【闇と少年】
─現実から意識は離れた筈なのに、匂いが消えない。
改竄能力とはどれほど強いものなのだろう、こちらの意識さえも奪い取りかねないほどの芳香。
それを手で振り払いつつ、疾斗は何か手掛かりは無いかと漆黒の中を泳ぐ。
兄の意識は混濁状態なのだろう、目に映ることない波が身を打ち、足が取られそうになる。
時折香りが薄くなるのは月原の反撃によるものなのだろうか。
それでも闇には似つかわしくない甘い花石鹸の香りは鼻を汚す。
多くの人の夢を見てきたが、今迄は多少なり不鮮明であろうとも映像や音声の一欠片を見つけることができた。
美南の夢でさえ、ほんの一瞬だけ姿を捉えることは出来ていた。
それが、今いる場所には音はおろか光の一筋すらも見えない。
此処まで完全な漆黒の状態を歩き回った事はない。
(あまりにも、何も無い…)
女医の話し振りからすれば、記憶改竄自体はまだ終わっていないのだろう。だが、見渡す限り闇だけが広がるこの様子が表すものが記憶消去状態だとすれば、と想像しただけで背筋が凍る思いがする。
一日の間に数人の夢を共有することも数回あったが、この短時間に同じ人間の夢を長時間共有したことは一度たりともない。
影に引かれ重くなる足を動かし、左右もままならないまま歩みを進める。
耳につく心音を和らげようと息を吐き、音もなく沈み込んでゆく足を抜き上げ、現実では疾風の手首を掴んでいるであろう右手に触れて確認すれば、自らの体温とは違う冷たさを感じることが出来た。
(…まだ、間に合う)
事切れることがあれば、この手に感じるものは何もない。だがまだ、あの時触れたままの体温は、この手でまだ判る。
神経を研ぎ澄まし、自らの来た道を誤って戻らぬよう、振り向くことなく進んでゆく。
──い、やだ。
微かに耳奥へ響く、子供の声。
──やめて。返して。
どこから聞こえてくるのか、足を止めて辺りを見回す。
──だいじな、モノなのに。
(この声、さっきも…)
沈みかけた足を上げようと膝へ力を入れかけて、動きを止める。
──ねえ、誰か…
(……中から、聞こえる)
遠い記憶に残る、聞き覚えの残っている声。
──たすけて…!
今にも泣き出してしまいそうな声を無視することは出来ず、何かも判らぬ暗澹へ自ら身体を沈める。
夢か現かも判らない程の息苦しさを覚えながら、自らの耳だけを頼りに、自身の思う《下》へ向かい、闇の中へ身体を預ける。
それからどのくらい、落ちていたのだろう。
足裏が床らしき場所についたらしく、身体を包んでいた浮遊感が止まり、何も見えはしないだろうと思いつつ目を開き、辺りを見る。
「……せ、…よ」
鼻を啜り、息を引いてしやくり上げる、独特の音。
単音しか紡げない状態で、言葉を形取ろうとする、高い音。
「もう、やめ……よぉ…!」
ただただ想いを真っ直ぐ吐き出す、悲しい声。
空すら判らない黒の中、若草に似た緑色の髪が左右に揺れる。
こちらを認識されることはないだろうが、必死に何かを堪えている子供ただ見ているだけなど、出来ない。
泥濘む足下など気にも止めず、歩む足を早めれば、徐々にその姿は明確になってゆく。
「……はやて?」
蹲っている小さな体に思わず声をかけるが、此処は夢の中。今まで誰かが反応を返してくれた事などない。
「……っ…」
「大丈夫か、どうした?」
「……はや…と…?」
一体どれだけ叫んでいたのか、泣き腫らした真っ赤な顔をして振り向いた幼い疾風が、枯れ切った声で自分の名を呼ぶ。
「……聞こえるのか?」
反応が返ってきた事に驚き問い掛ければ、首を縦に振って肯定を見せる。
「っ……よかっ…、まだ、だい…ょぶ…ん、だ…」
「まだ大丈夫?どういう事だ」
喉が痛むらしく上手く話せない様子の【はやて】に問い掛ければ、目に浮かぶ涙を乱暴に擦り拭いて、小さな腕を前方に伸ばす。
その方向へ目を向ければ、濃灰色の壁のような物が聳え立っているのが見える。あれは何かと問うつもりで足元を見下ろした瞬間、小さな兄は、突如そちらに向かって走り出し、手招きを見せる。
(なんだ?)
転びそうになりながらも懸命に走る【はやて】を追い、ようやくその場所に近付いていく程、先程まで感じていなかった花のような芳香が再発する。
壁に近付いていくほどに香りが強くなり、それに伴って兄の顔色がみるみる悪くなっていく。やがてその足は進まなくなり、あと少しというところで完全に止まって屈み込んでしまった。
「……めん…、れ、じょ……」
「大丈夫だ。連れてきてくれて、ありがとうな」
僅かに透けて見える小さな兄の頭へ手を伸ばすも、その手は予想通りすり抜けてしまい、触れることは拒まれる。
それでも何をしたかったのかが判ったらしい【はやて】は、苦しさを精一杯堪えて笑うと、掠れた声で「オレをたすけて」と呟いた。
動けなくなった兄が眠るように目を閉じたのを確認し、疾斗は一度呼吸を整える。
(書き換えられている以上、目で見る情報よりも、耳で捉える情報の方が正確だ)
美南の夢も、この場所に来る前も、音だけが頼りであり、此処にくるまでの間も、音が便りだった。
早鐘を落ち着かせるよう深く息を吐き、もう一度耳を澄ませて目を閉じる。
──の───だ────
僅かながらも聴こえた、掠れた、微かな声。
聴き間違えなどあり得ないその声の聴こえた方を予測し、疾斗は身を向ける。
─と───わかん──ぇ────
恐ろしいほどに強まる芳香に咽せるも、先程よりも右手に感じる熱の高まっている事に少なからず安堵する。
僅かに耳奥へ聞こえる布擦れの音を頼りに左手を伸ばした瞬間、自室の扉が目前へ現れる。
鼻腔を壊しそうな花石鹸の香りを腕で払い、その手を扉へと突き出した。




