東都 東地区α 同日 午前十一時四十七分
「…声の穏やかさと言葉から考えるなら、話していた場所は自宅で、相手はおそらく…」
「香坂 伊純、じゃないかしら?」
口にしようとした義姉の名が、纏わるような粘りのある艶声に旧姓で呼ばれる。
埃に薄汚れ割れてしまっている窓硝子へ目をやれば、派手で華美な色のカッターシャツを胸元まで開けて白衣を羽織る女が映り込み、首から提げたネームホルダーを指で遊ぶ様子が判る。
「おーっと、大事なお話の最中だったんですがねぇ。自分から顔を出してくれるたァ、随分と自信家な犯人様もいるモンだ」
医師とはおおよそ思えないほどの花にも似た甘い香りを纏い、隙間風がその匂いを風化している病室へと充満させる。
「随分と無駄吠えが好きな男ねぇ」
「最初から無駄吠えって決めるのはどうなんだか。俺としちゃあ構わないが、吠え面かく事になっても知らねえぞ?」
殺気立たせて相手の出方を測るように煽る月原の足を爪先で軽く打ち、苛立ちを胸に視線を横へと向ければ、穴埋め役の請負屋は「時間を稼ぐ」と唇だけ動かす。
学生時代からの付き合いがある彼にとって、こちらの行動予測は兄ほどでは無くともある程度出来ているのだろう。
神経をわざと逆撫でするような語句を並べ立てる声を背に聞きつつ、視線を点滴袋へ向けて奥歯に仕込むフォーカススイッチを噛み弄る。イヤフォンから小さく聞こえる樹阪の指示へ耳を傾けて、感覚だけで人工網膜型写真機のピントを合わせてゆく。
『OK疾斗君ストップ、証拠用に写真撮っておいて、すぐに成分を調べる!ツッキー、悪いがあと二分なんとか持たせてくれ!その女医についても調べる!』
硝子越しに女の顔を確認してゆっくりと右目を瞬かせれば、片耳へつけたままの通信機からシャッター音が僅かに届く。
イヤフォン越しに呼ばれた月原が一瞬顔を歪めるも、僅かに首肯し言葉を紡ぎ続ける。
(頼む、急いでくれ…)
普段であればさほど気に留めない心音が、異様なまでに身体中に響く。
画像データの解析を始めたらしい樹阪のキーボードを打つ音が重なって聞こえる。
自分の居場所すら把握できない暗黒の中で聞こえてきた言葉の奥、子供のような声が聞こえていた。
夢の中、疾風が呻き始めたところで小さかった音は大きくなり、確かな意思を持って助けを叫んでいた。
声の主を探すべきかと思った所、電流による強制起床をしたのだが、美南と違っている点としては、実兄は少なくとも自身の居る世界に多少の違和感を抱いているところだろう。
(アイツっていうのは、多分、俺のことかもしれない)
何かを見て反応したらしい実兄の言葉は、他の誰かを想定して発言されたような言葉だった。その後、相手へ何事かを伝えかけて間も無く、嗚咽を溢していた。
(……何かに抵抗しようとしているのか?)
これまでに共有を試みて見てきた夢は、《楽しい》と記憶している物を一緒くたに集めている物もあれば、《悲しい》と記憶した物が走馬灯のように巡るものもあった。
それは、夢を見る本人達が記憶している事を基礎として作り出されている仮想世界とも言える物で、現実味を帯びている事があってもその七割方が《非現実的》で固められている物。
しかし、今回の対象者や実兄が見ているらしい夢は、会話の内容からすると、現実に近しい世界を見ているような気がしてならない。
どちらかに偏る事が大多数であるはずの世界が、二人揃って現実の様な両方の性質を見ている。
(偶然……とは考え難い)
聞こえ続けていたキーボードを打つ音が疎らになり、時折混じる別社員の焦りの声に、心拍数が上がってゆき、服下の肌に滲む汗が珠になり伝う感触に耐える。
「私ね、貴方みたいなおしゃべり好きの長髪男ってあんまり好きじゃないの」
「へーぇ、奇遇ですねェ。俺もアンタみたいな地位権力やら能力やらを盾にしてそうな傲慢自意識過剰女ってのがイッチバン苦手でして」
月原の売り言葉を買い続けている女医師が、こちらへ時折目を向けて来る。すぐに離れる物の、不規則に向けられるその視線は、まるで値踏みをされている様で居所が悪い。
「苦手モノ同士で何も長く話す事も無いデショ?早々に彼を起こして頂いてお引き取り願えませんかね?そうすりゃ何もなかったことにしてあげても良いンですよ?」
「あらお気遣いなく。そこに眠ってる似非医師は私のオモチャよ。学生時代から顔だけは好みだし」
「何だと…?」
予想の範疇を超えていた発言に、思わず振り返ろうとする身体が片手で留められる。
発せられた実兄への暴言に頭へ血が上るが、待てと言わんばかりに月原から肩を強く揺さぶられ、疾斗は呼吸を落ち着かせようとゆっくりと息を抜く。
『すまない、待たせた!点滴液の成分はほとんどが栄養剤だ。ただ、睡眠薬も混じってる』
「睡眠薬?」
『濃度は大して高くないが、危険な事には変わりない』
機関長の言葉に心音が跳ね、疾斗は時計型端末で日付を確認する。
連絡が完全に途絶えた日から今日まで約五日。先の言葉から考えれば、栄養剤を打たれているのは最低限の体力を保たせるためだろう。
『女医の方も出たぞ!渡辺優・喪失後追者で、【記憶情報改竄】。能力を使う時には特殊な匂いを体から発するそうだ』
「匂い?」
『[甘い匂い]だの[花石鹸みたい]だのとしか書いてないから詳しくは判らない。けど、効果自体は単体対象にしかない事は確認されている』
他の請負人達からの検索作業も行っているのか、口早に話す樹阪の回答とともに不規則にキーを叩く音が聞こえてくる。
(なるほど…通りでおかしいわけだ)
─目の覚めない異睡眠
映像のない暗黒の夢
夢主の話しかける声
聞こえない相手の声
一滴一滴確実に打ち込まれていく薬物と、病室内に蔓延るこの香りが機関長の言ったそれならば、すべての合点がいく。
「機関長、ありがとうございます」
『え、ちょっ、疾斗く──』
イヤフォンの向こう側、引き留めようとする樹阪の声を切るように通信機の電源を落とし、背を向けたまま脇下に収める小型銃へ手を伸ばす。
「なに、伊純が居なくなったからって今度は男と一緒にいるの?節操も甲斐性もないわねぇ。お兄サン、そんなに進藤のことが心配?」
「黙れ」
見当違いの煽りを交わす余裕など無く、反射的に口から言葉が落ち、消音器を通った銃弾が薬袋を破裂させる。
宥める月原の手を払い除けて女医へと振り直れば、顔を見たと同時に女の口角が厭らしく上げられた。
「ああなに弟さんだったの?本当にそっくりな顔、性格も似ているのかしら」
「下衆がべらべらと無駄口を喋るな、肺が腐る」
撥ね浴びた薬水を振り落とし、胸奥に煮えたぎる憤懣を音に変えて吐けば、渡辺が僅かに目を見開いて笑みを消し、傍の男が息を呑む。
請負業務に於いて、苛立ちを抱く依頼など日常茶飯事だ。
それでも疾風に比べると感情が平坦に近い自分が、これほど明確に怒りを覚える事はそうそう無い。
「聞く事だけに答えろ、渡辺優。美南龍弥および新堂疾風に能力を行使しているな。なにが目的だ」
「随分とせっかちねぇ。結果論だけ求めるのはスマートじゃないわ」
「要らん御託を並べるな。答えろ」
時間を稼ぐつもりなのか、口を開き続ける女医の言動とその見えぬ思考に、平静へ戻そうと締まる理性の箍の隙間から、怒りが諾々と溢れてゆく。
用途の無くなった点滴の管を抜くよう月原へ顎でいなし、手中に収め隠す銃の引き金が軽くならぬよう持ち直しながら見据えれば、渡辺は侮蔑と嘲笑を交えた視線でケタケタと奇妙な笑い声を上げる。
「大したことじゃないわ。私はただ【救済】してあげているだけ」
「救済だと?」
「そう。記憶を書き換えて幸せな頃を繰り返し見せてあげてね。私は絶望から救ってあげてるのよ」
あんまりに心地が良いのか、みんな起きなくなるけどね?
嘲笑を浮かべる渡辺から目は逸らさず、内心で歯を軋ませる。
(…やっぱりそういう事か)
疾斗が使用できる能力の一つである【夢の共有視】は、例えるならば、既に作品として出来上がっている【夢】という映画を見ているだけに過ぎない。
対して、渡辺の持つ記憶情報改竄とは、【夢】という映画を作るための大基となる【記憶】に書き込まれている情報を直接弄ることが出来る能力。
基礎台が書き換えられているとなれば、そこから作り出される【夢】という映画は、その中身自体が変質してしまう事になる。
疾斗が見てきた二人の【夢】は、既に何かしら改竄を行われた後の記憶が作り出していた物で、正しい情報を見つけてくるには、己の勘のみで選定することしか出来ない。
「新堂疾風に能力行使をしている理由はなんだ」
「ただの個人的な恨みよ。ただ殺すだけも楽しくないから、救済して全部記憶を書き換えてから殺そうと思って」
「救って殺す?そら随分な矛盾だな女医さん」
「恋焦がれた相手だしねぇ。自分の物にする前くらい、愛した相手と二人きりで過ご、させてあげる……くらい、ね」
仮面を付けたかのように浮かべ続けていた嘲笑を歪め、白衣の兇徒は舌打ちを響かせて、額を包むように頭を支える。
月原との口論でも時折見せていた動きだが、先程から時折頭を振る様子がある事を考えると、能力使用の代償は頭痛なのだろうか。
痛みに耐えるように顳顬を揉む様子に月原へ目を向け頷けば、言無き問いの意を汲んだ男もまた僅かに首を縦に振る。
「美南龍弥は」
「あの子の父親に[生かして欲しい]って頼まれてね。何だか知らないけど、自殺を図ったとか?寸での所を止めたんだけど起きなくなったっていうから、記憶を替えてやっただ、けっ」
女の言葉が部屋から消えると同時、室内へ蔓延る芳香が強まる。
月原と共に反射的に袖口で自らの口鼻を覆うも、今だ目覚めぬ実兄へその匂いが絡みついた瞬間、僅かな呻きを上げて呼吸が浅くなる。
空いていた左手で柔く鼻を覆うも、長期的に嗅がされていた分の残力もあるのか落ち着く様子は見られない。
「薬が切られた以上、さっさと弟さんとの記憶は消させてもらうわ。救済と絶望の繰り返しなんて、最高じゃない!」
勝ち誇り高笑う渡辺に苛立ち、怒り任せに隠し持つ銃を構えようとするが、ここで女の息の根を止めてしまうと、記憶が混濁する二人がどうなるかが判らない。
香りを霧散させようにも自身にできる方法は考え付かず、突破口を探している間にすら、記憶改竄を狙う邪香は彼の身体を蝕んでゆく。
能力の相性の悪さに舌を打ち、酷く汗を滲ませる兄の額を拭ってやるほかに何も出来ない自分に、ただただ怒りと焦りが胸に溜まる。
「──お医者先生、副官殿。こういうの知ってます?」
普段の話し調子で唐突に言葉を発した月原に驚き、反射的に目を向ける。
視線で示された先を見れば、足元に勾玉型のペンダントトップが転がされ、銃弾が飛散させた薬液が彼の体内電力によって化学反応を引き起こし気泡が立っていた。
「水と銀に電気を通すと、匂いに対して効果のある物になるんですわ」
消臭剤、っていうんデスけど。
口角を上げた請負人の足元、細かなそれは不規則に爆ぜ消えて水分が徐々に気化していく。
撥ね散っていた薬液が床から消えてゆくに連れて花石鹸の香りが薄まってゆく。手の下にあった速呼吸も僅かに落ち着き始め、苦悶に寄せられていた眉からも力が抜ける。
「お喋り男!なんて事……っ痛…」
「副官殿、こっちは俺に任せて行ってください!」
「だが、お前の代償が」
「多少の麻痺なんてどーにでもなりますヨ。精神的な場所に物理で入れるのは副官殿だけなんですよ?俺達が頼れるの、アンタだけなんです」
額に汗を滲ませ、強がりにも似た笑いを浮かべる男の言葉が胸に落ちる。
「……判った。十五分で帰らなかったら、さっきよりキツめに頼む」
「承知」
前のめりに飛びかかってきた女医を避け、その動きに合わせた月原が掌底で兇徒の顎を打つ。
一際強い放電音が耳を抜けると同時に悲鳴があがり、床へ身体を強かに打ったような音が聞こえたが、振り向くことはせず、疾斗は疾風の手首を掴み取り、右目に神経を集中させて息を吐く。
幼い頃能力が安定せずに誰かの夢の中を彷徨い、現実ではずっと眠り続けることが多かった。
目覚めた自分がいつも見たのは、手を繋いで泣きながら名を呼ぶ兄だった。
(…こんな不安の中、いつも呼んでくれてたんだな)
─ 今度は、俺の番だ。
掌から手首へ体温を移し、兄の呼吸音を拾い合わせ、目を閉じた。




