第229話 本郷愛理――あなたの幸せを守るために
「知っているよ」
そう答えた瞬間、安城星梨奈の瞳から、すっと光が消えた。
「そして私も――羽衣雪音の件で、君に協力してもらいたいと思っていた」
「私に……協力してほしい?」
「ああ。おそらく、私が裏切ったことは、もうじき羽衣雪音にバレる」
「だから、私にあんたを守れって?」
私が問い返すと、安城星梨奈は静かに首を横へ振った。
「いや、違う」
短く否定したあと、彼女は真剣な眼差しをこちらへ向ける。
「私はどうしても、《EES未来支援施設》にある自分の研究室へ戻らなければならない。そこに、必要なものがあるんだ」
「必要なもの……?」
それが何なのか、私はあえて聞かなかった。
聞いたところで、彼女が素直に答えるとも思えない。
安城星梨奈は、そのまま話を続けた。
「その間、君には羽衣雪音の足止めをしてほしい」
「…………」
羽衣雪音。
かつて、ゆういちを悪者に仕立て上げ、その心に消えない傷を刻んだ女。
あの女だけは、絶対に許さない。
今度こそ、私が羽衣雪音からゆういちを守る。
そう心に誓った――その瞬間。
ズキリ、と胸の奥が痛んだ。
違う。
羽衣雪音だけじゃない。
私もまた、ゆういちを地獄へ突き落とした人間の一人だ。
それだけは、絶対に忘れてはいけない。
私も彼女と同じだ。
どれだけ後悔しても、どれだけ罪を償おうとしても。
過去は、決して消えてはくれない。
だからこそ、私は決めたのだ。
これからは、ゆういちの幸せのためにこの力を使う。
たとえ――その幸せな未来に、私の居場所がなかったとしても。
「……分かったわ。あんたに協力する」
「助かるよ。詳しいことは、また連絡する」
「それじゃあ、私は帰るわ。そろそろ、ゆういちも戻ってくる頃でしょうし」
そう告げて立ち上がろうとした私に、安城星梨奈が問いかける。
「もう二度と、神田ゆういちには会わないつもりかい?」
その言葉に、私は一瞬だけ動きを止めた。
それでも振り返ることなく、静かに答える。
「ええ。もう決めたの」
口にしただけで、胸が締めつけられる。
けれど、ここで揺らいではいけない。
「ゆういちに会えば、私はまた自分の能力に飲み込まれて、あの子を傷つけてしまうかもしれない」
会いたい。
本当は、今すぐにでも会いたい。
顔を見て、声を聞いて。
許されなくてもいいから、もう一度だけ名前を呼んでほしい。
それでも私は、その願いを心の奥へ押し込めた。
「この能力は、誰かを傷つけるためにあるんじゃない。誰かを幸せにするために使いたいの」
今度こそ、間違えない。
自分の寂しさを埋めるためではなく。
自分の願いを叶えるためでもなく。
誰かの未来を守るために、この力を使う。
「それを教えてくれたのが、ゆういちと――あんたの妹、安城恵梨香よ」
「……そうかい」
安城星梨奈は、それ以上引き止めようとはしなかった。
ただ、何かを見透かすような瞳で私を見つめている。
やがて、何かを思いついたように小さく笑った。
「そうだ。よかったら、神田ゆういちの部屋に行ってきたらどうだい?」
「…………は?」
あまりにも唐突な提案に、私は思わず振り返った。
安城星梨奈は、どこか面白がるように口元を緩めている。
「乙女なら、好きな男の部屋に一度くらい入ってみたいんじゃないのかい?」
「な、何を言って――」
「別に構わないよ。神田ゆういちの枕に顔を埋めて、好きなだけくんかくんかしても」
「なっ……!?」
瞬く間に、顔が熱くなる。
「い、いい加減にしてよ! そんなこと、す、するわけないでしょ! 私、そんなエッチな女の子じゃないんだから!」
私が声を荒らげると、安城星梨奈は不敵な笑みを浮かべた。
「神田ゆういちの夢に介入するため、彼の体操服の匂いを嗅いでいた君が、それを言うのかい?」
「げっ……ど、どうしてそれを……」
「私は感応科学者でもあるんだよ? 君の無意識へ介入する能力については、よく知っているさ」
(そっちじゃないわよ! なんで私が体操服の匂いを嗅いでたことまで知ってるのよ!)
冷や汗が背中を伝う。
けれど、これ以上追及すれば、かえって墓穴を掘りそうだ。
私は誤魔化すように頬を緩めた。
「にしし♡ まあ、せっかくだし……ゆういちの部屋、見てみようかしら。案内して」
◇
私は安城星梨奈に案内され、そのまま二階へ上がった。
そして、ゆういちの部屋の前まで来たところで、思わず足を止める。
(……何よ、このドア?)
目の前にあるのは、黒く無機質な扉。
周囲の雰囲気とは明らかに馴染んでおらず、そこだけ妙にサイバー感が漂っている。
(まあ……いいか)
深く考えたら負けな気がして、私はあえて触れないことにした。
そして扉を開けようとした、そのとき。
「私は部屋の外で待っているよ」
背後から、安城星梨奈がそう告げた。
「……そう」
私は一人で、ゆういちの部屋へ足を踏み入れる。
その瞬間――。
懐かしくて、胸が締めつけられるような匂いが、私を包み込んだ。
(あぁ……ゆういち♡)
間違えるはずがない。
私の大好きな、ゆういちの匂い。
それだけで、もう会わないと固く決めたはずの心が、簡単に揺らいでしまう。
ベッド。
枕。
机。
本棚。
彼が毎日を過ごしている空間を、私は一つひとつ確かめるように眺めていく。
そして――彼の机の上に置かれた紙袋が目に入った。
(……これ)
私が安城恵梨香に預けた紙袋。
中に入っているのは、ゆういちの体操服だ。
もう二度と、ゆういちとは会わない。
そう誓ったからこそ、私は恵梨香に頼んで、本人へ返してもらった。
けれど――。
(これを、もう一度持って帰れば……)
また、ゆういちの夢に入れる。
夢の中なら、もう一度だけ会える。
彼の顔を見て、声を聞いて。
私の名前を、呼んでもらえる。
(少しくらいなら……いいよね?)
気づけば、私の手は紙袋へ向かって伸びていた。
もう会わないと決めたはずなのに。
また能力に飲み込まれようとしている。
それが分かっていても、指先を止められなかった。
――そのとき。
「……何、これ?」
紙袋の隣に置かれていた、一冊のノートが目に入った。
何気なく開いたページに、大きな文字が書かれている。
『絶対、愛理のお母さんを見つける!』
「…………っ」
間違いない。
ゆういちの字だ。
その下には、母を捜し出すための具体的な方法が、ページを埋め尽くすほど細かく書き込まれていた。
調べるべき場所。
連絡する相手。
必要になりそうな情報。
いくつもの可能性を想定して、諦めることなく考え抜いた跡が残っている。
すべて――私のために。
「……ゆういち」
視界が滲んだ。
堪えようとしたのに、涙が次々と頬を伝っていく。
(ゆういち……ゆういち……)
(本当に、あなたは……)
どうして、そこまで優しいの。
私はあなたを傷つけた。
あなたの人生を壊して、地獄へ突き落とした。
それなのに、あなたは今も――私の幸せを諦めていない。
私は震える手でノートを持ち上げ、胸元へ強く抱きしめた。
「……ありがとう」
誰にも届かないほど小さな声が、唇から零れ落ちる。
先ほどまで私を支配しようとしていた衝動は、いつの間にか消えていた。
私はノートを元の場所へ戻す。
もちろん、紙袋にはもう手を伸ばさない。
机の隅に置かれていた小さな鏡が目に入り、私はそこに映る自分と向き合った。
涙で濡れた瞳。
今にも崩れ落ちそうな、弱い自分。
それでも――私は鏡の中の自分を真っ直ぐに見つめ、心に誓う。
(私が、絶対にあなたを守る)
(あなたが私の幸せを諦めないでいてくれるなら――)
(私も、あなたの幸せを諦めない)
(たとえ、その未来に私がいなくても)
(あなたの幸せは、私が必ず守ってみせるから)
そう言い聞かせるように、私は小さく頷いた。
そして鏡を元の場所へ戻すと、ゆういちの部屋を後にした。
廊下へ出ると、壁にもたれて待っていた安城星梨奈が、こちらへ視線を向ける。
「忘れ物はしていないかい?」
「…………」
「本当に食えない女ね。私を試したでしょ?」
「どうだろうね?」
安城星梨奈は、肯定も否定もせず、不敵に笑った。
そのとき、廊下の奥にある部屋の扉が開く。
「お姉ちゃん、もう帰っちゃうの?」
姿を現したのは、姫花ちゃんだった。
「うん。姫花ちゃん、今日はありがとうね」
「そっか……」
姫花ちゃんは寂しそうに目を伏せる。
その顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
もう二度と会わない。
そう言うべきなのかもしれない。
曖昧な期待を持たせないためにも、ここできっぱり別れを告げるべきなのかもしれない。
それでも――私の口から出たのは、別れの言葉ではなかった。
「……またね?姫花ちゃん」
姫花ちゃんは一瞬だけ目を見開く。
そしてすぐに、花が咲くような笑顔を浮かべた。
「うん! またね、お姉ちゃん!」
その笑顔を胸に刻み、私はゆういちの家を後にした。
――もう、ゆういちには会わない。
その決意は変わらない。
けれど、もう一人で消えるつもりもなかった。
私には、守りたいものがある。
そして今度こそ、この力を――誰かを幸せにするために使う。
たとえ、どんな未来が待ち受けていたとしても。




