第226話 死神と悪魔Ⅱ――再会
「やっぱり、お姉ちゃんが――」
一度、言葉を切る。
「本郷愛理さんなんだね?」
その瞬間。
お姉ちゃんは溢れ出る涙を手の甲で拭い、覚悟を決めたように私へ向き直った。
真っ直ぐに私を見つめる瞳には、もう誤魔化そうとする色はない。
これから何を言われても、すべて受け入れる。
そんな決意を宿した目だった。
けれど――。
テーブルの下で固く握られた手は、今も微かに震えている。
「姫花ちゃん……気づいていたんだね」
お姉ちゃんは寂しそうに目を伏せる。
それから、すべてを諦めたように小さく息を吐いた。
「そうよ。私が――本郷愛理」
淡々とした声だった。
まるで、自分とは関係のない誰かの罪を読み上げるみたいに。
「あなたの大切なお兄ちゃんを傷つけた、冷徹で、狡猾で――最低の悪魔よ」
そう言い終えると、お姉ちゃんは静かに目を閉じた。
まるで、私が次に口にする言葉を知っているかのように。
怒鳴られることも。
罵られることも。
すべて受け入れようとしているように見えた。
私は何も言わず、目の前のお姉ちゃんを見つめる。
両腕に巻かれた真っ白な包帯。
その下に隠れている、私を守るために負った無数の傷。
それを見つめながら、私はゆっくりと口を開いた。
「……お姉ちゃんは、最低なんかじゃないよ」
「…………え?」
その言葉が口から出た瞬間。
言った私自身が、一番驚いていた。
昨日まで、私は本郷愛理という人を絶対に許さないと決めていた。
大好きなにぃにを傷つけた人。
にぃにに、あんな苦しそうな顔をさせた人。
にぃには「もう許した」と言っていた。
それでも――私だけは絶対に許してはいけない。
私まで許してしまったら、にぃにが受けた苦しみまで、なかったことになってしまう気がしていた。
ずっと、そう思っていたのに。
目の前にいるお姉ちゃんを見ていると、どうしても憎むことができなかった。
「……どうしてよ」
お姉ちゃんの唇から、掠れた声が零れる。
「どうして……」
俯いたまま、膝の上で両手を強く握り締める。
「どうして姫花ちゃんは……私を責めないのよ」
その声が、少しずつ震えていく。
「私は、あなたの大切なお兄ちゃんを傷つけたのよ……?」
「…………」
「ゆういちの心を支配するために、私はゆういちを地獄へ突き落としたの」
絞り出すような告白だった。
「人は、自分が一番苦しんでいる時に手を差し伸べてくれた相手へ心酔する。だから私は、ゆういちを壊してから……自分の手で救おうとした」
お姉ちゃんの爪が、震える手のひらへ食い込んでいく。
「ゆういちの心を、私だけのものにするために……!」
「…………」
「私はゆういちを、自分の思いどおりにできるモノみたいに、支配しようとしたのよ!」
その言葉は、私へ向けられたものではなかった。
お姉ちゃんが、お姉ちゃん自身を切り刻むための言葉だった。
「それなのに……」
机に両手をつき、勢いよく立ち上がる。
ガタンッ――!
椅子が大きな音を立てて、後ろへずれた。
その衝撃で、テーブルの上の味噌汁が小さく波打つ。
「憎くないの!?」
悲鳴に近い声だった。
「私は……私はっ……!」
今にも泣き崩れそうな顔で、必死に私を見つめている。
まるで、私から罰を与えられることを望んでいるみたいだった。
怒鳴ってほしい。
最低だと罵ってほしい。
そうすれば、少しだけ楽になれるとでも言うように。
私は、そんなお姉ちゃんの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「……怒ってないよ」
「どうして……?」
「だって、お姉ちゃんは――」
あの時の光景を思い出す。
片倉の拳から、私を庇ってくれた背中。
傷だらけになっても、最後まで私を守ろうとしてくれた姿。
「私を、片倉から身を挺して守ってくれた」
「それは……」
「あの時のお姉ちゃんは、悪魔なんかじゃなかったよ」
私は、お姉ちゃんに向かって笑いかける。
「正義のヒーローだったよ」
「――――」
「だから私は、本郷愛理さんが――」
一度、胸に手を当てる。
「本当は優しい人なんだって、信じたいよ」
過去にしたことが、消えるわけじゃない。
にぃにが受けた苦しみを、なかったことにもできない。
それでも――。
私がこの目で見たお姉ちゃんの優しさまで、嘘だったとは思いたくなかった。
「だから私は――お姉ちゃんを許せるよ」
「――――」
その言葉を聞いた瞬間。
お姉ちゃんの身体から、すべての力が抜けた。
崩れ落ちるように、椅子へ腰を下ろす。
「……にしし」
いつもの、小悪魔みたいな笑い方。
けれど、その声には少しも元気がなかった。
「どうして……」
ぽたり、と。
お姉ちゃんの頬を、一筋の涙が伝った。
「どうして、あなたたち兄妹は……そんなに優しいのよ……」
もう一粒。
また一粒と、大粒の涙が零れ落ちていく。
お姉ちゃんはそれを拭おうともせず、ただ俯いて泣いていた。
「姫花ちゃん……」
震える唇が、ゆっくりと動く。
「本当に……ごめんなさい」
お姉ちゃんは下唇を強く噛み締めた。
それでも溢れ出す嗚咽を堪えながら、もう一度、深く頭を下げる。
「……本当に、ごめんなさい……」
私は、その姿を黙って見つめる。
きっと、この人は――誰よりも自分自身を責め続けてきた。
にぃにを傷つけたことを、ずっと後悔していた。
忘れることも、自分を許すこともできないまま。
今も一人で、あの日の地獄に取り残されている。
だから、もうこれ以上。
この人まで、自分自身を罰し続けなくていいと思った。
にぃにが、もう許しているのなら。
私を命懸けで守ってくれたこの人が、誰よりも過去を悔いているのなら――。
過去をなかったことにはできなくても。
今の本郷愛理さんまで、憎み続ける必要はない。
この人を、許したい。
そしていつか、この人自身にも――本郷愛理を許してほしい。
私は心の底から、そう願った。
――その時だった。
ガチャリ、と。
玄関の扉が開く音がした。
「やあやあ! ただいま、姫花ちゃん!」
静まり返っていた部屋に、場違いなほど明るい声が響き渡る。
「学校へ資料を取りに戻っていたら、すっかり遅くなってしまったよ!」
軽やかな足音が、廊下から近づいてくる。
やがてリビングへ姿を現したのは、腰まで伸びた美しい銀髪を揺らすお姉ちゃん――安城星梨奈さんだった。
「おや?」
「どうやら本郷愛理と会えたみたいだね?」
その瞬間――。
「――っ!?」
本郷さんの身体が、びくりと跳ねた。
涙に濡れた瞳を大きく見開き、信じられないものを見るように安城さんを凝視している。
「あんたは……」
掠れた声が、その唇から零れ落ちる。
それはまるで、二度と会うはずのなかった相手と再会したかのような反応だった。
本郷さんは椅子から立ち上がることすら忘れたまま、その名を呼んだ。
「……死神」




