第216話 安城恵梨香――『推し』は諦めから生まれる
「あの、すみません」
「ああ、いやいや。こっちこそ――」
曲がり角で誰かとぶつかり、反射的に頭を下げる。
けれど。
相手の声を聞いた瞬間――私は、はっとした。
(……この声)
聞き覚えがある。
ゆっくりと顔を上げると。
「あれ?」
向こうも私に気づいたらしい。
少し驚いたように目を見開き――。
「安城さんじゃん?」
「……え?」
そこに立っていたのは。
今、私の隣の席に座っている男子生徒。
甲斐谷俊一君だった。
「甲斐谷君……?」
どうしてこんなところに。
そう思った、その時。
「ん?」
私の後ろから、桜間さんがひょこっと顔を出した。
そして。
甲斐谷君の姿を見るなり、ぱっと表情を変える。
「あれ? 俊一じゃん。こんなところで何してんの?」
ずいぶん気安い呼び方。
そういえば――。
桜間さんと甲斐谷君は、中学時代からの付き合いだと以前聞いたことがある。
「おっ! 楓もいるじゃん!」
甲斐谷君も同じだった。
私と話す時より、明らかに声の調子が軽い。
「俺、今からショッピングモールに買い物行くんだわ!」
「へぇ〜。何買うの?」
「…………」
甲斐谷君が黙った。
「…………あれ?」
首を傾げる。
「何買いに行くんだっけ?」
「は?」
桜間さんの目が、一瞬で冷たくなった。
「馬鹿じゃないの?」
「あんたねぇ、忘れっぽいにも程があるでしょ!」
桜間さんは呆れ果てたように額へ手を当てる。
「中学の時だってそうだったじゃん。何回忘れ物して私に――」
「文化祭の演劇であんたがラストの言葉忘れたせいで、一生劇終わらなかった事私まだ根に持ってるんだからね!!」
「お前!そんな昔の事を今掘り返すなよ!?」
甲斐谷君が慌てて遮った。
「今回は違うから!」
「何が違うのよ」
「親から頼まれた物とかさ! そういうのって忘れることあるだろ!?」
「…………本当かね?」
桜間さんが、じとーっとした目で甲斐谷君を見る。
「別に俺、忘れっぽいわけじゃねぇし!」
「へぇ〜?」
完全に疑っている。
「どうだか」
「待ってろって!」
甲斐谷君は慌ててポケットからスマートフォンを取り出した。
「ちゃんと忘れないようにメモしてるから!」
「忘れっぽいって自覚してるからメモしてんでしょ!?」
「違ぇよ!俺は用意周到なだけなんだよ!」
私は二人のやり取りを、少し離れたところから眺める。
どうやら。
喧嘩するほど仲がいい、という言葉は。
こういう二人のためにあるらしい。
甲斐谷君は桜間さんの文句を聞き流しながら、スマートフォンの画面をスクロールしていく。
「えーっと……」
何度か指を動かして。
「あっ!」
突然、声を上げた。
「思い出した!」
「何?」
「サッカーのスパイク買いに来たんだった!」
「いや、あんたの買い物かよ!」
びしっ、と甲斐谷君を指差した。
「親からの頼み事とか、それっぽい嘘つくなよ!」
私は思わず二人を見比べた。
なんだか、不思議だった。
私と一緒にいる時の桜間さんは。
どちらかというと天然で。
突拍子もないことを言っては、私にツッコまれていることの方が多い。
けれど。
甲斐谷君と一緒にいる時は――。
(……全然違うのね)
完全に立場が逆転している。
桜間さんがツッコミ役で。
甲斐谷君が振り回している。
いや。
振り回しているというより。
お互いが遠慮なく言いたいことを言っている。
それだけ距離が近いということなのかもしれない。
すると。
「いい? 俊一」
桜間さんは腕を組む。
そして、苛立ちを表すように靴のつま先を――。
トントン。
小刻みに地面へ打ちつけた。
「あのね。これ、完全に私の偏見なんだけどさ」
「忘れっぽい人って、大事な時に取り返しのつかないミスすると思うの!」
「例えば――」
桜間さんは人差し指を立てる。
「プロポーズする時に、結婚指輪忘れたり!」
「知らねぇよ!」
甲斐谷君が即座に叫んだ。
「俺、まだプロポーズする予定ねぇから!」
二人が。
ずいっ。
お互い一歩ずつ前へ出る。
顔と顔の距離が、一気に縮まった。
桜間さんが睨む。
甲斐谷君も睨み返す。
まったく引かない。
けれど。
なぜだろう。
険悪というより――。
あまりにも自然だった。
名前で呼び合って。
遠慮なく文句を言って。
それでも、どちらも本気で嫌がっているようには見えない。
むしろ。
長い間、こうやって喧嘩してきたことが伝わってくる。
私はしばらく二人を眺めて。
思ったことを、そのまま口にした。
「……あなた達」
「「ん?」」
同時にこちらを見る。
そのタイミングまで同じだった。
「…………」
私は少しだけ目を細める。
「息、ぴったりね」
「「はぁ!?」」
また、重なった。
ますますそう見えてしまう。
だから私は。
何の悪気もなく――。
ぽつりと続けた。
「まるで夫婦みたいね」
「「誰がこいつと!!」」
今度は、一言一句。
綺麗に重なった。
「…………」
私はそんな二人を交互に見つめる。
……まあ。
私には、人の心の声が聞こえる。
だからこそ。
二人がお互いをどう思っているのかなんて――。
わざわざ聞かなくても、すぐに分かってしまうのだけれど。
(……なるほどね)
私はあえて何も言わず、小さく息を吐いた。
その時だった。
――ピロン♪
軽快な通知音が鳴り響く。
「ん?」
甲斐谷君のスマートフォンだった。
彼は画面へ視線を落とす。
そして。
届いたメッセージを確認した――次の瞬間。
「よっしゃあああああああ!!!!!」
「……っ!?」
突然。
スマートフォンを握ったまま、両腕を空へ突き上げた。
あまりの大声に、私は思わず肩を跳ねさせる。
「な、何よ!?」
桜間さんも目を丸くしている。
「どうしたのよ、急に!」
「聞いてくれよ、楓!」
甲斐谷君は、満面の笑みでスマートフォンを掲げた。
「今、加賀からメッセージ来てさ!」
「うん」
「今日、冬花たんの家で――」
その名前に。
私の胸が、ほんの少しだけざわつく。
そして。
「氷室と! 加賀と! 冬花たんと! 神田で!」
「夜の勉強会するんだってさ!」
――夜。
――黒羽さんの家で。
――神田君と。
その言葉だけが。
妙に鮮明に、頭の中へ残った。
「いやぁ〜、加賀のやつ本当にいい奴だぜ!」
甲斐谷君は何も知らず、嬉しそうに笑っている。
「ちゃんと俺にも連絡してくれるとか最高だろ!」
「…………」
けれど。
私はもう、その言葉をほとんど聞いていなかった。
胸の奥から。
また――。
じわり。
嫌なものが滲み出してくる。
(……夜も一緒に過ごすの?)
今日。
昼間は黒羽さんとデートしていた。
それだけでも。
ずっと胸の奥がモヤモヤしていたのに。
(今度は……)
黒羽さんだけじゃない。
(加賀さんも……)
(氷室さんも一緒に……?)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
勉強会。
ただ、それだけ。
別に何もおかしなことじゃない。
何人もいる。
二人きりですらない。
頭では――。
分かっているのに。
(…………嫌だ)
そんな醜い感情が。
どうしても、消えてくれなかった。
桜間さんのおかげで消えていた黒い感情が再び溢れ出る。
また視界がゆっくり暗くなり始める。
顔にも出ていたのだと思う。
頬が強張っていくのが、自分でも分かった。
すると――。
「……ねぇ、俊一」
桜間さんが、不意に口を開いた。
「んだよ?」
甲斐谷君がスマートフォンから顔を上げる。
桜間さんは一瞬だけ私を見てから、何でもないことのように尋ねた。
「神田と俊一って、仲良いじゃん?」
「おう!」
即答だった。
甲斐谷君は、なぜか誇らしげに胸を張る。
「俺達は推しを崇拝する――魂のソウルメイトだからな!」
「魂とソウル被ってんのよ……」
「まぁ今はそんなこといいわ!」
「じゃあなんだよ?」
「神田ってさ」
その瞬間。
桜間さんが――。
ちらっ。
私を見る。
「安城さんのこと、好きなんじゃないの?」
「…………っ」
思わず。
私の心臓が跳ねた。
(桜間さん……!?)
いきなり何を聞いているの。
けれど。
止めるより先に。
「ん?」
甲斐谷君が顎に手を当てた。
「神田が安城さんを?」
「そう」
桜間さんは続ける。
「だって神田、安城さんのこと『推し』って言ってるんでしょ?」
「…………」
私は黙って二人の会話へ耳を傾ける。
聞くつもりなんてない。
別に。
そんなこと――。
気にしてなんていない。
(…………)
……嘘。
ものすごく気になる。
甲斐谷君は「うーん」と考え込むように顎を撫でていたが。
やがて。
「ああ!」
何かに納得したように頷いた。
「好きだと思うぜ!」
(…………♡)
胸が。
一気に軽くなる。
思わず口元が緩みそうになって――。
「けどな」
「…………え?」
続いた言葉に。
私は再び甲斐谷君を見る。
「『推し』って言葉はさ」
甲斐谷君は、人差し指を立てる。
「男と女で、ちょっと意味合いが違うと思うんだよ」
「意味合い?」
桜間さんが首を傾げる。
私も。
心の中で同じように首を傾げた。
「どういうこと?」
「まず、男の言う『推し』な」
甲斐谷君は、妙に得意げな顔で説明を始める。
「男が身近な女の子を『推し』って呼ぶ場合は――」
一拍。
「『めちゃくちゃ可愛い。付き合えるなら付き合いたい。でも俺なんかじゃ無理だろうな』ってレベルの高嶺の花に使うんだよ!」
「男の推しって諦めから出る言葉なんだよ」
「もちろん全員じゃないぞ?例外もある」
「まぁ……つまり!」
びしっ、と人差し指を立てる。
「ちゃんと下心がある!」
「俺だって推しの冬花たんとお付き合いしたい!」
「あ〜はいはい」
桜間さんは呆れたように返事をする。
甲斐谷君の言葉が私の脳内に響き渡る。
(……付き合えるなら、付き合いたい)
その部分だけが。
妙に頭の中へ残っていたから。
(…………ふふ)
ほんの少しだけ。
胸の奥が温かくなる。
けれど――。
「で、逆に!」
甲斐谷君の説明はまだ終わっていなかった。
「女の子が男に使う『推し』は、ちょっと違うと思うんだよな」
「違うの?」
「ああ」
甲斐谷君は腕を組む。
「どっちかっていうと――」
少し考えてから。
「『可愛い』とか『見ていたい』とか、そういう感じじゃね?」
「…………?」
私は思わず眉をひそめる。
「つまり、恋愛対象じゃないってこと?」
桜間さんが尋ねる。
「そうそう!」
甲斐谷君が指を鳴らした。
「恋愛対象とはちょっと違う!」
甲斐谷君は慌てて付け加える。
「アイドルとか俳優とか、そういうガチの推しは別な!」
「今の話は?」
「あくまでクラスとか学校とか――身近な異性に対して使う『推し』の話!」
「なるほどねぇ」
桜間さんが感心したように頷く。
「…………」
私は二人の会話を聞きながら。
ふと。
神田君の顔を思い浮かべる。
神田君は。
私を『推し』だと言ってくれている。
だとしたら――。
(……付き合いたいって、思ってくれてるってこと?)
胸の奥が。
また少しだけ、温かくなる。
けれど――。
「ただな!」
甲斐谷君が、思い出したように人差し指を立てた。
「さっきも言ったけど、男の『推し』ってのは――諦めから出る言葉でもあるんだよ」
「……諦め?」
桜間さんが聞き返す。
「ああ」
甲斐谷君は軽い調子で頷いた。
「可愛い。好き。付き合えるなら付き合いたい」
そこで一度、言葉を切る。
「けど――自分なんかじゃ無理だろうなって」
「…………」
「だから『好きな人』じゃなくて、『推し』になる」
その言葉が。
なぜか――。
胸の奥に引っかかった。
「つまりさ」
甲斐谷君は、何でもないことのように続ける。
「どこかで、その人と一緒になる未来を諦めてるのかもしれないってこと」
――未来を。
――諦めている。
「…………」
その言葉だけが。
頭の中で、何度も反響した。
そして。
「あんまり余裕ぶっこいて待ってたら――」
甲斐谷君は、にっと笑う。
「他の誰かに、ころっと取られちゃうかもな!」
「…………まっ全部俺の独断と偏見だけどな!」
「…………」
胸の奥が。
ドクン――と、大きく鳴った。
その瞬間。
「あっ、やべ!」
甲斐谷君がスマートフォンの時計を見る。
「もうこんな時間じゃん!」
「え?」
「俺、ボール買いに行かねぇと!」
そう言って、甲斐谷君はショッピングモールの方へ身体を向ける。
「じゃあ楓! 安城さん! また明日な!」
「うん。俊一、バイバーイ」
「あと、スパイクだぞ〜」
桜間さんがひらひらと手を振る。
甲斐谷君も片手を上げ、そのままショッピングモールへ駆けていった。
「…………」
私は。
その背中を見送ることすらできなかった。
頭の中に残っていたのは。
たった一つ。
――その人と一緒になる未来を、諦めている。
その言葉だけ。
「じゃ、私達も行こっか? 安城さん」
「…………」
「安城さん?」
聞こえない。
いや。
声は聞こえている。
でも――。
頭に入ってこない。
(……諦めてる?)
胸の奥が。
急速に冷えていく。
(神田君が……?)
以前。
私は、神田君に言った。
『誰かを信じるっていうのは――』
『その人の未来を、諦めないことよ』
あの言葉を。
私は今でも信じている。
誰かを信じる。
その人なら大丈夫だと信じる。
そして。
その人との未来を、諦めない。
それなのに――。
(神田君は……)
(私と二人になる未来を、諦めてるの?)
違う。
すぐに否定する。
(違うわ)
(神田君は、そんなこと思ってない)
だって。
今日だってそうだった。
黒羽さんとデートしている最中にも。
神田君の心には――私がいた。
私のことを考えてくれていた。
だから。
(きっと違う)
(神田君は……私との未来だって、ちゃんと考えてくれてる)
そうに決まっている。
そう。
思っているはずなのに。
「…………」
どうして?
胸のざわつきが。
消えない。
むしろ。
否定すればするほど――。
黒いものが、じわじわと広がっていく。
(でも……)
もし。
本当に。
ほんの少しでも。
神田君が、私との未来を諦めているのだとしたら?
そして。
その間に――。
『他の誰かに、ころっと取られちゃうかもな!』
やめて。
考えたくない。
なのに。
一度浮かんでしまった想像が、頭から離れてくれない。
黒羽さん。
今日。
神田君とデートしていた女の子。
そして今夜も――。
(……黒羽さんの家)
神田君は。
これから、そこへ行く。
もちろん。
二人きりじゃない。
加賀さんもいる。
氷室さんもいる。
ただの勉強会。
何も起こるはずがない。
(…………)
何も。
(……起こらないわよね?)
その瞬間。
また――。
視界の端が。
ゆっくりと、暗くなった。
(大丈夫)
(明日、神田君の心を確認すればいい)
そうよ。
簡単なこと。
私は――。
神田君の心を、聞けるんだから。
(確認しないと)
胸の奥で。
何かが、急速に膨れ上がっていく。
安心したい。
ただ、それだけ。
神田君が私を好きだって。
私との未来を諦めていないって。
それさえ分かれば――。
また、安心できる。
だから。
(……早く)
気づけば。
水着の入った手提げ袋を握る指に、力が入っていた。
ぎゅっ――。
(早く、神田君の心を確認しないと)
「……安城さん?」
すぐ隣から。
桜間さんの声が聞こえた。
けれど――。
今度は。
その声すら。
私の耳には、ほとんど届いていなかった。




