第213話 本郷愛理vs片倉遥輝 ―― 片腕の救世主
「舐めるなぁぁぁぁっ!!」
片倉が、獣のような雄叫びを上げた。
次の瞬間。
ドンッ――!
アスファルトを踏み砕かんばかりの勢いで地面を蹴り、その巨体が一直線に飛び出す。
速い。
さっきまで満足に立ち上がることすらできなかった人間とは思えない。
怒りだけで身体を無理やり動かしている。
そんな、捨て身の突進だった。
「うおおおおおッ!!」
振りかぶった拳が、ピンク色の髪の彼女へ襲いかかる。
一発。
二発。
三発。
休む間もない連打。
拳が空気を切り裂くたび、ブンッ、ブンッ、と鈍い音が響く。
体格差を考えれば、一発でもまともに当たればただでは済まない。
なのに――。
「右」
彼女は、動じない。
迫ってきた拳へ、左手を添える。
力で受け止めるんじゃない。
ほんの少し。
軌道を横へ逸らすだけ。
ブンッ!
片倉の拳が、彼女の頬すれすれを通り抜けた。
「左」
続く一撃。
パシッ。
それもまた、軽く触れるだけで流してしまう。
「右」
また一つ。
「左」
また一つ。
「右、左……右」
彼女は、小さな声でぽつり、ぽつりと呟いていた。
まるで――。
答え合わせでもしているみたいに。
そのピンク色の瞳は、片倉の拳から一瞬たりとも離れない。
いや。
違う。
拳だけじゃない。
肩。
腰。
足。
重心。
呼吸。
片倉の身体の動き、その全部を見ている。
拳が放たれる前から。
次にどこから攻撃が来るのか、分かっているみたいだった。
(……すごい)
思わず、息を呑んだ。
(全部……見えてるみたい)
私は今、とんでもないものを見ている。
目の前にいるのは、私とそう変わらないくらい華奢な女の子だ。
細い腕。
細い脚。
片倉と正面から並べば、大人と子供くらい体格が違って見える。
なのに――。
圧倒しているのは、彼女だった。
「くそっ!」
片倉が右拳を振るう。
当たらない。
「なんでだよ!」
左。
それも当たらない。
「なんで当たらねぇんだよ!!」
焦れば焦るほど、拳は大きくなる。
動きは荒くなる。
それなのに彼女は。
一歩。
半歩。
時には、ほんの数センチ。
必要最低限の動きだけで、すべてをかわしていく。
まるで。
片倉だけが、一人で暴れているみたいだった。
(強い……)
ただ力が強いんじゃない。
片倉とは、戦い方そのものが違う。
片倉が必死になればなるほど。
二人の間にある差だけが、残酷なくらい浮き彫りになっていく。
「くそがぁぁぁぁっ!!」
ついに片倉が痺れを切らした。
大きく腕を振りかぶる。
全体重を乗せた一撃。
まともに入れば――。
そう思った、その瞬間。
彼女のピンク色の瞳が、すっと細くなった。
「……ここ」
「なっ――」
彼女は上半身を僅かに傾ける。
ブンッ!!
片倉の拳が、虚しく空を切った。
勢いを殺せない。
身体が前へ流れる。
完全に体勢を崩した。
その一瞬を――。
彼女は見逃さなかった。
スッ、と。
片倉の懐へ、一歩踏み込む。
身体を捻る。
ピンク色の髪が、ふわりと宙へ舞った。
そして――。
ドゴッ――!!
「ぐはっ!!」
鋭い回し蹴りが、片倉の脇腹へ叩き込まれた。
「――っ!」
私は思わず目を見開いた。
片倉の巨体が。
浮いた。
ほんの一瞬。
宙へ浮いた。
そのまま――。
ガシャァァァンッ!!
路地裏に積み上げられていたゴミ袋やガラクタの山へ、その身体が勢いよく突っ込んだ。
空き缶が跳ねる。
古びた木箱が砕ける。
埃が一気に舞い上がり、片倉の姿を覆い隠した。
「ぐっ……」
やがて。
ガラクタの奥から、呻き声が聞こえてくる。
「くそ……が……」
片倉は散らばったゴミを押し退けながら、どうにか上半身を起こした。
けれど。
もう立ち上がれない。
「はぁ……はぁ……っ」
肩を大きく上下させ、荒い呼吸を繰り返している。
額から汗が流れ落ちる。
それでも。
憎悪だけは消えていなかった。
血走った瞳で、彼女を睨みつける。
「…………」
彼女は追撃しなかった。
ただ静かに。
片倉を見つめている。
その余裕が。
きっと片倉には、何より腹立たしかったんだと思う。
「……お前」
片倉が低い声を漏らす。
その視線が、彼女の身体を舐めるように動き――。
ふと。
止まった。
「なんで……」
片倉が眉をひそめる。
「片手しか使わねぇんだよ」
彼女が小さく首を傾げた。
「さっきからずっと」
片倉は悔しそうに歯を食いしばる。
「舐めやがって……!」
拳を地面へ叩きつける。
「ハンデのつもりか!?」
その言葉に。
彼女は一瞬、きょとんとした。
そして。
今さら気づいたように、自分の右腕を見る。
「あぁ……これ?」
あまりにも軽い声だった。
「剣道対決して怪我したの」
「…………は?」
「骨にヒビ入っちゃっててさ」
自分の右腕を見ながら、困ったように眉を下げる。
そして。
「まぁ――」
ほんの少しだけ。
何かを思い出したような顔をした。
「やったのは、自分なんだけどね?」
「…………」
その言葉の意味は、私には分からなかった。
けれど。
彼女はすぐに、いつもの調子へ戻る。
「だから今、ほとんど使い物にならないんだよね」
「…………」
片倉の顔が。
ゆっくりと歪んでいった。
「……なんなんだよ」
片倉の口から、掠れた声が漏れる。
「神田といい……」
「お前といい……」
ぎり、と。
歯を食いしばる音が聞こえた。
「あの女といい……!」
「俺をコケにしやがって……!」
その瞬間。
彼女の表情が、ほんの僅かに変わった。
「……あの女?」
首を傾げる。
さらり、と。
ピンク色の髪が肩から零れ落ちる。
「誰のこと?」
片倉は答えなかった。
いや。
答えたくなかったのかもしれない。
代わりに。
「……けっ」
悔しさを誤魔化すように、口元を歪める。
そして。
挑発するように吐き捨てた。
「でもよぉ……」
「…………?」
「スカートの中は、随分と女の子らしいじゃねぇか」
一瞬。
沈黙が落ちた。
さっきの回し蹴り。
おそらく、その時のことを言っているんだろう。
でも彼女は。
まるで気にしていなかった。
恥ずかしがるどころか。
口元へ、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「にしし♡……良かったね」
「冥土の土産に、私の下着見れて」
そして――。
コツ。
コツ。
静かな路地裏に、彼女の足音だけが響いていく。
「……っ」
さっきまで悪態をついていた片倉の顔から。
少しずつ。
本当に少しずつ、余裕が消えていった。
逃げたい。
そんな感情だけは、見ている私にも分かった。
けれど。
身体が言うことを聞かない。
ガラクタの山へ叩きつけられた衝撃が、まだ残っているのだろう。
片倉は地面へ手をつきながら、ずるずると後ろへ下がろうとする。
でも――。
遅い。
彼女は、もう目の前まで来ていた。
「さて、と」
ぽつり。
まるで、ここからが本番だとでも言うような軽い声。
そして――。
彼女は左手を伸ばした。
ガシッ。
「ぐっ……!」
細い指が、片倉の首を掴む。
次の瞬間。
ゆっくりと。
本当に、ゆっくりと――。
片倉の巨体が持ち上がっていった。
「……え?」
私は。
自分の目を疑った。
片手。
しかも。
あんなに細い腕一本で。
あの片倉を。
大人の男みたいに大きな身体を――。
持ち上げている。
「ぐっ……が……!」
片倉の靴底が、地面から離れる。
そのまま。
完全に宙へ浮いた。
片倉は苦しそうに彼女の腕へ両手をかける。
必死に引き剥がそうとする。
けれど――。
びくとも、しない。
「な……なんなんだよ……」
掠れた声が漏れる。
それでも。
彼女の左腕は、僅かにも震えていなかった。
すると――。
「……けっ」
首を掴まれたまま。
片倉が、苦しそうに口元を歪めた。
「どうしたの急に笑って?」
彼女の眉が、僅かに動く。
片倉は息を詰まらせながら。
それでも。
どこか嘲るように笑った。
「この光景……」
「眺めるの……久しぶりだぜ……」
まるで。
以前にも一度。
誰かに。
今とまったく同じように――。
首を掴まれ。
その巨体を。
片手で、宙へ持ち上げられたことがあるかのような。
そんな――。
妙な言い方だった。
「…………」
彼女も。
少しだけ引っかかったのかもしれない。
ピンク色の瞳が、ほんの僅かに細くなる。
けれど。
問い返すことはなかった。
今は。
そんなことよりも。
優先するべきことがある。
そう判断したみたいに。
彼女は片倉の首を掴んだまま。
もう一度。
静かに。
その顔を見上げる。
そして――。
ピンク色の瞳で。
片倉を真っ直ぐ射抜いた。
「もう金輪際」
静かな声が、路地裏に響いた。
「姫花ちゃんと、ゆういちには近づかないって約束して」
「…………」
片倉は答えない。
苦しそうに顔を歪めながら、それでも彼女を睨み返している。
すると。
彼女の瞳から――すっと温度が消えた。
「そう誓わないなら」
一拍。
「今ここで、お前を――」
その先を、彼女は言わなかった。
けれど。
言葉にしなくても十分だった。
冷たい眼光が、片倉を射抜いている。
さっき私に向けてくれた優しい瞳とは、まるで別人みたいだった。
「…………っ」
片倉の喉が、小さく鳴る。
そして。
しばらくの沈黙のあと――。
「……わかった」
掠れた声で、そう答えた。
その瞬間。
彼女は何の躊躇もなく、スパッと手を離した。
「ぐっ!?」
ドサッ!!
支えを失った片倉の巨体が、そのまま地面へ落下する。
「ゲホッ……ゲホッ……!」
片倉は首元を押さえながら、何度も激しく咳き込んだ。
けれど彼女は、そんな片倉を追撃しなかった。
ただ。
じっと見つめている。
その表情からは、さっきまでの殺気が消えていた。
代わりに浮かんでいたのは――。
どこか。
寂しそうな表情。
「……あなた」
彼女が、ぽつりと呟く。
「私と、似てるわ」
「……あ?」
片倉が顔を上げた。
「過去の苦しみに縛られて」
彼女は静かに続ける。
「今を生きられていない」
その言葉を聞いた瞬間。
なぜだろう。
私は、彼女の横顔から目を離せなくなった。
「変えられない過去にずっと生き続けるのは」
僅かに視線を落とす。
「……苦しいだけよ」
その声には。
さっきまでとは違う、妙な重みがあった。
まるで――。
片倉に言っているんじゃない。
自分自身に、言い聞かせているような。
そんな声。
そして彼女は、小さく笑った。
「まぁ……」
少しだけ自嘲するように。
「私が言えたことじゃないけど」
「もし」
彼女は再び片倉へ視線を向ける。
「それでもまだ、ゆういち達に復讐したいなら――」
「私が相手してあげる」
「ゆういちにも」
一拍。
「姫花ちゃんにも、もう近づかないで」
「それでも怒りが収まらないなら」
ピンク色の瞳が、真っ直ぐ片倉を見つめる。
そして――。
「私が、何度だって相手してあげるから」
ふっと。
優しく笑った。
「だから」
「こんなことで、自分の未来を捨てちゃダメよ」
彼女は片倉へ背を向ける。
ピンク色の髪が、ふわりと揺れた。
そして。
私の方へ歩き始める。
終わった。
これで――全部終わったんだ。
そう思った。
――その瞬間。
「…………」
彼女の背後で。
片倉の口元が――ニヤリと歪んだ。
「……っ!」
片倉の手が、地面を這う。
その先には。
さっき彼女が投げ捨てた一本の――鉄の棒。
ガシッ。
片倉が、それを掴んだ。
そして。
ゆっくりと顔を上げる。
その視線が――。
私を捉えた。
「……え?」
ぞくり。
全身に、嫌な予感が走る。
「うるせぇ……」
低い声。
「……?」
彼女が振り返る。
けれど――。
もう遅かった。
「うるせぇんだよぉぉぉぉッ!!」
片倉が絶叫する。
「俺は!!」
大きく腕を振りかぶる。
「お前ら兄妹を――!!」
その手から。
鉄の棒が、離れた。
「絶対に許さねぇぇぇぇッ!!」
ブンッ――!!
鉄の棒が激しく回転しながら、一直線に飛んでくる。
向かってくる先は――。
私。
「――っ!」
頭が真っ白になった。
逃げなきゃ。
そう思ったのに。
足が、動かない。
鉄の棒だけが、異様なくらいはっきり見える。
近づいてくる。
どんどん。
私の顔へ向かって。
(怖い――!)
私は反射的に目を瞑った。
両腕で頭を覆い。
身体を小さく丸める。
そして。
ドガンッ!!
すぐ近くで。
鈍い衝撃音が響いた。
「…………っ!」
身体が震える。
でも。
「……え?」
痛くない。
覚悟していた痛みが――。
どこにもない。
「…………?」
恐る恐る。
私は、閉じていた目を開いた。
最初に見えたのは。
綺麗な――ピンク色の髪。
「……え?」
目の前に。
彼女がいた。
私を胸元へ抱き寄せ。
自分の身体を盾にするようにして――。
強く。
強く。
私を抱き締めていた。




