第218話 神田ゆういちvs羽衣雪音――これ以上、興奮させないで
「羽衣ッ!!」
地面を蹴る。
一直線に。
羽衣雪音へ。
俺は拳を――。
大きく振りかぶった。
「――ッ!」
羽衣の灰色の瞳が、大きく見開かれる。
さっきまで浮かんでいた余裕が。
初めて――消えた。
(俺はお前を絶対に許さない!!)
拳を握り締める。
姫花を傷つけた。
大切な妹の心に、今も消えない傷を残した。
そんな羽衣に。
容赦なんて――必要ない。
胸の奥に渦巻く。
怒りも。
憎しみも。
全部。
この一撃へ――。
「ぶつけてやるッ!!」
その瞬間だった。
羽衣が――。
両腕を上げた。
「…………!」
顔を守るように。
咄嗟に。
(防御……?)
一瞬。
そう思った。
EESステージ3。
相棒が以前言っていた。
痛みを感じない、と。
けれど。
いくら痛覚がなくなったところで。
身体に染みついた反射まで消えるわけじゃない。
殴られる。
そう認識した瞬間。
本能が。
身体を守ろうとする。
心のどこかで。
ほんの少しだけ。
安堵した。
こいつも。
結局――。
(俺達と同じ、人間なんじゃねぇか)
だったら。
届く。
俺の拳は。
こいつにも――!
「羽衣ぃぃぃッ!!」
全力で。
右拳を振り抜いた。
そして――。
「…………え?」
おかしい。
羽衣の両腕が。
俺の拳を――止めない。
いや。
違う。
これは防御なんかじゃない。
羽衣が、自分から腕を開いた。
(こいつ――)
次の瞬間。
バシィィィンッ!!
「――っ!」
俺の拳が。
羽衣雪音の右頬を――。
完全に捉えた。
顔が大きく横へ弾ける。
灰色の髪が宙を舞う。
唇から。
鮮血が飛び散った。
そして。
その灰色の瞳からも――。
赤い涙が。
飛び散る。
俺の拳が。
羽衣雪音へ届いた。
「…………!」
けれど。
次の瞬間。
ぞくり。
背筋が凍った。
羽衣が。
俺を――見ていた。
殴られて。
頬を歪ませながら。
口元から血を流しながら。
それでも。
灰色の瞳だけは。
真っ直ぐ――俺を捉えていた。
「…………ふふ」
「これ以上興奮させないで」
(………こいつ)
楽しんでやがる。
その瞬間。
羽衣の赤い涙が。
ぽたり、と。
俺の拳へ落ちる。
そして――。
羽衣の右腕が。
既に――振りかぶられていた。
「しまっ――」
遅い。
バシィィィンッ!!
「がっ――!?」
今度は。
羽衣雪音の拳が――。
俺の顔面を捉えた。
視界が弾ける。
意識が。
一瞬。
真っ白になる。
「ぐっ――」
それだけじゃない。
羽衣は止まらなかった。
殴り抜いた勢いのまま。
一歩。
俺の懐へ踏み込んでくる。
「――っ!?」
身体が崩れる。
そして――。
ドゴォォンッ!!
「ぐはっ!!」
背中から。
地面へ叩きつけられた。
肺の中の空気が。
一瞬で吐き出される。
「がっ……は……」
動けない。
視界が霞む。
遠ざかっていく意識の中。
俺は。
羽衣雪音を見上げた。
「…………」
右頬が。
赤く腫れている。
唇も切れていた。
口元から。
一筋の血が流れている。
俺の拳は。
確かに――届いた。
なのに。
羽衣は。
立っていた。
そして。
楽しそうに笑っていた。
「……ふふ」
本当に。
心の底から――楽しそうに。
羽衣は口元へ親指を当てる。
付着した血を見て。
ほんの少しだけ目を細めた。
そして――。
「ぺっ」
口の中に溜まった血を。
地面へ吐き出す。
「…………神田君」
羽衣は。
倒れている俺を見下ろした。
右頬には。
俺が殴った跡が。
はっきりと残っている。
それでも。
その表情から。
余裕は――消えていなかった。
「効いたよ」
「今のパンチ」
「……そうは……見えねぇけどな……」
どうにか。
それだけ返す。
「ふふ」
羽衣は楽しそうに笑った。
「本当よ」
「私の――」
羽衣は胸元へ、そっと手を当てた。
「心に響いたわ」
そして自分の右頬へ。
そっと触れる。
「こんなの――久しぶり」
「最高に楽しかったわ」
そして。
その視線が。
ゆっくりと。
俺の頬へ移った。
――赤い涙。
笑みが。
僅かに消える。
代わりに浮かんだのは。
純粋な――興味。
「けど、どうしても気になることがあるの」
羽衣がゆっくりと首を傾げた。
「A+……いや」
灰色の瞳が、僅かに細くなる。
「どうしてあなたが――真田蓮也の能力を使えるの?」
俺は。
地面に倒れたまま、挑発するように口元を吊り上げた。
「誰がお前なんかに言うかよ」
「…………」
一瞬。
沈黙。
そして――。
「……そう」
羽衣が、小さく笑った。
「だったら――」
ゆっくりと。
右拳を握り締める。
「力ずくで聞くしかないわね」
「……っ」
羽衣の右腕が。
大きく振り上げられた。
(まずい――)
身体を動かそうとする。
けれど。
さっきの一撃が効いている。
腕に力が入らない。
脚も。
まともに動かない。
その間にも。
羽衣の拳が――。
俺の顔面目掛けて振り下ろされる。
「――ッ!!」
俺は反射的に歯を食いしばった。
だが――。
「……おい」
「…………?」
その時だった。
「お前ら……」
震えた声が。
静まり返った空間に響いた。
「何してんだよ……?」
ピタッ――。
「…………」
羽衣の拳が。
俺の鼻先――。
あと数センチのところで止まった。
「…………?」
羽衣の眉が。
僅かに動く。
ゆっくりと。
声が聞こえた方向へ顔を向けた。
俺も。
倒れたまま、視線だけをそちらへ向ける。
「…………お前は」
そこに。
一人の男が立っていた。
顔は驚いていた。
目の前で起きている光景が理解できないとでもいうように。
俺と。
血のついた拳を握る羽衣を。
交互に見ている。
思わず。
その名前が口から漏れた。
「なんで……ここに……」
「お前がいるんだよ……」
思わず、その名前を口にした。
「甲斐谷……」
そこに立っていたのは――。
俺のクラスメイト。
甲斐谷俊一だった。




