第219話 私の本音が、そう言ってるから
「……おい」
「お前ら……」
「何してんだよ……?」
ピタッ――。
「…………」
羽衣の拳が。
俺の鼻先――。
あと数センチのところで止まった。
「…………?」
羽衣の眉が、僅かに動く。
ゆっくりと。
声のした方へ顔を向けた。
俺も。
倒れたまま、視線だけをそちらへ向ける。
「…………お前」
そこに。
一人の男が立っていた。
目を大きく見開き。
何が起きているのか理解できないような顔で。
倒れている俺と。
血のついた拳を握る羽衣を。
交互に見ている。
「なんで……」
思わず。
名前が口から漏れた。
「甲斐谷……?」
甲斐谷俊一。
俺と同じクラスで。
最近、妙に話すことが増えた男。
そして――。
黒羽冬花を「冬花たん」と崇拝している、筋金入りの推し仲間。
そんな甲斐谷が。
どうして。
こんなところに――?
「いや、こっちが聞きてぇよ!」
甲斐谷が俺を指差す。
「おい神田! 説明しろよ!」
「なんでお前、血だらけで倒れてるんだよ!?」
その瞬間だった。
パリン――。
「…………え?」
何かが。
砕けた。
そんな錯覚がした。
「……あれ?」
誰かが。
小さく声を漏らす。
「俺……何して……」
「ここ……どこ……?」
一人。
また一人。
周囲に立っていた人間達の瞳へ。
少しずつ。
光が戻っていく。
虚ろだった表情に。
困惑が浮かび始める。
「…………!」
俺は目を見開いた。
(羽衣の支配が――)
(解けていく……?)
「…………」
羽衣も。
その光景を眺めていた。
けれど。
焦ってはいなかった。
むしろ――。
「……迂闊だったなぁ」
小さく。
楽しそうに笑った。
「私としたことが――気づかなかった」
「……何がだよ」
羽衣は答えない。
俺の鼻先で止めていた拳を。
ゆっくりと下ろす。
「もう潮時ね」
そして。
俺に背を向けるように。
一歩。
歩き出した。
「神田君の能力の影響かな」
「自分の本音に集中しすぎて――」
羽衣は自分の胸元へ手を当てる。
「周りを見るのを忘れてた」
「……本音?」
「そう」
羽衣が。
自分自身を観察するみたいに。
不思議そうに笑う。
「これが――私の本音だったんだ」
まるで。
今まで知らなかった自分を。
ようやく見つけたみたいに。
その表情は。
妙に――満足そうだった。
「……おい」
俺は地面に転がったまま。
羽衣へ声を投げる。
「いいのかよ」
羽衣が足を止めた。
「俺を施設に連れていかなくて」
「もうタイムアップよ」
羽衣は振り返らない。
「じきに、全員が私の支配から外れる」
「所詮は一時的な――“同調圧力”」
小さく肩をすくめる。
「本当に使いにくい能力」
「それに――」
そこで。
羽衣の声が。
少しだけ弾んだ。
「今は、気分がいいの」
「……は?」
「見逃してあげる」
羽衣が。
ゆっくりと振り返った。
右頬には。
俺がつけた赤い痕。
唇からも。
僅かに血が流れている。
それなのに。
今までで一番――。
幸せそうに笑っていた。
「私の本音が、そう言ってるから」
「…………は?」
「神田君をここで終わらせたら――」
灰色の瞳が細くなる。
「もったいない」
「やっと長い時間かけて見つけたんだもん」
「私にもそうする権利あるはずよね」
「そういえば、知ってる?」
羽衣は。
まるで友達とゲームの話でもするみたいに。
「ゲームってね」
一拍。
「絶対に勝てる時より――」
「勝てるか、負けるか」
「その瀬戸際が、一番楽しいの」
頭に。
血が上った。
「……楽しめるだと?」
羽衣の足が止まる。
「ふざけんなよ……!」
動かない身体に。
無理やり力を込める。
「俺は――」
羽衣の背中を睨みつける。
「絶対にお前を許さない!!」
「…………」
「たとえ廃人にされても!」
「記憶を消されても!」
「何度だって――」
声を張り上げる。
「お前の前に立ってやる!!」
羽衣は。
振り返らなかった。
ただ。
「ふふ」
小さな笑い声だけが聞こえた。
「――楽しみにしてる」
そして。
羽衣雪音は歩き出した。
俺の殺意なんて。
まるで気にも留めずに。
やがて。
甲斐谷の横を通り過ぎる。
その――瞬間。
「…………?」
羽衣の唇が。
僅かに動いた。
甲斐谷の耳元で。
何かを――囁いた。
(……なんだ?)
(今……何か言ったのか?)
「…………」
甲斐谷の表情は見えない。
羽衣は。
何事もなかったように歩いていく。
灰色の髪が。
遠ざかっていく。
やがて。
その背中が完全に見えなくなった。
「神田!」
甲斐谷が。
慌てて俺のところへ駆け寄ってくる。
「おい、神田! 大丈夫か!?」
「……大丈夫に……見えるかよ」
「見えねぇよ! だから聞いてんだろ!」
まったく。
こいつは。
「てか……甲斐谷」
「あ?」
「お前、何しに来たんだよ……?」
「普通に買い物だよ!!」
即答だった。
「なんかすげぇ人だかりできてたからさ! アイドルでもいるのかと思って見に来たら――」
甲斐谷が俺を指差す。
「見知った顔がボコボコにされてんだよ!」
「軽くトラウマだわ! しかも周りの奴らもなんかボケーッとしてるし! 何なんだよ気持ち悪いわ!」
「……悪かったな」
「なんでお前が謝るんだよ」
甲斐谷はそう言ってから。
何かを思い出したように――。
「あっ」
「?」
「でも勘違いすんなよ?」
「何をだよ」
「俺の永遠のアイドルは冬花たんだけだからな?」
「あぶないあぶない」
「俺に浮気癖があるなんて思われたら、後々やっかいだからな!」
なんのフォローだよ。
こんな状況でも。
こいつはこいつだった。
でも――。
俺は周囲を見る。
「俺……何してたんだ……?」
「なんでこんなところに……」
羽衣の支配下にいた人達が。
少しずつ。
正気を取り戻している。
おそらく。
甲斐谷が現れたことがきっかけだった。
だから。
羽衣は俺を諦めた。
だとしたら――。
「甲斐谷」
「ん?」
「……助かったよ」
「…………ありがとうな」
甲斐谷が。
少しだけ目を丸くする。
「お、おう……」
それから。
照れ隠しみたいに鼻の下を擦った。
「まぁ、礼なら冬花たんの前で俺のカッコいいところを――」
そこまで言って。
甲斐谷の言葉が止まった。
「なんだよ」
「神田……」
俺の顔を見て。
驚いたように呟く。
「お前……泣いてんのか?」
「…………え?」
頬へ触れる。
濡れていた。
悔しかった。
情けなかった。
姫花の心に。
あれだけ深い傷を残した奴を前にして。
俺は――。
結局。
何もできなかった。
「…………くそ」
涙が。
また一つ。
頬を伝った。
「…………」
甲斐谷は。
何も聞かなかった。
何があったのか。
どうして泣いているのか。
そんなことは。
一つも。
ただ。
困ったように頭を掻いて――。
「……まぁ、あれだ」
ポケットへ手を突っ込んだ。
「ほれ」
「…………何これ」
差し出されたのは。
一枚のハンカチだった。
「見てわかるだろ!ハンカチだよ!」
「…………え?」
「顔、血で生々しいからな。俺のハンカチで拭いていいぞ」
「いや……」
俺はハンカチを見る。
「いいのかよ」
「何が?」
「血、つくぞ」
「…………」
「下手したら洗っても落ちねぇぞ」
すると。
甲斐谷は。
一瞬だけ黙った。
そして――。
「ははっ」
笑った。
「運がいいな、神田」
「……?」
「俺、今日ショッピングモールに――」
甲斐谷は。
なんでもないことみたいに言った。
「新しいハンカチ買いに来たんだよ」
「だから、それやるよ」
嘘だ。
俺には。
すぐに分かった。
こいつは。
俺に気を遣わせないために。
今、適当な理由を作った。
でも。
俺は何も言わなかった。
「それにな」
甲斐谷が笑う。
「俺、忘れっぽいからさ」
「今日ハンカチ一枚なくしたところで――」
肩をすくめる。
「明日には忘れてる」
そして。
「だから――」
俺の胸元へ。
ハンカチを押しつけた。
「好きなだけ泣いていいぞ」
「…………なんだよそれ」
なんだよ。
こいつ。
こんな時だけ。
カッコつけやがって。
「……ありがとうな、甲斐谷」
「おう」
「あっ」
「なんだよ」
「でも今の俺の優しさは、愛しの冬花たんにだけなら言っていいんだぞ?」
「…………てか言えよ」
前言撤回。
「悪いな」
「あ?」
俺はハンカチで。
血と涙を拭った。
「俺も忘れっぽいんだ」
「嘘つけよ!!」
思わず。
小さく笑ってしまった。
「ったく……ほら」
甲斐谷が俺の腕を自分の肩へ回す。
「立てるか?」
「……なんとか」
そんなことを言い合いながら。
甲斐谷は。
俺を近くのベンチまで運んでくれた。
ゆっくりと。
俺の身体を横たえる。
ベンチに寝転びながら。
俺は。
さっきまで羽衣雪音がいた場所を見つめた。
もう。
そこに灰色の少女はいない。
なのに――。
あいつの笑顔だけが。
頭から離れなかった。
「…………」
悔しい。
今すぐにでも追いかけたい。
けれど。
身体は。
指一本動かすだけでも悲鳴を上げている。
「ほんじゃ俺、飲み物買ってくるわ」
甲斐谷が立ち上がった。
「……悪い」
そう言って。
甲斐谷は人混みの向こうへ消えていった。
一人になった俺は。
ぼんやりと空を見上げる。
すると。
「ねぇ……あの人……」
「血出てない?」
「さっきの喧嘩……?」
周囲から。
小さな話し声が聞こえてきた。
視線を動かす。
いつの間にか。
羽衣の支配から解放された人達が。
遠巻きに。
俺を見ていた。
「…………」
まぁ。
そりゃそうか。
顔は腫れて。
服は汚れて。
血まで出ている。
どう見ても。
普通じゃない。
「…………あれ?」
急に。
瞼が重くなる。
身体から。
力が抜けていく。
まずい。
意識が――。
「…………」
そこで。
俺の記憶は途切れた。
◇
「…………ん」
遠くで。
誰かの声が聞こえる。
「…………っち」
誰だ……?
「神田っち」
聞き覚えのある声。
「…………」
ゆっくりと。
意識が浮上していく。
目を閉じたまま。
まず感じたのは――。
暖かさだった。
(…………?)
なんだ?
俺。
確か。
ベンチに寝てたよな?
それにしては――。
(……柔らかくね?)
後頭部に。
ベンチの硬さがない。
むしろ。
柔らかくて。
暖かい。
それに。
なんだか。
いい匂いが――。
「…………」
嫌な予感がする。
いや。
嫌なのか?
これ。
ゆっくりと。
瞼を開く。
「…………え?」
最初に見えたのは。
夕暮れに染まった空だった。
オレンジ色の光が。
視界いっぱいに広がっている。
(夕方……?)
俺。
どれくらい寝て――。
「あ」
その時。
視界の上から。
見覚えのある黒髪と赤いシュシュ。
「…………」
そして。
俺を覗き込む。
女の子の顔。
「神田っち」
「…………黒羽?」
黒羽冬花が。
そこにいた。
俺の顔を見て――。
「やっと起きた〜」




