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隣の席のオッドアイギャルは俺の心の声が聞こえるらしい  作者: 夕凪虚音
第4章 完璧な推しは壊れていく ――推し曇らせ編――
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第204話 俺の推しには、気になる人がいる

黒羽の瞳から零れた涙が、ぽたりと手の甲へ落ちる。


俺は、その姿をただ黙って見つめていた。


何年もの間、心の奥底に溜め込んできたものが。


傷口の奥にこびりついていた膿のようなものが。


今、ようやく少しずつ外へ流れ出しているように見えた。


きっと。


ずっと苦しかったんだろう。


誰にも言えなくて。


誰にも分かってもらえないと思って。


それでも一人で抱え続けて。


だから今くらいは。


好きなだけ泣けばいい。


俺はそう思って、何も言わなかった。


――その時だった。


「ねぇ、あれ……」


不意に、周囲からざわざわと声が聞こえてくる。


「何あれ? 別れ話?」


「え、女の子めっちゃ泣いてない?」


「あんな可愛い子泣かすなんて、あの男最低じゃね?」


「…………」


俺はゆっくりと周囲を見回した。


何人かの客が、明らかにこちらを見ている。


中には露骨に冷たい視線を向けてくる人までいた。


どうやら、この状況。


傍から見れば――。


俺が黒羽を泣かせているようにしか見えないらしい。


(ちくしょう!!)


(視線が痛ぇ!!)


何もしてない!


いや、何もしてないというのも違うけど!


少なくとも、女の子を泣かせて楽しむような最低野郎じゃない!


……と。


今すぐ立ち上がって弁明したいところだが。


俺は目の前の黒羽を見る。


まだ、その瞳からは涙が零れていた。


(……まあ、いいか)


今までずっと我慢してきたんだ。


泣きたい時くらい、好きなだけ泣けばいい。


泣いたら少しはスッキリするかもしれないし。


だったら今くらい。


周りから最低男だと思われるくらい、別に構わない。


(……いや、やっぱりちょっとは構うけど)


俺は周囲から突き刺さる視線に耐えながら、黒羽が泣き止むのを待った。


しばらくして。


ようやく涙が止まったのか、黒羽は指先で目元をそっと拭った。


少しだけ赤くなった目で、俺を見る。


そして。


いつものように。


少しだけ悪戯っぽく笑った。


「神田っち」


「ん?」


「……ありがとね」


その一言に。


俺は何も言えなかった。


ただ。


いつもの黒羽が少しだけ戻ってきた気がして、胸の奥がほっとした。


すると黒羽は、まるで重くなった空気を吹き飛ばすように明るい声を出した。


「そうだ」


「お礼に、数学のテスト勉強付き合ってあげようか?」


「…………え?」


思わず間の抜けた声が出た。


数学。


その言葉に、俺の頭が一瞬で現実へ引き戻される。


正直に言えば――。


めちゃくちゃ助かる。


俺は次の数学のテストで学年一位を取らなければならない。


そう。


安城の隣の席に戻るために。


推しの隣という、この世で最も尊い聖域を取り戻すために!


俺は今、数学という強大な敵を倒さなければならないのだ。


俺は目の前の黒羽を見る。


(……黒羽って、頭いいのか?)


いや。


これは完全に偏見なのだが。


黒羽はクラスの中心にいるような女の子だ。


明るくて。


友達も多くて。


オシャレで。


コミュ力も高くて。


しかも可愛い。


そんなキラキラした人間が、さらに勉強までできるなんて。


そんなことが許されていいのだろうか。


神様。


ステータス配分、間違えてません?


これで頭まで良かったら。


俺は髪型をモヒカンにしてもいい。


そのくらいあり得ないと思っていた。


俺は恐る恐る黒羽へ尋ねる。


「……黒羽ってさ」


「ん?」


「その……頭いいのか?」


一瞬。


黒羽がきょとんとする。


そして。


「入学テスト一位の安城さんには負けるけど……」


少しだけ考えるように首を傾げたあと。


さらりと言った。


「数学なら、安城さんより上だよ?」


「…………」


「入学テストも四位だったし」


「…………え?」


俺の思考が停止した。


「……マジで?」


「うん」


黒羽は何でもないことのように頷いた。


(…………)


俺のモヒカンが、静かに確定した瞬間だった。


いや。


待て待て待て。


そんなことは今どうでもいい!


数学が安城より上。


つまり。


目の前にいるこの女は――。


俺が推しの隣へ戻るための、救世主ということになる。


俺は勢いよく身を乗り出した。


「頼む!!」


「えっ?」


「黒羽!!」


俺は両手を合わせる。


「俺に数学を教えてくれ!!」


あまりの勢いに、黒羽が目をぱちぱちさせる。


そして。


少しだけ呆れたように。


けれど、どこか嬉しそうに笑った。


「……いいよ」


「マジで!?」


「うん。神田っちには今日のお礼もあるしね」


「黒羽ぁぁぁ!! お前、やっぱりいい奴だな!!」


思わず拝みたくなる。


これで。


安城の隣へ戻れる可能性が、一気に上がった。


そんな俺を見ながら。


黒羽は、いつものように笑っていた。


けれど――。


(……私、何してんだろ)


(神田っちが安城さんの隣の席に戻るの……)


(私、阻止するつもりだったのに)


そんな黒羽の胸の内など知る由もなく。


俺は勢いよく立ち上がった。


「よし! ここじゃなんだし、一階のフリースペースに移動しようぜ!」


「うん、分かった」


黒羽も席を立つ。


そして、何かを思い出したように鞄へ手を伸ばした。


「あっ。そうだ、お昼代は私が出すね?」


「いや、いい! もう払っておいた!」


「……え?」


黒羽が目を丸くする。


「ほら、早く行こうぜ! 時間がもったいねぇ!」


「え、あの……」


黒羽は戸惑ったように俺を見る。


それから。


少しだけ頬を緩めた。


「……ありがとう」


「こっちこそ、店の予約してくれてありがとな」


実は。


黒羽がお手洗いへ行っている間に、会計はすでに済ませていた。


そう。


紳士な俺に抜かりはない。


たとえフツメンでも。


いや。


フツメンだからこそ。


女の子と二人で飯を食べた時くらい、格好つけたい。


女の子にお金を出させたくない。


それが俺の――。


(イケメンすぎるこだわりだ)


……自分で言っていて悲しくなってきた。


まあいい。


そんなわけで。


俺は鞄を持ち、そのまま店の出口へ向かう。


その少し後ろを、黒羽がついてくる。


「…………」


「ん? どうした?」


「ううん」


黒羽は小さく首を横に振る。


そして。


どこか困ったように笑った。


「……なんでもない」


「そうか?」


俺は首を傾げながら、再び歩き出す。


当然。


俺は知らなかった。


その何気ない行動一つ一つが。


俺が思っているよりずっと。


今の黒羽の心に、深く入り込んでいることなんて。


こうして俺は。


ついさっきまで泣いていた黒羽に。


今度は数学を教えてもらうことになった。


――俺が安城の隣の席へ戻るために。


そして黒羽は。


そんな俺を、自分の手で手伝うことになった。


俺達は店を出て、一階のフリースペースへ向かう。


阻止するはずだった黒羽が。


俺を安城の隣へ戻すために、力を貸してくれる。


なんとも奇妙なことになりながら――。


俺達の勉強会が、始まった。



それから、しばらくして。


時刻は午後四時。


「んん〜〜っ!」


俺は椅子に座ったまま、大きく背伸びをする。


長時間同じ姿勢でいたせいか、固まっていた身体が一気にほぐれていく。


そして。


目の前に広げられたノートを見て、思わず声を上げた。


「すげぇよ、黒羽!」


「……え?」


「俺が分かんなかったところ、全部理解できたぜ!」


これはお世辞でもなんでもない。


本当にすごかった。


黒羽の教え方は、めちゃくちゃ分かりやすい。


俺がどこでつまずいているのかをすぐに見抜いて。


難しい公式も、俺でも理解できるように噛み砕いて説明してくれる。


下手したら先生と同じくらい。


いや。


もしかすると――それ以上かもしれない。


(黒羽……マジで頭いいんだな)


入学テスト四位。


数学に関しては、あの安城より上。


最初に聞いた時は驚いたが、実際に教えてもらえば納得しかなかった。


これなら。


本当に学年一位を狙えるかもしれない。


そう思って黒羽を見る。


「…………」


「……ん?」


そこで、俺は首を傾げた。


さっきから。


黒羽の様子が、なんだかおかしい。


顔が赤い。


それも、ほんのりなんてレベルじゃない。


頬が分かりやすいくらい赤く染まっている。


(……なんでだ?)


勉強を教えすぎて知恵熱でも出たのか?


それとも。


さっき泣いていたせいで、まだ顔が火照っているのだろうか。


「黒羽?」


「な、なに?」


「いや……なんか顔赤くね?」


「っ!?」


黒羽の肩が、びくっと跳ねる。


「べ、別に!」


「そうか?」


「そう!」


妙に勢いよく否定された。


(……まあ、本人がそう言うならいいか)


俺は深く考えず、椅子から立ち上がった。


ずっと座りっぱなしだったせいで、少し身体も動かしたい。


それに――。


「ごめん! ちょっとお手洗い行ってくるわ!」


「う、うん」


「すぐ戻る!」


俺は黒羽へそう告げると、その場を離れた。


フリースペースを出て、そのままお手洗いへ向かう。


休日だからだろうか。


ショッピングモールの中は相変わらず人が多い。


家族連れ。


カップル。


友達同士。


そんな人達の間を縫うように歩いていると――。


ふと。


視界の端に、見覚えのある金色が映った。


「……ん?」


思わず足を止める。


そこは、小さな子供達が遊べるフリースペースだった。


楽しそうに走り回る子供達。


そのすぐ近くに置かれたベンチに、二人の女の子が座っている。


一人は。


後ろ姿であろうと見間違えるはずもない。


綺麗な金色の髪。


(……あれ、安城じゃね?)


俺の推し。


安城恵梨香。


そして。


その隣に座っている女の子にも見覚えがあった。


(あとは……桜間?)


桜間楓。


安城のことが大好きな女の子だ。


この前なんて、俺の目の前で安城の胸へ勢いよく飛び込んでいた。


しかも。


こいつはそれだけじゃない。


よりにもよって俺の推しである安城の前で、平然と俺を辱めてくる。


つまり。


俺にとっては――。


(……天敵!!)


できれば関わりたくない。


普通なら。


ここは見なかったことにして、そのままトイレへ向かうべきだろう。


……普通なら。


だが。


俺は思ってしまった。


(……安城、俺が急に後ろから現れたらどんな顔するんだろう)


驚くだろうか。


「きゃっ」とか言うのだろうか。


いや。


安城のことだ。


無表情のまま。


「何をしているのかしら?」


とか言ってくる可能性が高い。


(……あかん。それはそれで見たい)


(……どう転んでも可愛いぞ)


そう。


俺は。


推しの色んな表情が見たい変態なのだ。


自覚はある。


反省はしていない。


(よし……)


俺は足音を殺す。


そして。


二人に気付かれないよう、ゆっくりと安城の背後へ近づいていく。


(どんな顔するかな……)


想像するだけで、少し楽しくなってくる。


安城の驚いた顔。


滅多に見られない表情。


それを間近で見られる。


(へへっ……)


完全に不審者みたいな思考をしながら。


俺は少しずつ距離を縮めていく。


十メートル。


七メートル。


五メートル。


そして。


二人との距離が近づくにつれて。


少しずつ、会話が耳へ入ってきた。


桜間が何かを話している。


それに対して。


安城が答えた。


その声は。


いつものように静かで。


はっきりとしていた。


「私――」


俺は足を止める。


次の瞬間。


安城の口から。

その言葉が、聞こえた。


「神田君のことなんて、べ、別に好きじゃないわ」


「き、気になる人は別にいるけど!?」


「…………え?」


その瞬間。


世界から、一瞬だけ音が消えた。


子供達の楽しそうな笑い声も。


周囲を行き交う人達の話し声も。


ショッピングモールに流れる明るい音楽も。


何も聞こえなくなる。


ただ。


安城の言葉だけが。


頭の中で、何度も何度も繰り返されていた。


――神田君のことなんて、好きじゃない。


――気になる人がいる。


つまり。


安城には――俺以外に、気になる奴がいる。


胸の奥が。


ぎゅっと。


見えない何かに握り潰されたように痛んだ。


「…………」


声が出なかった。


さっきまで安城を驚かせてやろうなんて。


そんな馬鹿なことを考えながら、ワクワクしていたはずなのに。


今はもう。


そんな気持ちは、どこにも残っていなかった。


(……そっか)


俺は、少し離れたところから安城の背中を見つめる。


(……安城、気になる奴いたんだな)


以前にも、似たようなことがあった。


俺が勝手に勘違いして。


安城には彼氏がいるんじゃないかって思い込んで。


一人で勝手に落ち込んだ。


結局。


あの時は俺の勘違いだった。


だから今回も。


もしかしたら――。


そんな淡い期待が、一瞬だけ胸の奥に浮かぶ。


けれど。


今回は違う。


俺は確かに聞いた。


他の誰でもない。


安城本人の口から。


『気になる人はいる』


そう、はっきりと。


(……そっか)


もう一度。


心の中で呟く。


それ以外の言葉が、何も浮かばなかった。


安城みたいな可愛い女の子なんだから。


気になる奴の一人くらいいたって、何もおかしくない。


むしろ。


今までいないと思っていた俺の方が、おかしかったのかもしれない。


それなのに。


「…………」


胸が。


どうしようもなく痛かった。


まるで。


大切な何かを失ってしまったみたいに。


(……なんでだよ)


俺はただ。


安城のことを“推し”だと思っていただけなのに。


推しが誰を好きになろうと。


誰と付き合おうと。


安城が幸せなら。


それでいいはずなのに。


なのに――。


(なんで、こんなに苦しいんだよ……)


分からなかった。


いや。


本当は。


もうずっと前から、分かっていたのかもしれない。


ただ。


認めるのが怖かっただけで。


「…………」


俺は何も言わず。


ただ、その場に立ち尽くしていた。


さっきまであんなに明るく見えていた世界が。


少しずつ。


ゆっくりと。


色を失っていくように感じた。


まるで。


俺の知らないところで。


安城が少しずつ、遠くへ行ってしまうような――。


そんな気がした。

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