第196話 本郷愛理――大切な人のために
「にしし♡ 正義のヒーロー参上〜」
「こんな可愛い女の子を、男が寄ってたかっていじめるなんてさ〜。」
「お前ら――」
彼女はそこで一度言葉を切った。
逆光の中で、口元だけがゆっくりと吊り上がる。
「地獄行き確定だね?」
場違いなくらい明るい声が、暗い裏路地に響いた。
その声に反応するように、片倉たち全員の視線が一斉に彼女へ向く。
「……は?」
「正義のヒーローだぁ?」
「誰だ、お前。何しに来たんだよ」
片倉が苛立ったように吐き捨てる。
けれど、彼女はまるで気にした様子もなかった。
むしろ、それが面白いとでも言うように、小悪魔めいた笑みを浮かべる。
「ん〜……どうだろね。」
彼女は人差し指を唇に当て、少しだけ考える素振りを見せた。
「正義のヒーローっていうより、私は悪役の方がキャラ的に合ってるんだけどね?」
くすり、と楽しそうに笑う。
その姿はどこか無邪気で――。
なのに、なぜだろう。
私はその笑顔の奥に、言いようのない冷たさを感じた。
「にしし♡ まぁ、なんにせよ――」
彼女は一歩、こちらへ近づく。
「今なら見逃してあげるからさ。その女の子を解放して、とっとと失せなよ?」
その言葉に、片倉のこめかみがぴくりと引きつった。
「……おいおい、冗談だろ?」
呆れたように肩をすくめる。
「女一人で、俺たちに勝てると思ってんのかよ?」
その瞬間だった。
彼女は小さく目を細める。
そして、どこか自嘲するように笑った。
「はぁ……。」
ため息が、静かな裏路地に落ちる。
「本当に私って、つくづくヤンキーに縁があるみたいだね。」
彼女は今までの過去を振り返るように困ったように頬をかく。
「もういっそ、趣味ヤンキー狩りにしようかな〜?」
「……っ。」
その軽い口調が、逆に片倉の神経を逆撫でしたらしい。
片倉の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「……舐めるなよ。」
低い声が漏れる。
「お前をここで暴力でやっちまってもいいんだぜ?」
憎しみを込めた声。
脅し。
けれど――。
彼女は、笑った。
くすくすと。
まるで、子どもの冗談でも聞いたみたいに。
「へぇ。」
そして、ゆっくりと首を傾げる。
ピンク色の髪が、さらりと揺れた。
「お前らみたいなヤンキー風情が――」
その笑みが、少しだけ深くなる。
「私に勝てるとでも思ってんの?」
その瞬間。
ぞくり、と。
なぜか私の背筋に、冷たいものが走った。
明るい笑顔なのに。
優しそうな声なのに。
どうしてか、この人の方が――。
片倉たちよりも、ずっと怖く見えた。
そんな空気を振り払うように、片倉が鼻で笑う。
「……まぁ、いい。」
口元を歪めながら、私の腕を掴む力をさらに強めた。
「これから神田をやっちまう前に、ちょうどいい腕慣らしになる。」
その言葉が落ちた瞬間――。
空気が、一瞬で凍りついた。
「…………は?」
彼女の声だった。
さっきまでの軽い調子とは違う。
低く、冷たい声。
私は思わず彼女を見る。
逆光のせいで表情はよく見えない。
それなのに、なぜか胸がざわついた。
「今……あんた、何て言った?」
静かな声だった。
怒鳴っているわけでもない。
なのに、その場にいた全員が息を呑む。
片倉だけは気づかない。
むしろ面白そうに口元を吊り上げた。
「んだよ。」
肩をすくめながら、当然のように言う。
「俺はな、神田ってやつに今から復讐するんだよ。」
そして、私の肩をぐいっと引き寄せた。
「この妹を人質にしてな。」
「……。」
「さすがのあいつも、妹が人質にされたら何もできないだろ?」
片倉は、にやりと笑う。
その笑顔に、ぞっとした。
「楽しみだぜ? 本当に。」
沈黙。
誰も、何も言わない。
風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて、彼女が口を開く。
「……ちなみに。」
その声は、驚くほど静かだった。
「その人のフルネームは?」
どうしてそんなことを聞くんだろう。
私は不思議に思った。
片倉も同じだったのか、少し眉をひそめる。
だが、すぐに鼻で笑った。
「ああ……神田ゆういちってやつだよ。」
その瞬間だった。
――ぞくっ。
全身に鳥肌が立った。
空気が、変わった。
いや。
変わったなんてものじゃない。
まるで、見えない何かに喉元を掴まれたみたいだった。
息が、苦しい。
足が震える。
さっきまで笑っていた取り巻きたちも、ぴたりと動きを止めていた。
彼女が、ゆっくりと顔を上げる。
その目が見えた。
そして私は、思わず息を呑む。
……怖い。
さっきまでの愛らしい笑顔は、どこにもなかった。
小悪魔みたいな笑みも。
ふざけた口調も。
全部、消えていた。
そこにいたのは――。
底の見えない、冷たい怒りを宿した一人の少女だった。
彼女は一歩、前へ出る。
コツ。
小さな足音が、妙に大きく響いた。
そして。
低く、静かに呟く。
「お前ら……。」
彼女が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、さっきまでの軽い笑みはどこにもなかった。
「私の大切な人の幸せを……邪魔しようってわけ?」
――大切な人。
今、この人はそう言った。
私の兄。
神田ゆういちのことを。
胸が、どくりと鳴る。
どうして。
どうして、この人がにぃにをそんなふうに呼ぶんだろう。
その声には、怒鳴り声も、激しい感情もない。
ただ、静かな怒りだけがあった。
だからこそ――余計に怖かった。
「……絶対にさせない。」
ぽつり、と。
それは誰に聞かせるでもない、小さな呟きだった。
そして。
彼女はゆっくりと私たちを見回す。
「ここで――。」
静かな声。
けれど、その場にいた全員の身体が強張る。
「お前ら全員、叩き潰してやるよ。」
その言葉が落ちた、次の瞬間だった。
彼女は足元に持っていたカバンを無造作に置く。
そして――。
地面を蹴った。
「――え?」
思わず、声が漏れる。
速い。
そんな言葉では足りない。
まるで、一瞬で消えたみたいだった。
ピンク色の髪だけが、残像のように視界を掠める。
「なっ――」
男の一人が目を見開く。
けれど、もう遅かった。
彼女の拳が、一直線にその男の腹へと突き刺さる。
「ぐっ……!?」
鈍い音が響く。
次の瞬間、男の身体が宙に浮いた。
そのまま数メートル先まで吹き飛び、裏路地の壁へ激しく叩きつけられる。
ドンッ――!
重い音が響いた。
男はその場に崩れ落ち、ぴくりとも動かない。
「……え。今何が?」
私は目を見開いた。
何が起きたのか、全然分からない。
あまりにも一瞬だった。
周りの男たちも、完全に思考が止まっている。
「……は?」
「な、何が起こったんだよ……」
震えた声が漏れる。
その声には、さっきまでの余裕なんて欠片もなかった。
代わりに滲んでいるのは――明らかな恐怖だった。
けれど、彼女は止まらない。
「あと五人。」
ぼそり、と。
まるで人数を確認するように呟く。
次の瞬間。
再び彼女の姿がぶれる。
「う、うわっ――!」
別の男が慌てて後ろへ下がろうとする。
だが、その視界に映ったのは。
すでに目の前まで迫っていた、彼女の姿だった。
「遅いよ。」
短い一言。
そして――。
ブンッ!
鋭い風切り音。
彼女の回し蹴りが、男の側頭部へ吸い込まれるように叩き込まれた。
「がっ……!」
男の身体が横へ吹き飛ぶ。
地面を二度、三度と転がり、そのまま動かなくなった。
静寂。
裏路地にいた全員が、言葉を失っていた。
私はただ呆然と、彼女の背中を見つめる。
強い。
……そんな言葉じゃ足りない。
まるで、大人と子ども。
いや、それ以上の差だった。
彼女にとって、この男たちは敵ですらないのかもしれない。
本当に――。
まるで、小さな子どもの相手をするみたいに。
何の迷いもなく、何の苦労もなく。
彼女は次々と男たちを蹴散らしていく。
その小さな背中が、今だけは誰よりも大きく見えた。
「う、うあああっ!」
追い詰められた一人の男が、近くに落ちていた鉄パイプを拾い上げた。
金属が擦れる嫌な音が、裏路地に響く。
そして、そのまま叫びながら彼女へと振り下ろす。
「死ねぇっ!!」
私は思わず目を閉じた。
――危ない。
そう思った。
けれど。
パシッ。
軽い音が響く。
恐る恐る目を開けた私は、その光景に息を呑んだ。
「……え?」
彼女が。
振り下ろされた鉄パイプを、片手で掴んでいた。
まるで、飛んできたボールでも受け止めたかのように。
その表情に苦痛はない。
苦しそうな様子もない。
ただ、少しだけ面倒そうに眉を下げているだけだった。
男も同じだった。
いや、それ以上に。
目を大きく見開き、掴まれた鉄パイプと彼女の顔を何度も見比べている。
その目には、もはや敵を見る色なんて残っていない。
まるで――。
人間ではない、何か別のものを見てしまったような顔だった。
「お、お前……。」
声が震える。
「何もんだよ……。」
ごくり、と唾を飲み込む。
「痛くねぇのかよ……。」
その問いに。
彼女は、くすりと笑った。
「生憎、痛みを感じない体でね?」
どこか懐かしむように。
少しだけ、自嘲するように。
「でも、まぁこれなら……あの女の一撃の方が、ずっと重たかったわ。」
「あ……?」
男には意味が分からなかったのだろう。
ぽかんとした顔をする。
けれど、彼女はもう説明する気などないようだった。
ゆっくりと。
掴んだ鉄パイプへ視線を落とす。
そして――。
ぎりっ。
彼女の指に力が入る。
グググ……。
鈍い音が響いた。
私は目を見開く。
鉄パイプが。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
彼女の握力だけで、形を変えていく。
ありえない。
そんなこと、人間にできるはずがない。
ぐにゃり、と。
金属が悲鳴を上げるように曲がった。
「……っ。」
男の顔から、完全に血の気が引いた。
膝が震えている。
手から力が抜け、尻餅をついた。
「ど……どうなってんだよ……。」
かすれた声が漏れる。
「ば……ばけものだ……。」
その一言に。
彼女は少しだけ目を細めた。
けれど、何も言わなかった。
ただ、手にしていた鉄パイプを無造作に横へ放り投げる。
ガラン――。
金属音が、静かな裏路地に虚しく響いた。
次の瞬間。
「お、おい……来るな……!」
男が後ずさろうとする。
しかし。
彼女の足が、容赦なく振り抜かれた。
ドゴッ!
鈍い音。
男の身体が宙に浮く。
そのまま数メートル先まで吹き飛び、地面を転がった。
それきり、動かない。
静寂。
ほんの数十秒。
それだけだった。
さっきまで私を囲んでいた男たちは――。
片倉を除いて、全員が地面に伏していた。
私は、ただ呆然とその光景を見つめる。
信じられない。
一人で。
本当に、一人で全員を倒してしまった。
彼女は静かに顔を上げる。
そして、何事もなかったかのように、自分の片手を見つめた。
ぎゅっ、と。
一度だけ手を握る。
その仕草は、まるで調子を確かめているようだった。
やがて。
彼女はゆっくりと顔を上げる。
その視線が、最後に残った片倉へ向けられた。
「あとは……。」
静かな声。
それなのに、なぜか背筋が震えた。
「お前だけだな?」




