第198話 俺はヤンデレが大好き。異論は認めない
「……どうして、あなたがいるの?」
黒羽はドリンクの入ったグラスを両手で握りしめたまま、震える声でそう問いかけた。
その声はかすれていて、今にも消えてしまいそうなくらい小さい。
俺は席に座ったまま、思わず黒羽の顔を見つめていた。
――なんだ……?
さっきまで、あんなに楽しそうに笑っていたのに。
目の前の黒羽は別人みたいだった。
顔からは血の気が引き、唇はわずかに震えている。
まるで、見たくもない悪夢を突然目の前へ突きつけられたみたいな顔だった。
そんな黒羽に対して、羽衣さんはきょとんと目を瞬かせる。
それから、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「あれ? やっほ〜、冬花ちゃん」
まるで久しぶりの友達と再会したみたいな、明るい声だった。
「随分とイメチェンしたじゃん」
羽衣さんは黒羽の姿を上から下まで見て、嬉しそうに微笑む。
「凄く可愛いよ?」
その言葉に、黒羽の肩がぴくりと小さく跳ねた。
けれど、返事はない。
ただ、唇をきつく結んだまま、羽衣さんを見つめ続けている。
「ね? 蒼真もそう思うでしょ?」
羽衣さんは隣に立つイケメンへ、同意を求めるように視線を向けた。
蒼真と呼ばれた男は、一瞬だけ黒羽を見つめる。
その表情は、どこか複雑そうだった。
そして小さく息を吐く。
「ああ……そうだな」
短い返事。
だけど、その声にはわずかな硬さが混じっていた。
俺はそのやり取りを見て、胸の奥に妙な違和感を覚える。
……なんだ、この空気。
久しぶりの再会なら、もっとこう……驚いたり、喜んだりするものじゃないのか?
それなのに。
黒羽は怯えている。
蒼真はどこか気まずそうで。
羽衣さんだけが、何も知らないみたいに穏やかな笑顔を浮かべていた。
その場の空気と、彼女の表情だけが噛み合っていない。
……その温度差が、妙に不気味だった。
「えっ、もしかして冬花ちゃん?」
「うわ、本当に久しぶりじゃん!」
「全然雰囲気変わったね〜!」
いつの間にか、羽衣さんの後ろにいた友達たちまで集まってきていた。
興味津々といった様子で、黒羽を囲む。
その反応を見る限り、どうやら全員、黒羽の知り合いらしい。
けれど――。
当の黒羽は、再会を喜ぶどころか、ますます顔色を悪くしていた。
今にも倒れてしまいそうなくらい、真っ青だ。
俺は自然と視線を横へ向ける。
……阿崎蒼真。
そして、すぐに違和感に気づいた。
黒羽と蒼真。
二人の間に流れている空気だけが、明らかに違う。
目が合いそうになる。
すると、どちらかがすぐに逸らす。
何かを言いたそうなのに、何も言えない。
近いようで、途方もなく遠い。
そんな、ひどくぎこちない距離感だった。
初対面の俺ですら分かる。
この二人の間には、きっと何かがあった。
それも、ただの「昔の知り合い」なんて言葉じゃ片付けられないくらい、大きな何かが。
俺は知らず知らずのうちに、息を飲み込んでいた。
すると――。
「神田君は、もしかして冬花ちゃんの彼氏さんだったりする?」
「……え?」
突然、羽衣さんがそんなことを言い出した。
「隠さなくていいよ〜。」
彼女はくすりと笑う。
そして、何でもないことみたいに続けた。
「冬花ちゃんって、今もやっぱり重たいの?」
「……重たい?」
思わず聞き返す。
羽衣さんは首を傾げた。
「うん。昔から結構重かったんだよね〜。」
そう言って、隣に立つ蒼真へ視線を向ける。
「ね? 蒼真。」
「冬花ちゃんって、すごく重たかったよね?」
まるで答えを決めているみたいな口調だった。
そして――。
「ああ……重たかったな。」
蒼真は、あっさりと頷いた。
その瞬間だった。
……ああ。
ようやく分かった。
俺が、この阿崎蒼真という男に抱いていた違和感の正体が。
こいつ――。
自分の頭で考えていない。
羽衣さんが言ったことを。
疑いもせず、そのまま自分の言葉にしているだけだ。
その姿が――。
昔の記憶と、重なった。
――姫花を守った、あの日。
俺は片倉を止めた。
……いや、止めたなんて綺麗なものじゃない。
あの時の俺は、怒りに支配されていた。
姫花を泣かせた。
怖がらせた。
その事実だけで、頭の中が真っ白になって――気づけば、片倉を病院送りにしていた。
妹を守るためだった。
ただ、それだけだった。
なのに。
「神田、それはやりすぎだろ。」
「片倉君が可哀想。」
「そこまでしなくても……。」
周りの奴らは、口を揃えてそう言った。
……確かに、俺はやりすぎたのかもしれない。
もっと別の方法があったのかもしれない。
それは今でも分からない。
でも。
あの日。
姫花を傷つけようとした加害者を庇って。
守った俺だけを責める光景は――今でも忘れられない。
誰一人として。
泣いていた姫花を見ようとしなかった。
怖くて震えていた姫花を気にもしなかった。
みんなが見ていたのは、倒れている片倉だけだった。
あいつらは、何も見ていない。
何も知らない。
ただ――。
周りがそう言っているから。
みんながそう言っているから。
だから、自分もそう言う。
それだけだった。
……別に、怒ってるわけじゃない。
今さら恨んでもいない。
でも。
あの日の俺は、確かに嫌悪した。
人が、自分で考えることをやめて。
大衆の意見に乗っかって。
誰かを傷つけることを。
何より――。
それを「自分の正義」だと勘違いしていることを。
「……っ。」
ふと、黒羽を見る。
彼女は下唇を強く噛み締めていた。
肩が、小さく震えている。
……ああ。
あの時の姫花と同じだ。
大勢に囲まれて。
自分だけが否定されて。
一人ぼっちになっている。
そんなことには気づいていないのか。
それとも、気づいていて無視しているのか。
羽衣さんは、楽しそうに続けた。
「神田君はどう思う?」
にこり、と笑う。
「重たい女の子って、どうかな?」
その瞬間だった。
「いや〜、重たい女はないだろ。」
「めんどくさいし。」
「束縛とか絶対しんどい。」
「重い女って、結局疲れるんだよな〜。」
周りから、一斉に声が上がる。
まるで羽衣さんを肯定するように。
彼女の意見こそが正解だと称賛するように。
反対意見なんて、最初から許さない。
そんな空気。
その異様な一体感に、俺の身体がぞくりと粟立った。
……なんだ、これ。
胸の奥がざわつく。
嫌な感覚だった。
あの日と同じだ。
誰も、自分の頭で考えていない。
ただ、空気に流されているだけ。
黒羽を見る。
彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「もう……やめて……。」
小さな声。
消えてしまいそうな声だった。
その姿を見た瞬間――。
俺の中で、何かがぷつりと切れた。
そして、気づけば。
言葉が、口からこぼれていた。
「……いや、お前ら、馬鹿かよ。」
その一言で、場が凍りついた。
さっきまで好き勝手に喋っていた連中が、一斉に口を閉ざす。
全員の視線が、俺へと集まった。
……でも、もう止まらなかった。
「軽いより、重たい方が絶対いいだろ。」
自分でも驚くくらい、言葉がするすると口から出てくる。
「それだけ、自分のことを考えてくれてるってことじゃねぇか。」
「それだけ、自分のことを大事に想ってくれてるってことだろ?」
俺は周りを見渡した。
やれやれと呆れたように、ため息をつく。
「そんな想いも汲み取れないとか……逆に可哀想な奴らだな。」
誰も何も言い返さない。
ただ、ぽかんとした顔で俺を見ている。
「てかさ。」
俺は続ける。
「重たい=ダメって、極端すぎだろ。」
好きだから心配する。
好きだから考える。
好きだから、少し重くなる。
……それの何が悪い。
気づけば、胸の奥が妙に熱くなっていた。
そして――。
俺は勢いよく立ち上がる。
ガタンッ――!
テーブルが大きな音を立てた。
「俺はなぁ――!」
思いっきり息を吸い込む。
そして、教室中に響き渡る声で叫んだ。
「誰がなんと言おうと……ヤンデレが大好きなんだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
――静寂。
しん、と。
さっきまでのざわめきが嘘みたいに消え去った。
誰も、何も言わない。
時間そのものが止まったみたいだった。
「…………は?」
「……え?」
「ヤ、ヤンデレ……?」
呆然とした声が、ぽつり、ぽつりと漏れる。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
その沈黙の中で――。
ただ一人。
黒羽だけが、俺を見つめていた。
大きく見開かれた瞳。
震える唇。
その表情は、まるで――。
暗闇の中で、初めて光を見つけた人みたいだった。
信じられないものを見るように。
救いそのものを見つけたように。
黒羽冬花は、ただ呆然と、俺を見つめていた。




