第220話 何でもするって言ったよね?
「神田っち」
「…………黒羽?」
黒羽冬花が。
そこにいた。
俺の顔を覗き込みながら――。
「やっと起きた〜」
「――ッ!?」
俺は反射的に飛び起きた。
「いや、え!? すまん!!」
「うわっ! 急に起きないでよ!」
黒羽が驚いて身体を仰け反らせる。
(びびったぜ!!)
(目ぇ開けたら、真上に美少女の顔があるとか!)
(何だよこの状況!)
(一瞬、俺がラブコメの主人公なのかと思ったぜ!)
「…………あれ?」
辺りを見回す。
「甲斐谷は?」
さっきまで。
あいつが近くにいたはずだ。
すると黒羽は。
「ああ、甲斐谷?」
笑顔で答えた。
「先にウチ行ったよ」
「……黒羽ん家?」
「うん。今日、私の家で勉強会するじゃん?」
「ああ……」
そうだった。
完全に忘れてた。
「甲斐谷も来るんだって」
「夏美が誘ったみたい」
「そうなんか……」
…………。
人の家でやる勉強会に。
家主じゃない奴が勝手に人を誘う。
(陽キャってやっぱりすげぇな……)
俺には一生できそうにない。
「てかさ、神田っち」
「――っ」
その言葉に。
身体が僅かに強張った。
来た。
何があったの?
どうしてそんな怪我してるの?
羽衣雪音と会ったの?
聞かれる。
そう思った。
黒羽にだけは。
言えない。
羽衣雪音と戦ったなんて。
黒羽にとって。
あいつは――。
今でも過去の傷そのものなんだから。
俺が固唾を呑んだ。
その――次の瞬間。
「寝相悪すぎ」
「…………は?」
予想外すぎる言葉が飛んできた。
「いや、ほんっと酷かったんだから!」
黒羽が頬を膨らませる。
「さっきなんて、膝枕してる時、神田っちいきなりうつ伏せになって――」
そして。
自分のスカートを指差した。
「顔面、私のスカートに張りつけてたんだから!」
「…………」
「…………え?」
思考が。
停止した。
「しかもここ外だよ!?」
黒羽が周囲を指差す。
「通りすがりの人、めっちゃニヤニヤしてたし!」
「…………」
(ちくしょう!!)
(俺、何やってんだよ!!)
寝ていたとはいえ。
公衆の面前で。
女の子のスカートに顔面を――。
(いや待て!!)
(落ち着け、神田ゆういち!!)
まだ慌てるような時間じゃない。
俺は硬派な男だ。
やましい気持ちなど。
一切――ない。
そもそも。
寝ていた俺に。
責任能力はあるのだろうか。
ない。
たぶん。
きっと。
(そうだ)
(ここで謝ったら――)
(逆に俺が意図的にやったと認めるみたいなもんじゃないか?)
寝ている自分の行動まで。
俺には責任なんて取れ――。
「それに神田っち」
「…………まだあるの?」
「すごい匂い嗅いでたんだけど」
「なんかそういう癖でもあんの?」
「…………」
…………は?
「すんすん、すんすんって」
「ちょっと待て」
「しかも一通り嗅ぎ終わったら――」
黒羽が両手を使って。
ころん。
と、何かをひっくり返すようなジェスチャーをする。
「満足したみたいに仰向けに戻るの」
「すみませぇぇぇんん!!」
俺の叫びが。
夕暮れのショッピングモール前に響き渡った。
まるで絵文字のペコリみたいなポーズで。
何だよ。
その動き。
完全に変態じゃねぇか!!
「ていうか!」
今度は黒羽が。
自分の服の匂いを確認する。
「そんなに嗅ぐってことは……」
表情が。
徐々に不安そうになっていく。
「私……臭かったってこと!?」
「なんでそうなるんだよ!?」
「だって何回も嗅いでたじゃん!」
「知らねぇよ! 寝てたんだから!」
「私、ちゃんと香水つけてるんですけど!?」
「知らん知らん!」
「今日だって出かける前にちゃんと――」
「ああもう、わかった!」
俺は観念して両手を上げた。
「俺が悪かったよ! お詫びに何でもするよ!!」
「…………本当?」
「え?」
急に。
黒羽の声色が変わった。
さっきまで頬を膨らませていたはずなのに。
口元が――。
にやり。
と吊り上がる。
(…………ん?)
なんだ。
この。
ものすごく嫌な予感は。
「神田っち」
黒羽の顔が近づいてくる。
そして――。
すっ。
細い人差し指が。
俺の唇へ触れた。
「――っ」
「言質、とったよ?」
黒羽は。
いたずらが成功した子供みたいに笑った。
「神田っち」
「…………」
しまった。
やられた。
こいつ。
最初からこれが目的だったんじゃないだろうな?
「ふふ〜ん♪」
黒羽は上機嫌に。
ベンチに座ったまま足をパタパタさせている。
……まあ。
いいか。
それより。
「てか、黒羽」
「ん?」
「…………何があったか、聞かないのか?」
黒羽の足が止まった。
俺は自分の身体を見る。
腫れた頬。
切れた唇。
汚れた服。
どう見ても。
普通に転んだ程度じゃない。
それに――。
赤い涙。
黒羽がどこまで見ていたのかは分からない。
けれど。
この姿を見れば。
何かあったと思うはずだ。
しかし。
黒羽は――。
「聞かな〜い」
「…………え?」
笑顔だった。
「てか、見てたし!」
「…………」
「え!?」
思わず黒羽を見る。
「見てたの!?」
「見てたよ〜」
黒羽はあっけらかんと答える。
「だって神田っち、妹ちゃんに電話するだけなのに時間かかりすぎなんだもん」
「…………」
そうだった。
俺は。
姫花へ電話するために黒羽から離れた。
そこから――。
羽衣雪音と出会った。
「気になって探しに行ったらさ〜」
黒羽は軽い調子で続ける。
「神田っち、羽衣さんと殴り合ってるんだもん」
「…………」
やっぱり。
見られていた。
「……怖くないのか?」
「ん?」
「だって……」
俺は言葉に詰まる。
人間が赤い涙を流して。
周囲の人間が突然おかしくなって。
挙げ句。
女と男が本気で殴り合っている。
普通なら。
怖い。
それ以前に。
理解できないはずだ。
なのに。
「別に?」
黒羽は首を傾げた。
「前にも言ったじゃん」
「…………?」
「私、神田っちが秀英学園の男と殴り合ってるところ、見たことあるって」
「あ……」
蓮也。
そうだ。
俺と蓮也が。
本気で殴り合った日。
「あの時も神田っち――」
黒羽が。
自分の目元を指差す。
「赤い涙、流してたじゃん」
「…………」
そういえば。
見ていたって言ってたな。
「だから今さら驚かないよ」
黒羽は笑う。
そして。
何でもないことのように。
こう続けた。
「私、そういうの――」
一拍。
「理解あるの、本当だし」
「…………」
その言葉が。
妙に。
耳に残った。
――理解がある。
赤い涙を見て。
普通の人間が。
そんな言い方をするだろうか。
その瞬間。
羽衣雪音の言葉が。
頭の中で蘇った。
――EES発現者の素養がある人間。
――片っ端から地獄に落とした。
「…………」
黒羽冬花も。
羽衣雪音によって。
人生を狂わされた一人だ。
だったら――。
(まさか……)
一つの可能性が。
頭をよぎる。
羽衣が。
黒羽を狙った理由。
もし。
黒羽にも――。
EES発現者としての素養があったからだとしたら。
いや。
それどころか。
すでに――。
(黒羽も……)
俺は隣に座る少女を見る。
黒羽は。
何も知らないような顔で。
夕暮れの空を眺めていた。
(EES発現者なのか……?)
「…………」
聞こうと思えば。
聞けた。
――黒羽。
――お前もEES発現者なのか?
たった。
それだけ。
でも――。
「…………」
言葉は。
喉の奥で止まった。
聞けなかった。
黒羽だって。
俺に話していないことがある。
俺にだって。
黒羽に話していないことがある。
だったら。
無理やり聞き出すのは――。
違う気がした。
「…………神田っち?」
「ん?」
「どうしたの?」
黒羽が俺を覗き込む。
「なんか難しい顔してるけど」
「…………いや」
俺は。
小さく笑った。
「なんでもねぇよ」
「ふ〜ん?」
黒羽は。
少しだけ不思議そうに俺を見る。
だけど。
それ以上は聞いてこなかった。
俺も。
聞かなかった。
――黒羽冬花も、EES発現者なのか。
その疑問だけが。
胸の奥へ。
静かに残った。




