第195話 本郷愛理―― 暗躍【神田姫花視点】
私は、本郷愛理さんをどうしても許せなかった。
たとえ、にぃにが許したとしても。
私はずっと見てきた。
あの日から、にぃにが苦しむ姿を。
夜、一人で部屋に閉じこもる姿を。
何もないように振る舞いながら、本当は傷ついて、泣いていたことを。
だから――私は、自分の目で確かめたかった。
本郷愛理さんが、どんな人なのか。
そして、できることなら聞きたかった。
どうして、にぃにをあんなふうに傷つけたのかを。
「おねぇちゃん……秀英高校って、この辺かな?」
私は隣を歩くお姉ちゃん――安城星梨奈へ、不安そうに尋ねた。
お姉ちゃんは、揺れる銀色のポニーテールを指先でくるりと弄りながら、にこっと笑う。
「うんうん。もうすぐだね〜。この時間なら、ちょうど昼休みくらいじゃないかな?」
「そっか……」
私は小さく頷いた。
胸の奥が、ずっとそわそわしている。
本当に会うの?
会って、私は何を言うつもりなんだろう。
怒るの?
責めるの?
それとも……。
自分でも分からない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
――それでも、私は確かめないといけない。
にぃにがどうして彼女を許したのか。
その答えを、私はまだ何一つ知らないから。
やがて、私たちは秀英高校の校門前へと到着した。
けれど――。
「あれ?」
思わず声が漏れる。
昼休みのはずなのに、校門からは次々と生徒たちが出てきていた。
笑いながら帰っていく人。
友達と楽しそうに話しながら歩いていく人。
まるで、今日はもう授業が終わったみたいだった。
「もしかして、今日は午前授業なのかな?」
私は人差し指を顎へ当てながら、小さく呟く。
その瞬間だった。
「やあやあ! ちょっといいかな?」
お姉ちゃんが、通りかかった一人の怪我だらけの男子生徒へ声をかけた。
その男子生徒は、ゆっくりとこちらを振り返る。
整った顔立ち。
すらりと高い身長。
俳優と言われても納得してしまいそうなイケメンだった。
彼は私たちの顔を見るなり、少し驚いたように目を細める。
「あんたは……確か」
すると、お姉ちゃんが元気よく手を振った。
「どうもどうも〜! あの時、道場で会ったよね? 安城星梨奈で〜す!」
そして、指をぴっと向ける。
「確か、真田蓮也君だよね?」
――真田蓮也。
その名前は、中学時代によくにぃにから聞いていた名前だった。
『蓮也は俺の親友なんだ。』
『あいつ本当に真っ直ぐなやつなんだよ。』
そんなふうに、少し嬉しそうに話していたことを覚えている。
「ああ……こんな所でどうしたんだ?」
真田さんは少し不思議そうに尋ねた。
「実はこの子がね、君の妹……本郷愛理ちゃんに会いたがっていてね?」
そう言いながら、お姉ちゃんは私の頭を優しくぽんぽんと撫でる。
「よかったら、呼んできてくれないかな?」
その瞬間、真田さんの視線が私へ向いた。
「……君は?」
急に話を振られて、胸がどきりと跳ねる。
緊張で、指先が冷たくなる。
それでも私は、小さく息を吸い込んだ。
逃げちゃ駄目。
ここまで来たんだから。
「あ、あの……」
震える声を、必死に絞り出す。
「神田姫花といいます」
その名前を聞いた瞬間、真田さんは驚いたように目を見開いた。
そして、どこか懐かしそうな、優しい表情になって言う。
「……君が、ゆういちの妹なんだね」
「え……? 私のこと知ってるの?」
「ああ。」
真田さんは、小さく笑った。
「中学時代、よくあいつから妹の話を聞かされたよ。」
そして、少しだけ目を細める。
「『俺には世界一可愛い妹がいるんだ』って、何回も自慢してた。」
「……え?」
「それに、『俺の大切な妹なんだ』ってさ。」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
……にぃに。
そんなこと、私の知らないところでも言ってたんだ。
なんだか急に恥ずかしくなって、私は小さく俯いた。
そんな私を見て、真田さんは少しだけ優しく笑う。
けれど、その表情はすぐに曇った。
「愛理なら、さっきまで一緒にいたんだけど……もう帰っちゃったんだ。」
「帰っ……ちゃった……」
胸の奥が、すとんと落ちる。
ここまで来たのに。
やっと会えると思ったのに。
「愛理に……何か用事かい?」
真田さんが静かな声で尋ねてくる。
私は言葉を失った。
本当は、何を言うつもりだったんだろう。
怒りをぶつけるため?
にぃにの代わりに文句を言うため?
それとも……。
気づけば、私はぎゅっとスカートの裾を握りしめていた。
胸の中で渦巻く感情だけが、答えの出ないまま静かに揺れている。
そんな私の気持ちを代弁するように、隣にいたお姉ちゃんがゆっくりと口を開いた。
「実はね――。」
お姉ちゃんは、一度だけ私を見てから続ける。
「この子、大好きなお兄ちゃんを苦しめた本郷愛理のことを……まだ許せないでいるんだ。」
その声は、いつもの明るい口調だった。
でも、その奥には、私を気遣う優しさが滲んでいた。
「もちろん、神田ゆういちは本郷愛理を許したよ?」
「でもね……」
お姉ちゃんは、そっと私の頭へ手を置く。
「ずっと苦しんできたお兄ちゃんを、一番近くで見てきたのはこの子なんだ。」
「だから、まだ気持ちの整理がついてない。」
「どうしても消化できないんだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
……そうなんだ。
私はずっと、にぃにが苦しむ姿を見てきた。
だから許せなかった。
それだけだった。
しばらくの沈黙。
すると真田さんが、少しだけ困ったような、申し訳なさそうな顔をした。
そして、ゆっくりと膝を曲げる。
私と同じ目線になるように。
「姫花ちゃん。」
その声は、とても静かだった。
「お兄ちゃんを苦しめたのは、愛理だけじゃない。」
「……え?」
思わず顔を上げる。
真田さんは、真っ直ぐ私を見つめていた。
逃げることも。
誤魔化すこともせずに。
「俺もなんだよ。」
「……。」
「君の大切なお兄ちゃんを傷つけてしまった。」
一度、小さく息を吐く。
そして――。
「本当に申し訳ない。」
そう言って、深く頭を下げた。
私は目を見開く。
頭の中が、一瞬真っ白になった。
だって私は、言い訳されると思っていた。
「仕方なかった。」
「誤解だった。」
「悪気はなかった。」
そんな言葉が返ってくると思っていた。
でも、違った。
「何も言い訳なんてない。」
真田さんは頭を下げたまま、静かに続ける。
「悪いのは、全部俺たちの方だ。」
「ゆういちは、本当に被害者だった。」
「だから……どんな罰でも受けるつもりだ。」
その声は震えていなかった。
ただ、後悔と申し訳なさだけが滲んでいた。
私は何も言えなかった。
目の前にいる人は、軽い気持ちで謝っているわけじゃない。
そのことだけは、子どもの私にも分かった。
ただ形だけ頭を下げているんじゃない。
本当に、自分が悪かったと思っている。
本当に、にぃにを傷つけてしまったことを後悔している。
そんな謝罪だった。
私は、ぎゅっと握っていたスカートの裾を、少しだけ緩めた。
胸の中にあった怒りが、ほんの少しだけ形を変えていく。
でも、それが何なのか。
私はまだ、うまく言葉にできなかった。
「……。」
結局、何も言えないまま、私はぺこりと頭を下げる。
真田さんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、どこか苦しそうな顔で、私を見つめていた。
「それじゃ、またね〜。真田蓮也。」
お姉ちゃんが、いつもの調子でひらひらと手を振る。
私ももう一度だけ小さく頭を下げて、その場を離れた。
♢♢
「いや〜、残念だったね? 本郷愛理、いなかったね。」
帰り道。
お姉ちゃんは、少し軽い口調でそう言った。
でも、その声がわざと明るくしてくれているものだと、なんとなく分かった。
「仕方ないよ。また別の機会に会いに行くよ。」
そう答えながらも、胸の奥はまだもやもやしていた。
会えなくて残念だった。
でも、少しだけほっとしている自分もいる。
そんな自分が、よく分からなかった。
「で?」
お姉ちゃんが、私の顔を覗き込む。
「真田蓮也を見て、どう思った? 姫花ちゃん。」
その問いに、喉がきゅっと詰まった。
もっと分かりやすい悪人ならよかった。
にぃにを傷つけた最低な人。
何も反省していなくて、言い訳ばかりして、こっちが怒って当然だと思えるような人。
そういう人なら、きっと簡単だった。
でも、違った。
真田さんは、本当に自分のしたことを悔いていた。
私と同じ目線までしゃがんで、逃げずに謝ってくれた。
にぃにを傷つけたことを、ちゃんと自分の罪として受け止めていた。
だから余計に、分からなくなる。
怒りを向ける先が、少しだけぼやけてしまったみたいだった。
「……わかんない。」
それが、今の私に言える精一杯だった。
お姉ちゃんは、少しだけ目を細める。
「そっか。」
それ以上、何も聞いてこなかった。
私たちはしばらく並んで歩いた。
昼の道は、いつもより少し静かだった。
その時、お姉ちゃんが何かを思い出したように、ぽんっと手を叩く。
「あっ! ごめん、姫花ちゃん!」
「え?」
「私、学校に研究資料取りに行かないと!」
「あれないと今作ってる発明品が進まないんだよね?」
お姉ちゃんは、しまったと言いたげに眉を下げる。
「悪いけど、先に帰ってもらえるかい?」
「うん、わかった。」
「ごめんね〜! また連絡するから!」
そう言って、お姉ちゃんは来た道を小走りで戻っていった。
私はその背中を見送ってから、一人で歩き出す。
いつもの帰り道。
何度も通った道。
なのに、一人になった途端、急に風が冷たく感じた。
胸の中には、まだ真田さんの謝罪が残っている。
本郷愛理さんに会ったら、私は何を言うんだろう。
本当に責められるのかな。
それとも――。
その瞬間だった。
「おい……やっと見つけたぜ。」
背後から聞こえた声に、全身が硬直した。
呼吸が止まる。
心臓が、嫌な音を立てた。
聞き覚えのある声。
いや、違う。
聞き覚えなんて軽いものじゃない。
私の中に深く刻まれた、トラウマそのものの声だった。
恐る恐る振り返る。
そこにいたのは――。
片倉遥輝。
小学生の頃、私をいじめていた男。
柔道界では有名な存在で――そして、過去に兄・神田ゆういちによって制圧され、病院送りになった相手だった。
あの日の出来事は、私の中から一度も消えたことがない。
私を守るために怒ったにぃに。
容赦なく片倉を叩きのめしたにぃに。
そして、その代償のように――。
にぃには周囲から恐れられるようになった。
「喧嘩最強の狂犬」。
そんな噂が独り歩きし、友達は離れ、誰も気軽に近づかなくなった。
私を守ってくれたはずのにぃにが、誰よりも居場所を失っていった。
その姿を、私はずっと見ていた。
そして結局、私たち家族は引っ越すことになった。
全部、私のせいだ。
今でも、そう思ってしまうことがある。
「……っ」
声が出ない。
息が苦しい。
その後ろには、五人の取り巻きがいた。
全員男。
体格も大きく、肩幅や立ち方から何か格闘技をしていることが分かる。
――昔と同じだ。
囲まれる。
逃げられない。
助けてくれる人もいない。
忘れたはずの恐怖が、一気に蘇る。
耳の奥で響く笑い声。
囲まれた時の恐怖。
動かなくなった足。
助けを呼べなかった自分。
全部が、今この瞬間へ引きずり戻されていく。
「え……なんで……」
声が震える。
唇がうまく動かない。
「どうして……?」
片倉は、昔と同じように口元を歪めた。
その笑い方も。
人を見下すような目も。
何一つ変わっていない。
むしろ――。
あの頃よりも、ずっと深く、どす黒い憎しみだけが宿っているように見えた。
「神田ゆういちに復讐しにきたのさ。」
「……にぃにに?」
「あいつのせいで、俺は……」
片倉の顔が、ぐにゃりと歪む。
そこにあったのは、怒りなんて生易しいものじゃなかった。
憎しみ。
どす黒くて、粘つくような感情。
その目を見た瞬間、背筋が凍りついた。
これは、ただの偶然じゃない。
この人は……私を探していたんだ。
にぃにを傷つけるために。
私を使うために。
「お前を人質にして、神田を誘き出すんだよ。」
「っ……!」
頭が真っ白になる。
逃げなきゃ。
そう思った。
なのに、身体が動かない。
小学生の頃と同じだった。
怖くなると、足が動かなくなる。
声が出なくなる。
「や、やだ……!」
ようやく出た声は、自分でも情けなくなるくらい震えていた。
「やめて……!」
私は後ずさる。
でも、その一歩よりも早く――。
がしっ。
腕を強く掴まれた。
「いっ……!」
痛い。
振り払おうとしても、びくともしない。
力の差なんて、比べるまでもなかった。
「離して……!」
「やだ……!」
必死に抵抗する。
でも、片倉は鼻で笑っただけだった。
「相変わらず、弱っちいな。」
「ちょっと力入れてしまえばおれそうだぜ」
「やっと神田に復讐できる」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
昔の記憶が蘇る。
何もできなかった自分。
ただ泣いていた自分。
守られてばかりだった自分。
私はそのまま、人気のない裏路地へ無理やり連れ込まれていく。
薄暗い場所。
誰も通らない。
助けを呼んでも、きっと誰にも届かない。
壁に背中が触れた瞬間、足から力が抜けそうになった。
心臓が激しく鳴っている。
どくどく。
どくどく。
耳の奥で、うるさいくらい響いていた。
怖い。
怖い。
怖い。
あの時は、にぃにが助けてくれた。
私の前に立ってくれた。
「もう大丈夫だ。」
そう言ってくれた。
でも――。
今は、にぃにはいない。
ここには誰もいない。
誰も……助けてくれない。
「……っ。」
涙が滲む。
にぃに。
怖いよ。
助けて。
心の中で、何度もそう叫ぶ。
その瞬間だった。
「にしし♡ 正義のヒーロー参上〜」
場違いなくらい明るい声が、暗い裏路地に響いた。
全員の動きが止まる。
私はびくりと肩を震わせて、声の方を見た。
そこには、一人の女の子が立っていた。
逆光の中に立つその姿は、どこか幻想的だった。
ピンク色の髪が、風にふわりと舞う。
「こんな可愛い女の子を、男が寄ってたかっていじめるなんてさ〜。」
彼女は、軽い口調でそう言いながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
その声は明るい。
どこか楽しそうですらある。
でも――。
なぜだろう。
その笑顔の奥に、ひやりとするものを感じた。
「お前ら――」
彼女は立ち止まる。
そして、にこりと笑った。
「地獄行き確定だね?」
その瞬間。
空気が、変わった。
さっきまで私を囲んでいた男たちが、ほんの少しだけ息を呑む。
逆光で、その人の顔はよく見えない。
それでも――。
その姿は、なぜかとても大きく見えた。
まるで。
昔、私の前に立ってくれた、にぃにみたいに。
私は呆然と、その人を見つめる。
(……だれ。)
知らない人。
初めて見るはずの人。
なのに。
どうしてだろう。
その背中を見た瞬間――。
胸の奥に、小さな安心が灯った。
この時の私は、まだ知らなかった。
この人が。
私がずっと探していた――本郷愛理さんだったなんて。




