参
アイシェから労いの言葉を貰ったはいいが、余りにもあっけらかんと無頓着な言葉に聞こえて、不服なまま、空間若しくは領域の中へ入った十开。
そこに広がった風景は、全く変わらず、今も継続的に一面に降り積もる雪と、アパート__ではなくごく普通の一軒家がそこに建っていた。
(アイシェ、はいないな……)
加えてもう一つ十开は確信した。空間か領域かそう憶測していたが、此処に来てようやく腑に落ちた。此処は空間ではなく、時間なのだと。
この二つの違いと言うのが、創られたかそうでないか。
空間とは空想であり、
まやかしであり、
紛い物であり、
空っぽなのである。
そして時間とは、
事実であり、
真物であり、
本当であり、
史実である。
此処はもう一つの現実__
この一軒家は、流行りの形をした二階建て。スラム街と揶揄される場所だからか、庭の様なものはなく、立派な家だというのにどこか肩身が狭いと言わんばかりの雰囲気があった。玄関には壁面にポツンと張り付いたインターフォン。
十开は思い出す。雨上がりの朝、玄関の戸の上の方に張り付いた蛙を。十开の実家の呼び鈴のところにも、彼らはよく張り付いていた。無論、彼等は現在冬眠中であるが。
十开は躊躇いもなくそのボタンを押した。寒さのせいで空気が澄んでいるせいか、余計に外まではっきりと聞こえる呼び鈴。
「……」
一分ほど待ったが、応じるような気配は全くない。
待った甲斐がない。
十开は、ドアノブを握り締め『開けドア』と捻りのない言葉を呟きながら、手首を捻った。
まっすぐ続く廊下の突き当たりにひとつ、その対角上にもひとつ扉がある。玄関口から二、三歩足を運んだ所に、リビングに繋がると思わしき扉がひとつ。
靴を脱いで丁寧に揃えると、その一番近い扉に迷わず手を掛けた。
開けた景色。十开の目に映ったのは、一般的且つ平凡なリビングそのものだった。
ぐるりと見回してある一点で十开の目が止まる。
「何ぼーっと突っ立てんの? さっさと入れば?」
「待ってました!」と言わんばかりの挑発的な態度で、十开に言葉を投げかける少女がひとり。
少女が首を傾げると、右目に掛かった艶のある濡鴉色の前髪が重力に従い揺れる。
アイシェの閃赫と真夏日を模った他人を射抜く鋭い眼差しに対し、彼女の双眸は凍つく氷の城壁の様で、他人を寄せ付けない。
しかしながら声音は相変わらずの軽さ。
天使の羽より軽い。
「よぅ〜墓守、久しぶりじゃん! 彼女も元気?」
「日時丸か、久しぶりだな。彼女は元気だ」
日時丸と呼ばれた少女は、黒のキャミソールにクリーム色の厚手のニット、黒のショートレギンスというこの極寒の冬の日に的外れな格好で、ソファの下に鎮座していた。
「そこ座んなよ。積もる話があるんでしょう?」
「……そう、除雪しにきた」
「上手いこと言うね。丁度馬刺し買ってんだ、食べる?」
そう問うたはいいものの、十开の返事も聞かずに、冷蔵庫から馬刺しを取り出しテーブルに広げた。
「座布団のが欲しいんだけど、寒い」
馬刺しには目もくれず、十开は要望を口にする。
「『座布団一枚!』ってか? あげるよ、ヒーター機能付きのね。超あったかいやつ」
彼女はそう言って再び席を立って、十开お目当ての物を抱えてきた。
ここは現実世界であることには変わりない。だから寒いと感じることもできれば、空腹にもなる。ただ、これは日時丸の世界であり、且つ、彼女が創造主である。五感も空腹も創造主である彼女の思い通りということになる。
「相変わらず寒がりなんだ」
「お前を見ているだけで寒いな」
「やっぱりずっと彼女と一緒にいるから?」
「彼女は今はどうでもいいだろ」
当たり障りない日常会話。それは、仲の良い友人のそんな空気感だった。
それもその筈、彼女と十开が出会ったのは中学の時。こんな場所に住んでいるとは露知らず。
だがしかし、中学は規定の学区に則って決められている筈で、三四区からは通えない。十开が記憶を遡って思い出して見る限り近所だったような、と。
高等学校に進学してからは制限が緩くなり、学校にはよりけりな話だが、区外からも通学が可能であったりなかったり。兎にも角にも、十开は現状が上手く飲み込めていなかった。
「何してたわけ? 一ヶ月も学校来てないけど」
「気になる? アタシの一ヶ月が気になる? 墓守の中の十時の空白の一ヶ月が、気になってる?」
日時丸の問いに十开はふと考え込む。
「……一番目だな」
そして発した言葉がこれだ。
「……はぃ? どう言う意味よ、それ」
「『気になる?』くらいの気になるってこと」
「あっはぁ? なにぃ? 別に、日時丸は三択を示したつもりないんだけど」
彼女は呆れて乾いた笑い声を上げた。
「……あんた、ほんっと変わってない。いつまでもそのままでいてよ。天然で鈍感で純粋であってよ、ずっと。それで救われるやつも――いるじゃない? 知らんけど」
冗談めかして彼女はそう言うと、左肘を机に突いて、馬刺しを素手で鷲掴みそのまま口に運んで咀嚼する。
「天然? 俺は人から産まれたから人工物だぞ。鈍感……はまぁ気が利かないらしいから合ってるな」
「ああ、そっちは認めるんだ?」
十开は瞬時に『鈍感』と言う言葉の意味を把握し合意すると、その様子が可笑しかったのか、ケラケラと小さな声で日時丸は再び笑い出した。
「じゃあ純粋は? 墓守、全然黒いもの知らなさそうだし?」
「お門違い甚だしいな。そこまで純朴じゃない。どうやったら」
『子供ができるのかは知ってる』
「って?」
十开の発した言葉と、日時丸の発した言葉がピッタリ重なった。
「セックスの仕方、なんて授業で習うことは黒い内に入んないわけよ? 繁殖系動物に生まれたくせにやり方知らないなんてお門違いにもほどがあるってーの」
「……」
「授業で習うし入んないんだけど、まぁ、それを凌辱として使う輩も居るんだけどさ」
十开の瞳と合わさっている様で、どこか別の景色を見ている様で。
そして目を細めて、彼女はこう言うのだ。
「さて、何から話そうか」
何から話そうか、と言われても十开が聞きたいことは何もかも全部である。
学校に来なくなったことやら__
この時間軸の話やら__
何をしようとしているのやら__
全てを聞きたいのだ。
「この状況に至るまでの経緯。それを一から十まで全部」
「全部ねぇ。本当に知りたい? 知ってどうするの?」
日時丸はソファに登った。怠け者のようにゆっくりと登った。カーディガンから肌けた身体のラインが艶かしく、灯りのない部屋にくっきりと映っていた。
「……はぁーぁ、やっぱりどうとうもないのね」
そう言うと、彼女はがっくりと項垂れ、ソファに背を靠れうなだれた。
「どうともないも何も、何もされて無いからな」
「あーあ、これだよ。これだから墓守十开ってやつはぁさ。日時丸が色仕掛けて、話逸らそうとしてんのにさぁあ? 察しなよ。あんたが勃起でも、ナニがおっきでもしてくれればさ、興じ転じて、何も話さなくて済めと思ってたんだけどぉ」
「おっき?はよく分からないけど、流石に緊満硬直して勃起することはないな」
「その心は?」
豊満でも痩躯でもない、そのキャミソールの上半分の膨らみを強調するかのように身を乗り出して、彼女は十开に詰め寄った。
それでも、揺るぎない彼の精神が勝利を謳うのだった。
「お前と繁殖したいと思ったことがないからだけだけど?」




