第207話 安城恵梨香――銀色の手錠
黒羽さんと神田君が店を出ていったあと。
私達も少し時間を空けてから、席を立った。
会計を済ませ、店の外へ出る。
けれど――。
(神田君と黒羽さん……どこへ行ったのかしら)
無意識に、周囲へ視線を巡らせてしまう。
右を見ても。
左を見ても。
二人の姿は、もうどこにも見当たらなかった。
(このまま帰ったの?)
(それとも……まだ二人でどこかへ行くつもりなのかしら)
胸の奥が、再びざわつき始める。
追いかけたい。
二人がこのあと、どこへ行くのか。
何をするのか。
最後まで確かめたい。
けれど――。
私は隣を歩く桜間さんを、ちらりと見る。
桜間さんが一緒にいる以上、これ以上二人を追いかけるわけにはいかない。
ただでさえ、ここまで一緒に監視してしまったのだ。
これ以上付き合わせるのは、さすがに申し訳ない。
それに。
私が二人のことを気にしているなんて知られたら――。
(……仕方ないわね)
そう自分に言い聞かせ、諦めようとした。
その時だった。
「さっきお会計してる時さ」
隣を歩いていた桜間さんが、何でもないことのように口を開いた。
「窓から、冬花ちゃんと神田君が下の階に降りていくのが見えたよ?」
「……え?」
思わず、足が止まる。
桜間さんは、そんな私の反応を見て、楽しそうに笑った。
「だからさ。私達も下に見に行こっか?」
「…………え?」
心臓が、大きく跳ねた。
まるで私が何を考えていたのか、すべて見透かされたような気がした。
けれど。
私はすぐに平静を装い、顔を逸らす。
「べ、別に……」
自分でも分かるほど、不自然に声が上ずった。
「二人がどこへ行ったかなんて、私には関係ないわ」
また、嘘をついた。
本当は気になって仕方がない。
今すぐにでも追いかけたい。
神田君と黒羽さんが、このあと何をするのか。
二人の距離が、これ以上縮まってしまわないか。
それを自分の目で確かめたかった。
それなのに。
私は素直になることができない。
誰かに本当の気持ちを知られるのが怖い。
自分の弱さを見せた瞬間。
相手の心の中から、呆れや軽蔑の声が聞こえてくるかもしれないから。
私には、人の心の声が聞こえる。
相手が口では優しいことを言っていても。
心の中で何を考えているのか。
本当はどう思っているのか。
そのすべてが、聞こえてしまう。
だからこそ――
心の中でこんな自分を笑われていたと知ってしまうことが、何より怖かった。
気づけば私は、自分の片方の肘をもう片方の手で強く掴んでいた。
ぎゅっと。
まるで、溢れそうになる感情を押し込めるように。
すると――。
「何言ってんの!」
桜間さんが、急に明るい声を上げた。
「あの二人、めちゃくちゃ気になるじゃない!」
「……え?」
思わず、桜間さんを見る。
彼女は胸を張るようにしながら、さらに続けた。
「私が個人的に気になるんだよ!」
「だから、安城さんは気にしなくていいの!」
楽しそうに笑いながら。
まるで、本当に自分が二人を見たいだけだと言わんばかりに。
けれど――。
その直後。
桜間さんの心の声が、私の中へ流れ込んできた。
(あんなに真っ直ぐ神田君のこと見てたら、安城さんが気になってるのなんてバレバレだよ)
(まあ……安城さんのそういうツンデレなところ、私大好きだけど)
(ここは私が気になるってことにしておこうかな?)
その心の声を聞いた瞬間。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
桜間さんは。
私が素直になれないことを、分かってくれていた。
本当は二人のことが気になっていることも。
それを口にできずにいることも。
全部、分かっている。
それでも。
私を無理に問い詰めることもなく。
本音を言わせようとすることもなく。
私が恥ずかしくならないように。
「自分が見たいから」という理由を作ってくれた。
その優しさが、胸に染みた。
私はしばらく何も言えなかった。
ありがとうと、言えばいいのだろうか。
でも。
そんなことを言えば、心を読んだことまで気づかれてしまうかもしれない。
だから私は。
できるだけ平静を装いながら、小さく頷いた。
「……ふふ 分かったわ」
「行きましょう、桜間さん」
「おっけー!」
桜間さんは嬉しそうに笑う。
「行こう、行こう!」
そう言って、彼女は私の少し前を歩き始めた。
私はその背中を見つめながら。
ほんの少しだけ、口元を緩める。
「……あと、桜間さん」
「ん?」
振り返った桜間さんが、きょとんと首を傾げる。
私は少しだけ間を空けてから。
できるだけ何でもないことのように言った。
「…………私、ツンデレじゃないから」
「!?!?!?」
桜間さんの目が、大きく見開かれた。
そして。
(…………あれ?)
(心、読まれた?)
(いやいや、まさかね……)
その心の声が聞こえてくる。
私は何も答えない。
ただ、知らないふりをして、そのまま歩き続けた。
◇
私達は、そのままエスカレーターへ向かった。
ゆっくりと下の階へ降りていく。
私は手すりに手を添えながら、視線だけでフロア全体を見渡した。
(どこにいるのかしら……)
店の中。
通路。
ベンチ。
行き交う人達の間。
けれど。
なかなか二人の姿は見つからない。
もしかしたら、もう別の場所へ移動してしまったのかもしれない。
そんな不安が胸に広がり始めた――その時。
「あっ」
桜間さんが、小さく声を上げた。
彼女の視線の先を追う。
すると。
少し離れた場所にある、誰でも自由に使えるフリースペース。
そこに――。
神田君と黒羽さんの姿があった。
「……いた」
思わず、声が漏れる。
二人は向かい合うように座っていた。
テーブルの上には、飲み物と。
何冊かのノート。
それから、教科書のようなものが広げられている。
私は思わず目を瞬かせた。
(……何をしているの?)
さっきまで。
あんなにも重い話をしていたはずなのに。
てっきり、このままどこかへ遊びに行くのだと思っていた。
それなのに。
二人は真剣な表情で、机の上を見つめている。
「え?」
隣で桜間さんが、私と同じように驚いた声を上げた。
「二人、何してんの?」
そう言うと。
彼女は突然、ポケットへ手を入れた。
そして。
そこから、小さな双眼鏡を取り出した。
「…………」
私は無言で、その双眼鏡を見る。
「……桜間さん」
「ん?」
「どうして、そんなものを持っているの?」
「え?」
桜間さんは、むしろ私の質問が不思議だと言いたげな顔をした。
「こういう時に必要だから?」
「あっ後私百円グッズが大好きなの」
そう言うと、桜間さんは双眼鏡を目元へ当てた。
完全に、尾行を楽しんでいる。
私は小さくため息をつきながらも。
彼女の横から、神田君達の様子を見つめる。
「まさかの展開すぎて……」
桜間さんが、双眼鏡を覗いたまま呟く。
「あれ、何の教科?」
少しだけ角度を変えながら、必死にテーブルの上を確認している。
「あっ、数学?」
「……数学?」
その言葉を聞いた瞬間。
私の胸が、わずかにざわついた。
「なるほどね〜」
桜間さんは納得したように頷く。
「冬花ちゃん、数学の成績いいから」
「神田君に教えてあげてるんだ」
「…………」
なぜ神田君が数学の勉強をしているのか私はすぐにわかった。
桜間さんが、双眼鏡を下ろした。
そして。
なぜか、とても楽しそうな笑顔を浮かべる。
「安城さん」
「……な、なによ」
桜間さんはニヤニヤしながら、ぴんと人差し指を立てた。
「いきなりだけど、ここで問題です!」
「……問題?」
「そう!」
彼女は嬉しそうに頷く。
「神田君が、数学のできる黒羽さんに勉強を教えてもらっているのは――」
そこで一度、わざとらしく間を空けた。
そして。
にやにやと笑いながら、私の顔を覗き込んでくる。
「な〜ぜだ?」
「な、なによ、急に」
声が、少しだけ上ずった。
そんなの。
考えるまでもなく、すぐに分かった。
神田君は、次の数学の試験で一位を取れば。
私の隣の席へ戻る。
先生と、そういう約束をしている。
つまり。
神田君が今、黒羽さんに数学を教えてもらっているのは――。
私の隣へ戻ってくるため。
そう考えた瞬間。
胸の奥が、ふわりと温かくなった。
嬉しい。
黒羽さんと一緒にいることへの嫉妬よりも。
神田君が、私の隣へ戻ろうとしてくれている。
その事実のほうが。
ずっと強く、胸に響いてしまった。
(もう神田君……)
(本当に……私の事大好きなんだから)
期待が、膨らむ。
顔が熱くなる。
口元が緩みそうになる。
けれど。
そんな私の反応を。
桜間さんが、じっと見つめていた。
明らかに、答えを分かっている顔で。
私が答えるのを、面白がって待っている。
「…………」
素直に言えばいい。
神田君は、私の隣に戻るために勉強している。
そう答えればいいだけなのに。
口を開いた瞬間。
いつもの悪い癖が、顔を出した。
「し、しらないわよ」
自分でも呆れるくらい、不自然な答えだった。
桜間さんは、目を細める。
口元には。
さっきよりもさらに楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「本当に〜?」
「安城さん、本当に分からないのかな〜?」
「分からないって言ってるでしょう」
私はプイッと顔を逸らす。
けれど。
窓に薄く映った自分の顔が。
ほんの少しだけ、嬉しそうに緩んでいることには――。
気づかないふりをすることしかできなかった。
「あっ、そうだ!」
突然、何かを思い出したように、桜間さんが声を上げた。
「安城さん。私、実はいいもの持ってるんだ!」
そう言いながら、彼女は制服のポケットへ手を入れる。
そして取り出したのは――二枚の福引券だった。
「ほら!」
得意げに掲げられた券を見て、私は小さく首を傾げる。
「福引券?」
「そう! さっきのお店でもらったの」
桜間さんは二枚の券を指先でひらひらと揺らしながら、楽しそうに笑った。
「せっかくだし、やっていかない?」
「でも……」
私は反射的に、神田君達がいる方向へ視線を向ける。
二人は少し離れたフリースペースで、向かい合って勉強をしている。
今のところ、席を立つ気配はない。
けれど。
福引をしている間に、二人がどこかへ移動してしまうかもしれない。
そんな不安が、胸の中をよぎった。
すると桜間さんは、私の考えていることを察したように、ぱたぱたと手を振った。
「大丈夫、大丈夫!」
「二人とも勉強してるんだから、すぐには動かないって」
「…………」
確かに。
神田君は真剣な表情でノートに向かっている。
黒羽さんも、その隣で教科書の一部分を指差しながら何かを説明していた。
少なくとも、すぐに立ち去るような雰囲気ではない。
「それに、福引会場もそんなに離れてないし」
桜間さんはそう言って、少し先に見える特設会場を指差した。
「何かあったら、すぐ戻れるよ」
「……そうね」
私は小さく頷く。
何かあったら――というのが、何を指しているのかは分からない。
でも。
神田君達の様子を気にしていることを、桜間さんがわざと口にしないでいてくれているのは分かった。
私達はそのままエスカレーターで下の階へ降りる。
そして、神田君達と同じ階にある福引会場へと向かった。
会場には、赤と白の幕が飾られている。
中央には大きな福引器が置かれ、その横には景品の内容が書かれた看板が立っていた。
一等。
箱根温泉、ペア宿泊券。
その文字を見た瞬間。
桜間さんの目が、きらりと輝く。
「見て、安城さん!」
私が止める間もなく、彼女は看板の前へ駆け寄った。
「一等、箱根温泉だって!」
「見れば分かるわ」
「ペアだよ、ペア!」
桜間さんは興奮した様子で、何度もその文字を指差す。
「もし当たったら、一緒に行こうね? 安城さん」
彼女は福引券を係員へ渡すと、勢いよく袖をまくる。
そして福引器の取っ手を握りながら、私へ振り返った。
「私ね」
なぜか、とても自信に満ちた表情をしている。
「こう見えて、運には自信があるの」
桜間さんは大げさに声を上げる。
けれど、すぐに気を取り直したように、再び福引器へ向き直った。
「見てて、安城さん」
「今から私が、箱根温泉を引き当てるから!」
彼女は大きく息を吸い込む。
そして――。
「はい〜、ハズレです」
係員さんの明るい声が響いた。
「…………」
桜間さんの動きが、ぴたりと止まる。
まるで、時間そのものが止まったようだった。
「ハズレの景品は、そちらの箱から一つ選んでくださいね」
係員さんが示した先には、大きな箱が置かれていた。
中には。
小さなお菓子。
シャーペン。
消しゴム。
キーホルダー。
それから、ここからではよく見えないけれど、子供向けのおもちゃらしきものがいくつも入っている。
色も形もばらばらで。
明らかに統一感がない。
(……在庫処分かしら)
私は箱の中身を一目見て、すぐに理解した。
おそらく、売れ残った景品や余った商品を集めたのだろう。
その頃。
福引器の前にいた桜間さんは、肩を落としたまま、とぼとぼとこちらへ戻ってきた。
さっきまでの自信は、見る影もない。
「……おかしい」
「何が?」
「私、運には自信あったのに……」
桜間さんは、勢いよく顔を上げる。
そして、何かに気づいたように目を見開いた。
「あっ……!」
「よく考えたら」
桜間さんは、妙に真剣な顔で私を見つめる。
「今日、休みの日に安城さんと会えたじゃん?」
「……ええ」
「私、そこで今日の豪運を全部使ってたんだよ!」
「どんな理屈よ」
あまりにも真剣な顔で言うものだから、すぐに否定するのも少しだけ気が引けた。
「だから、外れたのは仕方ないよね」
桜間さんは、うんうんと一人で納得している。
「むしろ、安城さんと会えたなら、箱根温泉より当たりかも」
桜間さんは、さらに真剣な顔で続けた。
「いや、もはや箱根温泉が安城恵梨香なのかもしれない」
「……哲学かしら?」
次の瞬間。
何の迷いもなく、残っていたもう一枚の福引券を私へ差し出してくる。
「というわけで、安城さん!」
「……何?」
「私の分も回してきてくれない?」
両手を合わせて、拝むように頼み込んでくる。
その姿をしばらく見つめたあと。
私は諦めるように息を吐いた。
「……分かったわ」
「やった!」
私は桜間さんから福引券を受け取る。
そして、そのまま係員さんへ渡した。
福引器の前に立つ。
正直なところ。
私は箱根温泉に、そこまで興味があるわけではない。
けれど。
後ろから向けられている期待の視線が、妙に重い。
私は取っ手へ手をかける。
その前に、何となく後ろを振り返った。
すると。
桜間さんは胸の前で両手を組み、祈るように目を閉じていた。
「箱根温泉……箱根温泉……箱根温泉……」
私はそんな桜間さんを横目に小さく肩をすくめ、再び福引器へ向き直った。
そして。
ゆっくりと、取っ手を回す。
ガラガラガラ――。
中で玉がぶつかり合う音がする。
背後からは。
「箱根温泉、箱根温泉、箱根温泉……」
桜間さんの祈りが、途切れることなく聞こえてくる。
少しだけ恥ずかしい。
周囲の人達がこちらを見ている気がする。
私はなるべく早く終わらせようと、取っ手をもう一度回した。
その瞬間。
カラン。
小さな玉が一つ、受け皿へ落ちた。
白。
桜間さんの祈りも虚しく。
私が引いた玉も、真っ白だった。
「はい、ハズレです」
係員さんは、先ほどとまったく同じ笑顔で告げる。
「こちらから、お好きなものを一つ選んでくださいね」
「…………」
私は静かに福引器から手を離す。
そして、後ろを振り返った。
そこには。
両手を組んだまま固まっている、桜間さんの姿があった。
しばらくの沈黙。
やがて。
彼女の膝から、ゆっくりと力が抜けていく。
「神よ〜!」
そのまま。
ぺたり。
桜間さんは、床へ膝をついた。
「オー、ノー……!」
桜間さんは頭を抱えたまま、世界の終わりでも迎えたような声を上げていた。
私はそんな彼女を横目に見ながら――。
何も見なかったことにした。
これ以上反応すれば、きっとまた大騒ぎが始まる。
私は静かにハズレ景品の入った箱へ視線を落とした。
中には、お菓子や消しゴム。
子供向けのキーホルダー。
小さなおもちゃ。
使い道のよく分からない雑貨まで、雑多に詰め込まれている。
その中を軽く探していると。
箱の底のほうに、一本のシャーペンが埋もれているのを見つけた。
(これでいいわね)
ほかの景品よりは、まだ実用的だ。
私は迷うことなく、そのピンクのシャーペンへ手を伸ばした。
そして。
箱の中から取り出そうとした――その時だった。
「……?」
何かがシャーペンに引っかかった。
小さな箱のようなものが一緒に持ち上がり。
次の瞬間。
ぽとり。
私の足元へ落ちた。
「……何かしら」
私は腰をかがめ、床に落ちたそれを拾い上げる。
透明なパッケージの中に入っていたのは。
銀色に塗られた、小さなおもちゃだった。
二つの輪が、短い鎖で繋がっている。
「なにこれ……」
私は思わず呟いた。
「………おもちゃの手錠?」
パッケージには、大きく『ドリームセイバー』と書かれている。
ドリームセイバー。
私達が小さい頃から放送されている、人気の特撮アニメだ。
私も名前くらいは知っていた。
けれど、熱心に見ていたわけではない。
どうして特撮アニメの景品に、手錠があるのだろう。
不思議に思いながら眺めていると――。
「あっ!」
さっきまで床に崩れ落ちていたはずの桜間さんが、いつの間にか私の隣へ来ていた。
そして、私の手元を覗き込む。
「それ、ドリームセイバーのやつじゃん!」
「知っているの?」
「知ってる知ってる!」
桜間さんは、さっきまで箱根温泉を逃したことを嘆いていたのが嘘みたいに目を輝かせた。
「これ、敵キャラが使ってた手錠だよ!」
「敵キャラ?」
「そう!」
彼女は興奮した様子で、パッケージを指差す。
「仮面をつけた敵キャラでね。めちゃくちゃ強いの!」
「手錠を使って、ドリームセイバー達の動きを封じたりするんだよ!」
「へぇ……」
正直なところ。
そこまで興味はない。
けれど、桜間さんは私の反応など気にする様子もなく、楽しそうに話し続ける。
「しかもね!」
彼女は声を潜めるように顔を近づけた。
「実は、その仮面の下――女の子なんだよ」
「……そうなの」
息を吐くように、ネタバレする桜間さん。
私は気にせず、おもちゃの手錠を箱の中へ戻した。
そして。
改めて、先ほど見つけたシャーペンへ手を伸ばす。
そう思っていた――その時だった。
「その敵キャラね」
桜間さんの声が、背後から聞こえる。
「ドリームセイバーのことが大好きだったんだよ」
私の指先が、わずかに止まる。
「好き?」
「うん」
桜間さんは、特に深い意味もなく話を続けた。
「好きすぎて、誰にも渡したくなくなっちゃったの」
「それで最終的には――」
「自分の心の中に、ドリームセイバーを監禁しようとするんだよ!」
シャーペンを掴もうとしていた指先が、その場で固まる。
「……自分の心に?」
「そうそう!」
桜間さんは、私の変化には気づかないまま、楽しそうに頷いた。
「なんか特殊能力を使ってね」
「ドリームセイバーを自分の心の世界に閉じ込めて、ずっと二人だけでいようとするの!」
ずっと。
二人だけで。
その言葉が。
なぜか、胸の奥へ引っかかった。
「…………」
「今思えばさ」
桜間さんは、少し笑いながら続ける。
「子供向けアニメにしては、かなり重い回だったよね!」
「私、あの回すごく印象に残ってるんだ〜」
「……その敵キャラは」
私は気づけば、尋ねていた。
「最後、どうなったの?」
「え?」
桜間さんが少し考えるように、首を傾げる。
「確か……」
しばらく記憶を探るように唸ったあと。
「あっ、そうそう!」
彼女は手を叩いた。
「ドリームセイバーの正義の心に触れて、改心するんだよ!」
「……改心」
「うん!」
「自分の寂しさを埋めるために、誰かを閉じ込めるのは間違ってるって気づくの」
「私利私欲のために、人を閉じ込めちゃ駄目だってさ!」
桜間さんは、どこか懐かしそうに笑う。
「まあ、子供向けアニメだから、そういう結論になるよね〜」
当然だ。
好きだからといって。
誰かを自分のためだけに、閉じ込めていいはずがない。
そんなこと。
言われなくても分かっている。
分かっているはずなのに。
胸の奥に浮かんだ光景が。
なぜか、すぐには消えてくれなかった。
「……それで」
私はもう一度尋ねる。
「その女の子は、ドリームセイバーと結ばれたの?」
「え?」
桜間さんは、少し驚いたように私を見る。
「そこ気になる?」
「……別に」
私はすぐに目を逸らした。
「話の結末として聞いただけよ」
「ふーん?」
桜間さんは少しだけ意味ありげに笑ったあと。
再び記憶を探るように顎へ指を当てる。
「確か、最終的にドリームセイバーとくっつくのは……」
少し考えて。
「あっ、ピンクのドリームセイバーだった気がする!」
「………」
胸の奥が。
小さく、ざらついた。
その敵キャラは。
それほどドリームセイバーを好きだったのに。
誰にも渡したくないと願ったのに。
最後には改心して。
それでも。
結ばれたのは、自分ではない。
「……そう」
自分でも驚くほど。
冷たい声が出た。
「それでね、その仮面の女の子は最終決戦で――」
「もういいわ」
「え?」
「話の続きは、もう大丈夫」
私は静かに、おもちゃの手錠を箱の中へ戻した。
カサッと。
軽い音を立てながら。
手錠は、ほかの景品の間へ沈んでいく。
私はその代わりに。
最初から選ぶつもりだったシャーペンを手に取った。
「これにします」
「はい、どうぞ」
係員さんからシャーペンを受け取る。
実用的で。
普通で。
何もおかしなところのない景品。
私には、こちらのほうが似合っている。
おもちゃの手錠なんて。
必要ない。
そんなものを選ぶ理由なんて、どこにもない。
私は自分にそう言い聞かせながら。
桜間さんと一緒に、福引会場を離れた。
◇
私達は、並んで通路を歩いていた。
桜間さんはまだ、先ほどのドリームセイバーについて楽しそうに話している。
私は曖昧に返事をしながら。
手の中のシャーペンを見つめていた。
透明な軸に。
淡いピンク色の部品がついている。
何の変哲もない。
ただのシャーペン。
これでいい。
これを選んだのが、正しい。
そう思うのに。
なぜか。
箱の中へ戻した、あのおもちゃの手錠が頭から離れなかった。
好きな人を、誰にも渡したくない。
ずっと二人きりでいたい。
そのために、閉じ込めてしまう。
間違っている。
そんなことは、分かっている。
でも。
(……その子は、正しいことを選んだ)
(それでも、選ばれなかった)
(それなら――)
(正しいだけでは、好きな人の隣にはいられないの?)
胸の奥に。
言葉にできない不安が広がっていく。
正しいことを選んで。
相手を自由にして。
何もせずに見守って。
その結果。
別の女の子を選ばれてしまったら。
それでも。
笑って祝福しなければいけないのだろうか。
私の気持ちは。
私が今まで神田君を想ってきた時間は。
全部、諦めなければならないのだろうか。
「…………」
手の中のシャーペンを、少し強く握り締める。
その時。
「あっ、ごめんなさい」
私は足を止めた。
「やっぱり、ピンクじゃないほうのシャーペンにするわ」
「え?」
桜間さんが、きょとんとした顔で振り返る。
「色、気に入らなかった?」
「……ええ」
私はできるだけ平静を装いながら、シャーペンを見せる。
「よく見たら、少し派手だから」
本当は。
そんなこと、どうでもよかった。
色なんて。
何色でもよかった。
ただ。
私はもう一度、あの福引会場へ戻る理由が欲しかった。
それだけだった。
桜間さんは、私の言葉を疑うことなく、にこっと笑った。
「おっけー!」
それから、少し先を指差す。
「私、ちょうどお手洗い行きたかったんだ」
「あそこのお手洗い前のベンチで待ってるね?」
彼女が指差した先には。
何人かの子供達が、楽しそうにおもちゃで遊んでいる。
「ほら、あそこ」
「……うん」
私は小さく頷いた。
「分かったわ」
「じゃあ、あとでね!」
桜間さんは何も疑わず、お手洗いのほうへ歩いていく。
私は、その背中が見えなくなるまで見送った。
そして。
ゆっくりと振り返る。
福引会場は、すぐそこにある。
ほんの少し前までいた場所。
それなのに。
戻るための一歩が、妙に重く感じられた。
私は手の中のシャーペンへ視線を落とす。
(色を交換するだけ)
そう。
ただ、それだけ。
自分に言い聞かせるように。
心の中で、何度も繰り返す。
それでも。
福引会場へ近づくたびに。
胸の鼓動は、少しずつ速くなっていった。
やがて。
私は再び、景品箱の前まで戻ってくる。
先ほどの係員さんが、私に気づいて顔を上げた。
私は一度。
小さく息を吸う。
そして。
「……すみません」
声をかけた。
「はい?」
係員さんが、笑顔でこちらを見る。
私は手に持っていたシャーペンを、そっと差し出した。
「さっき、福引のハズレ景品でもらったものなんですが……」
一瞬。
言葉が詰まる。
本当に交換していいのだろうか。
今ならまだ。
違う色のシャーペンを選んで、何事もなかったように戻ることができる。
普通の私のままでいられる。
でも。
頭に浮かぶのは。
神田君と黒羽さんが、向かい合って勉強していた姿。
黒羽さんを真っ直ぐに見つめていた、神田君の表情。
私は指先へ力を込める。
「別のものに、変えてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろんですよ」
係員さんは、何の疑いもなく快く頷いた。
「まだ使っていないものなら、大丈夫です」
「……ありがとうございます」
私はシャーペンを返す。
そして。
ゆっくりと、景品箱の中へ手を伸ばした。
お菓子でもない。
別の色のシャーペンでもない。
子供向けのキーホルダーでもない。
箱の奥に埋もれていた。
あのパッケージを、そっと掴む。
取り出した銀色のおもちゃの手錠が。
照明の光を受けて、わずかに輝いた。
私はそれを、胸元へ引き寄せる。
これに何の意味がないことなんて分かっている。
こんなものを選ぶ理由なんて。
本当は、どこにもない。
これはただのおもちゃ。
神田君を本当に繋ぎ止められるわけでもない。
誰かから奪われないようにできるわけでもない。
それでも。
手放すことができなかった。
(私は……)
胸の奥から。
認めたくなかった気持ちが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
(取られたくない)
黒羽さんにも。
ほかの誰にも。
神田君を、渡したくない。
その想いを。
私は誰にも気づかれないように。
おもちゃの手錠と一緒に、そっと胸の奥へ隠した。




