第203話 黒羽冬花――私の恋は、偽物じゃなかった
私は、神田っちに話した。
中学時代、私の身に何があったのか。
ずっと隣にいると信じていた蒼真のこと。
羽衣さんのこと。
教室中のみんなが私ではなく羽衣さんを選んだ、あの日のこと。
そして――。
そのすべてに耐えられなくなって、学校へ行けなくなったこと。
親にも話せなかった。
友達にも話せなかった。
誰にも理解してもらえないと思って、ずっと自分の心の奥底に押し込めてきた。
まるで傷口の奥に溜まり続けた膿みたいに。
触れれば痛い。
思い出せば苦しい。
それでも、なくなってはくれない。
そんな私の過去を。
私は初めて、神田っちに話した。
だけど――。
全部を話したわけじゃない。
自分には、相手から向けられる好感度が数値として見えること。
羽衣さんが、ずっと何かを探していること。
その二つについては、口にしなかった。
だって、それを話せば。
私が普通の人間ではないことまで、神田っちに知られてしまうかもしれないから。
そして。
もう一つ。
私は、もっと大きな秘密を隠していた。
恋愛の好感度が八十を超えた時。
私の目の前に現れる――『忠誠』というコマンド。
それに『はい』と答えれば。
相手にどれだけ好きな人がいようと。
どれだけ大切な人がいようと。
その想いすら捻じ曲げて。
私へ忠誠を誓わせることができる。
そんな、力を。
私は神田っちに話せずにいた。
いや。
――話さなかった。
それは紛れもなく、私の弱さだった。
神田っちに嫌われたくない。
怖がられたくない。
軽蔑されたくない。
そんな打算的な気持ちが、確かに私の中にあった。
全部を話して楽になりたいくせに。
一番知られたくない自分だけは、必死に隠している。
そんな自分が少しだけ嫌になった。
それでも。
私は神田っちに話した。
ずっと誰にも言えなかった過去を。
そして最後に。
自分でも気付いていなかった本音のようなものが、ぽろりと零れ落ちた。
「ねぇ……神田っち」
神田っちが私を見る。
私は膝の上で、ぎゅっと拳を握り締めた。
「最高の復讐ってさ」
一度、言葉を止める。
聞くのが怖かった。
だけど。
それ以上に――知りたかった。
「一体、何だと思う?」
一度、誰かを心の底から恨んで。
それでも最後には、その人を許した神田っち。
そんな神田っちが、一体どんな答えを出すのか。
私は知りたかった。
もしかすると。
答えを決めてもらいたかったのかもしれない。
そんな私に、神田っちは言った。
「相手の前から姿を消して、もう二度と許す機会を与えないことだと、俺は思う」
意外だった。
神田っちならきっと。
――許すこと。
そう答えると思っていたから。
その瞬間。
以前、私は銀髪の天才発明家に言われた言葉が、頭の中に蘇った。
『人は未完の苦しみに、ずっと囚われる生き物なんだ』
『あのとき、こうしていれば』
『なんで自分だけが』
『――そうやって、過去が今を侵食する』
静かな声音だった。
感情を交えず。
まるで数式の答えでも説明するみたいに。
けれど。
その言葉は、やけに重かった。
『でもね』
一拍。
『許すっていうのは、“終わらせる”ことなんだ』
『結論を出すこと』
『終わったものに、人は縛られない』
そして。
銀髪の少女の視線が、真っ直ぐ私へ向けられた。
『だから――長期的には、合理的な選択とも言える』
あの時。
私は、その考えを心の底から嫌悪した。
なんで?
どうして?
傷付けられたのは私なのに。
全部を奪われたのは私なのに。
どうして傷付いた側が、最後には譲歩しなきゃいけないの?
どうして私が許してあげなきゃいけないの?
そんなの、おかしい。
まるで。
いつまでも許せずにいる私の方が馬鹿みたいに。
復讐に囚われている私の方が間違っていると、そう言われているような気さえした。
だから私は、あの言葉を受け入れられなかった。
――でも。
今は、少し違う。
羽衣さんと蒼真とついさっき再会した。
私はもう。
疲れていた。
憎むことに。
思い出すことに。
何度も何度も、あの日を頭の中で繰り返すことに。
蒼真を思い出して。
羽衣さんを思い出して。
幸せそうに笑う二人を想像して。
そのたびに胸の奥をぐちゃぐちゃに掻き回されることに。
もう――疲れていた。
私は、解放されたかった。
復讐という、底の見えない泥沼から。
だから。
もし神田っちが。
『最高の復讐は、許すことだ』
そう言ってくれたなら。
私は今度こそ、その言葉を信じてみようと思っていた。
許すなんて、弱い人間がすること。
争う勇気がないから。
傷付けた相手と向き合うのが怖いから。
ただ穏便に済ませたいだけの――逃げ。
私はずっと、そう思っていた。
許すことを選んだ人を見るたびに。
「綺麗事を言って、本当は逃げているだけじゃないの?」
心のどこかで、そんな風に思っていた。
そんな私。
けど神田っちの答えは。
『相手の前から姿を消して、もう二度と許す機会を与えないこと』
私が求めていたものとは、まるで違っていた。
私は思わず、神田っちの顔を見つめる。
どうして。
あなたは二人を許したのに。
どうして、そんな答えを出すの?
その矛盾が。
なぜか私には――どうしようもなく気になった。
そんな私の疑問に答えるように、神田っちは静かに続ける。
「人ってさ」
少しだけ視線を落とす。
「後から気付くことがあるんだ」
「なんであんなことを言ったんだ」
「なんであんなことをしたんだ」
「謝りたい」
「やり直したい」
「もう一度会いたい」
一つ一つ。
まるで、自分自身の過去を思い返すように言葉を紡いでいく。
「そういう後悔って、簡単には消えない」
神田っちは、どこか寂しそうに苦笑した。
「でも、その時にはもう遅いんだ」
「相手が目の前からいなくなってたら」
「謝ることもできない」
「償うこともできない」
「許してもらうこともできない」
そして、小さく息を吐く。
「その後悔を、一生抱えて生きるしかない」
「俺は、それが一番重い復讐なんじゃないかって思ってる」
「『もう、お前は俺の人生には必要ない』って」
「そう突きつけて、自分の人生を歩いていくこと」
その言葉を聞きながら。
私は、何も言えなかった。
神田っちは少しだけ遠くを見る。
まるで、ここではないどこかを見ているようだった。
「あのさ」
「俺、最初は秀英高校を受験しようと思ってたんだ」
「でも、愛理と蓮也と仲違いした時さ」
「もう二度と会ってやるもんかって思った」
「あんな酷いことをしたお前らは、一生後悔して生きればいいって」
「だから連絡先も全部消した」
「あの時は、本気でそう思ってた」
それから、自嘲するように笑った。
「……卑屈だろ?」
私は何も言わなかった。
言えなかった。
ただ静かに、彼の言葉を聞いていた。
だって。
その気持ちは、私にも少しだけ分かる気がしたから。
神田っちは肩を竦めながら続ける。
「昔さ、テレビで見たことがあるんだ」
「『幸せになることが最高の復讐です』って」
「その言葉自体は、きっと間違ってない」
「嫌なことなんて忘れて」
「前を向いて」
「幸せになる」
「それができるなら、それが一番いい」
そこで神田っちは言葉を切った。
少しだけ視線を落として、小さく息を吐く。
「でもさ」
その声が、ほんの少しだけ低くなる。
「壮絶なトラウマを抱えた人に、その言葉をそのまま投げるのは……俺は違うと思う」
「だって、本当に絶望した人間って」
「幸せになること自体が怖くなるんだ」
「笑うことに罪悪感を覚えたり」
「前へ進もうとすると、過去に引き戻されたり」
「そういう人だっている」
その言葉を聞いた瞬間。
私の肩が、ぴくりと震えた。
――ああ。
分かってるんだ。
この人は。
ただ綺麗なことを言っているわけじゃない。
「幸せになればいい」
「忘れればいい」
「前を向けばいい」
そんな簡単な言葉で、私の過去を片付けようとしているわけじゃない。
前へ進みたいのに、進めない。
忘れたいのに、忘れられない。
幸せになりたいはずなのに。
自分だけが幸せになることすら、なぜか許せない。
そんな矛盾した気持ちを。
神田っちは、知っている。
「だから」
神田っちは続ける。
「無理に幸せになろうとしなくてもいい」
「無理に許そうとしなくてもいい」
「まずは、自分の中で納得できる形を見つけることが大事なんじゃないかなって思う」
そして。
神田っちは、真っ直ぐ私を見つめた。
「私はあなたを許さない」
「私はあなたとは、もう二度と関わらない」
「そうやって、自分の意思を示すことも、一つの区切りなんだと思う」
「相手のためじゃない」
「自分自身が前へ進むための区切りだ」
その言葉が。
ゆっくりと胸の奥へ沈んでいく。
「もちろんさ」
神田っちは少しだけ笑った。
「暴力とか、人を傷つけるような復讐には反対だ」
「誰かを傷つけた瞬間、その人は相手に人生を支配されたままになる」
「だからこそ俺は」
少しだけ間を置く。
「もうお前は俺の人生には必要ない――そう決めて、自分の人生を歩いていくこと」
「それが俺なりの、最高の復讐なんだと思う」
私は、何も言えなかった。
それは。
私があの日、選んだ道とよく似ていたから。
私は自分を変えた。
髪を変えて。
服装を変えて。
性格まで変えて。
そして。
羽衣さんと蒼真の前から姿を消した。
もう二度と。
あの二人に傷付けられないために。
もう二度と。
あの頃の弱かった私に戻らないために。
私は、自分の人生を歩こうとした。
――そのはずだった。
でも。
私は、神田っちみたいには強くなれなかった。
身体はあの場所から離れられても。
心だけは、ずっとあの日に取り残されたままだった。
あの時。
もっとこう言えばよかった。
どうして何も言い返せなかったんだろう。
どうして蒼真を引き止められなかったんだろう。
どうして羽衣さんに負けたんだろう。
どうして。
どうして。
どうして――。
そんな後悔ばかりが、何度も何度も頭の中を巡った。
終わったはずの過去を。
私は自分自身で何度も掘り返していた。
そして、いつしか。
私は――。
あれほど嫌悪していた羽衣雪音と、同じようなことをするようになっていた。
誰かの大切な人を奪う。
誰かが必死に守ろうとしている恋を壊す。
そして。
奪われた側の顔を見る。
苦しそうな顔。
泣きそうな顔。
絶望した顔。
そんな顔を見るたび。
胸の奥で、醜い何かが囁いた。
――ほら。
――分かったでしょ?
――大切な人を奪われるって、こういうことなんだよ。
私だけじゃない。
みんなも苦しめばいい。
私が味わった苦しみを。
私が一人で抱えてきた絶望を。
みんなにも思い知らせてやりたい。
そんな。
どうしようもなく醜くて。
どうしようもなく下衆な感情が。
確かに――私の中にはあった。
そして私は。
その感情に囚われたまま。
自分が一番嫌いだったはずの人間へ、少しずつ近付いていた。
その事実を認めるだけで、胸の奥がずきりと痛む。
私は少しだけ間を空けると、ぽつりと呟いた。
「……意外ね」
神田っちが小さく首を傾げる。
「神田っちなら」
私は、どこか困ったように笑った。
「『最高の復讐は許すことだ』って、そういうことを言うと思ってた」
だって。
神田っちは、愛理さんも蓮也君も許したから。
あれだけ傷付けられて。
あれだけ苦しんで。
それでも最後には、二人へ手を差し伸べたから。
てっきり、それが神田っちの答えなのだと思っていた。
けれど。
神田っちは、俺はそう思わないと言った。
なのに――二人を許した。
その矛盾が、どうしても分からなかった。
すると神田っちは、少し困ったように頬をかいた。
「……だから俺は、復讐することをやめたよ」
「……え?」
思わず目を見開く。
神田っちは苦笑しながら肩をすくめた。
「俺さ、やっぱりみんなと仲良くしたいんだよ」
「人を恨み続けるのって、どうも性に合わないみたいで」
そう言って、降参するみたいに両手を上げる。
その姿はあまりにも神田っちらしくて。
私は、何も言えなくなった。
「もちろん、恨んでた時期はあった」
「復讐したいって思ったことだってある」
「でも、俺は復讐に手を染めるより――同じように苦しんでる人に寄り添うことを選んだ」
そう言って。
神田っちは、少しだけ視線を落とした。
「俺が味わった苦しみには意味があったって、そう思いたかったんだ」
「この痛みがあったからこそ、誰かの苦しみに気付けるようになったんだって」
「…………」
胸の奥が、震えた。
神田っちも。
私と同じように、大切な人を失った。
信じていた人に裏切られて。
一人になって。
憎んで。
復讐したいとさえ思った。
私と同じだったはずなのに。
その先で。
私たちは、まったく違う道を歩いていた。
私は、自分が味わった苦しみを誰かにも味わわせようとした。
――私だけが苦しいなんて許せない。
そう思って。
誰かの大切な人を奪った。
誰かの恋を壊した。
それなのに。
神田っちは。
自分が苦しんだからこそ。
同じように苦しんでいる誰かに寄り添おうとした。
同じ痛みを知っているから。
その痛みを、誰かを傷付けるためではなく。
誰かを見つけるために使おうとした。
その違いが。
どうしようもなく眩しかった。
そして同時に。
どうしようもなく――苦しかった。
「ねぇ……神田っち」
気付けば、声が漏れていた。
自分でも。
どうして今、そんなことを聞こうとしているのか分からなかった。
ただ。
ずっと胸の奥に押し込めていた何かが。
神田っちの言葉に触れて。
少しずつ、溶け始めていた。
今まで言葉にできなかった本音が。
まるで心の奥から吸い出されるように。
ゆっくりと。
震えながら。
喉の奥から零れ落ちていく。
「私の……蒼真への恋は」
そこで、言葉が詰まった。
怖い。
聞きたくない。
もし。
もし神田っちにまで否定されたら。
私は――。
それでも。
もう、止められなかった。
「……偽物だったのかな?」
その言葉を口にした瞬間。
何年も胸の奥へ閉じ込めていた苦しみが、一気に溢れ出した。
私は俯いたまま続ける。
ぽたり。
涙が一粒、手の甲へ落ちた。
「大好きで」
もう一粒。
「大好きで……」
声が震える。
「いっぱい尽くして」
「ずっと隣にいたかった」
蒼真の笑顔が好きだった。
蒼真に喜んでもらえることが嬉しかった。
いつか。
ずっと隣にいられるのだと、本気で信じていた。
「……あの日々は」
唇を噛み締める。
それでも涙は止まらなかった。
「何の意味も、なかったのかな……?」
言ってしまった。
ずっと。
ずっと怖くて、誰にも聞けなかったことを。
「……ごめんね?」
無理やり笑おうとする。
でも、きっと笑えていなかった。
「こんなこと言って……」
「困るよね……?」
怖かった。
心の底から怖かった。
神田っちは、私と似た痛みを知っている。
なのに。
私とはまったく違う道を歩いている。
だからこそ。
神田っちが何と答えるのかが、怖かった。
もし。
『それは本当の恋じゃなかった』
そう言われたら。
もし。
『そんなことをした時点で、お前の気持ちは偽物だ』
そう言われたら。
きっと私は。
自分が今まで生きてきた時間そのものまで、全部否定されたように感じてしまう。
沈黙が怖くて。
私は俯いたまま、ぎゅっと目を閉じた。
そして――。
「……何言ってんだよ」
その声が聞こえた。
私は恐る恐る、ゆっくりと顔を上げる。
神田っちは。
真っ直ぐ、私の瞳を見つめていた。
軽蔑なんてしていなかった。
呆れてもいなかった。
ただ。
当たり前のことを言うみたいに。
神田っちは口を開いた。
「一人の人間を、こんなに長い間、本気で愛し続けた黒羽が」
少しだけ笑って。
「偽物なわけ、ないだろ」
「…………あ」
その言葉が届いた瞬間だった。
胸の奥で。
何かが、ほどけた。
その時。
私はようやく気付いた。
私はずっと。
誰かに肯定してほしかったんだ。
蒼真を好きだった自分を。
蒼真のために頑張った自分を。
喜んでほしくて。
振り向いてほしくて。
ずっと隣にいたくて。
必死に尽くしてきた、あの日々を。
――無駄じゃなかった。
――あなたの気持ちは、本物だった。
そう。
自分以外の誰かに。
ただ一度でいいから。
認めてほしかったんだ。
蒼真を奪われてから。
私はずっと、自分の恋が負けたのだと思っていた。
そしていつの間にか。
恋に負けたことと。
私の恋が偽物だったことを。
同じものだと思い込んでいた。
でも。
違ったんだ。
結ばれなかったからって。
届かなかったからって。
あの日々まで、偽物になるわけじゃない。
私が蒼真を好きだったことまで。
誰にも――奪うことなんてできなかったんだ。




