第206話 安城恵梨香――ヤンデレって何かしら?
神田君と黒羽さんの様子を、私と桜間さんは少し離れた席から、隠れるようにして見つめていた。
楽しそうに話す二人の姿が視界に入るたび、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
(……また、楽しそうに話してる)
神田君が笑っている。
黒羽さんも、どこか楽しそうに笑っている。
そんな二人を見ているだけで、胸の奥がちくちくと痛んだ。
――だったら、監視なんてやめればいい。
自分でもそう思う。
見なければ、こんな気持ちにはならない。
二人が何を話しているのか。
どんな表情で笑い合っているのか。
そんなこと、知らなければいい。
……でも。
(それはそれで……怖い)
私の知らないところで。
神田君が誰かに惹かれて。
私の知らないところで、その人がどんどん特別な存在になって。
気づいた時には、もう手遅れになっていたら――。
そんなことを考えてしまうと、どうしても目を逸らすことができなかった。
(……本当に、情けないわね)
人の心が読めるくせに。
誰よりも他人の感情を見てきたはずなのに。
自分自身の恋心一つ、まともに制御できない。
そんな情けない気持ちを抱えながら、私はじっと二人の様子を見つめ続ける。
――その時だった。
「……?」
見覚えのない集団が、突然二人のテーブルを囲んだ。
(……誰かしら?)
遠くて、会話までは聞こえない。
当然、心の声も届かない。
けれど――。
黒羽さんの顔を見た瞬間。
私はすぐに理解した。
(……これは)
嬉しい再会なんかじゃない。
さっきまで神田君と話していた時の表情が、完全に消えていた。
顔が強張っている。
目の奥に浮かんでいるのは、明らかな動揺。
それだけじゃない。
――恐怖。
まるで、ずっと忘れようとしていた何かを、突然目の前に突きつけられたような。
そんな表情だった。
(……大丈夫かしら)
胸の奥がざわつく。
(いったい……何を話しているの?)
聞きたい。
こんな時ほど、この距離がもどかしい。
私の力は万能じゃない。
近づかなければ、心の声は聞こえない。
けれど今さら近づけば、監視していたことがバレてしまう。
どうするべきか迷っていた――その時だった。
突然。
――バンッ!!
神田君が勢いよくテーブルに手をつき、立ち上がった。
店内に大きな音が響く。
何事かと、周囲の視線が一斉に神田君へ集まった。
そして――。
「俺は誰がなんと言おうと……」
神田君は大きく息を吸い込む。
次の瞬間。
「ヤンデレが大好きなんだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
店内が、一瞬にして静まり返った。
周囲にいた人達が、揃って神田君を見つめている。
店員さんまで見ている。
「ゴホッ!? ゴホンッ、ゴホンッ!!」
前から盛大にむせる音が聞こえた。
見ると、桜間さんが驚きのあまり、食べていたグラタンを喉に詰まらせていた。
「ちょっ……神田君……!」
慌てて飲み物を手に取り、一気に流し込んでいる。
そんな桜間さんを横目に、私は完全に思考が止まっていた。
(……ヤンデレって、何かしら?)
聞いたことがあるような。
ないような。
少なくとも、神田君が店中に響き渡る声で宣言するほど好きな何かであることだけは分かる。
その瞬間だった。
「……あ」
私は、小さく声を漏らした。
黒羽さんの表情が――変わっていた。
さっきまで、あれほど苦しそうだったのに。
何かに怯えているような顔をしていたのに。
今は。
まるで、自分自身のすべてを肯定してもらえたような。
ずっと欲しかった言葉を、ようやく誰かから受け取ったような。
そんな――救われた顔をしていた。
私は、その表情を見ただけで理解してしまった。
人の心なんて読まなくても分かる。
女の子なら。
同じ人を好きな女の子なら――。
きっと、分かってしまう。
(…………また)
胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。
(また、ライバルが増えちゃう……)
ただでさえ、神田君の周りには可愛い女の子が多いというのに。
どうして神田君は、行く先々で誰かを救ってしまうのだろう。
(……本当に、もう)
胸の奥が、ちくりと痛む。
それでも。
さっきまで苦しそうだった黒羽さんが、少しだけ笑えるようになったことに。
ほんの少しだけ安心している自分もいた。
それがまた、少しだけ複雑だった。
黒羽さんは、涙を流しながら神田君に何かを話していた。
ここからでは、二人が何を話しているのかまでは聞こえない。
けれど。
黒羽さんの表情を見れば、それが彼女にとって簡単に口にできるような話ではないことくらい、私にも分かった。
俯きながら。
時折、言葉を詰まらせながら。
それでも必死に何かを伝えようとしている。
そして神田君は――。
そんな彼女から、決して目を逸らさなかった。
茶化すこともなく。
面倒そうな顔をすることもなく。
ただ真っ直ぐに、黒羽さんの言葉を受け止めている。
その姿を見ていると。
不思議と、さっきまで胸の中を占めていた嫉妬が、ほんの少しだけ薄れていった。
(……やっぱり、神田君ね)
誰かが本当に苦しんでいる時。
彼は絶対に、その人から目を逸らさない。
自分には関係ないなんて、切り捨てたりしない。
たとえ自分まで傷つくことになったとしても。
その人の痛みを、自分のことみたいに受け止めようとする。
そんな彼の姿を見ていると――。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
(……私の好きな人は、こんな人なのよ)
そう思うと。
なぜだか少しだけ――誇らしい気持ちにさえなった。
やがて。
神田君達はしばらく話したあと、席を立った。
会計を済ませ、そのまま店を出ていく。
二人の姿が完全に見えなくなったことを確認して――。
「……ふぅ」
私はようやく、大きく息を吐いた。
ずっと無意識に力が入っていた肩から、ふっと力が抜ける。
なんだか、とても疲れた。
ただ二人を見ていただけなのに。
胸が苦しくなったり。
不安になったり。
安心したり。
誇らしくなったり。
……本当に、忙しい時間だった。
そんな私の隣で、桜間さんがぽつりと呟いた。
「……神田君って、すごいね」
「……そうね」
思わず、素直に頷く。
けれど。
桜間さんは、空になりかけたグラスをテーブルへ置くと、どこか呆れたように笑った。
「突然、自分の好きなタイプ叫ぶ癖でもあるのかな?」
「……癖?」
私は思わず首を傾げる。
「だって前もさ」
桜間さんは、思い出したように肩を揺らした。
「神田君ってギャル好きだよね? って問い詰めたら、『金髪ギャルが好き』って言ったじゃん?」
そして、呆れたように続ける。
「いや、金髪までは聞いてないっての!」
「しかも、あれ」
桜間さんは、ちらりと私の髪を見る。
それから、にやりと笑った。
「あれ、絶対に安城さんのことだよ?」
「――っ」
私は、何も言えなかった。
なぜなら。
その時のことを――今でも、よく覚えているから。
『俺は金髪ギャルが好き』
あの時。
私は呆れたような顔をしていたけれど。
家に帰ってから。
自分の金色の髪を見て。
鏡に映った自分の姿を見て。
(……金髪ギャル)
なんて。
心の中で、こっそり呟いてしまった。
そして。
ほんの少しだけ嬉しくなってしまったことは――。
絶対に、誰にも言えない。
「で?」
不意に、桜間さんが私の顔を覗き込んできた。
「……なによ」
見ると、彼女はにやりと笑っている。
明らかに、何かを企んでいる顔だった。
嫌な予感がする。
そして――。
「金髪ギャルの安城さんは、さっきの見てどう思った?」
「……どうも思わないわよ」
「馬鹿だなって思っただけ」
即答した。
本当に。
自分でも嫌になるくらい、即答だった。
(……また、これね)
いつもの悪い癖。
本当は嬉しいくせに。
本当は神田君の言葉一つで、簡単に舞い上がってしまうくせに。
誰かにそれを指摘されると、途端に素直になれなくなる。
自分の心に素直になれない。
そんな自分に、心の中で小さくため息をつく。
すると。
ふいに、先ほどの光景が脳裏に蘇った。
テーブルを叩き。
突然立ち上がって。
店中の視線を集めながら――。
『誰がなんと言おうと……ヤンデレが大好きなんだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!』
「…………」
そういえば。
私は、ずっと気になっていたことを思い出した。
「ねぇ、桜間さん」
「ん?」
私は少しだけ首を傾げる。
「ヤンデレって、何かしら?」
「え?」
桜間さんが目を丸くする。
どうしてそんなに驚くのだろう。
「私も詳しくは分かんないんだけど……」
桜間さんは少し考えるように顎へ指を当てる。
「相手のことが好きすぎて、過度に執着したり、束縛したりする感じかな? 漫画とかで出てくるキャラ」
「……好きすぎて」
「うん」
「執着して」
「うん」
「束縛する……」
「まあ、そんな感じ?」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳裏に、一冊の漫画が浮かんだ。
以前、神田君から没収した――恋愛漫画。
そこに登場していた女の子は。
好きな男の子を監禁して。
誰にも奪われないように閉じ込めて。
永遠に二人だけで過ごそうとしていた。
(……まさか)
私は、恐る恐る尋ねる。
「もしかして、そのヤンデレって……好きな人を監禁したりするの?」
「うーん」
桜間さんは少し考えてから答えた。
「全員がそうとは言わないけど、そういうことしたりする子もヤンデレに含まれるんじゃない?」
「…………」
私は思わず黙り込んだ。
好きな人に執着する。
誰にも渡したくないと思う。
自分だけを見ていてほしいと願う。
そして――監禁。
(…………)
なぜだろう。
どこか。
ほんの少しだけ。
最近の自分に引っかかる部分があるような――。
「でも」
私は、その考えを振り払うように口を開いた。
「そんなの、フィクションの世界だものね」
「……え?」
「だって私、ツンデレさえ実際には見たことないもの」
「………え?」
桜間さんが、突然黙り込んだ。
そして。
じぃぃぃ……。
なぜか私の顔を、ものすごく冷めた目で見つめてくる。
「……な、なによ」
「いや……」
「何か言いたいことがあるなら、言いなさい」
「別に聞いてあげなくもないけど」
桜間さんはしばらく私を見つめたあと。
ものすごく呆れたような顔で言った。
「それ、本気で言ってる?」
「……え?」
どういう意味?
私が首を傾げると、桜間さんは一瞬だけ何かを言おうとして――。
「…………」
やめた。
そして、諦めたように小さく息を吐く。
「まあ、いいや!」
突然、いつもの明るい表情に戻ると、残っていた飲み物を飲み干した。
「私達もそろそろ、お店出よっか?」
「……ええ」
私はそう答えながら、もう一度だけ考える。
(……ヤンデレ、ね)
好きな人に執着して。
誰にも渡したくなくて。
自分だけを見てほしくて。
時には――閉じ込めてしまう。
(…………)
私は、ふと神田君の顔を思い浮かべる。
そして。
ほんの一瞬だけ。
――誰にも邪魔されない場所で。
ずっと二人きりでいられたら。
そんな考えが頭をよぎって――。
「――っ!?」
私は慌てて首を横に振った。
(な、何を考えてるのよ、私は……!)
そんな私を。
桜間さんは、やっぱり何か言いたそうな顔で――。
じぃっと、私を見つめていた。
「……なによ」
「いや〜、別に?」
そう言いながら、桜間さんは楽しそうに笑う。
「まっ、私はどんな安城さんでも大好きなんだけどね?」
「……そう」
「あと、ちなみに私はクーデレだから!」
「クーデレ?」
聞き慣れない言葉に、私は首を傾げる。
桜間さんは待ってましたと言わんばかりに、自分を指差した。
「普段は無口なんだけど特定の相手にだけ好意や甘えた態度を見せるの!」
「………そう」
私は、桜間さんをじっと見つめる。
いつも明るくて。
よく喋って。
すぐ人をからかって。
私の胸に飛び込んで来たり。
さっきもグラタンを喉に詰まらせていた桜間さんを。
そして――すぐに答えた。
「……人間、自分とは程遠いものに憧れるものね」
「…………」
一瞬の沈黙。
「それ、どういう意味かな!? 安城さん!」
「そのままの意味だけど?」
「私、結構クールじゃない!?」
「少なくとも、自分で『私はクーデレ』って言う人はクールじゃないと思うわ」
「!?」
私はそんな彼女を横目に見ながら、ほんの少しだけ口元を緩めた。
一人で見ていたら、きっと胸が苦しくて仕方なかった。
神田君と黒羽さんが楽しそうにしている姿を見て。
勝手に嫉妬して。
勝手に不安になって。
きっと、ずっと一人でぐるぐる考え込んでいた。
でも――。
桜間さんが隣にいてくれたから。
こうしてくだらない話をして。
馬鹿みたいなやり取りをして。
私は今、ちゃんと笑えている。
(……ありがとう、桜間さん)
(……おかげで、少しだけ気持ちが楽になったわ)
もちろん。
そんなこと、本人には絶対に言ってあげないけれど。
でも、この時の私はまだ知らなかった。
この穏やかな時間が――
ほんの一瞬の休息に過ぎなかったことを。
桜間さんのおかげで、少しだけ軽くなったはずの心が。
すぐにまた――
深い闇の底へと沈んでいくことを。
そして。
私の中に芽生えた小さな「独占欲」は、もう――。
私自身にも止められないほど、
静かに、大きくなり始めていた。




