第210話 神田ゆういちvs羽衣雪音――灰色の執行
「……羽衣さん?」
思わず、その名を口にする。
けれど――。
羽衣雪音は、何も答えなかった。
ただ静かに、俺を見つめている。
灰色の髪が風にさらりと揺れた。
その姿は相変わらず綺麗で、穏やかな笑みすら浮かべている。
なのに。
胸の奥で、警鐘だけが激しく鳴り響いていた。
(……なんだ)
(この嫌な感じ)
全身の毛穴が総立ちになる。
本能が叫んでいた。
――逃げろ、と。
すると。
羽衣さんは、小さく口元を緩めた。
「……ふふ」
その笑みは、どこか嬉しそうだった。
「全く……笑っちゃうよね」
くすくすと笑いながら、俺を見つめる。
「まさか、既に発現してたなんて」
「そりゃ見つかるわけないよね?」
「…………え?」
何を言っているのか分からない。
俺が問い返そうと口を開くより早く、羽衣さんは独り言のように続ける。
「でも」
その瞳が、ゆっくりと細められる。
「やっと見つけた」
その一言には。
長い間、何かを探し続けていた人間だけが持つ安堵が滲んでいた。
そして――。
「これで、やっと解放される」
「この忌々しい役目から」
その声色だけが。
さっきまでとはまるで違っていた。
重く。
張りつめていて。
聞いているだけで背筋が冷たくなる。
羽衣さんは真っ直ぐ俺を見据えたまま、静かに告げる。
「神田君」
「あなたを、施設へ連行させてもらうわ」
「…………!」
その瞬間。
胸の奥で鳴っていた嫌な予感が、確信へと変わる。
(こいつ……!)
(相棒が言ってた……施設の人間か!)
頭の中で、相棒の言葉が蘇る。
――君の能力は彼らにとって天敵だ。
――本音を引きずり出す能力は、物的証拠を残さないEES発現者から”自白”という証拠を残させる。
――だから彼らは、血眼になってでも君を探す。
(やべぇ……)
(はやく逃げないと……!)
俺は無意識に一歩後ろへ下がる。
周囲へ視線を走らせた。
ショッピングモールの入口。
休日ということもあり、人通りは多い。
家族連れ。
買い物帰りの夫婦。
学生グループ。
人目は十分にある。
(落ち着け)
(幸い周囲には人がいっぱいいる)
(ここなら迂闊には動けないはずだ)
(上手く人に紛れたら……逃げられる)
そう自分へ言い聞かせる。
すると。
そんな俺の考えを見透かしたように、羽衣さんがふっと笑った。
「いいの〜?」
首を少しだけ傾げる。
「逃げたりして」
その笑顔は優しい。
けれど。
瞳だけは、まったく笑っていなかった。
「もし逃げたら――」
羽衣さんは、親指を立てる。
そのままゆっくりと、背後のショッピングモールを指差した。
「今度こそ」
「冬花ちゃんを、徹底的に壊すよ?」
「…………っ!」
息が止まる。
黒羽。
その名前が出た瞬間、俺の身体は完全に止まってしまった。
(くそっ……!)
(これじゃ逃げられねぇ……!)
俺一人なら迷わず走っていた。
でも。
黒羽を人質に取られたようなものだ。
ここで逃げれば。
あいつは本当に黒羽へ手を出す。
一度ならず二度も。
トラウマの相手に壊されでもしたらと思うと
逃げることなんて出来なかった。
俺は必死に頭を回転させる。
(黒羽から聞いてる事が本当なら……)
羽衣雪音はEES発現者。
普通じゃない能力を持っている。
だけど――。
(黒羽の話では、精神干渉系の能力だったはず……)
(少なくとも)
(俺を一撃で物理的に吹き飛ばすような能力じゃない)
能力さえ分かれば。
何とか時間を稼げるかもしれない。
黒羽へ連絡して。
今すぐ逃げるように伝えて。
そこまで持ちこたえれば――。
「じゃあ」
羽衣さんが、にこっと笑う。
「そろそろ、いくね?」
「…………」
俺は身構える。
(なんだ?)
(何をする気だ)
(能力か?)
(洗脳か?)
(それとも精神攻撃――)
次の瞬間だった。
羽衣雪音の姿が、消えた。
「――っ!?」
違う。
速すぎて、見えなかっただけだ。
灰色の髪だけが残像のように視界を掠める。
その一瞬で。
羽衣さんは俺の懐へ潜り込んでいた。
(――嘘だろ。こいつ)
思考が追いつくより早く。
彼女は腰を深く落とし。
迷いなく拳を握る。
そして――。
ドゴォッ!!
鈍く、重たい衝撃が腹部へ突き刺さった。
「――ぐはっ!!」
息が、一瞬で全部吐き出される。
胃の中身が逆流しそうになるほどの衝撃。
視界が大きく揺れ、足が地面から浮いた。
(……まずい……意識が)
頭が真っ白になる。
能力じゃない。
洗脳でもない。
精神攻撃でもない。
ただ純粋な――圧倒的な暴力。
その事実を理解した時には。
次の瞬間。
俺の身体は、まるで軽い人形みたいに数メートル先まで吹き飛ばされていた。
「――がっ……!」
背中から地面へ叩きつけられる。
肺の中の空気が一気に押し出され、まともに息ができない。
腹の奥が焼けるように痛い。
視界がぐらりと揺れ、胃の中身までひっくり返りそうになる。
「……っ、はぁ……!」
「……こいつ正気かよ」
俺は地面へうずくまり、必死に酸素を求めて荒く息をついた。
全身が痺れている。
蓮也との喧嘩の傷も癒えてない。
腹を押さえた手が、小刻みに震えていた。
(……なんだよ、この力)
人間が出していい威力じゃない。
ましてや。
細身の女の子が放つ拳とは、とても思えなかった。
けれど――。
俺には、一つだけ心当たりがあった。
(……EESステージ3)
相棒が、以前言っていた。
『EES未来支援機構では幼少期の時点で
既にEESステージ3へ到達している奴らがいる』
『私達は彼らを畏怖と、哀れみを込めて“越界者”って呼んでるんだ』
その言葉が脳裏によみがえる。
俺は腹を押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。
目の前には。
灰色の髪を風になびかせた羽衣雪音が立っている。
その姿を見た瞬間、確信した。
(……こいつが)
(越界者か)
背筋を冷たいものが駆け抜ける。
その頃には。
突然始まった騒ぎに、周囲の人達もざわめき始めていた。
「な、何だ?」
「あれ喧嘩じゃない?」
「え、あの男の人、吹き飛んだよね?」
「誰か警察呼んだ方がいいんじゃない!?」
休日のショッピングモール。
人通りの多い入口だからこそ、あっという間に人だかりができ始める。
何人もの視線が俺達へ集まっていた。
けれど。
そんな周囲の反応なんて、羽衣雪音はまるで気にしていなかった。
彼女は一定の速度で。
ゆっくりと。
ゆっくりと俺へ近づいてくる。
コツ。
コツ。
コツ。
靴音だけが、不気味なくらい静かに響いた。
「…………」
俺は立ち上がろうとする。
だが。
腹に力が入らない。
その一瞬の隙だった。
「よいしょ」
まるで荷物でも持ち上げるみたいに。
羽衣雪音は俺の首元を片手で掴んだ。
「……っ!?」
次の瞬間。
俺の身体は簡単に宙へ持ち上げられる。
(う、嘘だろ……!?)
俺の足が地面から離れる。
首へ食い込む細い指。
細腕のどこに、こんな力がある。
そう思う暇もなく。
ドンッ!!
背中が勢いよく後ろの木へ叩きつけられた。
「がっ……!」
鈍い衝撃が背骨を突き抜ける。
木の幹が大きく揺れ、葉がぱらぱらと舞い落ちた。
俺は苦しそうに咳き込む。
その様子を見下ろしながら。
羽衣雪音は、にこりと微笑んだ。
「もうゲームオーバー?」
まるでゲームの感想でも言うような軽い口調。
「チュートリアルだけ異常に長いクソゲーね」
その言葉に。
俺は苦しさを堪えながら、無理やり口元を吊り上げた。
「……いいのかよ」
「ん?」
「お前ら……こういう騒ぎ、大事になるの嫌なんじゃねぇの?」
首を掴まれたまま。
俺は挑発するように笑う。
「これじゃあ……」
息を整えながら。
ゆっくりと言葉を続ける。
「まるで本末転倒じゃねぇか」
羽衣雪音は一瞬だけ目を細めた。
「ああ……」
それから。
まるで何かを思いついたように、小さく笑う。
「そうね」
俺から視線を外すと。
くるり、と後ろを振り返った。
そこには。
恐怖と困惑の入り混じった表情で、こちらを見つめる野次馬達がいる。
すると羽衣雪音は。
今までとは打って変わって。
営業スマイルのような満面の笑みを浮かべた。
「すみませ〜ん!」
明るい声と独特な声の抑揚が周囲に響く。
「この人、浮気しちゃって〜」
困ったように頬へ手を添える。
「今、問い詰めてるところなんです〜」
「だからみんな気にしないでくださ〜い」
そのあまりにも自然な演技に。
俺は思わず鼻で笑った。
「……おいおい」
「お前、アホかよ」
口の端を吊り上げる。
「そんな嘘で……」
「誤魔化せるわけ――」
そう言いかけた、その時だった。
「なんだ、痴話喧嘩かよ」
野次馬の一人が、肩の力を抜いたように笑う。
その声をきっかけに、周囲の空気が一変した。
「なーんだ、そういうことか」
「びっくりしたぁ」
「てかさ、男側最低じゃね?」
「あんな可愛い彼女がいるのに浮気するとか終わってるだろ」
「ちゃんと謝れよ!」
「いいぞ、もっと言ってやれ!」
「女の子泣かせる男なんて最低だわ」
笑い声が広がる。
さっきまで警察を呼ぼうとしていた人達まで、いつの間にか野次馬になっていた。
腕を組みながら苦笑する者。
まるで、昼ドラでも見ているかのような空気だった。
「……は?」
俺は目を見開いた。
(……なんだよ)
(これ)
理解が追いつかない。
どう考えても、おかしい。
つい数秒前まで、この人達は俺が暴力を振るわれている場面を見ていたはずだ。
俺は数メートル吹き飛ばされ。
首を掴まれ。
木へ叩きつけられた。
どう見ても被害者は俺だ。
なのに――。
「最低だな、あいつ」
「女の子が可哀想」
「浮気したなら殴られて当然じゃない?」
「男なら責任取れよ」
飛んでくるのは、俺を責める言葉ばかりだった。
誰一人として。
羽衣雪音の暴力を止めようとする者はいない。
誰一人として。
「女の子が男を木に叩きつけている」という異常さに疑問を抱いていない。
まるで。
最初から俺が悪人であることが決まっているかのように。
そしてその光景に激しく嫌悪している自分がいた。
「……なんだよ」
思わず声が漏れる。
「どうなってんだよ……」
「これじゃまるで」
背筋を、冷たい汗が伝う。
羽衣雪音は、その様子を見て嬉しそうに微笑んでいた。
まるで。
すべてが自分の思い通りに進んでいることを、楽しむように。




