第201話 復讐という名の呪い
「……神田っち」
震える声だった。
けれど、その声には、さっきまでとは違うものが宿っていた。
怯えだけじゃない。
逃げないと決めた人間の、かすかな強さ。
黒羽冬花は、小さく息を吸うと、ゆっくりと口を開いた。
そして――俺は、黒羽の過去を知った。
幼なじみだった阿崎蒼真とのこと。
ずっと隣にいると信じていた大切な人を、羽衣雪音に奪われたこと。
教室中が羽衣雪音を称賛し、自分だけが取り残されていく、あの異様な光景。
誰も味方になってくれなかったこと。
心が壊れ、不登校になったこと。
そして――その絶望をきっかけに、自分自身を変えたこと。
黒羽は最後まで淡々と話そうとしていた。
けれど、ところどころで声が震え、言葉が詰まる。
どれだけ時間が経っても、その傷はまだ塞がっていないのだと嫌でも伝わってきた。
「……だから私は許せないの」
黒羽は俯いたまま、小さく呟く。
「蒼真と……羽衣さんが」
その一言に込められた憎しみは、想像以上に重かった。
黒羽は何かを言いかける。
「私、本当は――」
そこまで口にしたところで、ぎゅっと唇を噛み締める。
それ以上は話さなかった。
俺は無理に続きを促さなかった。
代わりに、黒羽が見てきた異様な出来事を頭の中で整理する。
そして、一つの答えへ辿り着いていた。
――EES発現者。
間違いない。
羽衣雪音は、EES発現者だ。
(……周囲の人間を、自分の考えへ同調させるタイプのEES発現者か?)
(でも、それを黒羽に説明したところで……)
俺は心の中で苦笑する。
正直、信じてもらえる気がしない。
俺自身だって、全部を理解しているわけじゃない。
「そういう超能力があるんだ」
なんて言われて、普通は信じるはずがない。
だから俺は何も言えなかった。
沈黙だけが流れる。
その時だった。
黒羽がテーブルの上に置いた手を、ぎゅっと握り締めた。
白くなるほど強く。
「……神田っち」
「どうした?」
「私ね」
少しだけ躊躇うように視線を伏せる。
「実は数日前、神田っちが秀英高校の生徒と喧嘩してるところ……見てたんだ」
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「神田っちのその怪我の理由も、知ってる」
「え!? 嘘だろ!?」
思わず身を乗り出してしまう。
……あの日か。
蓮也とぶつかった、あの日。
ということは。
黒羽は見てしまったんだ。
蓮也が赤い涙を流し、他人へ苦しみを分け与える、あの異様な光景を。
黒羽は静かに頷いた。
「うん」
「私、あれを見て……何となく分かったの」
「世の中には、説明できない現象があるんだって」
そう言う黒羽の瞳には、恐怖と確信が入り混じっていた。
「多分だけど……秀英高校のあの男の子と、羽衣さんは同じなんだと思う」
「…………」
俺は返事ができなかった。
紅茶へ手を伸ばし、一口だけ飲む。
少し冷めたそれは、妙に苦く感じた。
すると黒羽は、小さく息を吸う。
「でもね」
「私ね……神田っちに、どうしても聞きたいことがあるの」
「……な、なんだ?」
俺は思わず身構えた。
てっきり、この現象について聞かれるものだと思っていた。
だけど。
黒羽が口にしたのは、まったく別の問いだった。
「神田っちは最後……あの秀英高校の男の子と和解してた」
「私ね、あの日の詳しい事情は知らない」
「でも、それでも分かるの」
黒羽は真っ直ぐ俺を見る。
「神田っちが、理不尽に酷いことをされたってことくらい」
「それなのに」
「どうして……彼を許せたの?」
俺は息を呑む。
黒羽は続ける。
「あの剣道場でも」
「あの時、ピンク色の髪の女の子を抱きしめてたよね」
愛理のことだ。
「あの子だって、神田っちに酷いことをした」
「なのに……どうして許せるの?」
その声は責めるものじゃなかった。
純粋な疑問だった。
理解したくても、理解できない。
そんな苦しさが滲んでいた。
「少なくとも私は……そんなこと出来ない」
黒羽はゆっくりと首を振る。
「嫌なことをされたら」
「復讐したいって思う」
「自分の手が汚れようが関係ない」
「最初に酷いことをしてきたのは向こうなんだから」
「やり返さないと、気が済まないの」
その言葉には実感があった。
綺麗事じゃない。
自分を支えてきた、本音そのものだった。
「でも」
黒羽は小さく笑う。
その笑顔は痛々しいほど儚い。
「神田っちは二人を許した」
「ねぇ……」
潤んだ瞳が俺を見つめる。
「どうして?」
その問いを聞いた瞬間、俺は理解した。
黒羽は蓮也と愛理に、自分と蒼真、そして羽衣雪音を重ねているんだ。
「俺は……」
一度言葉を飲み込む。
喉の奥がひどく重かった。
黒羽の瞳は真っ直ぐ俺を見つめている。
答えを求めている目だった。
綺麗事じゃない。
慰めでもない。
本当の答えだけを知りたい――そんな切実な眼差しだった。
だから俺も、ごまかすのはやめた。
「……話すよ」
静かに息を吐く。
そして俺は、愛理と蓮也に何があったのかを、できる限り話せる範囲で黒羽へ語り始めた。
愛理への初恋。
信じていた蓮也から受けた裏切り。
どれだけ想いを積み重ねても、どれだけ努力しても、人は必ず報われるわけじゃないという、どうしようもなく残酷な現実。
そして――。
自分自身の過去も。
幼い頃。
妹の姫花が片倉にいじめられていたこと。
怖くて泣いていた姫花を守るため、俺は片倉へ向かっていったこと。
その結果。
悪者になったのは俺だった。
「神田、やりすぎだろ」
「片倉君が可哀想」
「人として最低」
そんな言葉ばかりが飛んできた。
誰一人として。
泣いていた姫花を見ようとはしなかった。
俺は集団から浮いた。
孤立した。
周囲から向けられる嫌悪の視線を浴び続けた。
……あの頃の息苦しさは、今でも忘れていない。
話し終える頃には、店内には静かな沈黙だけが流れていた。
黒羽は何も言わない。
ただ黙って俺の話を聞いている。
俺はゆっくりと紅茶へ手を伸ばした。
少し冷めたそれを一口飲み込み、小さく息を吐く。
「……理解できたんだよ」
ぽつりと呟く。
「二人の過去を知ってさ」
「どうして、あんな選択をしてしまったのか」
「どうして、あんな風に苦しんでいたのか」
「全部とは言わない。でも……少しだけ、分かったんだ」
俺はカップの中へ視線を落とす。
紅茶の表面が、小さく揺れていた。
「相手の痛みを知ったから」
「その痛みに寄り添えた」
「俺も似たような痛みを知ってた」
「だから……愛理の苦しさも」
「蓮也の苦しさも」
「痛いくらい伝わってきたんだ」
「……だから俺は、許そうと思えた」
その言葉を口にした瞬間。
静かだった店内へ、小さな吐息が落ちる。
黒羽だった。
彼女は自嘲するように、小さく笑っていた。
「……それでも」
その笑みは、あまりにも寂しかった。
「私は、許せそうにないよ」
俺は黙って黒羽を見る。
黒羽は視線をテーブルへ落としたまま続ける。
「酷い思いをした側の人間が」
「どうして、その怒りを我慢しないといけないのか」
「私には分からない」
その声は震えていた。
怒りなのか。
悲しみなのか。
もう本人にも区別がついていないようだった。
「私は……」
黒羽はぎゅっと拳を握る。
指先が白くなるほど強く。
「復讐したい」
その一言だけで。
彼女がどれだけ長い時間、その感情を抱え続けてきたのか伝わってきた。
「蒼真を」
「羽衣さんを」
「幸せそうに笑ってる二人を見るたびに」
「どうして私だけがこんな思いをしなきゃいけないんだって思うの」
「どうして私だけが全部失って」
「どうして向こうだけ笑っていられるのって」
黒羽はゆっくりと唇を噛む。
目尻には涙が滲んでいた。
「私ね」
「本当は忘れたいの」
「前へ進みたいの」
「もう終わったことなんだって思いたいの」
苦しそうに笑う。
「でもね」
「どうしても忘れられない」
「思い出そうとしてるわけじゃないのに」
「勝手に思い出しちゃうの」
「蒼真の笑顔も」
「羽衣さんの笑顔も」
「教室のみんなが拍手してたあの日の光景も」
「全部、勝手に蘇ってくる」
声が少しずつ小さくなる。
「だから」
「私は前へ進めない」
「私のあの過去は完結していないの」
「ずっと未完のまま」
黒羽はゆっくりと顔を上げた。
赤く潤んだ瞳が真っ直ぐ俺を見る。
そこには怒りもあった。
憎しみもあった。
でも。
それ以上に。
答えを求めるような、迷子の子どもみたいな弱さがあった。
「ねぇ……神田っち」
静かな声だった。
「最高の復讐ってさ」
少しだけ間を置く。
「一体、何だと思う?」
その問いだけが、静かな店内へ落ちた。
俺はすぐには答えられなかった。
黒羽が聞いているのは、復讐の方法じゃない。
この憎しみをどうすれば終わらせられるのか。
どうすれば、この苦しみから解放されるのか。
その答えを――俺に求めているのだと、痛いほど伝わってきた。




