第228話 戦闘狂と仮面の少女【羽衣雪音視点】
私は《EES未来支援施設》へ戻ると、入口の認証端末にカードキーをかざした。
ピピッ――。
電子音とともに、ドアが左右へスライドする。
誰もいない研究室へ足を踏み入れ、着ていた服の上から白衣を羽織る。そのままコーヒーメーカーのスイッチを入れると、ほどなくして芳醇な香りが室内を満たしていった。
淹れたてのコーヒーを片手に、私はそっと自分の頬へ触れる。
神田ゆういちに殴られた場所。
痛みは、もうほとんど残っていない。
けれど――。
あの拳の熱だけは、今も微かに残っている気がした。
指先で頬をなぞるたび、胸の奥が甘く疼く。
高鳴る鼓動を抑えきれず、私の唇から自然と笑みがこぼれた。
「……最高に楽しかったわ」
その瞬間だった。
ピピッ――。
背後で認証音が鳴り、閉じていたドアが再び開く。
「あれれ~? 雪音ちゃん、そのまま直帰するんじゃなかったの?」
間の抜けた声とともに、一人の少女がひょこりと顔を覗かせた。
その顔は、今日も仮面に覆われている。
私は彼女の素顔を一度も見たことがない。
本当の名前も、年齢も、どんな表情で笑うのかさえ知らない。
ただ一つ分かっているのは、彼女もまた、私と同じ仕事を任されている仲間だということだけ。
「ふふっ。報告書を提出しに来たの」
「相変わらず仕事熱心だね~。私なんて、報告することが何もないのに報告書を作らなきゃいけないんだよ? いやぁ、本当に私って怠け者!」
「そんな人間と同じ給料だと思うと、本当にやる気を失うわね」
「雪音ちゃんは真面目すぎるんだよ~! どうせどれだけ頑張っても同じ給料なら、頑張らない方がお得でしょ?」
仮面の少女は人差し指を立て、得意げに続ける。
「私たちはまだ高校生だけど、社会ではそういうマインドを持っていた方が長く生き残れるんだよ!」
「高校生が社会を語らないでくれる?」
「ちなみに私の取り柄は、この誠実さと、この可愛らしい顔! それから表情豊かなところかな~」
仮面の少女はそう言いながら、私のデスクの周囲を子供のようにくるくると回り始めた。
やがてキャスター付きの椅子を見つけると、背もたれを抱えるように逆向きに座り、床を蹴って勢いよく滑走する。
ビュン、ビュン――。
研究室の中を縦横無尽に走り回る少女を横目に、私はコーヒーを一口飲んだ。
「仮面を被っているから、可愛らしい顔も豊かな表情もまったく見えないけど?」
「ぎ、ぎくーっ!?」
「そもそも、誠実な人間は自分を怠け者だと自慢しないと思うわ」
「ぎくぎくーっ!?」
椅子が急停止する。
仮面の少女はその上で器用に仰け反り、胸元を押さえた。
私は構わず続ける。
「それに仮面キャラって、普段はおとぼけているけど、実は黒幕で悪いやつって相場が決まっているのよ。しかも最終的には改心して、主人公たちの仲間になる。少なくともゲームではそうだったわ」
「ぎ、ぎくーっ!? 三回目!」
先ほどよりも大げさな声が、研究室に響き渡る。
仮面の少女は椅子の上でポーズを決めると、わざとらしく両手で口元を覆った。
「ま、まさか……私が本当の黒幕だって、ついにバレちゃった?」
「…………」
「そこは何か反応してよ! 黙られると冗談なのに怖くなるから!」
彼女の抗議を最後に、室内へ束の間の沈黙が訪れた。
仮面の少女は椅子をゆらゆらと揺らしながら、じっと私の顔を見つめてくる。
「……ていうか、雪音ちゃん。今日はよく喋るね?」
「そう?」
「うん。いつもは『やっほ~!』って明るい仮面を被ってるのに、今日はすっごく素が出てるよ?」
少女は両手を後頭部で組み、楽しそうに首を傾げた。
「もしかして、何かいいことでもあった?」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、私は自分の変化に気づいた。
確かに、そうなのかもしれない。
これまで私は、施設の脅威となり得るEES発現者を捜し続けてきた。
他人に本音を吐き出させる力を持つ者。
そのたった一人を見つけ出すために、数えきれないほどの人間を利用し、傷つけ、地獄へ突き落としてきた。
だけど、それも今日で終わる。
ようやく私は、この役目から降りられる。
もう誰かを壊す必要もない。
もう――その人を捜す必要もない。
だって私は、ようやく見つけたのだから。
「そういえばさ!」
仮面の少女の声が、私の思考を遮った。
「見つかったの? 本音を吐き出させるEES発現者!」
「…………」
「ほら、雪音ちゃんが代表代理に電話してたとき、私も代表代理の近くにいたからさ! それで、どうだったの? 本当に見つけたの?」
少女は椅子に座ったまま、ゆらゆらと身体を左右に揺らしている。
私は答えようとして――言葉を詰まらせた。
神田ゆういち。
彼こそが、私たちの捜していたEES発現者である可能性は高い。
そう報告するべきだ。
それが私の仕事なのだから。
けれど――。
「……私の勘違いだったわ」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「だから今、調査結果が誤りだったことを報告書に書いているの」
自分でも驚くほど自然な声だった。
私はこれまで、施設に虚偽の報告をしたことなど一度もない。
それなのに、どうして。
どうして私は――神田ゆういちの存在を隠そうとしているのだろう。
「ふーん。そうなんだ」
仮面の少女は興味を失ったように、椅子をくるりと回転させた。
「まっ、いいけど!」
追及するつもりはないらしい。
私は胸の内を悟られないよう、静かに息を吐いた。
「それより、一つ報告があるわ」
「なになに?」
「この組織の中に、裏切り者がいる」
その瞬間。
無邪気に揺れていた椅子が、ぴたりと止まった。
「えっ!? わ、私じゃないよ!」
仮面の少女は椅子から飛び降り、両手を激しく振って否定する。
「分かっているわ。あなたではない」
「よ、よかった~! いやぁ、日頃の誠実さが証明されちゃったね!」
私はそんな戯言を無視し、コーヒーカップを机へ置いた。
コトン――。
小さな音が、静まり返った研究室に響く。
「裏切り者は、銀髪の発明家」
仮面の奥から向けられる視線が、僅かに鋭くなった気がした。
私は彼女を真っ直ぐに見据え、その名を告げる。
「感応科学者――安城星梨奈よ」
「……え?」
先ほどまでのふざけた様子が、一瞬にして消え失せる。
仮面の少女は、信じられないとでもいうように呟いた。
「嘘……でしょ?」
「本当よ」
私は冷めかけたコーヒーへ口をつける。
芳醇な苦味が、ゆっくりと舌の上に広がった。
「彼女は神田ゆういちの能力を知りながら、施設に報告しなかった。それどころか、意図的に私たちから彼の存在を隠していた可能性が高いわ」
もし安城星梨奈が、もっと早く真実を話していれば――。
私はこれほど長い間、当てもなく能力者を捜し回る必要などなかった。
無関係な人間を利用する必要も。
大勢の人生を壊す必要もなかった。
「彼女のせいで、私は本当に長い間、無駄な時間を過ごしたわ」
空になったカップを机へ置き、私は右手を強く握り締める。
爪が掌へ食い込む。
けれど、その痛みすら今は心地よかった。
「だから――私が始末してくる」
「し、始末って……」
仮面の少女の身体が、目に見えて強張る。
私は握っていた拳を開き、彼女へ視線を向けた。
「それとも、あなたが行く?」
「いやいやいや! 無理無理無理!」
仮面の少女は壊れた玩具のように、首と両手を激しく横へ振った。
「私は頭脳派! いわゆるインテリ枠なんだよ!?」
「ふふっ。怠け者が何か言っているわね」
「雪音ちゃんとか本郷愛理とか、越界者の女の子たちって、なんで当たり前みたいにフィジカルお化けなの!? 私をあんな脳筋ゴリラたちと一緒にしないでよ!」
「本人たちの前でも同じことを言える?」
「絶対に言えません!」
即答だった。
今の発言で、私もさりげなく脳筋ゴリラの一員に数えられていた気がする。
けれど、問い詰めるのも面倒なので無視することにした。
「冗談よ」
「その無表情で言われても、冗談に聞こえないんだけど……」
私は椅子から立ち上がり、作成した報告書を端末から送信する。
これで、今日の仕事は終わりだ。
「あれ? もう帰るの?」
「ええ。帰ってゲームをするわ」
「へえ。何のゲーム?」
「格闘ゲーム」
「きぇぇぇ……戦闘狂……。雪音ちゃん、見た目はこんなに可愛いのに……」
仮面に覆われているため、その表情までは見えない。
けれど、思いきり引かれていることだけは声で分かった。
背後から聞こえてくる声を無視し、私は研究室を後にする。
スライドドアが閉まる直前、仮面の少女へ振り返った。
「それじゃあ、また」
「はーい! 安城星梨奈ちゃんにもよろしくね~!」
「ええ。」
ピシャリとドアが閉まり、騒がしい声が遮断される。
静かな廊下を歩きながら、私はもう一度、殴られた頬へ触れた。
神田ゆういちとの戦いは、最高に楽しかった。
けれど、次の相手も悪くない。
銀髪の天才発明家にして、感応科学者。
安城星梨奈。
彼女はいったい、どんな顔で私を迎えるのだろう。
どんな発明品を持ち出し、どれほど必死に抵抗してくれるのだろう。
想像しただけで――。
「ふふっ……」
抑えきれない笑みが、唇からこぼれた。
安城星梨奈を始末する。
ただそれだけのことなのに、私の心は再び甘く高揚していた。




