【邂逅】
廊下から渡ってきたのか、甘い芳香が部屋へと忍び込み鼻を掠める。
頭の中が混ぜられるような不快感と重みが再度増し、疾風は腰を預けていた寝台へ横たわり呼吸を確保する。
花好きである上に嗅覚が人一倍鋭敏な筈の妻は、本当にこの香りに気付いていないらしい、彼女はこちらへ否定と疑問を返して何事もないように笑っていた。
そもそも、今いるこの部屋は誰のものなのか。
なぜこの部屋に来た瞬間、安堵を覚えたのか。
側頭部へ留まり続ける重量感に考えることすら怠くなってくる。
その重さに比例するように左手首は熱を帯び、自分のものではないような身体の感覚に奥歯を噛む。
(………何だってんだよ…)
頭に焼きついているのか、モノクロの画面の向こうにいた男の表情が妙にちらつき、無意識に手首を撫でて呼吸を繰り返す。
部屋に来た時から利き腕である左の手首に宿る不思議な熱は、体調不良から来る微熱とはどこか違う。
その温かさは例えようのない懐かしさを帯びており、触れればその場所に転移するように右手を温めてじわりと滲みこむ。
苛む違和感を溶かすようなその不思議な感覚に自然と口角が上がり、靄が掛かり続ける思考を晴らせてくれないだろうかと目から額にかけて両手で覆い、深く息を吐く。
── 見つけた
左手首の熱が一際高まると同時に僅かに聴こえた声。
反射的に体を跳ね起こし、周囲を見回すうちに、熱は身体中を温めるように広まっていくような錯覚を覚える。
声の主を探して室内の中央へ立ち、窓からバルコニーを確認する。
三十階に位置するこの自宅フロアへは、マスターキーカードがなければアクセスすることは不可能だ。
音沙汰もなく忍び込むことなど出来るはずはない。
ましてこの短時間に来客があったとすれば、自分が気づけなかったとしてもリビングにいる筈の彼女が出るか内線が入るはずだが、そんな様子は一つもなかった。
(…俺と伊純しか入れねえ筈なのに、気配が多い…)
自宅内で能力を使うことに気後れしつつ、左眼を閉じて意識を集中させる。
甘ったるい香りにやや吐き気を覚えながら開眼し、部屋の扉へと目を向けた瞬間、同じ顔をした紫髪の青年が透けた。
「っ手前ェ、どっから入って、かは……っ」
一喝しようと開いた口から音と共に身体中の力が抜け、頭蓋骨へ鉛が詰め込まれたように頭が酷く重くなる。
支えることの出来なくなった両膝を折り床へと潰れ落ちれば、咽せるような芳香が全身を包み、声を出そうにも喉は酸素すら通らず、指一本すら動かせない。
ようやく見つけた気配を睨めようと床を擦りながら何とか顔を上げれば、男は目を見開く。
「い……、な、ぁ………き……っ…」
僅かな音すら出せない喉を震わせて無様な姿のまま見上げ続ければ、何事かを訴えるように口を動かす。
男の存在を見つける前に聞こえたような微かな声は聞こえず、目を細めて傾げれば、眉を顰める。
(何、だ……?この表情、どこかで…)
何事かを自分へ訴える顔も。
目を見開いた表情も。
テレビで見たコーヒーを飲む姿さえも。
どこかで見覚えがある気がする。
呼吸すらまともに出来ず、酸素が不足しきった頭のまま必死に思考を巡らせれば、行動を止めようとするかの如く身体へ芳香が流れ込む。
入り込んだ気体によって内臓から締め上げられていくような感覚に、全身から汗が垂れ始め、痛みのない拷問に喉がひくつく。事態を収めようとこちらの身体へ手を伸ばすも、青年の両腕はすり抜ける。
─ む り ょ く で 、 す ま な い
ゆっくりと唇が動かされ、疾風の頬を撫でるように差し伸べた手がまた通り抜ける。
無表情に見えていたその顔を見れば、自らの左眼の色に似た紫電の右眼に三日月を浮かべて一筋の細雨がその頬を伝う。
(無力……?ここまで来てくれたってのに?)
そう考えた瞬間、怠さと苦しさに動きの鈍っていた頭に、焼けつくような熱が脳髄を疾る。
体内を緩やかに巡っていた温かさが胸元へと収束し始め、緩んだ拘束感の隙に息を吸えば、音を奪われ続けていた喉が解放され、花石鹸の香りが僅かに抜けてゆく。
咳き込むたびに口から抜けていく芳香を首を振り仰ぎ消し、刻一刻と温度を上げていく左眼を開いて強制的に身体を起こし上げる。
男が首を横に振り制止するように何事かを叫ぶように口が動いたが、消音映像のように何も聞こえない。
「……なに、言ってんだか……さっぱり、判らねェ、な…」
ようやく出た声はひどく掠れ、音になっているかも定かで無いまま、熱を持ち続ける左手で涙を流し続ける男の右頬へ伸ばす。
こちらからも触れることは出来ずに手はすり抜け、眉を下げて笑って見せれば、同じ顔をした男は意図が取れなかったのかゆるりと首を傾げて同じく眉を下げてみせた。
「…酷ェ話だよなぁ……助けに来た大事な弟を…忘れるどころか、怒鳴っちまうなんてよ」
なぁ、疾斗。
名を口にしたと同時、部屋に蔓延しきっていた毒香が一瞬にして霧散し、全身を蝕み続けていた拘束感が消失する。
音にした事で頭の中に感じていた重量感と空虚さからも解放され、噛み合わなかった思考は弾き出されて、ずれていた記憶のキューブが元の位置に組み戻されていく。
互いに干渉はできないはずが姿だけ確認できているのは血縁ゆえなのだろうか。
心配そうにこちらを見つめている半実体の実弟へ問いかけてみるも、能力を使っている本人にも答えは解らないのか首を捻る。
「俺がお前に連絡しなくなって、何日経ってる?」
此方の言葉に言葉を返そうとした疾斗が、自分の声が聞こえない事を思い出し、指先で[6]と空に書く。
時間が経過してもなお陽の高いままの外の風景。
認知出来た今だからこそ違和感が解るが、虚像で作り付けられた夢は恐ろしい位に居心地が良かった。
「お前が此処に居るなら、現実はどうなってる?」
[月原が、兄貴に、夢を見せている、本人と、交戦している]
ゆっくりと口を動かし、これまでの状況も簡略的に伝えてくれる疾斗に頷く。
自身の意思をはっきりと保つ事が出来ているのは、交戦状態のために能力を此方に注力する余裕がないのだろう。
であればまだ心配はないが、二人を庇いながら戦闘に挑んでいる月原は完全に不利とも言える。
扉を閉じきっている今はなんの匂いも感じないが、開ければまた先程の香りが廊下中を満たしている筈だ。
この世界を夢だと認識しきった今であればあの芳香だけに意識を呑みこまれる事はないだろうが、隙を突いて自分を今だ苛む唯一の弱点を出されてしまったら。
(それだけは、許すわけにいかねえ)
「疾斗、先に戻ってもらえるか」
発熱する左眼を閉じてしまったせいか、実弟の姿を目視することは出来ない。
しかし、それに替わるかのように左手首と胸元を温める熱が僅かに高まり、彼が何かしらの反応を示した事を教える。
「ケリ付けてェことがあるんだ」
喉に留まろうとする鉛のような意見を吐き出すため、数度呼吸を整えて音に変える。
その言葉への反応を確認し、疾風は冷たい金属製のドアノブを押し開け、物置部屋へと向かった。




