第224話 さようならを引き止めて【神田姫花視点】
「…………化け、もんが……」
地面に伏したまま、片倉が掠れた声を漏らした。
「…………」
けれど、ピンク色の髪のお姉ちゃんは何も答えない。
たった一撃だった。
あれほど大きな身体をした片倉を、たった一発の拳で――完全に制圧した。
私はいまだに目の前で起きたことが信じられず、ただ呆然と、その小さな背中を見つめていた。
やがて、お姉ちゃんが動く。
コツ、コツ、と。
ゆっくり地面に伏した片倉へ歩み寄り、その目の前で足を止めた。
「――あんたの復讐劇は、ここでもう終わりよ」
静かにしゃがみ込み、片倉の髪へ手を伸ばす。
ガシッ――。
「ぐっ……!」
髪を掴むと、その顔を無理やり上げさせた。
二人の視線が交わる。
ピンク色の瞳には、さっきまで私に向けられていた優しい光など残っていなかった。
冷たい。
凍りついてしまいそうなほど、冷たい。
だけど――。
なぜだろう。
ほんの少しだけ、寂しそうにも見えた。
「やっぱり、あの女のようにはいかないわね」
お姉ちゃんは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「結局、私は……」
その先は聞こえなかった。
けれど、片倉は――。
「へへっ……」
こんな状態になっても、まだ笑っていた。
「……何がおかしいの?」
お姉ちゃんが静かに問いかける。
「随分と余裕があるのね」
「俺は……何度だって復讐してやる」
片倉は、吐き捨てるように言った。
「手段なんざ選ばねぇ。必ず神田ゆういちをぶち殺してやる」
「――っ」
にぃに。
その名前が出た瞬間、私の身体が強張った。
この人は、まだ――にぃにを。
「けけっ、そうだ。羽衣の奴に手伝わせよう」
その瞬間だった。
お姉ちゃんの眉が、ほんの僅かに動いた。
「……羽衣?」
声の温度が変わる。
「誰よ、その女」
私は思わず、お姉ちゃんの横顔を見つめた。
さっきまで、片倉にどれだけ罵られても表情ひとつ変えなかったのに。
今、確かに反応した。
「へへっ……」
それに気づいたのか、片倉が挑発するように口元を歪める。
「あいつなら、お前だって潰せるはずだ」
「…………」
「楽しみで笑っちまうぜ。なんたってあいつは――」
片倉は心の底から愉快そうに言った。
「他人を地獄に落とすことに、ためらいがねぇからな!」
「今思い出しても傑作だぜ。イジメから守ったはずの神田が、逆に悪者にされるあの光景!」
下卑た笑い声が響く。
「あの時の、神田の引き攣った顔! あれは最高だったなぁ!」
「…………」
お姉ちゃんは何も答えない。
ただ、片倉をじっと見つめていた。
その時だった。
お姉ちゃんが、片倉の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「…………?」
何?
空気が――変わった。
次の瞬間。
片倉の目から、光が消えた。
「……え?」
さっきまで下卑た笑みを浮かべていた顔から、すべての表情が抜け落ちている。
まるで魂を抜かれた人形みたいに。
「もう、あんたなんかに――」
お姉ちゃんは片倉から目を逸らさないまま、静かに告げた。
「ゆういちと姫花ちゃんの幸せは、邪魔させない」
それからも二人の唇は微かに動いていた。
けれど、声は聞こえない。
何を話しているのか、私にはまったく分からなかった。
数秒だったのか。
それとも、もっと長い時間だったのか。
やがて――。
片倉の瞳に、再び光が戻った。
「…………へ」
虚ろだった口元が、不気味に歪む。
「へへ……はははははっ!」
突然、片倉が狂ったように笑い始めた。
「そうだな! まずはお前から潰してやる!」
「…………」
「お前を潰したあとに神田だ! こんな屈辱は初めてだぜ!」
拳を地面へ押しつけながら、憎しみに満ちた声を吐き出す。
「女が男より強いなんて、あってはならねぇんだよ」
お姉ちゃんは何も言わない。
ただ、哀れなものを見るような目で片倉を見つめていた。
「楽しみにしとけよ」
片倉が、ニヤリと笑った。
その――瞬間。
「――ッ!」
お姉ちゃんの右腕が動いた。
速い。
そう思った時には、もう拳が片倉の顔面めがけて振り下ろされていた。
「――っ!?」
片倉の顔から笑みが消える。
逃げられない。
避けられない。
拳が迫る。
あと数十センチ。
十センチ。
そして、顔面へ叩き込まれる――。
その寸前。
ピタッ――。
止まった。
片倉の鼻先、ほんの数ミリ。
拳は触れてすらいない。
それなのに――。
「…………ぁ」
片倉の顔が、みるみる青ざめていった。
「…………」
お姉ちゃんは拳を突きつけたまま、何も言わない。
そのピンク色の瞳には、私が今まで見たことのない冷たい何かが宿っていた。
「…………っ」
怖い。
私に向けられているわけじゃないのに、身体が勝手に震えてしまう。
そして片倉は、その瞳を真正面から見てしまった。
カクン――。
「……え?」
突然、片倉の全身から力が抜けた。
首がだらりと落ち、そのまま完全に動かなくなる。
殴られていない。
拳は、触れてすらいない。
なのに片倉は――意識を失っていた。
「…………」
しばらくして、お姉ちゃんは拳を下ろした。
何事もなかったかのように立ち上がる。
地面には、完全に意識を失った片倉が倒れていた。
さっきまであれほど叫んでいたのに。
にぃにを殺す。
私を潰す。
そんな恐ろしいことを言っていたのに。
今はもう、ぴくりとも動かない。
お姉ちゃんは片倉を一度だけ見下ろすと、くるりと私の方へ振り返った。
「――っ」
思わず身体が強張る。
あの目。
あの殺気。
片倉へ拳を突きつけた時の冷たい表情が、まだ頭から離れなかった。
だけど――。
「にしし♡ もう大丈夫」
「…………え?」
そこにいたのは、さっきまでとはまるで違うお姉ちゃんだった。
優しい声。
柔らかな表情。
私を安心させるような、穏やかな瞳。
「こいつはもう、あなたとゆういちの前には現れないわ」
お姉ちゃんは優しく微笑んだ。
「姫花ちゃんの苦しみは、私が今、断ち切った」
「…………」
「だから、もう安心していいよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にずっと張り詰めていたものが、ゆっくりとほどけていった。
「……やっと、解放されるんだね」
ずっと怖かった。
にぃにが私を片倉から守ってくれた、あの日から。
いつか復讐されるんじゃないか。
今度はにぃにが酷い目に遭うんじゃないか。
その恐怖に、ずっと怯えていた。
でも――やっと終わるんだ。
そう思った。
けれど、一つだけ疑問が残った。
「どうして、そう言い切れるの?」
気づけば、私はそう尋ねていた。
お姉ちゃんは一瞬だけ私を見つめ、それから――。
「にしし♡」
いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん、魔法が使えるんだ」
「……魔法?」
「そう」
人差し指を立て、少しだけ得意そうに笑う。
「姫花ちゃんとゆういちには、二度と手を出させない魔法」
魔法。
そんなもの、あるわけがない。
私はもう、魔法使いなんて信じるような歳じゃない。
杖を振れば何でも願いが叶うなんて、本気で思っているわけでもない。
だけど――。
「…………」
私はもう一度、倒れている片倉を見た。
思い出す。
さっきの、あの瞬間。
お姉ちゃんが片倉の瞳をじっと見つめた直後、彼の表情が突然、虚ろになった。
そして何かが変わった。
にぃにを殺す。
私も潰す。
そう言っていたはずなのに。
お姉ちゃんと目を合わせた、その直後から――。
『まずはお前から潰してやる』
片倉の復讐は、いつの間にかお姉ちゃんから始まるものへと変わっていた。
にぃにを狙うよりも先に。
私を傷つけるよりも先に。
まず、この人を潰さなければならない。
まるで、そんな決まりを最初から信じていたみたいに。
何かが変わった。
復讐へ向かう順番を――書き換えられた。
そんな気がした。
私には何が起こったのか分からない。
だけど、この人には何かがある。
普通の人にはない、特別な何かが。
(…………そっか)
その時、頭に浮かんだのは一人の人だった。
(にぃにと……同じなんだ)
にぃにも時々、私には理解できないことをする。
普通ならできるはずのないことを、当たり前のようにやってしまう。
この人も、きっと――。
でも、それ以上聞こうとは思わなかった。
お姉ちゃんが私たちを守ってくれた。
それだけは、ちゃんと分かったから。
「それじゃあ、姫花ちゃん」
「……え?」
お姉ちゃんが私に背を向ける。
そして、何でもないことのように告げた。
「さようなら」
「…………」
一瞬、胸の奥に何かが引っかかった。
さようなら。
――またね、じゃない。
『またね』なら、次がある。
今日別れても、いつかまた会える。
でも、お姉ちゃんはそう言わなかった。
――さようなら。
「…………っ」
どうしてだろう。
その言葉が、どうしようもなく嫌だった。
お姉ちゃんが一歩、私から離れていく。
もう一歩。
ピンク色の髪が、小さく揺れる。
私はその背中を、ただ見つめていた。
このまま行かせたら――。
そんな予感がした。
理由なんて分からない。
今日、初めて会った人なのに。
名前だって、まだちゃんと知らないのに。
それでも――。
(このまま行かせたら……)
胸がざわつく。
(もう二度と、この人には……)
会えない。
そんな気がした。
「…………っ」
嫌だ。
そう思った瞬間、身体が勝手に動いていた。
「――お姉ちゃん!」
「……え?」
私は走った。
そして、後ろから――。
「――っ!?」
細い身体へ、思いきり抱きついた。
「…………」
細い。
こんなに細い身体なのに。
私を庇って、片倉と戦って。
両腕を傷だらけにして。
それなのに、この人は何も求めず、一人でいなくなろうとしている。
そんなの――嫌だった。
「姫花……ちゃん?」
少しだけ驚いた声が聞こえる。
私は離さなかった。
お姉ちゃんの服を、ぎゅっと掴む。
「…………」
何を言えば、引き止められるんだろう。
分からない。
また会いたい。
行かないで。
もっと話したい。
聞きたいことだって、たくさんある。
だけど、そんな言葉を口にするのは、なんだか恥ずかしかった。
だから――。
今、一番もっともらしい理由を必死に探した。
「お姉ちゃん」
さらに強く抱き締める。
「怪我の手当て、したいから――」
一度、大きく息を吸う。
そして私は、お姉ちゃんの背中に顔を押しつけたまま言った。
「ウチに来て」
「…………」
返事は、すぐには返ってこなかった。
ただ――。
私が抱き締めているお姉ちゃんの身体が、ほんの僅かに震えた。




