第200話 安城恵梨香――恋の監視
『確か明日のお昼十二時に、駅前のショッピングモールだったかな……』
電話で姫花ちゃんから聞いた情報が、何度も頭の中で繰り返される。
――神田君が、私とじゃない人と二人きりでデートをする。
本当なら、こんなことをしてはいけない。
誰かのデートを尾行するなんて最低だって、自分でも分かっている。
それでも――。
どうしても、この胸のざわつきを抑えられなかった。
神田君が誰と、どんな表情で過ごすのか。
それを知らないままでいるほうが、ずっと苦しかった。
◇
デート当日。
駅前のショッピングモールで並んで歩く神田君と黒羽さんの姿を見つけた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
(デート相手黒羽さんだったんだ)
以前、偶然聞こえてしまった黒羽さんの心の声が蘇る。
『私から神田君を奪う』
あの言葉が、胸の奥で嫌なほど鮮明によみがえった。
二人は自然な距離で歩き、楽しそうに言葉を交わしている。
その光景を見ているだけなのに、胸の奥が痛くてたまらない。
私は気づかれないよう物陰に身を隠しながら、二人の後を追った。
焦る気持ちを抑えきれず、自然と足取りはいつもより速くなっていた。
やがて二人が足を止めたのは、水着専門店だった。
「……えっ」
思わず息をのむ。
店の外からでも様子を見ることはできる。
そのほうが安全だ。
もし店内に入れば、鉢合わせするかもしれない。
頭ではそう分かっている。
それなのに――。
気づけば私は迷うことなく店の中へ足を踏み入れていた。
見つからないように距離を取りながら、それでも少しでも近くで二人を見ていたかった。
そんな自分が、少し嫌だった。
しばらくすると、黒羽さんは試着室へ入っていく。
神田君はその前で、少し落ち着かない様子で待っていた。
私は服を手に取るふりをしながら、二人の様子を気にしてしまう。
視線を向けてはいけないと思うほど、目が離せなかった。
やがて試着室のカーテンがゆっくり開き、黒羽さんが新しい水着姿で姿を現した。
◇
「ねぇ……なんか言ってよ、神田っち」
黒羽さんは照れ隠しをするようにもじもじと笑う。
「そんな黙られると、逆に不安なんだけど」
「いや、その……」
神田君は慌てたように頭をかき、言葉を探していた。
少しの沈黙のあと――。
「…………すげぇ似合ってる」
その一言が聞こえた瞬間、私は胸元の服をぎゅっと握りしめた。
「俺、女の子の水着なんて初めてだけど……すごい可愛いよ」
――初めて。
その言葉が、鋭い針みたいに胸へ突き刺さる。
神田君にとっての「初めて」。
その特別な瞬間にいるのは、私じゃない。
その事実が、どうしようもなく悔しかった。
「ほんと?」
黒羽さんが嬉しそうに笑う。
「嘘なんてつかねぇよ!」
少し照れくさそうに笑いながら、それでも神田君は真っ直ぐに続けた。
「すごい可愛いよ」
その言葉を聞いた黒羽さんの頬が、ぱっと赤く染まる。
その笑顔があまりにも幸せそうで、見ているだけなのに胸が苦しくなった。
(……やっぱり、二人はもうそういう関係なのかな?)
自然に笑い合って。
照れ合って。
こんなにも距離が近くて。
そう思ってしまうのも無理はなかった。
(……私がいるのに)
胸の奥から、小さく震える声が聞こえる。
(神田君は……もう私に興味がないの?)
その答えが知りたかった。
知ってしまえば傷つくかもしれない。
それでも、知らないまま苦しみ続けるほうがもっと怖かった。
私は一歩だけ神田君へ近づく。
あと少し距離を縮めれば、彼の心の声が聞こえる。
黒羽さんをどう思っているのか。
本当は何を考えているのか。
その答えを知れるのは、私だけ。
だから――。
(……だめ)
足が止まる。
(そんなことして……見つかったら)
神田君に軽蔑されるかもしれない。
嫌われるかもしれない。
その想像だけで胸が苦しくなり、私は唇をきゅっと噛み締めた。
知りたい。
でも、知るのが怖い。
その二つの想いに引き裂かれながら、私はただ遠くから二人の姿を見つめ続けることしかできなかった。
近づきたい。
でも近づけない。
神田君の本当の気持ちを知りたい。
それなのに、その一歩がどうしても踏み出せなかった。
そんなふうに迷っているうちに、一人の店員さんが笑顔で二人の間へ歩み寄ってきた。
「すごくお似合いですね〜」
朗らかな声が店内に響く。
「彼氏さんも鼻が高いですね」
その一言に、私の鼓動がぴたりと止まった気がした。
「え?」
黒羽さんが目を丸くする。
「彼氏?」
「いや、俺達は――」
神田君が慌てたそのときだった。
「せっかくですし、彼氏さんが選んだ水着を着てあげるのはどうです?」
店員さんは悪気などまったくない笑顔で、神田君と黒羽さんを交互に見つめながら提案する。
その光景を見た瞬間、私はぎゅっと拳を握り締めていた。
爪が手のひらに食い込むくらい強く。
(……彼氏じゃないもん)
胸の奥から、小さな声が漏れる。
(神田君は……私を推してるの)
自分でも、どこか言い聞かせるような響きだった。
(黒羽さんとは……付き合ってないもん)
お願いだから。
そうであってほしい。
その願いを何度も心の中で繰り返しながら、私は必死に自分を落ち着かせようとする。
それでも視線だけは、どうしても二人から逸らせなかった。
逃げるように目を背ければ、もっと悪い想像ばかり膨らんでしまいそうだったから。
私は再び、息を潜めて二人の様子を見守る。
すると黒羽さんが、ぱっと表情を明るくした。
「それいいですね!」
嬉しそうな声が店内に弾む。
「神田っち!」
神田君へ向かって、一歩近づく。
「私に着てほしいのがあったら持ってきていいよ?」
屈託のない笑顔。
その笑顔が眩しすぎて、胸がまた痛くなる。
「男の意見聞くために来たんだし」
「神田っちが選んだやつなら、参考になるじゃん」
その言葉に神田君は一瞬きょとんとした顔を見せる。
「……ん?」
黒羽さんが首をかしげる。
「どしたの、神田っち?」
神田君は少し照れくさそうに頭をかきながら、何かを考え込んでいるようだった。
そんな様子を見た店員さんが、くすっと笑う。
「おっ? 彼氏さん、乗り気ですね〜」
その言葉が耳に入るたびに、胸の奥がちくりと痛む。
違う。
違うのに。
誰も訂正しないその空気が、二人の距離を認められているみたいで苦しかった。
店員さんは楽しそうに水着の並ぶ棚へ視線を向ける。
「私的には、清楚系の水着とかいいと思いますよ〜」
店員さんはそう言いながら、次々と水着を手に取り、楽しそうに二人へ見せていく。
私はその様子を遠くから見つめたまま、胸の奥に広がる苦しさをどうすることもできず、ただ唇をきゅっと噛み締めることしかできなかった。
――その瞬間だった。
「えっ?」
神田君が突然、何かを見つけたように勢いよく走り出した。
あまりにも迷いのない動きに、思わず目を丸くする。
(神田君……どうしたんだろう?)
(そんなに気になる水着があったのかな?)
私は彼の視線を追う。
そして神田君が真っ先に手に取った水着を見た瞬間、思わず心の中で盛大にツッコミを入れてしまった。
豹柄。
しかも、布地の面積が普通の水着よりもずっと小さい。
露出の多い、大胆なデザインだった。
(いやいや、それはないでしょ……)
思わず額に手を当てたくなる。
本当に、この人は……。
欲望に一直線というか、本音に忠実というか。
隠そうともしないところが、なんとも神田君らしい。
そんな真っ直ぐすぎるところに、思わず笑いそうになる。
けれど同時に、その真っ直ぐな視線は私には向けられていないのだと思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
(ほんと……どれだけ自分の本音に正直なのよ)
思わず苦笑が漏れる。
(ふふ……本当に馬鹿ね)
(そんなエッチな水着誰が着るのよ)
優しく笑うような、呆れるような。
そんな複雑な笑みが浮かぶ。
(そんなの選んだら……黒羽さんに嫌われちゃうわよ?)
その言葉を思い浮かべた瞬間、自分の胸が少しだけ軽くなる。
神田君が黒羽さんに引かれる。
そうなればいいのに、と。
そんな考えが頭をよぎった。
そのことに気づいた瞬間、私は小さく目を伏せる。
(……私、どんどん嫌な女の子になってる)
好きな人の幸せを願えない。
相手が失敗すればいいなんて思ってしまう。
そんな自分が嫌だった。
今までの私、安城恵梨香はそんなこと考えなかった。
神田君はその豹柄の水着を手に取ると、黒羽さんが待つ試着室へ戻っていった。
試着室のカーテン越しに手だけを差し入れ、店員さんに見えないよう隠すようにして黒羽さんへ水着を渡している。
何を話しているのかまでは聞こえない。
それでも二人だけのやり取りというだけで、胸がざわついた。
そして――。
突然、試着室の中から黒羽さんの手が伸びた。
神田君の手首を掴むと、そのまま勢いよく試着室の中へ引っ張り込んでしまった。
「えっ……?」
思わず息をのむ。
カーテンが閉じたまま、中の様子は見えない。
(……中で何してるんだろう)
鼓動が速くなる。
嫌な想像ばかりが頭に浮かんでしまう。
(もしかして……キス、とか……)
考えた瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
見たくない。
でも、目を逸らすこともできない。
私は祈るような気持ちで試着室を見つめ続けた。
すると、ほどなくしてカーテンが開いた。
神田君が真っ赤な顔のまま飛び出してくる。
耳まで真っ赤に染めながら、そのまま逃げるように店の外へ駆け出していった。
あまりにも慌てた様子に、私はぽかんとその背中を見送る。
一体、中で何があったのだろう。
気になって仕方がない。
しばらくして、黒羽さんもゆっくり試着室から姿を現した。
その表情には、どこか照れたような笑みが浮かんでいる。
そして最終的に黒羽さんは黒のビキニを購入すると、神田君の後を追うように店を後にしていった。
私は二人の背中が見えなくなるまで、その場から動くことができなかった。
追いかけようと思えば追いかけられる。
でも、今はそんな気持ちになれなかった。
胸の奥に残った苦しさを抱えたまま、私はゆっくりと息を吐く。
それから、二人とは反対に歩き出した。
静かに、水着売り場の中へ足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ〜」
店員さんの明るい声が耳に届く。
その声に軽く頭を下げながら、私は迷うことなく売り場の奥へ向かった。
目指すものは最初から決まっていた。
神田君が、あんなにも真っ先に手に取った水着。
豹柄のビキニ。
私はそっと両手で持ち上げる。
「…………」
派手で、大胆で。
正直、私らしいデザインじゃない。
鏡に映る自分がこれを着ている姿なんて、まったく想像できなかった。
それでも――。
神田君が選んだ。
その事実だけで、この水着が少しだけ特別なものに思えた。
私は周囲をそっと見回す。
誰にも見られていないことを確認すると、小さく抱き寄せるようにその水着を持ち、レジへ向かった。
店員さんは笑顔のまま商品を受け取り、バーコードを読み取る。
「ありがとうございます」
――その瞬間だった。
(あ、この水着……)
店員さんの心の声が、ふいに耳へ流れ込んでくる。
(さっき、あのカップルの彼女さんが返してたやつだ)
その言葉に胸が少しだけ痛む。
(この商品、人気なのかしら?)
店員さんは不思議そうに考えながら、商品のタグを整える。
(それより、この子がこれを着るんだ)
私は商品を受け取りながら、小さく息を吸った。
そして誰にも聞こえないくらい静かな声で、ぽつりと呟く。
「……カップルじゃありませんよ。あの二人」
「………え?」
店員さんはきょとんと目を瞬かせる。
私の声が聞こえたのか、それとも独り言だと思ったのか。
不思議そうな表情のまま首をかしげていた。
私はそれ以上何も言わず、水着の入った袋を大切そうに胸へ抱き寄せる。
まるで壊れ物を扱うみたいに、そっと。
そのまま静かに店を後にした。
ショッピングモールを歩きながら、私は袋を見つめる。
胸の奥には、まだ苦しさが残っていた。
それでも、その苦しさの中に小さな期待が混じっていることにも気づいてしまう。
(……この水着を着たら)
自然と頬が熱くなる。
(神田君……喜んでくれるかな)
(私だけを見てくれるかな?)
こんな水着、本当なら絶対に着たくない。
それなのに、神田君が私だけを見てくれるなら――着てもいいと思ってしまう自分がいた。
そんなことを考えてしまう自分に、小さく苦笑する。
私は袋を抱きしめた。
この水着を見るたびに、今日の胸の痛みも思い出すのだろう。
それでも――。
神田君が選んだという、それだけで。
私には、世界で一番大切な宝物になってしまっていた。




