【大浴場】
温泉宿といえば、大浴場。
男だらけだけど。
「出来て間もないってのに繁盛してるな、流石というかなんつーか」
「中心区域は娯楽施設らしいところが無いからな。夏休み前なら空いてる計算で来たんじゃなかったのか」
「いーや全然。そういや子供達が明後日終業式とか言ってたな。休み中にもう一回買い出し行かねえと」
フェイスタオル一本を手元に残し、館内着の簡易式浴衣と兵児帯をロッカーへ入れて指輪を嵌めた右手を扉へと翳せば、自動的に鍵が掛けられる。
日帰りの来館者はコイルシリコンバンドのディンプルキーが貸与されるが、宿泊者はロッカーキーを兼ねた支払計算機能付リングを装着することになっているらしい。
部屋へ荷物を置いて間も無くに訪れた宿場案内役の中居によって一時的に嵌められた物で、チェックアウトの会計時に外れるように設計されているという。
他愛ない会話を交わしながら天然木の床を歩き、脱衣所と浴場を隔つ硝子扉が横へ動けば、凝灰岩が敷き込まれた地の先、数種の大浴場が視界に開かれる。
敷居を越えて白緑灰の石を素足で踏めば、ひやりと冷たさはあるがしっかりと足裏を捉える。
神社の手水舎のように作られた掛湯場で身体を流し、大浴槽を横目に共同洗場へ向かえば、竹製の仕切りで分けた仮個室の彼方此方に人が入り、身を洗っている。
出来て間もない遊戯場付き娯楽施設。これだけ広い浴場となれば子供が燥ぎ回っていそうな物だが、今のところ見かけていない。
夏休み前だからか、家族連れよりも個人や夫婦などで来館している割合が多いのだろう。
風呂椅子へ腰を下ろした疾風がタオルを湯桶に放ってシャワーを捻れば、思いの外冷え切った残り湯が勢い良く頭に掛かる。
思わず驚き慄けば、横並びの洗い場に入った疾斗が洗髪しながら喉で笑いを堪え潰し、気を取り直して備え付けのシャンプーポンプを押す。
「兄貴とこういう所来たの、風呂壊れた時以来だな」
「あー行ったな、近所の銭湯。何年前だったっけか」
「多分六年くらい経つ」
自分の桶に溜めていた湯を頭から被り流し、湯を溜めながら髪を掻き上げた疾斗が自身で持ち込んだ石鹸を取ろうと手を伸ばすが、僅か手前で空を掴む。
垂れてくる洗髪剤が入らぬよう目を眇めていたせいで、普段以上に遠近感がずれたのだろう。
あまりに珍しい様子に笑いを堪えて泡を流しつつ実弟の顔を見れば、少々気まずそうに眉間へ皺をやや寄せて左眼付近を手の甲で拭い、今度は確かに掴み取ると何事もなかったようにタオルで泡立て始める。
暫くして身を洗い終え、移動前に最後のシャワーを浴びるも熱はあっという間に奪われて、体の中が冷えてゆく感覚。
庭園風に作られた外湯も気にはなるが、夏の陽気いえど冷えた身体で出るべきでは無いだろう。
一度温まろうと湯船に向かえば少々独特な匂いが鼻に通り、置かれた手桶で汲み上げて足先へ掛ければ滑るような柔らかい湯触りが流れてゆく。
(そんな強かねえけど硫黄泉か。どおりで換気が強い訳だ)
温泉独特の匂いの素は、湯気にも含まれる硫化水素。
その気体は無色透明のため視認出来ず、長時間嗅いでいると中毒症状を起こす事がある。
水色から見るに濃度はさほど濃いわけではなさそうだが、開業間もない施設への興味で人入りが多いことも計算した上で換気の強度を上げているのだろう。
万全な対策を行っている辺りは金銭面に不安もなく、宿泊施設を多数経営するグローリリーフだからこそ出来るとも言える。
溶けたエメラルドグリーンへ足を入れ、波打ちを出来る限り抑えるように身体を沈めてゆけば、とろりと柔らかい湯が肌を包む。
熱すぎず微温すぎない水温が染みていく感覚が心地よく、無意識にゆっくりと息を抜く。
周囲を確認して防滑加工が施された御影石に背を預けて足を伸ばせば、普段あまり意識しない膝裏や関節部から、疲労が抜けていくように一際熱が上がるような感覚。
浴槽縁へタオルを折り敷き首を預けて深呼吸すれば、少しばかり張ったままの緊張の糸が緩まり、自宅ではまず味わえない解放感に心すら溶けていきそうな気がする。
「すっかりゆるんでる」
声に頭を上げれば、乾式サウナへ行っていた弟がいつの間にか向かい側腰下までを湯につけ座り、珍しいものを見るように目を細めて笑う。
「良いだろ、いつもこんな時間に入ることねえし。ちっと賑やかすぎっけど」
「そう言えば、入口に宿泊利用団体名が書いてあった気がするな…ちゃんとは見なかったが」
波打ち撥ねる滴を吸い、重くなったタオルを排水溝上で絞りながら何気なく自分の身体へ目を落としてみれば、何年前に付いたかすら憶えていない傷が腕や胸へ赤茶けて残っている。
副業柄、毎日肌の手入れをしている疾斗の身体は、過去の仕事でついた筈の傷痕はほとんど目立たない上に、染みや荒れの一つすらない。
(手当ての一つでだいぶ違うもんだよな…)
傷みの見えないその身へ羨望じみた視線を投げつけて浴場を移動する者が時折見受けられるが、本人は気にすることなく湯を楽しんでいる様子に心なしか安堵する。
もう少ししてから外へ出ればいいと再度浴槽縁へ頭を預けようとした瞬間、外界を隔てる一枚硝子窓に手桶が派手な音を立てて当たった。
「な、なんだ?」
驚いた拍子で落としたタオルを慌てて引き上げ排水溝上で絞りつつ振り返れば、音に驚いたらしい同じ顔が目を丸くして外を指差す。
言葉にすることなく投げられた問いに頷き、二重扉を抜けて露天エリアに出れば、何かを言い合う二人組と数人が目に止まる。
巻き込まれるのは御免だと顔を顰めて退室していく者達とすれ違いつつ向かえば、湯浴み用の手桶を握る男が何事かを喚いていた。
「──らって普通ありったけぶつける?!めっちゃくちゃ痛かったんですけど!」
「手元に工具あればそっち投げましたけど、無かったんでソレにしただけですが何か?」
聴き慣れた声。見慣れた背丈。漆黒にも似た長い藍髪。
「……何やってんだ、お前ら」
学生時代から付き合いのある男の背を軽く打ち疾風が声を掛ければ、苛立っていた気配を霧散させた都築が驚いた様子で此方を見下ろす。
「珍しい。兄弟二人揃ってるって、何かあったのか?」
「ヒトを歩く事件発生機みてーな言い方すんな。こないだの福引で当たったから今日来たんだよ」
「疾風君助けて!おいちゃんもう泣いちゃいそう!」
長身頑健な男の影で騒いでいたのは樹阪だったらしく、ようやく視界に捉えた彼の背や腕には見事なまでの手桶痕が赤く刻まれ、周辺には他にも数個が石造の壁沿いに散乱。
二人を止めようとしていた同僚達にも多少被害が及んだらしく、擦れ痕がついている。
(俺の居たトコ飛んできたのはガードしたかなんかで吹っ飛んできたやつか)
「何があったかは知らないが、湯治場で怪我させるのは洒落にならないぞ、里央」
疾斗が溜息混じりに窘め、大窓と草陰の間に落ちた桶を拾い置き直して内側から野次馬する利用者へ手を払えば、手跡を残して人々が離れてゆく。
硝子に傷がない事を遠巻きに確認し、ほっとしたのも束の間。助けを求めてきた樹阪の姿が友人整備士の背後から消え、辺りを見回す。
子供へ静粛を求める時の様な息を抜く音を耳に捉え、聞こえた方向へゆっくりと目だけを壁の方へ動かせば、一枚岩に模された造形石壁の凹凸を器用に掴み登り始めている。
「アンタ、マジでいい加減に─」
「ダメです都築主任、まずいですって!」
部下達が集め置き直した手桶の一つを都築が反射的に掴むが、慌てた一人が首を横に振りながらその腕を掴む。
樹阪の腰から白地の布が落ち、文字通りの一糸纏わぬ姿が露わになるも、本人は気にかける事もなくじわりじわりと上へ向かって登る。
あまりにも欲に忠実すぎるその男を今すぐにでも引き摺り下ろしたいが、ただでさえ二人の喧嘩で周囲へ迷惑がかかっている以上、ただ力技で行く訳にもいかず、沸々と苛立ちが胸を埋めてゆく。
どうしたものかと眉を顰めれば、頭上近くの凸部を掴もうと手を上げた色魔兇徒の動きが静止する。
「あ、あれ?手も足も動かないんだけ…え?」
くだらない挑戦のしすぎで身体が攣った訳ではないらしく、樹阪は自身に起きている異変に驚いて間の抜けた声を出している。
隣で立ったまま動かない実弟へと目を向ければ、普段以上の無表情を浮かべたまま男を見つめ、更によく確認するとその右目には黒三日月が浮かぶ。
「……こんな無駄遣い、初めてだ」
短く落とされた言葉に笑い、濡れても滑らぬ足場を大股に踏み進む。
m男の腰から落ちたタオルを拾い上げて怒りに呑まれかけた友人へ口角を上げて見せれば、此方の行動の意図を呼んで手桶に湯を汲み取って一歩で浴槽から上がる。
「いやまっ、あっ、え?!」
「 「いい歳こいて何考えてんだこのド助平野郎!!!! 」 」
驚きの声を上げたと同時、疾斗が能力での拘束を解き、慌てて掴もうとした手が滑り身体が傾ぐ。
頭には都築の持つ湯入り手桶、急所には疾風が振り放った捩り濡れタオル。
二人の妻帯者による制裁により、一都を担う機関長は声も上げないまま気絶した。
「ん……?」
「都築さん、どうかしました?」
「いま、里央さんの声がしたような……?」
女湯の危機は護られた。




