽へ視線を向けた。
……まあ、いい。
黒羽には、これまで何度も助けてもらった。
そもそも、誰かに言われなくても――俺は最初から行くつもりだった。
「分かったよ。俺が話してくる」
俺は静かに立ち上がる。
窓の向こうでは、黒羽が一人、夜空を見上げていた。
その背中が、いつもよりずっと小さく見える。
俺はベランダへ続く窓に手をかけると、ゆっくりとそれを開いた。
♢
俺は窓を開け、ベランダへ出た。
冷たい夜風が、火照った頬を優しく撫でていく。
「……広いな」
黒羽の家のベランダは、俺が想像していたものとはまるで違った。
床にはウッドデッキが敷かれ、小さなテーブルと椅子まで置かれている。ベランダというより、ちょっとしたテラスと呼んだ方が近いかもしれない。
その一角で、黒羽は夜空を見上げていた。
いつもの明るさはない。
ただ静かに、物思いにふけっている。
「ここ、いいところだな」
俺が声をかけると、黒羽がゆっくりと振り返った。
「……神田っち?」
「うちには、こういう場所ないからさ。ちょっと羨ましいわ」
俺は黒羽の隣には立たず、少し離れたところにある椅子へ腰を下ろす。
「そうだ。数学でわからない問題があるんだよ。あとで教えてくれ」
「え……?」
「ああ、それと――」
「ねえ、神田っち」
言葉を遮られ、俺は黒羽へ顔を向ける。
彼女は戸惑うように俺を見つめていた。
「何があったのか、聞かないの?」
「……話したくなるまで待つよ」
それは、俺の親友――如月聖から教わったことだった。
聖は、俺がどれだけ落ち込んでいても、すぐに「何かあったの?」とは聞かなかった。
無理に心の中へ踏み込まず、いつもどおり隣にいてくれた。
そして、俺が自分から話したくなるまで待ってくれた。
俺自身、それに何度も救われたから。
「話したくないことを、無理に聞いても仕方ないだろ?」
「……そっか」
しばらくの間、俺たちの間を夜風だけが通り抜けていった。
やがて黒羽が、ぽつりと口を開く。
「さっきね……蒼真と会ったの」
「え?」
阿崎蒼真。
黒羽の中学時代からの幼なじみであり、元彼。
そして――羽衣雪音に奪われた男だ。
「それでね、私……蒼真に命令したの」
黒羽は夜空を見上げたまま、静かに続ける。
「もう二度と、私の前に現れないでって」
「命令……?」
「うん。ただの言葉じゃない。絶対に逆らえない、とても強い命令」
黒羽の両手が、スカートの裾を強く握り締める。
「その力を使うためには、蒼真の心を永遠に私へ向けさせる必要があったの」
震えた声が、夜の闇へ溶けていく。
「私は蒼真に、永遠に私だけを愛するよう強制した。それなのに……二度と私には会えないようにした」
「…………」
「永遠に私を想い続けながら、永遠に会えない。その苦しみを、罰として与えたの」
俺は、黒羽も何かしらのEESを発現しているらしいことを、間接的に知っていた。
けれど、それがどんな能力なのかまでは知らなかった。
今の話だけで、すべてを理解できたわけでもない。
「だけどね……」
黒羽の声が、さらに小さくなる。
「蒼真、最後に何て言ったと思う?」
俺は答えられず、彼女の次の言葉を待った。
「『ありがとう』って言ったの」
黒羽が振り返る。
今にも泣き出しそうな目で、俺を見つめていた。
「どうして、お礼なんて言ったのかな?」
俺には、阿崎の気持ちなんてわからない。
どんな思いで黒羽に別れを告げたのか。
なぜ、そんな残酷な命令を受けながら感謝したのか。
本人ではない俺に、本当の答えなんて出せるはずがなかった。
「阿崎は、その前に何か言ってたのか?」
「……うん」
黒羽は記憶をたどるように目を伏せる。
「もうすぐ俺は、また羽衣雪音の支配下に戻ってしまうって」
「雪音に支配されてから、自分の世界はずっと灰色だったって」
静かな声が、夜の空気を震わせる。
「頭ではどれだけ雪音を肯定していても、心の奥はずっと冷たいままだったって」
黒羽は、蒼真の言葉を一つひとつ拾い上げるように続けた。
「まるで、凍てついた色のない灰色の世界を、たった一人で歩き続けているような感覚だった。歩きたくなんてないのに、何かに無理やり背中を押されて……それでも、自分の意思では立ち止まることさえ許されなかった――って」
「……多分さ」
正しいかどうかなんて、わからない。
それでも、俺が阿崎の立場だったなら――きっと、こう思う。
「阿崎は、羽衣への偽物の愛を植えつけられるくらいなら……黒羽への本物の気持ちを、永遠に失わずに済む方が嬉しかったんじゃないか?」
「本物の……恋?」
「ああ」
俺は小さく頷く。
「たとえ、いる場所が凍りついた灰色の世界でも、自分の心の中には本当の気持ちが残っている。それが、何より嬉しかったんじゃないか?」
黒羽は黙ったまま、俺の言葉を聞いていた。
「もう誰かに心を操られても、自分の愛する相手だけは見失わずに済む。どれだけ離れていても、黒羽冬花を永遠に好きでいられる」
それはきっと、罰なんかじゃない。
少なくとも、阿崎にとっては――。
「それが、あいつにとっての救いだったんじゃないか?」
「救い……」
「まあ、俺の勝手な想像だから、本当のところはわからないけどな」
俺は頭を掻き、夜空を見上げる。
「でも、俺はそう信じたい」
そして、はっきりと告げた。
「阿崎蒼真は今も、黒羽冬花のことが大好きなんだって」
そう。
きっとそれは、俺が安城に抱いているものと同じだ。
たとえ、どれほど深い暗闇へ閉じ込められても。
道を見失い、立ち止まりそうになっても。
進むべき道を照らし、もう一度前を向かせてくれる光。
いつだって俺を導き、信じてくれる――そんな存在への想いだ。
「ねえ、神田っち」
「ん?」
「その気持ちに色があるとしたら……何色だと思う?」
「色?」
唐突な質問に、俺は首を傾げる。
「そうだな……」
自分の胸にある安城への想いを、色に置き換えてみる。
「金色、かな」
「……金色?」
「ああ。金色のラメがかかったような、すげぇ眩しい色」
答えたあとで、俺は黒羽を見る。
「なんだ、この質問。心理テストか何かか?」
「…………」
黒羽は大きく目を見開いていた。
けれど、やがて何かを理解したように目を細める。
「そっか……」
その口元に、ようやく小さな笑みが浮かんだ。
「それが、本物なんだね」
「何が?」
「ううん。こっちの話」
黒羽は目元を拭うと、先ほどまでの迷いを振り払うように勢いよく立ち上がった。
「戻ろっか、神田っち!」
「もう大丈夫なのか?」
「うん。それより、早く数学の勉強しないと、中間試験で一位になれないよ?」
黒羽は窓へ向かいながら、悪戯っぽく振り返る。
「安城さんの隣に、戻りたいんでしょ?」
その問いに、迷う理由なんて一つもなかった。
「おう! だから早く教えてくれ!」
「ふふっ。仕方ないなぁ」
黒羽が窓を開け、明るい部屋の中へ戻っていく。
その横顔は、ベランダへ来たときよりも少しだけ穏やかに見えた。
俺には、黒羽の後悔を消してやることなんてできない。
阿崎が最後に残した「ありがとう」の、本当の意味だってわからない。
それでも――。
凍りついた灰色の世界で、阿崎が最後まで手放さなかった光。
その色だけはきっと――俺の胸に輝くものと同じ、金色だった。




